2015年10月8日木曜日

三本木沼 [山形市西蔵王]



山形市西蔵王、三本木沼



〜現地・案内板より〜


三本木(さんぼんぎ・ぬま)と野草園


 山形市の学校の遠足地として市民の行楽地として親しまれている三本木沼は、中桜田と桜田が管理する溜井である。この付近からは縄文期の赤焼土器が採集され、住居跡も確認され、上代の住民の生活を知る貴重な資料となっている。

 瀧山山麓には、三本木沼をはじめ二十有余の湖沼が点在して、田圃の灌漑等に利用されているばかりでなく、以前は凍結した氷を切り出し、雪むろに蓄え、夏に山形市の病院や魚店などに売り出したものである。即ち、採氷湖の役割をもっていた。今では人造氷の出現により、氷雪も雪むろもすっかり姿を消してしまった。

 この湖沼群の湿地帯を活用した一大野草園が、山形市によって造営され名所が一つふえた。また、三本木沼周辺には、県立西蔵王公園がつくられ、一大レクリエーション基地として、大きな役割を担っている。

歴史の散歩道
滝山地区町内会連合会



水面に映るは、西蔵王のテレビ塔


釣りのメッカでもある


石碑「西蔵王観光 発祥の地」
山形県知事 高橋和雄 謹書



〜現地・石碑より〜


 この三本木沼は、元禄八年(1695)山形藩主松平下総守により、桜田一帯約58ヘクタールの田畑を潤す灌漑用水として築かれました。以後部落民の生命の源として、現在は桜田水利組合に依って維持管理されております。

 戦前戦後の頃から、西蔵王観光の拠点となり、山の精気を求め学校の遠足やハイキング等、市民の憩いの地として広く親しまれて今日に至りました。

 この碑の建立にあたり、尾原儀助氏の絶大なるご支援とご配慮を賜り又、西蔵王高原開発の祖として尽力された左記の方々に永く敬意を表し名を刻します。

峯田良藏 前田光雄 荒井貞雄 丹野保信 鈴木萬一 大内小一郎 小野博好
梅津初雄 山口藤雄 佐藤吉助 中根正昭 塩野政太郎 羽角喜代春 佐藤正

平成十一年四月吉日 建立
西蔵王観光協会々長 佐藤小太郎



西蔵王の詩 佐藤小太郎

”唐鍬を手に耕し続けて幾百年自然の織りなす風土の中で

竜山下しの冷たい風と情熱が美味な野菜を育てます

おらが自慢の高原野菜”




背後にそびえる瀧山、旭日がのぼる




2015年10月4日日曜日

荒沼(あれぬま) [西山形]



釣り人でにぎわう、荒沼の朝


〜現地・案内板より〜


荒沼(あれぬま)


県民の森の中では二番目に大きな湖沼である。荒沼は大沼と同じく、今から570年前(1470年、室町時代)ころ、村木沢の住人、石沢与一・遠藤久七の両名が、相州箱根権現にお参りして分神を頂き、神社を建て、北沼を作り始めた。この北沼を「大沼」「荒沼」と云う。この沼によって数百町歩の田を開拓した時の領主最上直家(二代)が先の神社を沼明神(ぬまみょうじん)と名付けた。

慶安年中(1648〜1655年)に、この沼の水が不足したため、笹原五良右エ門と言う人が独力で改修・拡大し、干ばつから救った。それ以来、下流の村民が時々沼の修理をしたが、年とともに沼の破損がひどくなった。これを領主堀田公が哀れみ、郡奉行に命じ、安政四年(1857年)秋7月から安政五年秋九月にかけて、藩費をもって再度改修が行われてつくられたものである。

水利権 門田水利組合
魚類 コイ・フナ・ワカサギ等
昆虫 ハッチョウトンボ・カオジロトンボ等
表面積 132,600m2
最大水深 7.2m
貯水量 186,600m3



荒沼大明神


〜現地・説明板より〜


荒沼大明神


応永(1394〜)年間、領主・最上直家が荒沼に奉られていた箱根権現の分霊を沼明神と名づけ、ここから荒沼大明神として祀られるようになりました。荒沼は田に水をひく灌漑池として作られ、この沼の出現によって西山形の数百町歩の田が開墾されました。



荒沼碑



荒沼碑

荒沼の起源と経歴を記す安政荒沼碑は、祖先の辛苦経営と神水一如の信仰を伝へて炳手たり。茲に安政以降の事績を尋ねるに文久二年、名主市右エ門、清兵工伝四郎、百姓総代茂右エ門久六等、捨水利用に付、柏倉村と折衝を重ね入堰千八百米を開設、年々貯水増大の基を開く。

降って昭和九年、大字門伝八代総代斉藤宇一熊の胴新設を発起、大字の総力を結集、旧胴より二米掘下げ、旱魃時水利の方途を拓き、旧胴を最新ハンドル式に改良、堤塘を牢固たる現況に改修。同四十九年、熊の胴老朽漏水あり。十三代総代飯野貞一、之を機に潜水胴抜式熊の胴をハンドル式に改良。同五十年、市議飯野貞雄、山形市少年自然の家誘致に奔走。同五十四年、荒沼の高台に落成を見る。同五十一年、県民の森地域指定を受くるや十四代総代坂本元次郎、地区民と諮り荒沼関係諸施設の改善に付、関係当局に鋭意陳情の結果、県及び市の同意取付けに成功。同五十二年、胴の尻底樋改良工事施工。同五十三年、荒沼隔間沼線林道開通。同年十一月、荒沼入堰。翌五十四年、乗鞍井堰の両堰U字溝工事完成し、諸施設の整備万全と為る。

是等諸事業の遂行に当り特に率先尽力せられしは、県民の森造成事務所長沢内公男県議、沼沢善栄同、峯田吉郎市長、金沢忠男市林務課長、山川五朗の諸氏なり。受益者一同、之に感謝し、安政碑以降百二十幾星霜、代々荒沼の保守改良に挺身刻苦せし諸先達の事績と共に碑に刻み後世に伝承、併せて荒沼萬代の御守護を祈願し、荒沼大明神の大前に謹んで狛犬一対を献納す。

昭和五十五年五月
大字門伝 飯野幸雄撰
大字村木沢 吉田七兵衛書
大字門伝第十四代総代 坂本元次郎





献納された狛犬



安政の荒沼碑



荒沼碑

夫原荒沼之濫觴應永中有石沢與一遠藤久七者郷
里憂水之乏而祈誓於相州筥根権現蒙神勅以帰初
□此沼也大沼荒沼之二沼是也爾来数百町之民田
開發干時羽之探題最上直家□感其奇瑞称号沼
明神也而年祭不怠下民氏子帰□□久□至寛永□
保中領主世々分村邑之□納米以賜之也□四百年
間也然慶安中此沼猶憂水之不足笹原五良右衛門
獨立心力□山□水以□□□憂□領主松平総州候
見賞其功米穀繁多賜之也且貞享中之領主松平和
州候新田畑及畝歩附属之新恩亦不浅也由来□□
之村民時々雖加條造此沼経数百之星霜破□亦□
□於此安政丁巳秋七月
邦君隣之命郡宰而下賜八木百五十俵使監造小吏
修造之到午秋九月之□堰浚及樋埋築立之功就□
数年蒙
主之恩澤仁恵不可勝計也因以立碑於社□傳于
不朽□

七松山主荒沼院宥照記




~西山形の散歩道(双葉地区編) より~


荒沼碑に沼のいわれが次のように刻まれている。

…荒沼の起源を尋ねなに、今から約570年前のころ、石沢与一、遠藤久七の両名が御里の水が少なくとぼしいので、相州箱根権現にお参りして、分神を頂いてきて神社を建て、北沼を造り始めた。この北沼を大沼、荒沼二沼と言う、この沼によって数百町歩の田を開発した、時の領主最上直家(二代)が先の神社を沼明神と名付けた。この沼明神を村民、氏子が忘れることなく久しく年祭を行い信仰してきた。 寛永正保ごろ、領主たちはおよそ400年もの間収米を沼明神に献納した。

ところで慶安年中(320年前ごろ)北の沼の水が不足しているのを笹原五良右ェ門という人が一人で山を抜き水を引き干ばつから救った。これをみた領主松平総州候が、その功績をたたえて米穀を数多く贈った。又貞享中頃領主松平和州候も新田畑地を贈ってその功を讃えた。

それ以来、下流の村民が時々沼の修理をしたが、年と共に沼の破損が年々少なくなく、ところが邦君(掘田氏)がこれを見てあわれみ、安政4年7月郡奉行に命じて惨造のため米150俵を贈らせたり、又普請奉行達を派遣して修理工事に当たらせた。  安政5年(午)秋9月にセキザライ、トイウズマリや堤防の修理が終わった。  以上のことから邦君(堀田氏)の施した恩恵は計り知れないものがあり、これをたたえて社の前に立碑し、永く伝えるものである。






結城哀草果の歌碑




羽交なす尾根の
まなかに峯高く
白鷹山は大空を
飛ぶ

哀草果



結城哀草果 本名光三郎

明治二十六年十月十三日、山形市下条町一○三一番地、黒沼作右衛門(妻ナカ)五男に生る。生母の乳不足のため南村山郡本沢村大字菅沢三四六番地、結城太作(妻なみ)の里子となる。

明治四十年二月二十日、結城家の養子に入籍し、小学校高等科卒業後、農に従事す。読書により独学し、短歌に心を寄せ、大正三年、アララギ短歌会に入会し、隣村金瓶出身の歌人、斎藤茂吉に師事し、短歌道に入る。

歌業大いに進み、昭和四年六月、第一歌集「山麓」を発行し、農民歌人としての地位を占め、「すだま」「群峰」「まほら」「おきなぐさ」「樹蔭山房」「樹蔭山房以降」等の歌集を発行し、昭和十年二月、随筆集「村里生活記」の発行により一躍名随筆家として喧伝され、「續村里生活記」「小風土記」「農村歳時記」その他の名著を発行す。

昭和二十二年八月十六日、上山町村尾旅館にて天皇陛下に師斎藤茂吉と共に拝謁し、短歌につき御進講す。昭和三十五年一月、河北文化賞受賞。同四十一年十一月、紫綬褒章受賞。同四十四年十一月三日、勲四等旭日小綬章を授与され、同四十六年七月、山形市名誉市民の称号を贈らる。

同四十九年六月二十九日、自宅にて長逝。享年八十二歳。法名 峭峻院達翁道淳居士

勲三等瑞宝章を贈らる 西村直次撰

昭和五十七年十月十三日 建之







2015年9月27日日曜日

仏舎利塔 [山形市西蔵王]





日本山妙法寺 仏舎利塔


上部拡大「南無妙法法蓮華経」


内部より見上げる


お釈迦さま


季節のリンゴがお供えされていた。


「完成予想図」
高さ32m 基段直径24m


西蔵王の展望台から奥へ、徒歩5分


~現地・案内看板より~


お仏舎利塔

建立趣意


日本山妙法寺山主、藤井日達上人御発願の平和大宝塔は、平和の教主釈尊のお仏舎利(インドの故ネール首相より伝承されたお釈迦様の御真骨)を奉安申し上げ、世界平和の大理想を祈願せんとするもので、現在全国六十余ヶ所に建立。さらにインド、スリランカ、米国各地、ロンドン、欧州等世界にわたって建立されんとしております。

一、平和と慈悲の教主釈尊に感謝報恩のため
一、全世界に平和共存共栄の実現を強く呼びかけるため
一、平和自由文化の民主日本建設推進の金字塔として
一、祖先に感謝し謹んで御冥福を祈る供養のため
一、戦中戦後にわたり新日本建設のために尊い身命をささげられた故人に感謝し御冥福を祈る供養のため
一、衆生清遊の楽園を作り郷土発展の新名所とするため

一宗一派にとらわれず皆様と共に手をとり、荘厳優美にして万人のまごころこもる平和大宝塔をこの地に一日も早く完成させ、日本人の大理想を国の内外に宣言すると共に、後世に伝える貴重な文化遺産とすることを念願し、皆様のご理解とご共鳴、物心両面にわたるご賛同をお願い申し上げます。

山形仏舎利塔建立奉賛会




2015年9月21日月曜日

菅谷大聖不動明王 [山形県門伝]



菅谷大聖不動





菅谷 大聖 不動明王

〜現地・案内板より〜


菅谷大聖不動明王


不動明王は大威力あり、大悲徳のゆえに金剛の磐石に座し、大智徳のゆえに大火焔を現じ、大智の剣をとって貪瞋痴(とんじんち)を害し、三味の索をもって難伏の者を縛す。

不動明王は大日如来の化身という。眼病を治すご利益があると信じられてきた。


<不動真言>

なうまく さあまんだ ばあざらだん せんだ
まかろしやだそわたや うん たら たあかんまん



清らかな湧水






2015年9月17日木曜日

芦刈(よしかり)不動 [山形県上山市]



菖蒲集落内の石碑「蔵王山」


同「弁財天」


集落を過ぎたところの石碑「不動明王塔」


砂利の林道の果てるころ、ようやく案内看板が



~現地・案内看板より~



芦刈山不動明王堂 建立の由来


 桃園院の時代(1748-1762)、上山領小蔵沢に吉助という者が住んでいた。延享四年(1747)の晩春、吉助は山深く入り働いていたが、疲れてうとうとしていると、突然山林を揺るがす強風が吹き、その嵐の中に眼光の鋭い尊体が現われ、平伏している吉助に声をかけた。

「この地は芦刈(よしかり)といい、わしはここの三層の滝の嶮しい岩上に座している不動明王である。煩悩の多い人間の来るところではない。すぐ村里に帰れ」

 言葉が終わると不動明王は、紫の煙の中に姿を消した。吉助はあわてて家に帰り、このことについて、どうしたものかと思案にくれたが、名案の浮かばぬまま時は流れ、やがて吉助はこの世を去った。


 吉助には吉兵衛という息子がおり、その吉兵衛の子、吉十郎に二人の息子がいたが、この親子は植樹を業とし、芦刈山一帯に杉樹を植えた。

 ある日、植樹のため芦刈山に赴いたが、その夜、吉十郎は病気となり、薬を用いても全治しないので、困り果てて、瞽女(ごぜ(おなかま))に問うたところ、聖地に鄭重に謝罪したところ、吉十郎は全治した。

 また菖蒲の住人、与兵衛は長いあいだ眼病を煩っていたが、不動明王を信仰したところ、その眼病も全治。これがみな不動明王の加護によるものであると、文政十一年(1828)、この地に不動明王堂を建立した。

 そして、上山藩役所から、不動境内と道通りは何時も清潔にしておくようにと、道札が渡されたのである。


昭和53年11月
上山市観光協会 菖蒲部落会



少し下りたところ、川の向こう岸に籠もり堂のような建物が


その奥に、お社


さらに下りると、不動滝が


川に入って、滝壺に接近。かなりの水量。


向かって左わきの小滝


熟した実が裂果


さらに林道を上ると、芳刈放牧場にでる。







2015年7月3日金曜日

姥神と姥石 [山形市千嵗山]


姥石の軒下に宿る石仏群


その中央、姥神



〜鹿間廣治『奪衣婆―山形のうば神』より〜

姥石 山形市松波

 かつては、ここはあまり人家もない静かな所だったのだろうが、今は住宅地の中。奪衣婆は姥石と呼ばれる大きな石の上にいる(註:現在は石の下)。

 奪衣婆の頭が無い。そばに立っている地蔵様のような石仏にも無い。横倒しになっている二体にも首から上が無い。みんな明治の馬鹿げた廃仏毀釈の犠牲者たちだ。近所の老人に聞いたら、昔はもっと石仏の数も多かったのだが、いつのまにか少なくなっていったのだという。石碑や石仏が盛んに盗まれた時期があったから、誰かが持ち去ったのだろうと。

 姥石のそばに太い藤の木があり、石の上にもその枝が伸びている。春の季節には、藤の花と、まだ小さい木だが、石の脇に植えられている桜の花が、藤色と桜色とで仏たちを慰めてくれるのであろう。





2015年7月2日木曜日

水方不動尊 [山形市柏倉]



かつての参道は草木に埋もれている

石柱「姥ノ神」



〜鹿間廣治『奪衣婆―山形のうば神』より〜

水方不動尊参道 山形市柏倉

 ここにお参りに来た人の何人に一人が奪衣婆のいることに気づくだろうか。百人に一人? いやいやもっと少ないに違いない。「姥ノ神」と彫った石柱があるが、それさえも目につかない。参道から大して離れていないが、杉と雑木の暗い林の斜面に座っている奪衣婆は、よほど注意して探さないと見つからない。かつては、きちんとした階段か道がついていたのだろうが、今はその跡すら無い。

 でも、奪衣婆はこれを悲しんでいるのだろうか。ひょっとしたら、かえってせいせいしているのではないだろうかとも思った。心にもない見せかけだけの人には会うだけでも煩わしく、それよりはたった一人でもいい、本当に会いたい人だけが来てくれればいい。そう思っているようにも見えた。口元には笑みさえ浮かべている。


鐘楼

「前鐘は昭和十七年、大東亜戦争に供出しましたが
各地区民の執意により
部落平和学校進学交通安全商売繁盛を祈念して奉納されました
昭和五十一年十二月十八日」


水方不動尊

〜現地・説明板「西山形の散歩道」より〜

水方不動尊

柏倉陣屋の御典医・中村文哉が文政12年(1829)、屋敷に奉っていた不動尊を現在の地に移して村人の病気平癒を願いました。その子・周七は法印の修行を積み修験となり与勝海と名乗り明治9年、水方不動尊の行屋を建てなおし、父の意志を継ぎました。水方不動尊は特に目の病に効き目があると言われています。

ご縁日 毎月18日

西山型振興会



石碑「不動尊縁起」
不動尊縁起

明治廿七年旧十月十八日

文政十二年中村文哉…
尊像ヲ得テ彼ノ處ニ安
置シ奉リ而シテ永ク天下
泰平志願成就ヲ祈…
二世安楽ノ為ノ諸…
結縁ヲ仰ギ□ヲ祈…

行者…


本堂

本堂奥の水場

線刻・不動明王


〜西山形振興会『西山形の散歩道』より〜

水方不動尊

のうまく さんまんだ ばさらだんかん

 不動尊は昔から不動明王とも呼ばれて民衆の信仰を集めてきましたが、火焔を背にして右手に剣を持ち、誓願によって素生と苦楽を共にすると言われてきました。

 文政十二年(1829)堀田藩柏倉陣屋の御典医であった中村文哉が同家に安置していた不動尊の古い木造を村民の信仰と病気平癒のためこの地(大森山北東の谷間)に遷座を発願したと伝えられています。

 文哉の息子、周七(結城家に婿養子に入る)は五十歳のとき病気にかかり、その回復のため明治三年、大井沢の湯殿山道場に出掛け祈祷を受けて自分の病気の癒されたのに深く感動して、其処で引き続き厳しい法印の道の研鑽と修行を重ね、ついに与勝海という名を頂くようになった。また、彼は大井沢滞在中、六里もある朝日登山道を開き、その道が今も顕然として残っていると言われております。

 こうして健康を取り戻し柏倉に帰った周七は、父・文哉が遷座した不動尊を奉戴し、明治九年には其処に行屋を新築して、民衆のために諸願成就や病気の平癒・安産などの祈祷の社としたのであった。近隣の村々から多くの信者や参詣の人々で賑わっていたが、明治三十八年、周七は二男・周助に法印の道を授けて湯殿山に帰るのであるが、同四十年九月二十六日、八十六歳の天寿を全うして大往生を遂げた。戒名を与勝海善行天徳という。

 水方不動尊は明治十九年、世話方ができ多くの信者からの浄財で三間四面の回廊付きの拝殿が建立され、益々信仰者の参詣を多くしたのであります。周助は大正五年に老齢の為この世を去った。その後に勘五郎という法印が着座したが、わずか二年で退座したとか。

 また大正十三年、柏倉宿の黒田清次郎は行屋の倒壊したのを嘆き、これを再建すると共に翌十四年には立派な鐘楼堂を建て、大きな梵鐘を吊って国家の安泰を願った。其の後、時代の変遷にともないながらも村人や近村の方々に支えられては来たが、何せ戦前戦中の長いこと多湿地の社屋は雨雪風に晒され、いたみは烈しく荒廃の一途を辿るわけですが、昭和四十六年になって宿部落の志田義男・斎藤正志・斎藤繁・結城和諸氏をはじめとする庚申講の方々の、ひたすらな願を込めた努力は大衆の心を動かさずにはおらず、多くの浄財のご寄付をいただき本堂と拝殿を再建することができたわけです。

 拝殿の南斜面に文哉と其の妻(周屋文哉居士、月光正円大姉)の墓が残っている。参道を少し登り始めた右側の山中に姥神も祀られている。祭日は四月十八日です。

(結城義吉『水方不動尊縁起と記録』より)