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2014年9月30日火曜日

高房神社の石鳥居 [山形・高畠町]



高房神社の石鳥居


〜東北芸術工科大学、文化財保存修復研究センター「日本最古の石鳥居群は語る」より〜



高房神社の石鳥居


所在:高畠町北和田
様式:明神系八幡鳥居
年代:平安後期〜室町時代
材質:石英粗面岩質凝灰岩
寸法:総高3.23m、柱径0.72m、柱間2.27m
指定:県指定有形文化財
位置:37°57'27.0"N 140°12'11.0"E


 山形県の南端に置賜盆地が位置し、その中央部を飯豊山脈に発する最上川が北に向かって流れだす。盆地の東側の山麓には日本三大文殊として有名な亀岡文殊堂がある。そして、亀岡文殊堂から東南2kmほど離れたところに、優美な曲線をした山がそびえ立つ。地元では堂山と呼ぶ聖なる山である。

 高房神社はこの堂山の南面に鎮座し、石鳥居は神社の南の入り口に建てられている。高房神社の現在の宮司によると、本来の鎮座地は福島県方面の山奥で、今の上和田高房と字窪と呼ばれるところに鎮座していたという。その後、現在の地へ遷座したわけで、以前のところを一ノ宮と二ノ宮、そして現在地を三ノ宮と称しているという。


 一材からなる笠木と島木を太い柱が支える石鳥居は、村山地方における古式石鳥居群と同じく横に長いかたちをしている。笠と島木部分が船のような緩やかな反りを示すのは、天童市荒谷の清池の石鳥居とに類似する。また、貫の外は島木の端よりも短く、柱の上段部に台輪を設けている。この台輪は室町以降の鳥居に見られる八幡鳥居の特徴的な要素と見るべきであろう。

 だが、柱には転びがなく、左柱は二材つなぎの構成となっている。この他、台輪の彫りが浅いうえ、貫は笠木と島木を合わせた高さに近い。このため、一般的な鳥居の様式と比べて相対的に太い印象を与える。台輪部を除いてこれらの特徴は、村山地方の石鳥居に通じる、横長のどっしりとした古い様式を覗かせている。


二材つなぎの「左柱」

 これに加えて、左材が二材つなぎとなっているのは修理の跡なのか、それとも製作当初のものと見るべきなのか。接合面は精巧に削られ、高い平滑度を保っているうえ、左柱上段の貫刺し部分の風化が比較的に少ない。これに対して反対側の右柱では、貫刺し部はすでに大きなヒビが入り、風化による痩も進行している。これだけ両柱の風化の度合いが違うのは何故だろうか。

 さらに、通常の石鳥居では、組み立て易くするために貫穴の方を貫より幾分大きく掘りだす。しかし、ここでは真ん中の刺し穴よりも寸法が大きく、差し込み部分だけ細くしている。また、左右の貫と中央の貫の寸法がだいぶ異なっており、構造的なバランスに欠けている。このような不自然な形状や異なる寸法は、すべての部材が同一時期のものではない可能性を示唆している。つまり、時代変遷にともなって部分的な改変があったのではなかろうか。


島木前面にみられる「等間隔の3つの穴」

 鳥居の形状と関係して目を引くもう一つのところは、島木の前面に見られる、同間隔の直径10cmほどの三つの穴である。凝灰岩は火山灰の堆積した岩石で、運搬された岩石粒子を多く包含する。運搬環境や条件が揃っていた場合だと、等間隔の岩石包含状態を示すこともある。凝灰岩が平地で形成した場合だと、岩石は水平の堆積方向を示す。通常はこれを水平方向に沿って切り出して鳥居の部材に用いる。この際、表面に露呈した大きい岩石粒子は、比較的に容易く剥落を生じ、三つの穴は岩石自身の素性に由来する可能性が十分にある。

 一方で、等間隔、同径という側面から、意図的な穴の可能性も排除できない。岩石の素性に合わせて意図的なデザインの可能性も検討すべきであろう。これに関しては、伊東忠太(1867〜1953)という地元出身の建築家が戦前に残したスケッチがあり、一つの参考資料となる。彼のスケッチを見る限りでは、同間隔の穴が記載されていない。このうえ、現在は付いている左右の貫の外部が描かれていない。絵具を用いて彩色を施している丁寧な表現からすると、スケッチは現状を忠実に描写していると考えられる。しかし、穴と貫外も描かれていないのは何故だろうか。このスケッチを鵜呑みにすれば、同間隔の穴は戦後から出来たもので、この場合は意図的なデザインの可能性が高い。

 ただし、何時、何の目的で掘られたかが分からない現段階では結論を急ぐべきではない。また、貫外が描かれていない点から、現在の貫外は一時期ながら地面に落ちていたか、もしくはそれ以降に修繕されていた可能性が考えられる。石鳥居は凝灰岩という軟らかい材質であり、ホゾ差し込み構造という要因から、貫外の欠損を生じ易い。外貫の欠損は、村山地方の古式石鳥居においても多く見られる現象である。


 建立年代に関しては、向かって左柱の中央部に刻まれている銘文が重要な鍵をにぎる。地域の郷土史研究家たちの間では「天文七戊戌九月十八日」と解釈され、このことが『郷土史叢書』などに記されている。天文七年(1538)は室町末期であり、台輪のある鳥居の様式編年とおおむね合致すると言えよう。

 ただし、凝灰岩製の古式石鳥居のほとんどが柱に銘文を刻んでおらず、縁起書上での神社の成立は中世以前に遡る。そして、台輪を覗いた鳥居の様式は、村山地域の古式石鳥居と類似する。こういった点を踏まえると、建立年代は天文年間よりさらに遡る可能性は排除できない。また、石鳥居の建立年代と、銘記年代は必ずしも一致するとは限らない、という点も考慮すべきであろう。

 これを示すかのように、地元の研究家の間では「天元二年」、「天永二年」、「天永元年」など、異なる見方で銘文を読んでいるのが現状であり、定説を得るまではしばらく時間を待たざるを得ない。多孔質で脆い凝灰岩表面に銘文を刻むこと自体が難しく、風化が進んでいる場合は、解読そのものが困難を極める。今後、さらなる研究成果を踏まえた上で、銘文の年号について論じる必要がある。


 こういったなか、高房神社の創建などを記す文献記録の存在が沙汰され、歴史家の間で注目を集めている。現職の宮司である八巻喜教氏が近年手書きで写した「羽州置賜郡和田村総鎮守高房大明神縁起」という写本がそれである。原本の縁起書は本来神社に保管されていた巻物状のものだが、いま現在は地元の白石家に原本が保管されている。

 縁起書は江戸時代に書かれたものであり、「神社ヲ造営シテ二ノ宮ヨリ遷座シ奉リ、同所ヨリ桜樹ヲ移シテ神ノ御前ニ植エタリ、又其後天永元年ニ至リ桜樹ノ辺江石似テ一門ノ華表ヲ献リ」と記されている。縁起書そのものは文久年間(1861〜1863)と新しいが、神社の遷座に関する具体的な伝承を記録している面で、一定の資料的価値が認められる。恐らく以前の口伝などを基に作製されたものであろう。

 ここには天永元年(1110)、桜の木の近くに門として石造の「華表」を献じたとしている。この記述のままだと、神社は天永元年以前から存在し、「華表」が新たに建てられたことになる。すなわち、日本最古の石鳥居とされる山形の元木、成沢の石鳥居とほぼ近い年代にまで遡り、従来の天文年間とは大分隔たりを生じる。歴史変遷からしてみれば、村山と置賜地方との差はほとんど見られない。というのを前提にすると、それほど違和感のない年代推定かも知れない。ただし、両者ともに明確な裏付けが少ない現状においては、いずれも可能性の一つとして残しておくのが精いっぱいと言える。


 しかし、このような建立年代より興味深いのは、文末に見られる「華表」という文句である。この縁起書では「華表」を門として立てたとしている。「華表」とは、中国の宮殿や陵墓などの参道に立つ日本の標柱を指し、一般には「神道柱」または「石望柱」とも呼ばれる。その代表例は、北京の紫禁城の門の前に立つ花崗岩製の「華表」がある。

 この華表が江戸時代になると、確実に「鳥居」のことを指すようになる。聖なる空間の入口に立つことを勘案し、中国の「華表」を「鳥居」に見立てたのだろうか。それとも、天にそびえる両柱のイメージから鳥居としたのか。その真意については詳細が分からないにしても、「華表」という表記を「鳥居」に用いたという事実は、鳥居の起源と変遷を探るうえで重要な意味をもたらす。


安久津八幡神社の「じじばば石」

 この二本の鳥居の柱にまつわる重要な石造文化財が近隣に伝わる。安久津八幡神社の「じじばば石」と呼ばれる両柱石である。現在は神社入口に立つ木造鳥居のすぐ後ろ側に横たわっている。鳥居に向かって右側の石柱が「ばば石」であり、左柱が「じじ石」と呼ばれる。

 地元の高畠層から産する凝灰岩製であり、直径は約90cmで、長さは7mもある。何時、どういう経緯でここに置かれたのかについてははっきりしない。その位置が今の鳥居のある場所であることから、石鳥居を建てる目的から運ばれていたことは容易に想像できる。このあたりの古い地名が鳥居と呼ばれているのもそれを裏付ける。柱の直径や長さからすれば、村山地方に見られる古式鳥居群よりも大きい規模の石鳥居を建てようとしたに違いない。だが、どういう理由だか建てることを放棄して今のように横たわるままとなっている。

 もう一つ面白い点は「じじ石」と「ばば石」という名にある。何時からか地元の人々のあいだで付けられたであろうこの名からは、民間信仰で多く見られる陰陽的な考え方が覗かれる。伊勢信仰の聖地の一つである二見浦(三重県伊勢市二見町)の二見興玉神社の前に夫婦岩があり、この場合も陰陽を表す両柱のイメージと重なる。夫婦岩は注連縄でつながり、結界としての鳥居を表徴している。このような類型は全国の至るところから見ることができ、安久津八幡神社の「じじばば石」も、そういった象徴体系を示しているのではなかろうか。







2014年9月29日月曜日

楯岡の石鳥居 [山形・村山市]


楯岡の石鳥居

〜東北芸術工科大学、文化財保存修復研究センター「日本最古の石鳥居群は語る」より〜

楯岡の石鳥居

所在:村山市楯岡
様式:明神系八幡鳥居
年代:近世頃
材質:石英粗面岩質凝灰岩
寸法:柱高2.2m、柱径0.5m(左)、0.54m(右)、笠長3.8m、総高 柱間隔2.0m
指定:山形県指定有形文化財
位置:38.473117, 140.398832


 村山盆地の東を走る山脈から蔵王、面白山、黒伏山、御所山などが連なる。これらを集落のある平地から見た場合、南部では蔵王山系の瀧山(海抜1362m)が、北部においては御所山系の甑岳(海抜1015m)が、雄大なスケールで眺望できる。いずれも盆地の平野部に接しているわけで、高さの割には人々に与える印象は大きい。この甑岳から西へ流れる大沢川に沿って扇状地が発達し、その上に現在の楯岡の町並みが広がる。楯岡の石鳥居は、甑岳の麓にある父母報恩寺(1935年創建)の脇に東西方向に面して立っている。

 村山地域に伝わる古式石鳥居群の大きさは、柱径を基準に考えた場合、90cm、70cm、50cm級に分類される。楯岡の石鳥居は柱の径が約50cm程度であり、最も小規模の鳥居となる。鳥居の笠木にわずかな反りが見られ、貫外や額束がなく一見して中山鳥居の様式に近い。だが、それらは欠落しているだけであり、本来は他の古式石鳥居と同様に明神系八幡鳥居と分類される。総高は2.5m、貫までの高さは昭和20年代頃には約1.6mあり、大人がやっとくぐれる鳥居である(最近の整備でさらに低くなっている)。また、形状の特徴として笠木の長さが極端に短くなっており、全体的な構成にバランスを欠き、石鳥居の改変が疑われる部分となる。

 建立年代に関しては定かな説を有しないが、「最上出羽守義光の父、義守の寄進」などと言われている。地元に伝わる「元和八年之楯岡事跡略図」には、現在地の鳥居に「最上義光公建立」という朱書きが記され、最上家の関連説を裏付けている。もし、この状況のみを考慮すると、建立年代は最上義光の時代である天正年間(1573〜1591)となる。

 しかし、村山の古式石鳥居群の研究をはじめて行なった川崎浩良氏によると、柱に刻まれた銘文を考慮し、建立年代がそれ以前に遡る可能性があると指摘している。同氏は鳥居の左柱に刻まれた文字を「かつ田大明神」と読み、本来は蔵王山系の刈田神社の入口に立っていたのが、最上義光の時代に現在の地に移されたとしている(『出羽文化史料』昭和20年)。さらに、移る以前の場所について、刈田嶺登山口の南村山中川村の金谷付近(現在の上山市)と推定をしている。この過程で、鳥居の形状も変えられたのかも知れない。

 ただし、風化が進んでいる現在では、「かつ田大明神」の文字を確かめることは困難である。このため、文字の解析をめぐっては異論を提議する地元の研究者もいて、建立年代の確定には再考の余地を残すべきであろう。また、石鳥居の材質は石英粗面岩質凝灰岩を示し、この石は地元の楯岡付近には産するが、推定地の上山には産しない(「山形県地質図」)。今後、刻まれた銘文を含めてさらなる検討が必要とされる部分である。いずれにせよ、山形に伝わる古式石鳥居群のなかでは、たった二つ目の年号の刻まれた貴重な事例と言えよう。

 この他、「元和八年之楯岡事跡略図」には楯岡の石鳥居が現在の位置に記され、古式石鳥居群のなかで最も古い絵図記録として意味深い。また、この絵図を通して現在地に石鳥居の存在が確認できる点は、石鳥居をめぐる空間性を語るうえでも重要である。すなわち、山形に伝わる古式石鳥居は東の奥羽山脈の山を信仰対象とし、その麓や羽州街道につながる地点に東西に面して立つ。かつての古街道もこの空間的関係を考慮すると、楯岡の石鳥居は典型的な立地条件を満たしていると言えよう。現に、鳥居からはじまる参道は小松沢観音につながっている。小松沢観音は最上三十三札所のうち、二十番目にあたり、かつて地元では篤い信仰を集めていたという。

 こういった状況から、楯岡の石鳥居は甑岳および小松沢観音との関わり深い鳥居であると言えよう。ただし、石鳥居の大きさや形状の特異性などからして、移された可能性も排除できない。川崎浩良氏の「刈田神社説」は、その改変の一例を示しているのではなかろうか。










2014年9月27日土曜日

石倉の石鳥居 [山形・天童市]


石倉の石鳥居

〜現地・案内板より〜

石鳥居

 この石鳥居は、凝灰岩(ぎょうかいがん)で笠木(かさぎ)の長さ6.2m、柱の高さ3.17m、柱の太さ直径0.89m、柱と柱の間は2.99mあります。

 造立年代について、干布村郷土史では「近世前期のようだ」としていますが、天童市史では「中世後期」と推定しています。また、この鳥居について郷土史は、雨呼山(あまよばりやま)大権現(龍神様)への奉納であろうとし、市史では向きが南向きだったとも考えられ、山寺に関わる鳥居ではないかと推測しています。

 しかし、これは総合的に判断すると、干布村郷土史が記した、雨呼山の信仰に対して造立されたものと考えるのが自然と思われます。そして、この鳥居を造った苦労を思うとき、それだけ雨呼山に対する先人の信仰の厚さと深さを考えさせられます。

平成19年10月
干布地域づくり委員会



額束(がくづか)が2つある珍しい石鳥居

〜東北芸術工科大学、文化財保存修復研究センター「日本最古の石鳥居群は語る」より〜

石倉の石鳥居

所在:天童市下萩野戸
様式:明神系八幡鳥居
年代:近世
材質:石英粗面岩質凝灰岩
寸法:総高3.9m、柱径0.7m、柱間隔3m、笠長6.25m
位置:38.32514444,140.41567500


 額束を二つもつこの石鳥居は、天童市の東に位置する雨呼山の麓に立っている。鳥居の帰属は、天童市の舞鶴山方面の佛向寺と関係深い雨呼山とされる。柱の径が約0.7m、笠木の長さも約6.25mあり、古式の石鳥居のなかでは大型に分類される。形態の特徴は額束が二つ並んでいる点と、笠と島木の両側面が垂直に切られている点である。そして柱は僅かに転びがあるうえ、八角形に近い断面を示す。八角柱の鳥居は、大鳥神社など明神系鳥居に見られる特徴として、その用例は制限されている。

 鳥居の様式分類上では明神系八幡鳥居の変形と考えられる。だが、額束が二つあるなど、倒壊にともなう一定の改変が加わっている可能性が高い。これを裏付けるものとして、地元の著名な歴史家である川崎浩良氏による証言がある(『出羽文化史料』)。そのなかに、かつて石鳥居の左半分が崩れていたという記述がみられる。崩れた理由は鳥居下の中央部が雨水の影響で渓流となったためであり、右半分はかろうじて樹木に支えられて立っていたという。鳥居の位置する辺りは傾斜のある登山路と川が隣接しており、豪雨の影響を受けると道は渓流となる地形を示す。もう一つ述懐のなかで興味深い事実は、現在のような二つの額束はないとしている。すなわち、この鳥居の特徴を島木の切り落とし部分としているものの、額束が二つあるという記述は見られない。現在の二つある額束は昭和二十年代以降、修理の際に加えられたものと考えられる。


 鳥居の向きに関連して、一説では近隣の立石寺を意識し、現在のような東西ではなく南北向きだったという見解もある。しかし、村山地域の古式鳥居の立地条件は、東へ向う街道沿いを選んでいる。この点、現在の位置は少々山奥に入り込んではいるが、西から東の雨呼山に至る山門としての役割を勘案すると、現在の東西向きが本来的な姿と言えよう。

 製作年代に関しては、帰属する雨呼山の歴史・民俗を考慮して考えるべきであろう。農耕における雨呼び行事は根強い民間信仰として、近隣の立石寺と佛向寺との関連性は地元の歴史研究家により言及されている。ただし、その実態についてはより詳細な研究事例が求められるが、今のところ明確な分類や時代考証などは成されていない。


 南北に長い山形盆地は、南北に羽州街道が走り、これを主軸として盆地内の各地域は東西の横街道によって結ばれている。村山地域における古式石鳥居群の立地条件は、南北の主軸となる街道から、信仰空間である東の山々に向う方向に建立されている。こういった空間性からすると、立石寺との関係は山と街道条件からして無理がある。一方、佛向寺は山の反対側に位置するため、鳥居と参道の動線関係に矛盾を生じる。したがって、石倉の石鳥居の帰属は雨呼山とみるのが妥当であろう。

 ただし、石鳥居の表面の風化度合いや、製作痕の残存度合いなどからして製作年代はそうは古くないと考えられる。この他に、笠、島木の平面的な切り落とし方も近世的な変容と思われる。こういった点から、石倉の石鳥居の建立年代は近世頃とするのが無理がなさそうに思える。いずれにせよ、石倉の石鳥居は額束を二つ有する唯一の事例として、そのユニークさは印象深いと言えよう。










2014年9月25日木曜日

考察:「柱」としての鳥居


〜東北芸術工科大学、文化財保存修復研究センター「日本最古の石鳥居群は語る」より〜


(張大石)

 はたして鳥居の「本来の姿」とは何か。

 平安時代に編纂された『和名類聚抄』のなかで、鳥居の語源は「鷄栖」と記している。「鷄栖」は「鶏が住む」という意味であるが、アマテラスを祀る伊勢神宮では、白い鶏が今の境内のなかで大事に育てられている。また、鎌倉時代の『伊呂波字類抄』では「鳥の居るところ」としている。これは神社信仰と「鳥」を結び付けている。だが、現在の鳥居に鳥の姿は見られない。漢字の成り立ちを知るうえで最も重要な『説文』によれば、「鳥」という字は長い尾をもつものを指し、尾の短い「隹」とを分けている。「隹」が単なる動物としての鳥を指しているのに対して、「鳥」は神聖なる鳥を表している。

 日本の神社信仰において神は自然界のなかに存在する。古い神社信仰では自然をあらわす山を御神体とし、本殿などの建造物をもたない。鳥居が今現在のように神社建築の一部となったのは、仏教をはじめとする大陸の文化が大きく影響をおよぼす奈良時代以降とされる。本来、神は大自然のなかに存在するため、一定の場所に「神」を降臨させて祭祀をおこなっていた。祭祀が終わると神は神の世界に帰するわけで、別段と社殿という建築物が不要であったとされる。この際、神の去来する代表的な空間として山がある。神は山をはしごにして天界から下界に、降臨しては帰する。

 伊勢神宮の正殿には、中心部に「心の御柱」を据えている。この柱は床下に設置されるため、建築構造物としての意味は薄く、遷宮の際に基準点を提供する役割をはたしている。神が降臨する「柱」の名残りとして、神社建築の成立以前の信仰形態を示しているものと見られる。

 また民間信仰では、鳥居のかたちを成す笠木や貫などが無くても、両柱さえ立っていれば鳥居と呼ばれる風習が各地に見られる。山形地域に伝わる古式石鳥居群からも実例を見ることができる。山形の石鳥居群は地元産の凝灰岩でつくられ、山岳信仰と関係した街道の要所に立ち並ぶ。なかでも弁慶の一夜造りと伝わる「谷地中の石鳥居」は、笠木や貫など横材が一切無くなって柱だけが立つ。歴とした鳥居としての信仰がいまに伝わり、塀もなければ壁もない鳥居の柱立てとしての風景を物語っている。




(萩原秀三郎)

 奈良県大和の大神神社は、日本で最古の神社形式といわれています。本殿はなく、拝殿のみが神体山である三輪山に昇る太陽を拝するように建てられている。神社では一般的に鳥居の奥に本殿がありますが、大神神社の場合は拝殿の背後、つまり三輪山の前に鳥居が立っています。しかも、柱が三本ある三つ鳥居という特殊な形式です。

 仏教の伽藍配置などを見ても、当初、仏舎利を納めた塔が中心に置かれていましたが、時代が下がるにつれて塔は飾り物になっています。塔を中央に配列されていた形式が、東西に塔を配列するように変化し、さらに東大寺の七重塔のように回廊の外に建てられるようになっています。鳥居も同様に、最初は中心に立てられていたものが、やがて周辺部に立てられるように変化していったと考えることができるのではないでしょうか。

 折口信夫は『古代人の思考の基礎』のなかで、日本の神社の起源は、柱を立てて結界占地をあらわすことにあると言っています。また「髯籠の話」では、古代生活において最も偉大な信仰の対象であった太陽を迎えるためには依代が必要であり、それはやはり最も天に近い山や喬木に太陽神が降りてくるということが原型であったろうと、神社の起源を説いています。つまり「太陽を招く柱」が根本だというわけです。

 混沌から秩序へというのが神話の一つのパターンです。鳥居も一の鳥居、二の鳥居、三の鳥居というようにどんどん、本当は真ん中にあったものが移動している。たとえば仏教にはお釈迦さんが亡くなった菩提樹といういのがあります。それを中心にしていたものが、いずれ仏塔という塔になる。その塔を中心にして伽藍配置が生まれたわけですけども、その塔も二重の塔、三重の塔、それから五重塔と、だんだん塔が中心ではなくて、飾りになって回廊の外にまで出ていってしまう。だから、本来中心で宇宙のヘソを囲むべきものがどんどん周辺にいってしまうことがあるのではないかと思います。



(赤坂憲雄)

 元木の石鳥居(山形)は背後に神社を持っていないのが特徴です。一般的な神社の前に立つ鳥居のイメージと離れている、あるいは断絶している意味は非常に大きいと思います。元木の石鳥居は、明らかに春分の日・秋分の日の朝日が昇ってくる方角を意識して建てられています。成沢やそのほかの山形の石鳥居に関しても、石鳥居の建立時には特定の神社との関わりはなく、その後に関わりができたのではないかと指摘されています。

 思い出したのが瀧山での聞き書きです。僕は西蔵王で聞き書きをしたときに、かつて瀧山や蔵王をお山参りした習俗が昭和のはじめ頃まではきちんと行なわれていたと聞いたことがあります。お山参りは、数えで15歳前後の少年たちが先輩たちに率いられて、瀧山から蔵王の方にかけて縦走していく。身体の弱い少年は丈夫に育つように祈願したといいます。このお山参りは古くは修験道の時代に遡ります。このお山参りの光景が、鳥居とつながるような気がしました。鳥居は特定の神社と関わるのではなく、お山参りと関わるわけです。

 私たちは鳥居を見るとき、近代の神社信仰や神社建築の一部という視点に縛られているんじゃないかと思います。かつての鳥居は、今のような形では存在していなかった可能性がある。門前の鳥居というイメージは近代に作られたものです。それを少しだけ解いていかなければ、私たちが目にしている山形の鳥居群の意味は見えてこないのではないかと思います。われわれの鳥居の感覚というのが、あまりにも神社の門というイメージに縛られてしまっている。けれども日本が最も古い鳥居として、我々のすぐそばに残されている石の鳥居というのは神社に関わりがありません。

 しかし鳥居の信仰と、鳥居を立てる場所について、どのように考えたらいいのか、じつはまだ僕のなかでは混乱があるんです。中国のミャオ族は村の中心の広場に立てる。いわば村という世界の中心に立つ。ところがもう一つ、常陸国風土記のヤツノカミにまつわる伝承が取り上げられています。あの話は、谷間の湿地に水田稲作をはじめた一族の首長であるマタチが、谷を占めている蛇体のヤツノカミを山の方に追い払って、谷間の湿地に標の杖を立てる。そして、今日からはこの杖の手前は人間が田んぼとして使う。その向こうは神々が利用する神の地である、というふうに唱えて、自分たちはこれからずっとあなたを祀り続けるから、どうぞ自分たちに田んぼを開かせてくれと祈願するわけです。その杖を立てられたところが谷の社、神社になっている。このとき、杖を立てた場所は村の中心ではなく村のはずれ、山と田を分かつ境界なんですよね。村のはずれの田から山へと移っていく境界に鳥居が立てられている。

 それから縄文文化と鳥居のかかわりですが、僕は鳥居と縄文との関係は稀薄なような気がします。日本列島で鳥居が宗教的なイメージをもって出てくるのは弥生時代以降、稲作農耕との関わりのなかで生成された宗教的なものではないかと感じています。僕がなぜ縄文と弥生にこだわるのかというと、縄文の聖地と弥生の聖地はつながったり消えたりするからです。たとえば秋田県大湯にあるストーンサークルは、夏至の日に太陽が沈む方角を示しているんじゃないかという説がある。三内丸山遺跡の六本柱のモニュメントも、夏至・冬至、そして春分・秋分に太陽が昇ったり沈んだりする方角を意識して建てられていたと考えられています。いくつかの実証的な裏付けをもって近年、縄文の人々もまた太陽信仰を、あるいは山岳に対する信仰というものを持っていたことが明らかにされつつあります。一方、鳥居がたてられた時期は、明らかに弥生的な世界がかぶさっていると思います。



山形県天童市「谷地中(やちなか)の石鳥居」
弁慶が一夜であわてて造ったため、柱しかないのだとか。


鳥居は「門」であり「柱」である。

柱だけがそびえる「弁慶の一夜造りの石鳥居」は、「柱」としての鳥居の原風景を静かに物語る。



 

2014年9月24日水曜日

野黒沢(のぐろさわ)の石鳥居 [山形・尾花沢市]


この散乱した石材は…


日本最古の石鳥居の一つ
「野黒沢(のぐろさわ)の石鳥居」

〜東北芸術工科大学、文化財保存修復研究センター「日本最古の石鳥居群は語る」より〜


野黒沢(のぐろさわ)の石鳥居

所在:尾花沢市野黒沢
様式:明神系八幡鳥居か
年代:室町時代
材質:砂岩性凝灰岩
推定寸法:総高約3m、横幅3.63m、柱径0.48m
状態:当地倒壊放置
位置:38.639166, 140.381307


 山形盆地の北端に尾花沢市が位置し、市内から北の山間部に面して野黒沢がある。この地区は野後とも呼ばれ、古くは延喜式の駅傳馬時代の駅名として知られる。今でこそ奥まった山村に近い状況だが、かつては奈良・平安時代から多賀城と鳥海山麓の遊佐を結ぶ、いわば太平洋と日本海を横断する戦略的に重要な横街道上に位置していた。

 この地に旧諏訪神社があり、石鳥居はこの杜に帰属する。鳥居の現状は残念なことに、倒壊して部材が散乱したままとなっている。倒壊を受けても村山地域に残る古式石鳥居群の様式的な特徴を有し、その建立年代の推定もなされている点から、貴重な文化遺産の一つとして位置づけられる。特に、礎石と柱のホゾ構造が明確に示されているうえ、礎石からは古い銭がはじめて見つかるなど、学術的な面からも大変重要な価値を有する。


 この鳥居に関する最初の調査は、昭和十四年に山形師範学校(現:山形大学)の長井教授らによる。調査は諏訪神社南方の野原に埋もれた石材群の発見報告からはじまる。調査の結果からは、二等分された柱の長さが2.15m、笠と島木の高さが0.33mで、これをあわせると2.48mある。貫の残片などが見つかっていないが、これに額束の高さを見積もると、総高は凡そ3mにもなる。笠木の長さは部材をあわせると、約3.6mある。これに柱の径も約0.5mあり、古式石鳥居のなかでは中型に属し、横長の安定した姿だったことが浮かび上がる。

 また、径0.6mある礎石には直径0.38m、深さ0.26mのホゾが掘られてあり、なかの土を除去する際、なかから永楽通宝三枚と洪武通宝一枚が見つかっている。こういった事例は大変珍しく、石鳥居の信仰や建立年代を知る上で貴重な資料を提供している。洪武、永楽通宝は14世紀末から15世紀初頭に生産された明代の貨幣だが、貿易を通して日本に大量に輸入されたものである。この貨銭の製作や流通時代から、石鳥居の建立年代の上限を室町期に算定することができる。つまり、石鳥居の時代様式と地域性を考慮すると、近世までは下がらず、新しくても室町後期建立とするのが妥当であろう。

 諏訪神社は貞観十二年、従五位下に叙された「出羽国須波神社」のことであり、当時この辺りは宿場と馬市で栄えていたとされる。しかし、馬市が現在の尾花沢市内に移ると神社も新しく遷座し、この地には旧社だけが残されてしまったという。この状況を石鳥居の建立年代にすり合わせてみると、新しい地への遷座は少なくとも室町以降となり、それを石鳥居は見守っていたことが想像できる。


 この他に、礎石のホゾに柱下端の突起部を嵌る構造が明らかにされ、古式石鳥居の力学構造に関する知見を得ることができる。石鳥居は木像に比べ耐久性は優れるが、地震などの衝撃には弱く倒壊を生じやすい。

 しかしながら、山形には平安時代をはじめ鎌倉、室町に遡る石鳥居が伝わり、しかも群をなしているのは何故だろうか。現に、中世に遡る石鳥居は全国的にみても非常に希であり、国の文化財指定を受けている鳥居に関しても現状は変わらない。山形だけ地震災害が極端に少なかったのだろうか。あるいは古い建立年代自体が仮説にすぎないのだろうか。客観的な根拠が提示されないまま、疑問だけが飛び交っている。

 こういった現状のなか、野黒沢の石鳥居の残片は保存性の謎を解く重要なカギを提供している。ホゾによる礎石と柱の結合構造がそれである。このカギをヒントに、礎石が露出している成沢の石鳥居を調査した結果、同じくホゾ構造であることが確認された。同然、元木の石鳥居などにおいてもホゾによる結合構造の採用が考えられる。

 このホゾ構造のほかに、凝灰岩ならではの軟らかい材質、それがゆえに肉厚で横長なデザインが保存に重要な役割を果たしていたと考えられる。すなわち、凝灰岩という多孔材がかつ軟質の材料的特性から、細くシャープに仕上げることは出来ず、仕上げは肉厚の傾向となる。このために全体の中心が低くどっしりとしている。このうえ、柱を地面に深く埋めて硬く固定するのではなく、柱を礎石の半球状のホゾに嵌め自重で自立させている。これにより柱は一定のあそびを生じ、地震などの衝撃を受けた場合、その力は分散して小さく緩和されると見られる。実際に、礎石と柱下端部は幾分か地中に埋められるが、太い部材の鳥居自身の重さが加わり、構造的なバランスをとる。

 こういった柔軟な構造は近世における地中固定構造と大きく異なっている。この場合、地震などの衝撃は固定部位に集中し、剪断応力を生じさせる。地震災害時に石鳥居の多くが根元から壊れるのはこのためである。


 また、石鳥居を成す岩石の多孔性は衝撃吸収に適しており、他の硬質岩石にはない構造的な安定性を生じ、古式石鳥居が多く残ったのではなかろうか。仮に地震などで倒壊しても、肉厚の太い柱なので破砕が少なく、そのために再利用されていた可能性も十分に考えられる。

 これらの仮説を立証するには物理的な実験結果が求められるが、いずれにしても倒壊している野黒沢の石鳥居には、これらの他にも多くの情報が埋もれている。優れたその構造や、独特なデザインに工夫を凝らした先達の知恵に感服しながら、もう一度本来の場所に、地域再生のシンボルとして石鳥居の姿が復元されたらどうだろうか。



見に行った時は、すっかり蔓草に覆われており、
石材がどこにあるのかすら分らない状態だった。






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「北方に見ゆる諏訪八幡、源氏の名将、源義家が
奥羽の後三の戦いに勝利を祈りし神とかや…」




御所の休み石

〜現地・案内板より〜

御所の休み石の由来

 承久三年(1221)順徳天皇が乱を企てて破れ、佐渡へ配流されたがその後、佐渡を忍び出られて遠く出羽の国に落ち延びられて来たのである。

 仁治三年(1240)ある日のこと、順徳天皇は最上川をさかのぼり深堀より上陸され、当時の野後村、現在の野黒沢にたどり着かれ、惣左衛門宅に立ち寄り、喉を潤す水を所望されたのである。

 惣左衛門は順徳天皇とはつい知らず、ただいっぱいの水を差し上げたところ、天皇は庭先の石に腰を下ろされ暫時休息をとられ再び丹生方面へ旅立ったというのである。

 そのあとで順徳天皇であったことがわかった惣左衛門は、不調法な己れの振る舞いを申し訳なく思い、非常に悔やんだのである。そして、天皇が腰を掛けられお休みになられた石を、ただ庭先に置くことを勿体なく思い、惣左衛門はこの石を宮原に移して社を建立し、御所神社として祀ったと伝えられている。

 その後、御所神社は損壊がひどく、明治十五年、諏訪神社の境内に移し替え、今尚、地元民の深い信仰をあつめている。

平成十二年(2000)三月吉日
福原ふるさと歴史保存会







諏訪神社



社殿右手の池

社殿左手の石祠



入口の鳥居の裏に転がる、この石材は…?

じつは日本最古の石鳥居の一つ「野黒沢の石鳥居」
崩れ壊れ、草に覆われるままになっていた(写真は除草後)。






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六田の石鳥居 [山形・東根市]



「六田の石鳥居」
室町時代以前の建立とされる。

〜現地・案内板より〜

六田の石造り鳥居

社前の鳥居は「最上三鳥居」の一つにして、文部省指定の重美品であり、市の文化財になっております。



六田の石鳥居
神社側から

〜東北芸術工科大学、文化財保存修復研究センター「日本最古の石鳥居は語る」より〜

六田の石鳥居

俗称:与次郎稲荷神社の石鳥居、大森新田石鳥居
所在:東根市四ツ家
様式:明神系稲荷鳥居
当初年代:平安後期か
寸法:総高2.39m、柱高1.84m、柱径0.6m、柱間隔1.03m
指定:市指定有形文化財
位置:38°25’56.11”N 140°22’56.73"E


 六田の石鳥居は、山形県東根市四ツ家の与次郎稲荷神社の前に立つ。古い地名から「小田島村四ツ家の石鳥居」、「大森新田石鳥居」とも呼ばれたが、これらの他に現所在地である稲荷神社の名をとって「与次郎稲荷神社の石鳥居」とも称される。

 神社の成立年代は江戸中期頃とされるので、この名は比較的に新しいものと見られる。ところで、この鳥居は「出羽の三鳥居」の一つとして知られ、戦前には重要美術品の指定を受けている。その後、戦後の文化財保護法体制下では指定対象外となるなど、一見不思議な経歴をもっている。



 鳥居の形状に関しては、歴史変遷にともなう改変の痕跡が多く見られる。現在のままだと、明神系台輪付き稲荷鳥居と様式的な分類が可能であろう。しかし、太い柱に比べて高さは2m強しかない上、笠木、島木、貫などの横材が矮小すぎる。また、柱の先端を削って成型した台輪は正規の造りとは異なる。柱間隔は約1mを示し極端に狭く、全体のかたちは均衡をとれず、細い横材に対して縦材が極端に太い。これらの状況を見る限り、戦前とはいえ重要美術品の指定には不可解な点を覚えざるを得ない。

 ただし、太い柱にかすかながら制作当初の姿を覗くことができるのではなかろうか。柱の直径は0.62mあり、台輪の削り部分までを考慮した場合、当初の総高は3mを越えていた可能性は十分にある。現在の大きさより一回り大きく、横材と縦材のバランスが取れていたであろう。

 また、鳥居の材料は角礫凝灰岩であり、火山ガスと熱に起因する軽石の多い多孔性の白い肌色を示す。地元産の凝灰岩を切り出していると推定されるが、近隣の山寺地層における石英粗面岩質の凝灰岩と比べて角礫が少なく、溶結の度合いや密度も低い。これに類似した岩石は、東根市の大森山や谷地中などの山麓に見られ、石鳥居の産地は恐らくこれらの何れかと思われる。



 一方、制作年代に関しては明確な根拠は今のところ見出せない。鳥居建立に関する銘文が見当たらないからである。現在の姿を様式的に分類する場合、妥当な制作年代は近世になる。しかし、改変の要素を除いて当初の制作年代を割り出すことになると、近世を出発点として何時まで遡れるのかがポイントとなる。

 この点は鳥居の帰属を明らかにすることで、一定の推論が可能になると思われる。現在の石鳥居は稲荷神社社殿の南参道に立つ。以前は神社入口の右側にある大ケヤキの隣に、その前は10mほど離れた羽州街道に向かう道中に、更にその前はJR奥羽本線を西に渡った先の堤防沿いに位置していたとされている。これらの遷座を基にして本来の空間を再構成すると、最古の位置は南北に走る羽州街道に垂直に交差していたことになる。

 これは、他の古式石鳥居群における東西軸の空間構成と一致しており、古い石鳥居群の成立と関わる時代的な関連性を示している。つまり、日本最古の石鳥居群とされる元木、成沢、清池の石鳥居の成立は平安後期とされており、東側の山々に位置する寺院や山岳信仰と関係する。元木、成沢の石鳥居においては修験の地であった瀧山の寺院(霊山寺)に、清池の石鳥居は山寺(立石寺)に帰属することは疑いの余地がない。これに対して六田の石鳥居は、その移転を繰り返しているうちに本来的な位置が不明になり、その帰属をめぐっては更なる多くの議論を要する。



 しかし、元木、成沢、清池のように鳥居の位置から東に伸びる街道をたどることで、一定の帰属関係を推定する可能性を残しておきたい。この論点に準拠して、もう一つの場所を建立地としてあげてみることにする。現地点から南へ600m離れたJRさくらんぼ東根駅近くの鳥居崎である。

 現在地には鳥居のようなものが見当たらないが、その地名は本来鳥居と関連する場所であったことを意味する。都市開発が進む前の昭和50年代の空撮写真などを参考にすると、この一帯はサクランボ畑が広がり、幾つかの東西向きの横街道が鳥居崎に向かっている。また、この鳥居崎から東に伸びる道は大森山方面を目指している。大森山山麓には平安時代の遺跡があり、山頂からは中世時代の経塚が発見されている。この他に東北最大級に匹敵する磨崖仏の存在や、全国的にも貴重な大型の五輪塔が街道と関係して立ち並ぶ。これらは六田の石鳥居における帰属を考える際に重要なポイントとなる。

 この他に、現在の鳥居から真東にあたる黒鳥山や、山岳信仰に関連して黒伏山があげられる。黒伏山は御所山(船形山)に隣接し、修験の霊地として広く知られ、現在もその痕跡を険しい山折々から見つけることができる。ただし、これらはあくまでも遺跡の現状による推論であり、発掘調査などさらなる研究調査を待たざるを得ない。今後、近世から平安時代までを想定した、幅広い建立年代の検討が必要とされる。






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「馬頭観音堂」
かつては成沢城の二の丸だった。

秋田藩の佐竹氏による寄進と伝わる。


〜現地・案内板より〜

副郭(二の丸)跡

 成沢城には中心となる曲輪(くるわ)が2ヶ所ありますが、標高が低いこちらが副郭となります(標高188.3m)。

 副郭は主に北方面に対しての防御を担っていました。北や西の尾根筋に麓から続く小規模な曲輪が設けられ、これらと連動して敵の侵攻を防いだと考えられます。副郭と主郭の間は直線距離にして約350mで、見通せる位置にあります。双方が連絡しあいながら、効果的に防御したと考えられます。

 また、副郭には江戸時代に秋田の藩主である佐竹氏が寄進した馬頭観音堂が建てられています。



彼岸花(ひがんばな)が山道を彩る。

主郭(本丸)と副郭(二の丸)をむすぶ「和合」

〜現地・案内板より〜

和合(大手口)

 主郭への道と副郭への道の合流点が「和合(わごう)」と呼ばれています。この通路は城の西側にある街道に通じているので、この方面が大手口と考えられます。また、成沢の集落へもつながるので成沢口とも呼ばれます。

 ここから主郭および副郭へ通じる通路沿いに、小規模な曲輪(くるわ)が多数設けられております。これは、この通路に敵が侵入した際に、曲輪に配置した兵が敵に対して弓鉄砲などで攻撃するための施設です。この通路の重要性を物語っています。



半ば野生化していた柿の木に

曲輪(くるわ)・切岸(きりぎし)跡

〜現地・案内板より〜

曲輪(くるわ)・切岸(きりぎし)

 曲輪とは山の傾斜面を削って平坦に造成された一区画で、斜面を削る際に意図的に造られた、敵が登りにくいような崖のことを切岸(きりぎし)と呼びます。曲輪には建物を構えて兵士が寝泊まりしたり、柵を立てて防備したりする機能がありました。

 この切岸は6m程の段差があり、この高低差を利用して敵の侵入を防ぎました。本来はなだらかな斜面だったと考えられますが、人工的に斜面を削って切岸を造り、発生した土砂を利用して平坦な曲輪を造成したと考えられます。



土塁(どるい)跡

〜現地・案内板より〜

土塁(どるい)

 矢や鉄砲などの攻撃を防ぐため、あるいは敵の侵入を防ぐため、要所要所に構築された土手のことです。この土塁は、主郭か副郭のどちらかが敵の手に落ちても、残りの曲輪(くるわ)に敵が侵入するのを防ぐ目的で作られたと考えられます。

 残存している土塁は、高さ約1.2m、長さ約5mと小規模です。しかし、主郭と副郭の往来を妨げる目的で作られたと考えられるので、本来はもっと西に長大に伸びていたと考えられます。



主郭(本丸)跡
標高199.4m


〜現地・案内板より〜

主郭(本丸跡)

 成沢城には中心となる曲輪(くるわ)が二つありますが、標高が高いこちらが主郭になります。本来山頂であったところを削って平らにしたと考えられます。南の麓にある八幡神社は元はここに鎮座し、成沢城築城に際し現在地に移転したと伝えられるように、当城は信仰と密接にかかわっていました。

 主郭に戦前まで遠見石という大岩があり、ここに立つと眺望が良かったそうです。ここは、西側の麓に街道が走り、北の山形方面および南の上山方面まで一望できる絶好の場所です。敵の動静をここで見張っていたのでしょう。



案内板にあった航空写真より


〜現地・案内板より〜

史跡 成沢城跡

面積:約11.6ha
南北:約580m
東西:約350m

 南北朝時代の延文元年(1356)、山形に入部した斯波兼頼(しば・かねより)が山形城を築いた。その後、永徳元年(1381)、兼頼の孫兼義(かねよし)が成沢の泉出(いずみで)に城を築き、その二年後、永徳三年(1383)、御神託により山頂に鎮座していた八幡宮を現在地に移し、その跡地に城を築いたと言われる。その際、兼義は一切経(いっさいきょう)と八幡大神を埋納し、武運長久を祈願したと『八幡神社縁起書』に伝えられる。

 『奥山家家伝記』(寛永九年、1632)によれば、城は「高さ七十二間、南北十七間、東西四十五間」とあり、成沢城は山形城南方の守りの第一戦として重要な城であった。成沢地区の中心高台にあり、山形城・長谷堂城さらには上山方面を一望できる地である。西方は急斜面、麓には鳴澤川を天然の内堀として、さらに外堀をめぐらし難攻不落の要塞であった。

 天正六年(1578)最上義光(もがみ・よしあき)と上山満兼(かみのやま・みつかね)とが松原柏木山で戦った際に、当城は山形防御の前線となり、その当時の城主は成沢道忠(なりさわ・どうちゅう)であった。

 城は、元和八年(1622)最上家改易とともに、禄高一万七千石と言われる氏家氏を最後の城主に廃城となったが、初代城主以来約240年にわたって存続した。

 昭和四十年に、成沢道忠公の木像が数百年ぶりに奉還され、現在は八幡神社に奉納されている。

 館山には、天喜五年(1057)に創建したと言われる八幡宮、築城以前からの馬頭観音堂、麓には歴代の城主から篤く信仰された常禅寺(じょうぜんじ)があり、今でも住民の素朴な祈りの山である。

平成十四年十二月吉日
山形市 成沢郷土史研究会


成沢城跡、南の登山口
「成沢の石鳥居」

〜現地・案内板より〜


国指定重要文化財
八幡神社の石鳥居
昭和27年11月22日指定


 凝灰岩製、総高436cm、柱は直径95.5cmの直立円柱で、その上に一石よりなる、島木と笠木をのせている。和様建築のこの石鳥居は平安時代末期の造立と推定されている。

 その頃に、この東方の龍山に興隆した仏教文化の遺物と考えられ、同様の石鳥居が、元木地区にものこっており、共に重要文化財に指定されている。

 この石材については、龍山の空清水(うつぼしみず)から、天仁二年(1109年)に採石したという古文書が、この地区にのこっている。

 本県のみならず、わが国でも最古に属する、貴重な石鳥居である。

平成18年4月
山形市教育委員会



成沢「八幡神社」
成沢城の築城にあたり、山頂から麓の現在地に遷座。


〜現地・案内板より〜


成澤八幡神社


由緒沿革

御祭神 誉田別尊(応神天皇)

 当神社は人皇第七十代後冷泉天皇の天喜五年(1057)五月、陸奥守源頼義が安倍貞任追討の途次、瀧山々麓の丘上に男山八幡を分遷し、戦勝を祈願したと伝えられる。この丘は八幡山と呼ばれ、今日の館山々頂である。

 住民これを崇拝し天仁二年(1109)高さ九尺三寸、柱の廻り九尺三寸、笠石三間の石鳥居を建立した(国の重文)。凝灰岩の石鳥居としては日本最古のものと高く評価されております。

 永徳三年(1383)山形城主、右京大夫直家六男、大極兼義が成澤城を八幡山々頂に築城するに当り、御託宣により社殿を現在地に遷座し、御神徳を讃え十一ヶ村からなる流鏑馬(やぶさめ)神事が行われ、毎年盛大な祭典がなされていた。

 元和八年(1622)最上家改易により成澤城も廃城。後の領主堀田正虎公、正徳四年(1714)九月、社殿を改築。明治六年、郷社に列せられた。

 大正二年八月二十八日、大暴風雨のため社殿倒潰し、大正五年八月十一日復興再建し、現在に至っている。

 昭和二十年、第二次世界大戦後、信教の自由にもかかわらず、昭和四十九年(1977)八月、氏子住民一丸となって神橋改築ならびに社殿の改修がなされた。

 このたび山形市が成澤城跡を歴史公園として整備することになり、地区民一同の協賛により成澤城本丸跡(館山々頂)に八幡神社奥宮を建立し、平成十一年六月十三日、遷宮式を斉行し地区の守護神として御神徳を新たに崇拝しております。

平成十一年八月吉日
成澤八幡神社



社殿わきに祀られていた稲穂

社殿裏の岩下に祀られていた
「古峯神社」と「黄金山大神」

「奥の宮」へと続く山道

展望台より山形市

まもなく奥の宮


成沢八幡神社「奥の宮」
朝日とともに

成沢城の築城以来600年ぶりに
この山頂に戻ったのだという。



〜現地・案内板より〜

成澤八幡神社
奥の宮 御由緒

 社殿に人皇七十代後冷泉天皇のの天喜五年(1057)五月、陸奥守源頼義が安倍貞任追討の途次、瀧山々麓の丘上に男山八幡を分遷し、戦勝を祈願したと伝えられる。この丘は八幡山と呼ばれ、今日の館山々頂のこの場所であり、八幡神社創建の歴史である。

 永徳三年(1383)山形城初代城主、斯波兼頼公の孫、大極播磨守兼義が成澤城を八幡山々頂に築城するに当り、御託宣により八幡神社々殿を現在地に遷座し、社田三町歩を与えられた。成沢城の鎮護神社として武運の長久と領土領民の平和を祈願したのである。成沢村ほか十一ヶ村相集い八月十五日を祭日を定め、御神徳を讃え毎年盛大なる祭典として流鏑馬(やぶさめ)神事などが奉納されて居りました。以来、毎年の祭典が連綿として継承されている。

 山形城の南の守りとして重要な成沢城は、初代城主大極兼義以来八代の城主、この間二百四十年継続された。然し元和八年(1622)最上家改易により廃城となったのである。

 このたび山形市が成澤城跡を歴史公園として整備する事になり、これを記念して地区民一同の協賛による多大な浄財により、成沢城本丸跡八幡神社創建のこの地に平成十年十一月、成沢八幡神社奥の宮が建立された。遷宮式は成沢城歴代の城主を合祭し平成十一年六月十三日に斉行され、隆々発展する成沢の象徴として崇拝されている。

平成十二年十一月吉日
成澤八幡神社



奥の宮のとなりに「秋葉神社」

快活な「南妙法蓮華経」

遠方に山形市街

下山路に咲いていた彼岸花




成沢城跡の東麓にある「地蔵堂」

六面幢(ろくめんどう)が祀られている。

〜安彦好重「山形の石碑石仏」より〜

成沢地蔵堂 六面幢

 成沢旧道沿いに最近新しくできた六面堂がある。その中に立っている複制の六面幢がある。蔵王石とみられる粗い凝灰岩であるため、磨滅がひどく、ほとんど原形をとどめていない。古い雄大な複制で、笠も塔身も中台も欠失して、基礎と龕部だけもとのものが残っている。

 基礎は六角形で角はほとんどないほど磨滅しているが、高さ40cm、巾は下部で80cm。その上にある龕部は高さ70cmで、ここも六角の角は磨滅して丸くなっているが、六面にわずかに仏体の陽刻がみられる。仏体の大きさは高さが21cm、肩巾が8cmで、立像である。その上の笠はもとのものは失われ、他の自然石の破片がのっている。しかし、この龕部から壮大な複制の六面幢であることが分かる。そしてこの塔の造立年代は室町時代は下らないものと推定される。






西麓の駐車場
山道も含め全体的にかなり整備されている。

〜現地・案内板より〜

成沢城跡公園

 成沢城は南北約580m、東西約350m、主郭の標高199.4m、麓からの高さ約57mの丘陵に築かれた山城です。城郭の内部には、曲輪(くるわ)や土塁を設置し、その間を効果的に通路を通すことによって、巧に防御する構造となっております。また、城郭の西側を鳴沢川(なりさわがわ)が流れ天然の堀として機能し、川の周辺に城主の居館や家臣の屋敷がありました。上の図の範囲外になりますが、さらに西に宿町が広がり、それを外堀で囲む惣構えという構造になっていました。

 東には山岳信仰の山として昔栄えた瀧山(りゅうざん)がそびえております。成沢城は瀧山への登り口の一つに当たります。このため、城郭周辺には、当時をしのぶ石造文化財などが現在まで多く残っており、かつての面影を伝えています。

山形市



かつては瀧山を信仰する参詣者の登拝口だった。

〜現地・案内板より〜

成沢城と瀧山

 蔵王山系は蔵王信仰の山として昔から信仰をあつめてきましたが、瀧山はそれを構成する霊山の一つとして、多くの参拝者が訪れました。成沢城は、瀧山への登拝口の一つである成沢口に築城された城郭です。このため、城郭周辺や参拝ルートに沿って石造文化財など信仰の痕跡を示す文化財が数多く残っています。






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