2016年12月15日木曜日

蔵王権現とは?[黒木衛]



〜黒木衛『蔵王権現ファンタジー』より〜



権現


1. 〈感得〉本地三仏を一身に具える


過ぎたことですが、最澄に仮託される『末法灯明記』などによって、永承7(1052)年からは、お釈迦さまの教えがすたれる末法時代にはいると信じられていました。そんなとき、のちの乱世に何によって人を導けばいいかを案じた役行者・小角が、吉野金峰山に1,000日籠って祈り出したのが蔵王権現で、それは7世紀後半、白鳳年間のことだといいます。


役行者 坐像



僧・文観(1278〜1357)が後醍醐天皇に撰上したといわれる『金峯山秘密伝』(1337奥書)によると、祈りのはじめに釈迦が現われ、これでは身近な救いには向かないと、そのまま祈り続けていると、柔和な観音から未来の弥勒までくるくる変ったものですから、やさ形ではなく「悪魔をやっつけるものを!」と力んだとたん、天地がにわかに揺れ動いて、ものすごい雷鳴とともに、忿怒相もすさまじい金剛蔵王権現が、大地を割って出現しました。

眼は三つで髪は逆立ち、頭に三鈷冠・右手に三鈷杵、左手は腰にあてて人差し指と中指を伸ばした刀印を結び、右足を大きく上げて火炎を背負い、青い身体は慈悲までをも表しています。






すこし解釈をくわえますと、真ん中の眼は釈迦の観想「昨日の悟り」、右眼は観音の慈悲「今日の手当」、左眼は弥勒の智慧「明日の救い」を表しており、逆立つ髪は悪に対する怒りの表現です。

「三鈷」というのは煩悩を打ち砕く道具で、本地三仏の象徴でもあります。刀印はまた、過去・現在・未来の悪縁を断ち切るもので、右足は天空の悪魔をはらい、左足は地下の悪魔をおさえる構えをとっており、火炎は弥勒の智慧を表しているものです。悪の大元は煩悩ですから、これを克服して真の安らぎを求めていく修養の、うしろ盾となるのが蔵王権現、ということです。

釈迦・観音・弥勒、三体の本地仏が、過去・現在・未来の三世にわたって衆生を救う一体となって現われたものですから、小角は、これこそ求めていたものだと大いに悦んで、山頂にお祀りしたといわれています。



2. 〈由来〉蔵王の名は天地の主から


仏教の根元は、宇宙そのものを大日如来としてとらえ、それが人の姿で現れたのが釈迦如来であるとするもの、といえるでしょう。つまり、永遠の昔に悟りを開いた釈迦が、人間として正しく生きるにはどうすればよいかを、宇宙の原理に照らして明らかにした教え、ということです。

宇宙は、いわばソフト面から見た金剛界と、ハード面から見た胎蔵界とから成っているとされ、金剛界は天・父・慈にたとえられて中心に智の大日如来が居り、胎蔵界は地・母・悲にたとえられて中心に理の大日如来が居って、一体の如来としては毘盧舎那如来ということでとらえられているものです。

如来というのは過去の釈迦、現在の薬師、未来の阿弥陀など完成した存在。菩薩はその域を目指す者の先達。明王は啓発をうながす権化。天部はこれらの守り。こうした仏界の全容を哲学的に掌握し、その宇宙観を図で示したものとして曼荼羅があります。

蔵王という名は、この天地両界の王・金剛胎蔵王から来たともいわれ、京都聖護院文書には金剛胎蔵王如来として登場するそうです。別に、三仏の徳を一身に蔵して統べる意味合いともいわれますが、いずれ渡来仏をふまえてはいても日本オリジナルの思索の所産なのですから、手本になるものなどはありません。

けれども、前身はとなると、中国ゆかりの金剛童子説、五大力菩薩説、執金剛神説などがあり、ヒンドゥー教三大神の一、ヴィシスのからだが青いことが引き合いに出されたり、その10の化身の9番目に過去七仏の一、釈迦が配されたりもしていますから、世界は昔から、どこかでつながっていたのかも知れません。

仏教の根本理念を、筆者なりに哲学として言い換えたものを、ここに列記しておきます。

諸行無常(すべて変化している)
諸法無我(すべて繋がっている)
一切皆苦(すべて作用しあっている)
涅槃寂静(すべて調和している)



3. 〈創出〉菩薩の心を忿怒相に託す


蔵王権現の成り立ちを見ていきましょう。

奈良東大寺の「お水取り」では、神名帳(じんみょうちょう)第一番で”金峯大菩薩(きんぷだいぼさつ)”が読み上げられますが、そのいわれはよく分かりません。

広島浄土寺の、文保元年(1317)の胎蔵界曼荼羅では、右下のところに青い身体の”金剛蔵王菩薩”が大きめに描かれていますが、形は、のちの蔵王権現とはまったく異なるものです。

”蔵王権現”としては、『醍醐根本僧正略伝』によると、寛平7(895)年、京都醍醐寺の開祖・理源大師聖宝が奈良金峯山にお堂を建てて、如意輪観音像、脇侍多聞天像と金剛蔵王菩薩像の三尊を安置したところが出発点となっており、そのもとは、正倉院文書により、滋賀石山寺創建時、天平宝字5(761)年に造像をはじめたものからといわれ、準拠するものがない中で、忿怒相の明王や仁王の形なども借りながら、成立していったもののようです。


石山寺 三尊像 右脇侍の心木



784〜平安時代には、”金剛蔵王菩薩”のほか”蔵王大菩薩”、”金剛菩薩”とされることが多く、長徳4(998)年銘の道長理経に”金剛蔵王”の名が見えますが、”蔵王権現”とされるのは、寛弘4(1007)年銘道長経筒(きょうづつ)に「南無教主釈迦蔵王権現…」とあるのが初めで、降って仁安3(1168)年の鳥取三佛寺正本尊造立願文に”さう王権現”とあり、この名が一般的になるのは、1180〜鎌倉に入ってからのことです。


藤原道長 経筒



金剛というのは、ゆるぎない智徳といったところ。権現の「権」は「かりそめ」を意味し、「仏が臨機応変に化身となって現われたのが神」とする神仏習合、本地垂迹説から来ているもので、権現信仰の例としてはほかに、熊野三所権現、白山権現などがあり、富士の方では、浅間大菩薩主神が、明治の神仏分離で木花佐久夜毘売命(このはなさくやひめのみこと)に変ったりもしています。



4. 〈典型〉悪魔降伏の猛々しい姿に


聖宝が金峯山に蔵王の像を安置してから100年になるころには、蔵王権現はすでに中国にまでも聞こえ、その姿は「顔は一つ、眼は三つ、腕は二本、右手に三鈷、左手に刀印、右足を上げ、左足で立つ」という忿怒相に典型化されてきます。

二つ目や両足立ちなどもあって、必ずしも一様ではないのですが、それがビジュアルな形で残っている最古のものが、長保3(1001)年に内匠寮(たくみりょう)が関与して、金峯山に奉納され、明治38(1905)年に東京総持寺に寄進された国宝・銅板線刻蔵王権現像で、東京国立博物館に寄託されているものです。


国宝 蔵王権現鏡像 白黒反転



これは、復元すると下に足がついていて、高さ90.0cm、巾94.0cmにもなるという、三葉光背形の大きな線刻銅鏡だったようですが、いま残るのは高さ68.0cm、巾78.0cmの上部断片です。主尊は、眼は三つ、逆立つ炎髪を宝冠でおさえて、牙を上に出し、右手に三鈷杵、左手は五本指を伸ばした形で腰にあて、右足を高く蹴り上げて火炎の光背を背負い、左足で立つという、悪魔降伏(ごうぶく)の猛々しい姿に描かれ、たすきがけの衣装表現などもきっちりしていて、蔵王権現の像容が、ほぼ完成してきている証となっています。まわりに、人か何かというような小さな異形の眷属が38体ほど組み込まれていますが、こちらは、朝廷として、当時の疫病流行の調伏を祈願したいわれのようです。

12世紀、平安後期になると、たくさんの金剛仏が造られますが、奈良国立博物館にある像高30.5cmの重要文化財、蔵王権現像などからは、その工法までもうかがい知ることができます。


奈良国立博物館 「蔵王権現像」 重文






5. 〈本尊〉今の三尊は出火後の安置


蔵王権現が出現したとき、小角がこれを桜の木に彫ってお堂に祀ったということですが、いま本拠となっている奈良金峯山寺の蔵王堂に安置されているものは、時代が降ってからの秘仏三尊です。






蔵王堂が天正14(1586)年の出火後に再建され、三尊仏も天正20(1592)年ころに完成したもので、京都方広寺の大仏を 手がけたことでも知られる宗印仏師が、後述の如意輪寺の像を参考にして何とか造りあげたといわれるものです。

三尊は、いずれも蔵王権現の姿ですが、本地は、真ん中が釈迦如来で高さ7.28m、右が観音菩薩で6.15m、左が弥勒菩薩で5.92mという、日本最大の木造で重要文化財になっており、同じころに完成した蔵王堂は、重層入母屋造り、桧皮ぶき、高さ30.4m、周囲36.0mの建築で、こちらは国宝になっております。


金峯山寺 蔵王堂



この蔵王堂にはほかに、1180〜鎌倉時代の作かともいわれる高さ4.37mの、別寺本尊だった蔵王権現の巨像があります。また、1600〜江戸時代にくだる像高104.0cmの、品格の整った厨子入蔵王権現像では、観音の慈悲をあらわす青い身体を黒漆だけでイメージした頭のところの、釈迦の観想をあらわす金色の光背と、弥勒の智慧をあらわす真っ赤な火炎との対照が、鮮やかに見てとれます。

奈良如意輪寺は、南北朝時代に後醍醐天皇の勅願寺とされたところで、天皇の念持寺だったという像高87.1cm、桜の一木造りでは日本一大きいという蔵王権現像があります。運慶の弟子だった源慶の手になる、嘉禄2(1226)年銘のもので、三鈷が五鈷になり、火炎を負うというより全身火炎に包まれてはいるものの、おおむね『金峯山秘密伝』にいうイメージにかなっており、その造形美とあいまって蔵王権現木像の基準作とされてきた重要文化財です。


源慶作 「蔵王権現像」 奈良如意輪寺



ふつうは、天皇の奉納といわれる延元元年(1336) 銘の厨子に納められているのですが、その扉の内側には、吉野の自然のなかに吉野の神々を配した美しい曼荼羅の世界が展開され、立体の大きな広がりを感じさせられます。


吉野曼荼羅 彩絵厨子






6. 〈寄木〉小像ながら代表的な秀作


もう一つ、少し前の時代に蔵王権現造像の基準作とされたものがあります。

仁安3(1168)年の造立願文があって、その技法と作風から、日本の木像を代表する秀作といわれてきた、鳥取三佛寺奥の院、投入堂(なげいれどう)の正本尊です。


鳥取 三佛寺
投入堂 正本尊 「蔵王権現像」



寺は県の中央部、三徳山(みとくさん)にあって、慶雲3(706)年、役行者開山といわれ、享保19(1734)年の『三徳山三佛寺境内絵図』などによって、「小角が葛城山で三枚の蓮の花びらを放って、蔵王大権現を祀る行場となる適地に届くようにと願ったものが、奈良吉野山、愛媛石鎚山(いしづちさん)、鳥取三徳山に舞い降りたところから始まった」とされる、修験のメッカでもあり、平成27(2015)年、日本遺産第一弾に挙げられています。

尊像は、金峯山の三尊と違って目は二つ、像高は115.0cmばかりと小像ながら、静と動を一瞬に捉えて巨像の迫力を放ち、済度の想いが伝わってくるような重要文化財で、『広辞苑』や平凡社の『世界大百科事典』の挿絵などにも用いられている代表的なものです。



7. 〈一木〉よみがえる平安のいぶき


正本尊は寄木造りですが、その段階に到らない一木造りの蔵王権現像6体が共に重要文化財になっていて、やはり目は二つ、像高は84.2cmから140.1cmまでといろいろ、像容もまちまちで、正本尊の少し前の年代で古さを競っていたのですが、近年の年輪年代測定法によって、ほこりをかぶっていた別の像が先輩格とわかりました。

長保4(1002)年を木材伐採年代の上限とする像高74.6cmのこの像は、正本尊の御前立ちとされてきたもので、両の目は丸く、手足はゆったり、程よい肉づきで、憤怒相とはいっても、むしろ人なつこいようにも見え、”化粧を落としたら平安の顔”と報道されて話題になったものです。


”化粧を落としたら平安の顔”



平安の蔵王権現木像としては、奈良国立博物館のものや京都広隆寺の現存最古という像などもありますが、この三佛寺のように揃っている例はないので、金峯山の三尊が、もとのものは焼失して必然的に1568〜安土桃山時代に降る現状からしても、かけがえのない遺産といえましょう。

標高520mほどの、足場もないような断崖絶壁の、ちょっとした窪みに納まった流れつくり、桧皮ぶき、正面一間、側面一間のお堂は、とても人の力で作れるものとは思えず、開祖、役行者が法力で麓から投げ入れたものだということで「投入堂」と呼ばれ、国宝になっているのですが、やはり年輪年代測定法によって、康和2(1100)年ころの、日本最古クラスの神社建築であることが判明しました。


鳥取 三佛寺 投入堂



同じように蓮の花びらが舞い降りたと伝えられる愛媛石鎚山は、山そのものが蔵王権現という特異なキャラクターで、ロープウェイなども整った観光地となっています。







出典:
黒木衛「蔵王権現ファンタジー」
三井記念美術館「蔵王権現と修験の秘宝」




2016年12月2日金曜日

「お釜」周辺の地学[蔵王]



日曜の地学15『山形の地質をめぐって』吉田三郎



~日曜の地学『山形の地質をめぐって』吉田三郎より~



お釜周辺の蔵王山


みどころ

刈田(かった)駐車場から東にのびる平らな登山道をすすむと間もなく、お釜を中心とした蔵王火山の荒々しい男性的な景色が見えてきます。お釜を見おろす広い尾根が北にのぼるこのあたりを「馬の背」といいます。

蔵王に関する本はたくさん出版されていますので、ここでは馬の背から見える範囲にしぼって、ふつうでは見落としてしまうような小さな地学現象もふくめて、たくさんの火山地形のなかから代表的な地学現象を学ぶことにしましょう。



風でみがかれた火山礫


みがかれた礫(れき)

ふつうの火山の頂上付近にある火山礫は、表面が凸凹して、川原にあるつるつるした礫とはっきり区別することができます。

ところが熊野岳頂上付近にむかしからある火山礫は、表面の西側がみがかれ、東側は火山礫本来の凸凹したものになっています。これは熊野岳の頂上が蔵王のなかでもとくに風が強く、なかでも冬季には偏西風が吹きつづけ、地表の砂を火山礫の表面に強く吹きつけるため、あたかもヤスリで磨いた状態をつくりだした結果、このような川原の石のように磨かれた火山礫がうまれるのです。

これは風による侵食作用です。このような風の強いところでは、風による他の地学現象がたくさん観察されますから、もっと探してみてください。



立ちあがる火山礫(れき)


立ち上がる石

「馬の背」を熊野岳にむかって歩いてゆくと、足もとの礫(れき)が立ち上がっていることに気がつきます。とくに、太陽光線を横から受ける早朝や夕方によく目につきます。

このあたり一帯はとくに風雨がつよく、地表がつよい雨にたたかれると小さな粒と大きな粒が分類され(分級化作用)、大きな礫(れき)が表面に立ち上がってきます。

このような現象も、あとで説明する風紋(ふうもん)と一緒に、馬の背で観察される地学現象の一つです。これらの例は五色岳北部五色沢の源頭でとくに目立って観察されます。



堆積層に落下した火山弾


火山弾(かざんだん)

五色岳の周辺では、火山噴出物の堆積層がたくさん観察されます。

ちょっと見ると地層のように思ってしまいます。とくに火山灰が層状に堆積しているところでは、本物の地層と勘ちがいしてしまいそうです。しかし構成する砂粒(さりゅう)が角ばっているので、火山性のものであることがわかります。

これらの層は火口から繰りかえし繰りかえし噴出した火山砕屑(さいせつ)物がつぎつぎに重なった結果できたものです。この層をよく見ると中に大型の火山弾がはいりこんでいることに気がつきます。これは堆積した火山砕屑物がまだ固まらないうちに火山弾がとんできて堆積層を下部に曲げたものです。

このような現象が五色岳にはたくさん見られますから、火山弾と曲げられた層の形から、飛んできた方向がわかりますので、それぞれの火山弾の起源を考えてみるのも面白いと思います。



層状に堆積した火山砂や礫[五色岳]


スコリア丘

五色岳はお釜から噴出した火山砂や火山礫が降り積もってできた円錐形の丘です。これをスコリア丘といいます。

火山から噴出する材料によっていろいろの形の火山ができます。たとえば、流れやすい溶岩がドロドロあふれだすと、なだらかな形の火山ができます。火山を観察するときは火山の形から噴出したものを推定するのも楽しいものです。



岩脈[五色岳東麓]


岩脈(がんみゃく)

岩脈は地下にある割れ目をとおってマグマが上昇し、そのまま固まったあと、周囲が侵食をうけたために、あたかもブロック塀のように地表にあらわれた岩体をいいます。五色岳の付近にはたくさん見られます。

巨大なものは丸山沢で観察されますが、上図は五色岳東麓に見られる岩脈です。



お釜の旧火口跡


旧火口

蔵王に登るとまず目につくのが「お釜」です。しかし、このお釜をふくめて五色岳は数個の火山体があつまった複合火山であることは、ちょっと注意するとわかります。

ちょうどお釜の東側にもう一つ、古い火口があることがわかります。旧火口の外輪山が円をえがいて、新しい五色岳のなかに消えています。この旧火口の火山底が五色岳の切り立った火口壁の中間を横切っているのがハッキリわかります。



五色岳の崖の途中に露出する「旧火口」


旧火口はここばかりではなく、あと2つ肉眼で観察できますから、探してみましょう。

このようなことを総合すると、五色岳が複合火山であることが実感としてつかめます。



爆風のつくった「ひっかき傷」


爆風の化石

旧火口外輪山の東端には、上図のような模様が地表に見られます。東西性のひっかき傷のような痕跡が一面についています。

大きな爆発がおこると爆発の中心から強風が吹きおこり、付近の地表に強風が通りすぎた跡をのこします(これはベースサーチといいます)。このような跡の方向を調査すると、火山爆発の中心を推定することができます。

この痕跡は火山爆発によって生じた強風の化石と思われます。



お釜の形と深さ


お釜

お釜の規模について1982年7月に測定した結果をまとめてみましょう。

お釜は南北に長い楕円形をしています。もっとも長いところで325m、短いところで204mあります。深さは最深部でマイナス25mです。

水は酸性で鉄分を日本一多く含む火山湖です。この鉄分が濁川の上流に沈積(ちんせき)してドームをつくったりしています。もちろん魚や水生生物は見られません。湖岸には高さ1.5mくらいの段丘が見られますから、季節によってお釜の水は増減をくりかえしていることがわかります。

上図はお釜の平面図で、内部の曲線は深さを示したものです(等深線図)。これを見ると最も深いところは中心部より少し五色岳頂上に寄ったところです。北西部が浅くなっていますが、これは五色川が運搬してきた礫で三角州が造成されたためのものです。



風紋


風紋(ふうもん)

熊野岳や馬の背はつよい風雨にさらされると前述しましたが、さらに、氷の作用も加わり、地表に美しい縞(しま)模様をつくりだします。

写真の黒い部分は安山岩の火山礫、白い部分は軽石で構成されています。強い風雨が密度の大きい黒い礫と、密度の小さな軽くて白い礫とをみごとに分けて縞模様をつくったものです。これは馬の背のものですが、熊野岳付近ではもっと大規模なものが見られます。




2016年12月1日木曜日

宿屋十七軒[蔵王]



〜『蔵王今昔温泉記』伊東久一覚書より〜


話:安斎徹(元山形高等学校教授)


高湯温泉革新の思い出


昭和十六年五月二日の日刊山形に次のような記事が載っていた

高湯の旅館増設
警察部は強腰
衛生課も湧出量調査

既報、高湯温泉三百年の伝統を破って同温泉地区に旅館を新設することは県警察部の肝煎りで着々実現せんとしつつあったが、既報旅館業者は死活の問題として全面的反対の機運濃厚となり、所轄上ノ山署では説得運動に奔走中である。

「警察部では衛生的見地と、投宿客一般の待遇に対する不評等から是非新設の方針である。一方旅館側では温泉湧出量の不足を楯に新設に反対しているが、過日県当局の斡旋で安斎山高教授が実地調査を行ったが、五日頃には県衛生課からも係官が出張して湧出量その他専門的な調査を行い最後の断案を下すことになり、現在湯花を採取して研究しているが、温泉上部地面に共同浴場を新設する計画も立案されている」



私はこの新聞のあと五月五日、高湯温泉旅館香各戸の浴槽につき毎分の湧出量と温度とを測定調査し、詳細の状況を知ることが出来た。後五月十三日県にて小鷹技師及び衛生部長と会談し、更に三十日県警察部長室にて高湯の関係者一同を集めて対談を行った。

要は伝統的温泉経営は物資販売と宿泊営業とは分離し来って両者を混同しないという慣例にある。然るに戦争の進展するにつれ世は自由販売の出来る物資が欠乏し、高湯の物売りは売る物が無くなり商売不能になったというのが原因で、商売人六軒が旅館に転業しようと企てたことにある。これら商売人は、共同浴場の温泉量について其の半分を使用する権利を持って居ったので、その元湯を半分分湯して下方に引湯し新共同浴場を設置することを強調したのであるが、これ等分湯を旅館側は拒否したので騒動状態になった次第である。



県警察側は衛生上、営業上から新旅館の増設を目論見、警察権を高圧的に強調したため状勢は硬化して不穏の状態となり、温泉を道路の中に掘さくするような気配を見せたものであった。然し温泉は温泉法によって警察権により勝手に掘さく出来るものではない。旅館業者は頑として屈しなかったが、戦時中旅館の主婦が示した態度は将に男性の及ぶところではなかった。

斯くして、警察も反省にせまられ、其の解決に対し私に仲介の労をとるよう求めたのであった。それは日頃高湯温泉と蔵王山開発とに骨折っていた私への信頼から、正常な方案を考えるであろうとの世論がもたらしたものと思われる。

私が業者達と警察との間に入ることを旅館側も納得したので、先ず私は無理押しは両者よく考慮して慎むべきこと、凡て自然の真実に従うべきことを述べ、誠意をもってこれにのぞむことにした。即ち旅館の新設は伝統の破壊ではあるが、社会の状勢により共存せざるを得ない今日に於いては致し方がないであろう。



只共同浴場を二分する問題は別である。たとえ商売側に五分の権利があるとしても、この温泉は二分すれば療養温度が四十三度以上を浴槽内で常に保持出来るか否かにかかる問題であって、二分したため温泉がこれ以上に下るなら分けられないことである。これより源泉を掃除整備してその実験をやるから、その結果泉温を確保出来たら分設を承認し、確保出来なかったら源泉は分けないことにしては如何か、それが承知なら実施にかかるであろうと宣言した。

高湯の温泉は決して高温の湯ではない、互いにこの心配が勝負なので快く私の提案を容れてくれた。この提案を基本として先ず共同浴場の泉源を大掃除して湧出量を正確にし、温度の測定を行った後、その半量を旧浴槽に入れ、更に新設しようとする浴槽への半量を流し、実際的に旧浴槽の中の温度を測定して見たのである。

その結果は全量を入れた時と殆んと浴槽の状態が変わらないので只驚くのみであった。即ち浴槽の大さに対し過大量の温泉を流し込んで居ったため、その半量を減じても温度の低下がなかったわけで、全く共同浴場増設による心配が無くなったので商店側の権利に半量を流すことに決まった。只新設旅館には内湯が無いだけである。



このような調査の結果、五月二十九日の日刊山形には次のような記事が載せられた。


高湯騒動解決
新たに旅館六軒、共同浴場を建設
我意を捨て開発に邁進

既報蔵王山麓の高湯温泉に現代的共同浴場を新設しようとする案は、既報の如く一部業者の感情の行違いで旅館側が反対し、改革に乗り出した県当局も慎重を期していたが、高橋代議士の斡旋と長岡上ノ山署長の奔走によって、旅館業組合員も新たに建設される共同浴場を中心に旅館を開業する、従来旅館出入商人も白紙にかえり高湯温泉発展のため一切の私情をさらりと捨てて協力することになり、二十七日長岡署長が高湯温泉に赴き最終的な妥協に成功した。

共同浴場は乗合自動車停留場前の元駐在所跡に建設し、分湯は現在の共同浴場で不用のため河に流されているものを導くことになり、旅館は新たに許可される六軒と、従来の十七軒を合わせて二十三軒となり、夏期、冬期の旅客の雑沓も緩和されることになるが、旅館組合では旅館経営に必要なる物資を共同購入によって便宜を図るべく商業組合の結成をも計画している。


以上のように報告されている。

時恰も蔵王山はお釜の新活動三年目にあたり私はお釜の研究に専念の時であった。従って御釜の活動は冬の樹氷と共に蔵王の宣伝に効果著るしく、高湯発展はこの騒動によって今日への覚醒を行ったと言うことが出来よう。

以上の経過に依り高湯温泉の開発問題に当っては、部落会長の伊東久一氏の一方ならぬ御苦労を思いやられ、当時の事情を偲びここに追憶の記事を認めたものである。






〜黒木衛『山形の蔵王』より〜


1940年(昭和15)5月30日
山形県警察部長増原恵吉、高湯部落会長伊東久一に分湯指示。

1941年(昭和16)
山形県衛生課、湧出量・泉質調査。
既設17軒に加え、新設6軒に分湯きめる。



既設17軒:

海老屋(江戸時代創業)・近江屋(創業1,000年以上)・岡崎屋(元禄年間創業・2014年破産)・柏屋(1983年、火災により廃業)・川原屋(2010年の火災により、現在日帰り温泉)・寿屋(2015年廃業)・堺屋(2015年廃業、ヴァルトベルクへ)・高見屋(1716年創業)・瀧見屋辻屋(明治初年創業、現大平ホテル)・鶴屋中村屋(2011年廃業)・松金屋山形館山形屋(2015年廃業、現すずのや)・吉田屋若松屋(1655年創業)



新設6軒:

伊藤屋(元湯花、稲花餅販売)・昭栄館(元米穀販売、運送業。現花ゆらん)・招仙閣(元木地製造)・高砂屋(元農業、運送業、建具屋)・堀久(元稲花餅製造販売)・三浦屋(元稲花餅、湯花販売。2015年廃業)



商人より旅館に転業せる六軒、うち「伊藤屋旅館」


「招仙閣」


「高砂屋旅館」



1941年(昭和16)7月5日
下湯共同浴場、山形市永野喜一郎請負着工、翌年8月竣工。建設費8,478円23銭。

1954年(昭和29)
米沢市後藤源次郎、配湯事業開始。分湯先、16年新設6軒中の分湯されていない伊藤屋・堀久・三浦屋の3軒、他の旅館2軒、保養所20軒。41年、蔵王エコーホテルに分湯。

1983年(昭和58年)
利用源泉数30、未利用源泉数20。最高地点1,000m。湧出量1万5,000l/m、泉温45〜66℃。大湯共同浴場源泉で、水素イオン濃度1.5、泉質、含硫化水素強酸性明礬緑礬泉。

温泉利用、共同浴場3軒、宿泊施設66軒。






話:長岡万治郎(元上山警察署長)


高湯温泉のころ


私が蔵王温泉に交渉をもつようになったのは、まだ高湯温泉と言い、現在の蔵王温泉の姿からは想像もつかない、療養本位の湯治場であった頃である。昭和十六年三月、私は上山警察署長になった。高湯温泉が当時、上山警察署の管轄であったのである。

高湯温泉は山の中の湯治場であったが、私の赴任する二、三年前頃から、支那事変が深刻化し、非常時態の様相を増して来た頃、国民の体力増進のための健民運動として夏期に蔵王山と高湯温泉に行くものが多くなり、殊に冬期の閑散至極の湯治場は、スキーの普及と、蔵王がスキー場として適地であることが一般に宣伝されてからは、冬期の来客も激増して来たのである。私の赴任した頃は、高湯に来るもの、夏は六万人、冬は四万人と急増し、ために既存の高湯温泉の宿屋のみでは如何とも収容し切れなくなり、収容施設の増加が各方面から強く要望されるにいたったのである。

高湯には、何年位前からのことか判らぬほど昔から宿屋は十七軒、商人その他三十二軒、合計四十九軒よりは部落内に増加させない。二、三男であっても、高湯に一家を構えることは許さないという固い掟というか不文律があった。しかし、時勢は高湯温泉の収容能力にお構いなく来客は益々急激に増えて来るし、これに相応する宿屋の増加を要望されてきたが、この掟と、温泉の権利をもっている宿屋側は頑として耳を傾けず、ために高湯部落は、この宿屋側と、宿屋を増して温泉の権利を分けるべきであるとする側とが抗争反目を続けていたのであった。



この抗争が、私の赴任する前年頃より続けられ、利害と感情から益々深刻化し、また大小の政治家や弁護士が介入して複雑化していたのである。この間にあって、これを解決するため、部落会長伊東久一さんは苦労していたのであった。伊東さんは極めて公平無私な方であり、当時部落内の第一の有力者であって、解決に当たる人としては最も適任者であった。

警察は、宿屋営業の許可と取締上、また、温泉場の風紀、衛生、保安上の立場から、この抗争を放任することができず、部落会長である伊東さんに協力して事に当ったのである。そして解決の第一歩として、新らしく宿屋営業者六人に許可し、このために共同浴場を新設し分湯することにしたのである。

顧みれば、古い昔の話である。現在の大規模の旅館が数多く立ち並び、年間四季を通じて来客絶えない「天下の蔵王温泉」からは、到底想像も出来ないであろうが、しかし、この高湯温泉の宿屋十七軒、商家等三十二軒以外は絶対に増さないとする長い長い歴史、掟を変えたことは、当時としては大問題であり、保守的な、山間の湯治場から、現在の蔵王温泉に到る端緒を開いた一大変革であると言うも過言ではないのである。そして、部落民、当時の高湯温泉の人々は、何れも血族、姻戚関係にあると言われる。それだけに陰性な抗争が三年前後続いたものであったが、解決に努力された当時の伊東久一さんの姿と顔とが、大きく私の眼に浮んでくるのである。



下湯 共同浴場



〜黒木衛『山形の蔵王』より〜


蔵王温泉 来訪者数

1757年(宝暦7)
年間入湯者、7,000人。

1789年〜(寛政)
慶応年間まで、年平均入湯者、7,162人。
慶応3年(1867)まで、季節別入湯者、春28%、夏53%、秋12%、冬7%。

1896年(明治29)
年度入湯者、2万人

1928(昭和3)36,900人
1929(昭和4)36,800人
1930(昭和5)41,900人
1931(昭和6)48,300人
1932(昭和7)50,700人
1933(昭和8)72,100人
1934(昭和9)48,900人
1935(昭和10)55,200人
1936(昭和11)45,359人
1937(昭和12)22,446人

1940年(昭和15)
年度入湯者、5万人

1952(昭和27)51,000人
1953(昭和28)76,000人
1954(昭和29)73,000人
1955(昭和30)77,000人
1956(昭和31)92,000人
1957(昭和32)89,000人
1958(昭和33)88,000人
1959(昭和34)138,000人
1960(昭和35)145,000人
1961(昭和36)176,000人

1965(昭和40)332,500人
1966(昭和41)499,000人
1967(昭和42)576,000人
1968(昭和43)717,000人
1969(昭和44)718,000人
1970(昭和45)700,100人
1971(昭和46)698,600人
1972(昭和47)802,000人
1973(昭和48)884,800人
1974(昭和49)838,800人
1975(昭和50)841,500人
1976(昭和51)833,100人
1977(昭和52)871,600人
1978(昭和53)877,100人
1979(昭和54)857,800人
1980(昭和55)827,700人
1981(昭和56)756,600人
1982(昭和57)789,700人
1983(昭和58)749,500人

1983年(昭和58)
年度入湯税
旅館31軒、29,304,900円
保養所31軒、20,145,525円
民宿4軒、1,465,575円

合計66軒、50,916,000円






話:伊東久一


高湯温泉開発沿革史の一端
旅館拡張と分湯問題


昭和十五年は高湯温泉にとって画期的な年であった。当時総戸数五十戸、人口約参百名、旅館数十七軒、他は商業其の他百姓炭焼運送業など雑業で生計を営んでいた。然るに浴客は年々増大を来たし、各旅館の分館増新築と共に愈々殷賑を極め、一カ年を通じ約五万以上の来客を見るにいたった。夏冬季の混雑著しく、共同浴場は恰も芋を洗う如き状態、旅館又、部屋の不足により、客人の不平の声一段と強くなった。

村一般の生活状況は旅館のみが逐年富を増大し、商人側と比較して格段の差違を生じた。このまま捨てておくと階級斗争に発展しかねない状況だった。平和郷として多年に亘り誇りを持った我が村も、大いなる悩みの影を投ずるは明らかである。時恰も昭和十五年二月、我が国も新体制を樹立すべき初期の秋に当たり、高湯温泉組織にも、旧組織では旧態依然たる欠陥を糺弾せらるるに至り、改革の声巷に喧しくなってきた。



県或いは警察へは投書が入る事も時折り耳にしたのであった。当時山形県警察部長増原恵吉氏の指摘せられし最初の言質は、旅館増設の緊急と、共同浴場の増設を強調せられ、往年の行き懸りを捨てて時代に順応せる組織と改善を以って、一般社会に対する温泉の利用価値を高め、其の発展向上は必然的に、村民の福利を増強せしむること明らかなる旨を諭された。

当時上の山警察署長池田栄太氏の共鳴合意は愈々強い力となり、警察管轄の関係上直接其の指導と実現とに苦慮せられた。又当時の駐在巡査武田謙吉氏も、実現方に奔走せられ、部落会長伊東久一、副会長堀善六の両氏、村将来の発展を察知して時代の認識を深め、村民又協力一致して、部落民の誘導に当たり、大字及び委員会の集会も百回以上に渉り、紆余曲折幾多の難関に直面したが、現今見らるる如き発展に達するを得た。

商人より旅館に転じた者の歓び、又一般村民の喜びも、浴客の満足等も挙げて数うべからざる発展の実を結んだのである。此処にその経過を述べて後年の参考に供するものである。



五月三十日午後一時十五分、県警察部長室に呼出の通知を受け、会長伊東久一、副会長堀善六の両氏訪問す。同席したのが粟野、森山両課長、安斎高校教授、小鷹衛生課長の立合の上、増原恵吉警察部長よりの訓辞大要次の通り、


今回旧い殻を捨て相共に睦しく提携し、発展の為進む様に相成った事は誠に結構な事である。特に高湯は血族関係が深いと聞いて居るが、お互に喧嘩をして居る様では困るし、円満にやって行くならば県としても大いに発展の為に協力する。

温泉も新体制下、手を取り合って進まなければならぬ。一個人の都合が少々悪いとしても、社会国家に益する様なら我慢しなければならぬ。高湯温泉は非常に効めもある上、特に小児に良いので広く一般に利用されれば保健上からも国の為になることであるから、県としても大いに指導もし、又分湯技術については小鷹技師より発表させる。


大略以上の如き内容であった。

昭和二年に源泉と温度の調査発表が小鷹技師により行われたが、当時は一分間二石六斗が今日三石になっているのは、お山の活動によることだと思うから、調査は時々やって見るべきだと言われた。尚分湯するには源泉を整理しなければならないが、共同浴場の湯量を幾分でも増し、現在温度四十三度六分のものを分湯しても四十三度より低下させぬようにし、下湯は四十二度位のものになると思うとの言質を受けた。当時分湯の結果、旧温泉四十三度八分、下湯四十二度五分。


十二月十三日 商人側委員会結果

委員 斎藤駒吉 伊藤作兵エ 斎藤松助 堀文雄 堀久次 伊東重次郎 伊東久一 岡崎三郎 斎藤源吉 以上九名

第一案

高湯開発上を了承の上、一戸分五間に七間の敷地に区割することになった。中央に道路、水道、温泉等を設置し、村の不利の場所にある者の希望に依り優先的に入れるようにした。土地は商人組合に於いて地主と契約し、旅館経営は個人の自由にせんとするものである。源泉の配湯分合を元湯六分、下湯四分とすること。源泉はお湯の増量を図るべく現在の地盤より下げる様交渉する事。

以上を翌十四日宿屋側に申入れる。

商人側委員九名、午前九時大字事務所へ集合

昨日来の話合いに基づき此処まで落付くことを得た過程を会長より説明する。即ち引湯可能の場所を選定、全温泉部落の協同経営に依る簡易ホテル経営の建設計画(利益の平等分配を得んがため)。

右は出資上と経営担当者の困難なる為め設立不可能となった。



第二案

一、中央及び下方の二カ所に共同浴場を増設し簡易なる宿泊を実現せんとするもの。ところがこれは村はづれにある者何十人かの、恩恵に預からざる者の反対のため成立困難となる。



第三案

一、(岡崎金蔵案)商人一同の比較的平等の利益を受け得るためには、若松屋の山(元学校裏地)約三千坪を開発共同浴場二カ所を造り、其の周囲に三十二軒が旅館を建設し理想の温泉郷を作らんとする案。

これも委員現地調査高台に付引湯不可能により成立せず。



第四案

一、中川道路開発の件、これも冷温なるが故考慮不成立。

一、堀利兵エ氏裏畑開発案(再検討)この経過を委員各人より説明す。昨夜の商人側決定せるものと、これ迄の各案に対し宿屋側に於いて検討して、良案を得て貰う事。其の相談は重大問題なので警察への廿日までの回答を、二十五日迄日延べ方願う事となり、次回折衝十八日とす。



十二月十六日委員会

開発問題種々の論議が交され、土地区割に依る救済移住開発は、其の実行、今日の物質払底と価格高騰によりして容易ならざる事となる。

先に七名割当の件の中、岡崎喜作、岡崎勇、堀伝次郎の三氏は、既に棄権の申入れとなり、空地の処分又検討を要し、皆行詰った状態となった。結局、同地に大字一同一丸となって簡易ホテル経営に邁進することになり、決議文を作成一同満場一致にて決定御神酒を挙げて散会す。



十二月十八日大字集会

警察署長の意を体し大字一同一丸の下に簡易ホテル経営する事を、大字集会にて決議す。以上決議文を県に答申書として差出した。右実行に就いては各組より委員の外、別に委員四名づつを挙げ、二十名の委員を選任す。

十二月二十二日開発問題の件に付き、久一、善六の両名上の山警察署に出頭、日帰り。先に選定した場所、「利久」裏一帯六反歩の処へ、資金十万円に依る合同簡易ホテルを経営することに決定せるに依り。

後日池田署長の注意により、金参万円以上の資金を要する場合、臨時資金調整法令に依り、大蔵大臣の認可を要することが判明した。其の内容研究を部落会長及び副会長、委員中より岡崎三郎氏等に依嘱した。



一月十三日右三氏福島日本銀行支店へ調査の為め出張。その結果資金調整法令に依り金参万円以上の資金借入れは大蔵大臣の申請認可を要し、これは高度国防国家上の見地より、旅館、ホテル、料理業、カフェー、飲食店等の業種は絶対不許可とのこと言い渡された。

ここに於いて再び合同ホテル建設案は挫折を見るに到った。改めて一般民間の個人経営旅館案を提唱するに到った。



一月二十五日午前十一時半、上の山池田署長来泉し、午後一時から小学校裁縫室に於いて、大字全員に対し左の要項の話があった。

高湯開発問題につき、大字に於いて決定せる合同体による簡易ホテル経営は、先に研究の結果資金調整法令に依り、主務省の認可おぼつかなきを確め決行し難きを以って、別の方法を執るの外なきことを諭した。県の計画せる機構は、商人側の到底免れ難き打撃にして、これが緩和策は共同浴場を増設して旅館業に転向する外、一面浴客の緩和と商人救済の目的達成に邁進する外なきことを説いた。

座談会に移り種々意見交換を見たが、結局引湯の可能場所と、旅館経営に適せる場所を選定する外なきに到った。


引湯場所の選定方法

小学校長、部落会長、伊東久一、前区長、斎藤藤左エ門、警察官の四氏に依頼しることとなった。総ての事情を勘案して、大字の下部三○番地と決定した。(元巡査駐在所跡)

分湯は上六分、下四分と決定。

工事委員として左の各氏を決定。

岡崎三郎、斎藤駒吉、堀文雄、伊東重次郎、堀五郎左エ門、斎藤源吉の六氏。浴場建設に就いては一切山形市下条町の永野喜一郎氏へ、基礎一切及び工事用石鈴木清一氏へ、石工山田、荒井定吉氏へとそれぞれ請負させることに取り決めた。

昭和十六年七月五日下湯浴場建設着手

一金八千四百七拾八円弐拾参銭也 建設費総額


右請負者山形市永野喜一郎氏へ請負し落成したのは、昭和十七年八月であった。

県警察部としては旅館十三戸の設定と温泉浴場二カ所位の要望あったが諸般の実情と経済の緊迫等により結局次の如く決ったことを銘記して置く。


商人より旅館に転業せる者左の六名
当時の職業及び個人の土地保有調(参考迄)(但し宅地関係除く)

元農業 湯花販売 稲花餅製造販売業
現 旅館業 伊藤屋旅館 伊藤安助
当時一、田 高湯字駒鳴セ参反弐畝 廿八 歩 畑合計 四反五畝廿六歩 雑地 壱町八反壱畝十六歩

元 木地製造販売業 外雑業
現 旅館業 招仙閣 斎藤松助
一、畑合計 弐畝拾弐歩 雑地 九歩

元 農業 運送業 建具屋
現 旅館業 高砂屋 岡崎冨佐
当時一、田 高湯駒鳴セ参反四畝○九歩 畑 弐反○弐拾弐歩 雑地 壱町九反九畝弐拾八歩

元 米穀販売業 運送業
現 旅館業 昭栄館 庄司市次郎
当時 田 壱反六畝弐拾四歩 畑 壱反○拾七歩 雑地 弐町五反拾六歩

元 稲花餅製造販売業
現 旅館業 堀久旅館 堀久治
当時 畑 弐反歩 雑地 壱町九反九畝弐拾六歩

元 稲花餅製造販売業 湯花販売業
現 旅館業 三浦屋 堀伊勢松
当時 畑 壱町七反弐拾八歩 雑地 壱町弐拾六反弐参参歩

以上



県警察部として旅館十三戸の増設と温泉浴場二カ所位の設置に持ち込む予定の様であったが、諸般の事情と経済の緊迫等により結局以上の如く決ったことを銘記して置く。

一面残りの商人側に依り消費組合を造り高湯温泉全域の消費物を此の組合より提供することも話合って見た。然し何んせ運搬する自動車も中々むずかしい時、物資も配給品となったので此の話は遂に纏らなかった。伊藤作兵エさんなんか自主的に馬を利用して物資運搬を試みたこともあった。

此処まで落ち付くのに昭和十五年末期より同廿年川原湯改築に至るまで約六年間もかかり、此の間に於ける種々の難関があったことは銘記し得ないこと、言葉にあらわし得ない事実もあった。当時協力なされた大方のかたは故人となって、余と斎藤駒吉君のみとなり、駒吉君も性格は真面目の方、色々の面に於いて協力下された。私のことについては一番わかって居られる筈、当時のことを思えば私の脳裡に刻まれて居たものが彷彿として往来し涙と共に当時のことを偲びながら、故人の霊に対し感謝の意を表して御冥福を祈る次第である。



商人より旅館に転業せる六軒、うち「昭栄館」


「堀久旅館」


「三浦屋旅館」



〜黒木衛『山形の蔵王』より〜


蔵王(高湯村)の人口


1639年(寛永16)
山形城主・保科正之の検地により、166石2斗7升の、高湯村あり。

1710年(宝永7)
出羽国村山郡金井庄湯沢郷高湯村、百姓数342人。温泉あり。

1754年(宝暦4)
酒屋3軒。石高、源七150石、五郎兵衛58石3斗、新吉12石9斗。

1757年(宝暦7)
世帯数47戸、人口242人。ほかに奉公人、酒屋4人、百姓17人、酌取23人。置屋14軒。
入湯者の30%が遊びで、修験道に復帰の声も出る。冬の来訪多く、このころが、1600〜江戸時代を通じての最盛期。

1768年(明和5)
人口268人。以降減少、1851年(嘉永4)に回復して、1854〜安政年間から増加。1870(明治3)には312人となる。

1799(寛政11)
提げ売り、旅館から分離

1851年(嘉永4)
世帯数47戸。以降、昭和20年(1945)まで世帯数46〜51戸、人口400人未満。

1870(明治3)
世帯数48戸。置屋3軒。

1896年(明治29)
人口389人。旅館16軒、商家29軒。

1926年(大正15)
世帯数60戸、人口400人。旅館17軒、商家30軒。

1930年(昭和5)
共同浴場2軒、上湯と川原湯。公設診療所1軒。

1937年(昭和12)
木地屋8軒。

1940年(昭和15)
世帯数50戸、人口300人。旅館17軒。

1941年(昭和16)
共同浴場下湯建設を機に、提げ売り禁止。


1945(昭和20)旅館23軒、収容人数1,972人
1950(昭和25)旅館23軒、収容人数2,047人
1955(昭和30)旅館26軒、収容人数3,046人
1960(昭和35)旅館29軒、収容人数3,913人
1965(昭和40)旅館37軒、収容人数5,839人
1970(昭和45)旅館41軒、収容人数6,823人
1975(昭和50)旅館46軒、収容人数7,921人
1980(昭和55)旅館48軒、収容人数7,194人


1948年(昭和23)
世帯数78戸、人口482人。旅館23軒、商家24軒。

1950年(昭和25)
堀田村、蔵王村に変る。日本観光地百選山岳の部第1位の改称。

1952年(昭和27)
世帯数82戸、人口488人。

1956年(昭和31)
蔵王村、山形市に編入。

1958年(昭和33)
世帯数98戸、人口577人。旅館23軒、山小屋2軒、保養所3軒。

1965年(昭和40)
世帯数100戸、旅館30軒、保養所15軒、商家50軒。

1969年(昭和44)
世帯数255戸、人口915人。
観光関係業種世帯数、旅館35、山小屋8、保養所26、土産品店17、食堂14、バーなど娯楽施設5、置屋2、タクシー1。

1977年(昭和52)
冬期、臨時就業者、1,304人。

1980年(昭和55)
蔵王地区人口、1万2,303人。
うち蔵王温泉、946人。




2016年11月30日水曜日

山形蔵王へのアクセス



山形蔵王
Yamagata Zao
交通ガイド
Traffic Guide

『るるぶ山形2017』より





車で山形蔵王へ

山形蔵王へは、山形道を「山形蔵王IC」で降り、国道286号から西蔵王高原ライン(無料)でアプローチ。

川口JCTから「山形蔵王IC」まで約350km(高速料金8,160円)。山形蔵王ICから蔵王温泉までは約18km。トータルで4時間10分程度。



公共交通で山形蔵王へ



飛行機

山形県内には2つの空港(庄内空港と山形空港)がある。山形空港へは羽田空港(東京)から1日2便、伊丹空港(大阪)から1日3便、小牧空港(名古屋)から1日1便、就航している。



鉄道

メインルートは山形新幹線。東京駅から「つばさ」が山形方面へ直行している。

山形新幹線「つばさ」
東京駅から山形駅まで、約2時間45分(1万1,340円)。1時間に1〜2本。



バス

首都圏からの高速バスは、すべてが独立3列シート。早朝から動き回るのに便利だ。

東北急行バス「レインボー号」
東京駅八重洲通 夜行1便(23:05発)
山形・山交ビルまで約6時間45分(6,600円)

上野駅前、浅草駅前でも乗車OK。終点の山交ビル(バスターミナル)は山形駅から徒歩5分。ほかに新宿駅南口発の「ドリームさくらんぼ号」(JRバス東北)、浜松町BT発東京駅八重洲通・山形経由新庄行き「TOKYOサンライズ号」(東北急行バス)もある。



山形駅〜蔵王温泉へ

山交バス(37分・1,000円)
山形駅から蔵王温泉バスターミナルへ、ほぼ1時間に1便。日中は山形駅前を毎時20分発。



Telephone Guide

鉄道

JR東日本(お問い合わせセンター)
050-2016-1600

航空

全日空(ANA)
0570-029-222

日本航空(JAL)
0570-025-071

バス

東北急行バス(高速バス予約)
03-3529-0321

山形交通(山交)バス
023-632-7272(案内センター)
023-632-7280(高速バス予約)

レンタカー

駅レンタカー
0800-888-4892

トヨタレンタカー
0800-7000-111

ニッポンレンタカー
0800-500-0919

日産レンタカー
0120-00-4123




鴫の谷地[蔵王]



鴫(しぎ)の谷地(やち)沼
面積:66.888平方m
周囲:1.2Km
最大深度:6.8m





斎藤茂吉 歌碑


ひむがしに 直にい向ふ 岡に上り 蔵王の山を 見守りて下る



〜現地・案内板より〜


鴫の谷地沼
斎藤茂吉 歌碑
昭和44年 山形新聞・放送建立


昭和20年、茂吉は郷里の金瓶村(上山市)に疎開生活中に、この歌を詠みました。蔵王山は茂吉にとっては単なる精神の支柱というだけでなく、蔵王を愛する茂吉そのものの姿といえるでしょう。


ひむがしに 直(ただ)にい向(むか)ふ 岡に上(のぼ)

蔵王の山を 見守(まも)りて下(くだ)

『小園』昭和20年


歌碑は、自筆書を黒みかげに陰刻し、安山岩にはめ込んだもの。

雑木林の中に、銀ドロの木が2本、ひときわ明るく碑をかこんで風情をそえている。






※ 斎藤茂吉『小園』
第15歌集。歌数782首。62〜64歳まで。昭和18〜21年1月まで。
疎開先の金瓶を去って、再疎開地大石田に赴くまでの期間の歌を収録。題名は「小園(せうゑん)のをだまきのはな野の上の白頭翁(おきなぐさ)のはなともににほひて」に拠ったものである。



佐藤助雄 『振向く』



〜現地・案内板より〜


佐藤助雄『振向く』

1919(大正8)-1987(昭和62)
山形市に生まれる。後に北村西望に師事。

1955(昭和30)日展特選
1980(昭和55)日本芸術院賞受賞




瀧山に朝の光があたりはじめる


横倉瀧


大森ゲレンデ側にカモシカあらわる


啓翁桜


沼の周囲は1.5kmの遊歩道


水神


鴫ノ谷地 溜池 竣工記念碑
昭和22年


周辺地図