2014年9月13日土曜日

清池(しょうげ)の石鳥居 [山形・天童市]



清池(しょうげ)の石鳥居


〜現地・案内板より〜

県指定有形文化財
清池(しょうげ)の石鳥居
昭和30年8月1日指定

両柱の間3mで凝灰岩(ぎょうかいがん)製。柱の上にのる笠木(かさぎ)と島木(しまぎ)は一石からなり、貫(ぬき)や束(つか)は失われてしまったが、その痕跡が柱に残る穴である。柱は太く上方がすぼまり、同張りの感じがあって、力強く古拙な趣きがある(平安時代後期と推定)。

山形市の成沢、元木とともに「最上の三鳥居」の一つといわれ、もとは山寺を向いていたものと考えられる。

昭和62年11月1日
天童市教育委員会

失われた貫(ぬき)。穴のみ残る。

「改修記念」碑

傍らの石碑

傍らの石灯籠

高さ3.87m
平安時代後期の造立と推定。この時代の鳥居は全国的にも少ないという。



〜東北芸術工科大学、文化財保存修復研究センター「日本最古の石鳥居群は語る」より〜

清池の石鳥居

所在:天童市荒谷
様式:明神系八幡鳥居
年代:平安後期
材質:石英粗面岩質角礫凝灰岩
寸法:総高3.87m、笠木長さ5.9m、柱間隔3.03m、柱径最大0.94m、柱高さ3.24m
指定:県指定有形文化財
位置:38°19'33.0"N 140°22'15.4"E


 清池の石鳥居は野原に立っている典型的な事例である。小字名をとって荒谷原の石鳥居とも呼ばれていたが、現在は通称として「清池の石鳥居」とされる。鳥居の帰属に関連して、地元の代表的な歴史家である川崎浩良氏の『出羽文化史料(昭和二十二年)』によれば、「此鳥居は、山寺山王社の鳥居であろう」としている。さらに、「延喜式驛傳馬の頃に、最上、村山の驛次が載って居る」とし、この両駅を結んだ街道から分かれて山寺へ向う道沿いに石鳥居が立っていると記している。山寺(立石寺)は慈覚大師円仁ゆかりの寺として知られ、東北でも最も古い寺院の一つとして数えられる。清池の石鳥居はこの山寺の山門として立ち、風雪に耐えながら古い歴史を刻んでいたであろう。

 村山盆地は南北に長い。最上と村山驛を結ぶ古街道も南北を直線上に走り、ちょうど中間地点となるのが清池である。ここから東の山寺へ枝分かれる入口に清池の石鳥居が立つ。このため、鳥居は自然と東西方向に面して立っている。この際、向きは建築物としての表裏の観点からは西向きとなる。一方、お参りする方向は西から東へとなり、鳥居を拝む方向は東向きとなる。建築物としての向きと、信仰対象としての向きが異なるのである。この向きは多くの村山の古式鳥居群に共通して見られる。南北に走る古街道から東へ延びる参道沿いに立つのである。

 建立年代については同氏は、「其造立年代は元木、成澤等の鳥居と大差無い」としている。その差が僅かなものであれば建立年代は元木と成沢と同様に平安後期と定められる。時代の差が大きくても鎌倉時代頃であろうが、「慈覚大師の開基と傳へられる山寺」の鳥居である点からすれば、元木と大幅に違う可能性は低い。いずれにしても元木と成沢の鳥居と同様、鳥居の材料が木製から石製に変わる最上限年代に属するものとして、その歴史的な価値は非常に高い。しかも、総高3.9m、総幅5.9mもあり、日本最古の石鳥居群のなかで最大級を示す。


 清池の石鳥居の現状は、貫や額束部が欠損し、両柱と笠、島木を残すのみとなっている。笠木は緩やかな反りが見られるうえ、島木部分は直線的な形状を示す。柱はわずかながら転びが感じられるが、古式石鳥居群では珍しく変形した円柱に貫孔が貫通している。ただし、貫孔の中には段差が見られることから、一材の貫を通したのではなく、各部材の差し込みによる貫であったことが想像できる。その貫は欠落して現存しないが、唯一の横材である笠木には額束をはめ込んだ孔がある。これらを総合すると、かつての石鳥居の形状が明神系八幡鳥居の様式であったことが類推できる。

 いま現在の清池の石鳥居は貫、額束が欠落し、その簡略化した姿が印象的な造形美を見出している。元治元年(1864)に書かれた『最上名所産名物』に名物石の番付があり、そこには「元木石トリ井」よりも前に「鳥居原石トリ井」が登場する。この際、鳥居原とは荒谷原を意味するが、元木の石鳥居よりも清池の石鳥居の方に高い評価を下している。指名度や大きさ、印象深さなどを競う番付という点を考慮すると、如何に強い印象を人々に与えていたかが伺い知れる。

 現に清池の石鳥居は総高や幅など大きさの面では元木の石鳥居を越える。しかし、その大きさはさることながら鳥居原という名が示すように、野原に一人立つ石鳥居の姿が最も印象深かったに違いない。明治時代に残された写真記録を目にすると、その番付の意味が自然と理解できる。明治四十一年に発行された『山形縣名勝誌』のなかには帽子姿の男性が一人鳥居の前に立っている。遠く見える東方向の山麓には山寺が位置する。鳥居や男性などの被写体が黒く写っていることから、朝方に東の山寺方面を背景に鳥居を撮影していることが分る。周りは視野を妨げる建物や樹木もなく、野原の空間を捉えながら悠々と立つ鳥居の姿に深い念を抱かざるを得ない。

 かつてこの一帯は水供給がままならず、乾燥に強い麦畑が広がっていたという。麦畑や野草が一面に広がるなか山寺に延びる一本道。この道に仁王立ちする凝灰岩製の石鳥居。そして鳥居の表面にはコケが生え、長い歳月を物語る。もしもこの風景が現在の我々の前に広がっているとしよう。言葉でも表現し難い感動を我々は覚えるに違いない。幕末の人々も山寺参りの際に同じ感動を受け、『最上名所産名物』に記すに至ったのではなかろうか。その事実確認はともかく、この一枚の写真から発するメッセージは極めて大きい。


 この鳥居が通常の神社建築の付属物として単なる門であったらば、前述したような感動は生まれないはずである。清池の石鳥居は街道沿いに立ち、神聖な空間への道のりを示すと同時に、野原や山河と一体化した空間を見出している。したがって、その前に立つ人々は自然にその空間と渾然一体となる。この連続的な空間のなかで天に聳え立つ「柱」、そして神聖域へ通り入る「門」の姿が鮮やかに浮き上がる。これこそが鳥居の本来的な姿の一つであり、その原型を示す清池の石鳥居の価値は極めて高いと言わざるを得ない。









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