2013年7月30日火曜日

萬歳稲荷神社 [宮城]


萬歳稲荷神社
入口

山中につづく鳥居群
およそ125

拝殿

雌雄一対のキツネが護る
こちらはオス。蔵のカギをもつ。

こちらはメス
珍しくも仔を抱える。

緑に映える赤屋根の本殿





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2013年7月28日日曜日

小原の「材木岩」と「氷室」 [宮城]


手前の屋敷は「検断屋敷 旧・木村家住宅」
「検断」とは、伝馬をはじめ宿駅関係の一切の仕事を取り締まり、統括する重要な職務。かつて、ここ仙台藩・七ヶ宿は、奥羽13名の大名が往来したという大宿場町であった。


山を両断したかのような切断面

岩々が材木を立て並べたようだとして「材木岩」と呼ばれる。

以下、説明板より

天然記念物
小原の「材木岩」


国指定 昭和9年5月1日
所在地 宮城県白石市小原字清水



巨斑晶紫蘇輝石、石英安山岩質の岩漿(マグマ)が第三紀層の基盤(水平層状の水成岩)を貫いて噴出し、冷え固まるときに三角〜六角柱の節理をあらわしたものである。
材木を立て並べたような景観は自然造形の妙である。


材木岩
高さ 約65m
幅 約100m


巨岩から生えたような木が、岩下へと根を伸ばす


巨岩を抱え込む巨樹
まるで大王イカvsマッコウクジラ


かつてカイコの卵(蚕種)を貯蔵したという「氷室(ひむろ)」

以下、説明板より

材木岩「氷室」

明治時代、小原地区は養蚕・製紙の盛んな地域でした。ところが、明治時代の初めころは養蚕に欠かせない蚕種(カイコの卵)を地区内でつくることができず、福島県伊達郡から入手していました。

しかし明治13年、古山長吉氏が小原黒森で「天然の風穴(ある地点だけ一年中冷風が吹き出す自然現象)」を発見し、これを利用して蚕種貯蔵のための施設をつくり、成功しました。それが「氷室(ひむろ)」です。

氷室は三方を石組みした中に、簡素な小屋を建てた簡単な構造でした。やがて、小原地区のあちこちで風穴が発見され、明治40年頃までに多くの氷室がつくられました。材木岩氷室もその一つです。


その後、材木岩氷室は大正時代に生糸の値段が大暴落したために廃絶されたとみられます。ですが、2棟の氷室の跡が残っていました。
現在の建物は、絵馬に描かれた氷室の様子などを元にして新たに建てられたものですが、身近な自然現象をうまく利用して生活の中に取り込んだ、先人の賢い知恵を今に伝えています。

氷室は、周囲の環境をほとんど変えることなく活かしてきた「人間と自然の共生の好例」といえるでしょう。



氷室の発掘

明治時代、小原地区に蚕種(カイコの卵)の貯蔵施設が設置されていたことは以前から知られていました。しかし、これまでその施設がどのようなものだったかということについていはほとんど分かっていませんでした。そこで氷室の再建にあたって白石市教育委員会が発掘調査を行ったところ、いろいろなことがわかってきました。

まず、2棟ある氷室の大きさは、手前に設置するものが4.5m × 7.2m、高い所に設置するものが3.2m × 7.2mでした。また、氷室の石積みの高さはそれぞれ1.9mと、大人の頭上ほどの高さがあります。これを尺貫法になおすと「間口2間 × 奥行き4間」となります。
氷室は山の斜面を必要な分だけ掘り下げ、周囲に石を積んだ後、床に厚さ数センチの粘土を貼ってつくられました。そして、その石組みの内側にごく簡単なつくりの小屋を建て、蚕種の貯蔵施設としていたようです。

発掘調査を行った時点では小屋はほとんど朽ち果て、周囲の石積みが残っているのみでしたが、内部からは小屋の入り口につけられていたとみられる取っ手や釘、材の一部などが見つかっています。また、石積みを外したところ、裏側には周囲の岩が風化などによって砕けたものがたくさん入っていました。そのため隙間が多くあり、空気の通り道となって氷室を涼しく保つのに役立っていたのでしょう。




氷室と風穴(ふうけつ)

「氷室」とは昔の冷蔵庫です。ここでは氷室が天然の風穴を利用してつくられているため、夏でも冷たい空気で満たされ、とてもひんやりとしています。

この氷室の発掘調査を行った際に、石積みにタバコの煙をかざしてみると、煙は石積みの隙間から氷室内部に向かってなびき、冷風が噴き出しているのをはっきりと確認することができました。

では、なぜ風穴では冷たい空気が出るのでしょうか?

それはどうやら地盤と関係があるようです。岩は温まりにくく冷めにくい性質をもつことから、気温の高いときに空気が岩に触れると空気が冷やされます。冷たくなった空気は重くて下に沈んでしまい、山の下の方の岩の隙間から吹き出してくるため、風穴ができると考えられています。
材木岩周辺の地盤は安山岩で構成されていることや、風化などによって破砕された岩が山の斜面に厚く堆積しているといった条件がそろっていたため空気が通り抜けやすく、風穴となったのでしょう。

冬には夏とは逆に、周囲が寒いときでも岩がわずかに空気を暖めるため、風穴内は「夏は涼しく冬は若干暖かく」といった環境が保たれるのです。

氷室はこのような自然現象に、地域の産業をうまく取り入れた蚕種の保存に利用した、先人のじつに賢い知恵だったといえます。 



公園内の石像

凝った石加工が各所に見られる


材木岩を模した噴水



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飛不動尊 [宮城]


戦国大名の一雄「伊達政宗」の創建と伝わる「飛不動堂」。

ここに祀られる「飛不動明王」には、火災に遭っては岩窟に身を潜め、大地震に遭っては大木に身を守られたという不思議な伝説が残る。



巨大な鉾に度肝を抜かれる


鉾は大小3種


極彩色の堂

以下、説明板より

飛不動堂

不動堂は伊達政宗が天正19年(1591)に創建したものと伝えている。もとは虎岩下の現113号線わきに立っていたといわれ、文禄3年(1594)4月、不動堂が焼失した。
この火災の際、御本尊が自ら飛び出し、堂後の岩窟に入って災厄を避けたといわれ、それ以後、飛不動尊と敬われるようになった。

さらに亨保16年(1731)9月7日の大地震の際も、堂の一部は巨岩に押し潰されたが、本尊および僧侶たちは怪我もせず無事だった。そのことから一層、霊験あらたかな不動尊として村人や旅人の尊崇を受けるようになった。

不動堂は地震後、亨保19年(1734)に現在の地に再建され、七ケ宿街道もこの堂の前を通るようになった。



堂が火災に遭って、自ら飛び出したという不動明王の伝説がある。


以下、説明板より

不動明王


不動明王とはご存知のように、忿怒像といって怒りの御姿をしていますが、明王とは明(真言)を唱えて礼拝しますと御利益が王様のようにあるという意味であります。

不動明王の真言

のうまくさんまんだ ばざらだん
せんだまかろしゃだ そわたや
うんたらたかんまん


真っ黒な身体に右手に剣、左手に縄を持ち、後背に真っ赤な火炎を背負っておられ、世間の悩みと災難を断ち、悪事を退治するために厳しく立ち向かう男性的な御姿であります。

剣は悪を断ち切り、縄は煩悩を縛って覚りを開くこと、火災は世間の闇を照らして迷いや災難を焼き尽くすことを表しています。



このような凄い形相をしている不動明王でありますが、その御誓願は、強い慈悲の心でもって悪と闘い、本当の幸を守るということであります。

このような御誓願と慈悲の行をお持ちの明王は、広く人々に信仰されております。ご参詣の皆さま、至心に飛不動明王さまを御信心ください。祈る心に御霊験があります。

別当 清光寺


小原ぼけ除けコロリ観音菩薩

以下、説明板より

小原ぼけ除けコロリ観音菩薩

日本人の平均寿命は80代になりました。長寿は喜ばしい健康の証でもありますが、大多数の国民が老後に対して不安を抱いていることも周知の通りです。

今後、高齢化社会を迎える中で、生きがいと老後の幸福のため、観音さまに手を合わせ観音力の御加護により皆さまの心の支えとしてボケ防止のお役になることを希い建立したものです。

祭典は毎年10月第二日曜日です。



終戦後の昭和33年(1958)、42年ぶりに復元された鐘楼堂



重さ百貫(約375kg)、高さ1.27mの梵鐘
戦時中に供出後、昭和33年(1958)に再鋳された。

梵鐘に舞う天女

以下、説明板より

飛不動明王御由来


「飛不動明王由来記」ならびに「風土記書出」によると、飛不動明王は人皇第55代・文徳天皇ご祈願の御本尊にして、天正19年(1591)今より約400年前、仙台藩主・伊達政宗公が羽州置賜郡小松村(現・山形県川西町小松)松光山大光院より小原郷材木岩対岸の御霊地に創建され、天下泰平・藩内安全を祈願されました。

文禄3年(1594)4月、不動堂が原因不詳の業火により焼失しましたが、御本尊・不動明王尊像は後方三十丈あまり(約90m)高さの虎岩に飛来し、難を避けられて無事であったといわれ、御霊験を称え改めてここに飛不動明王と奉唱されました。

また亨保16年(1731)9月、大地震があり裏山から二間四方あまり(約3.6m四方)の岩石が崩れ落ち、不動堂は破損四散しましたが御本尊・飛不動明王と参籠の僧は四、五尺廻り(約1.2〜1.5m)の大木に覆われて、御本尊と人命には何の損傷もなく守られたと伝えている。

この奇跡に、飛不動明王の御霊験あらたかな衆生の顕現のあらわれであり、難除け厄除けの飛不動明王として一層多くの信仰を得ました。



亨保19年(1934)には、出羽13藩の諸大名が参勤交代に利用した旧山中七ケ宿街道(三不動尊の一つ)江志峠に飛不動堂を再建し、伊達家累代の御参詣はもちろんのこと13藩の諸大名も道中安全・藩内安全を至心に祈願されました。

また街道往来の旅人や諸国の商人、出羽三山詣りの人々など大勢の善男善女の信仰をあつめ、身体健固の祈願する人々で大変賑わいました。

明治維新以後も、身代わり不動明王として出征者の武運長久を祈る人々の参詣が絶えなかった。ご縁日には藩政時代、仙台藩主の命により片倉家より警護のため常時家臣を派遣されるなど、厚い庇護を受けておりました。




しかし、永い年月とともに堂宇の腐朽も甚だしくなり、改修の必要に迫られ、昭和33年(1958)2月、信心有志の発願により戦時中供出していた梵鐘復元の機運が熟し、実行委員会を結集し奉賛の微志を仰がんと決議の下、大勢の御信心皆さまの浄財を賜り、青銅製重さ百貫(約375kg)高さ1.27mの梵鐘を再鋳して五穀豊穣・家内安全・天下泰平・世界平和を銘願し、42年ぶり鐘楼堂に復元いたしました。

同時に付帯工事として飛不動堂の屋根替塗装、境内参道などの整備事業も無魔円成して昭和60年4月28日、梵鐘復元落慶記念御開帳を奉修し得ましたことは誠に慶祝の極みであります。

この浄業は飛不動尊400年の歴史を閲(け)みするに正に世紀の大浄業であり今日に至ります。



一、春季大祭 毎年4月28・29日
一、御縁日 毎月28日
一、除夜の鐘 毎年12月31日
一、元朝御祈祷 毎年1月1日

飛不動尊 別当 清光寺
宮城県白石市小原字町14


飛不動堂の両脇にそびえる「夫婦杉(めおと・すぎ)」

以下、 説明板より

飛不動尊
夫婦杉(めおと・すぎ)の由来


当時、小原郷材木岩の霊地に御遷座の飛不動尊は、亨保16年(1731)旧暦9月7日の夜の大地震の際、御堂裏の杉の大木(目通り四、五尺、約1.5m弱)が御本尊の御佛尊を身をもって守ったと伝えられている。

だが、3年後の亨保19年(1934)3月、御堂を現在の旧山中七ヶ宿街道の江志峠に建立し、御遷座申し上げ参詣者の諸願成就を守護されています。



地震の際、杉の大木が御本尊を守り、人命とも安泰であったという話を聞いた部落の若者で、御縁日旧4月8日に祝言を挙げた新郎・江弘、新婦・志乃が杉苗一本ずつ、家内安全と災難消除のためにと、しかも縁日の婚礼が弘法大師の導きにより夫婦となることができたことに感謝して植えたと言い伝えられる。

後々、この夫婦杉は根本が一体となって伸び、この夫婦も子宝にも恵まれ、末永く白寿まで睦ましく幸福に一生を終えたといわれている。



八の付く日に飛不動尊を参拝すると御霊験高く、大誓願が約束され、特に夫婦の長寿はもちろんのこと、さらに夫婦円満、子孫繁栄、家内安全が約束されるという。

有難い夫婦杉である(樹齢400年)。



夫婦杉の樹高4〜5mほどのところに花開いていたアジサイ
当地を訪れた季節は梅雨のさなか、音もない小雨が降っていた。



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2013年7月25日木曜日

小原のコツブガヤ [宮城]


小原のコツブガヤ

横に大きく枝を張っている

通常のカヤよりも小粒だという実

その葉は通常種よりも丸みを帯びている



カヤの実は食用になる。ただ、そのままではヤニ臭がきついため、数日間のアク抜きが必要である。

カヤの種子は「榧実(ひじつ)」として漢方にも用いられる。また、炒ったものを数十粒食べると「サナダムシの駆除」に有効であるという。

山梨県の「かやあめ」は、カヤの実を粒のまま飴に練りこんだ郷土食で、縁日などで販売されている。



以下、コツブガヤ説明板よりの引用

天然記念物
小原のコツブガヤ


国指定 昭和18年2月19日
所在地 宮城県白石市小原字御仮屋
樹種 コツブガヤ
学名 Torreya nucifera (Linn.) Sieb. et Zucc. var. igaensis (Doi et Morikawa) Ohwi


コツブガヤ(小粒榧)はイチイ科の常緑高木である。本種は、昭和3年に森川均一氏たちによって、三重県名賀郡で発見されたカヤの変種である。
小原のコツブガヤは、地元の植物研究者「斎藤四郎治」氏によって、わが国で二番目に発見されたものである。
斎藤四郎治氏は小原に生まれた教育家で、地区内の植物を研究しヨコグラノキ北限地帯、カントウマユミなどの国指定天然記念物を発見した。国道113号線沿いの苗振に、村民に建てられた碑がある。



コツブガヤの特徴

1,種子が小さい。コツブガヤの実の長さは約1.8cmで、普通のカヤ2.8cmの6割ほどの小ささである。
2,葉は短小で先端が鈍頭または凸形で、普通のカヤの葉の先端ように鋭く尖っていない。
3,枝は密生する。



小原のコツブガヤの概要

樹高 21m
幹まわり 3.2m
推定樹齢 300年(「日本の天然記念物誌」より)



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小原のヒダリマキガヤ [宮城]



天然記念物 小原のヒダリマキガヤ
樹高およそ20mの巨木


その名の通り、樹皮も「左巻き」にねじれている


ねじれながら力強く天に伸びる



通常種の1.3倍はあるという大きな種子



鈴なりに実っていた



「カヤ(榧)」の語源は、枝を燻して蚊を追い払ったという「蚊遣り」に由来する。光沢のあるその材は淡い黄色で「虫除けの芳香」を放つ。

カヤ材で最も知られる用途は「碁盤」や「将棋盤」であろう。これらはカヤで作られたものが最高級品とされている。耐朽性・保存性が高く、加工後も年を重ねるほどに風合いが美しく変化する。

樹木自体の成長はきわめて遅いものの、その寿命は長い。



ヒダリマキガヤに付された説明板は、以下の通り。

天然記念物
小原のヒダリマキガヤ



国指定 昭和17年10月14日
所在地 白石市小原字湯沢神明
樹種名 ヒダリマキガヤ
学名 Torreya nucifera(Linn.) Sieb.et Zucc. var. macrosperma (Miyoshi) Koidz.


ヒダリマキガヤ(左巻榧)はイチイ科の常緑高木で、大正12年に理学博士「三好學」氏によって発見されたカヤの変種である。本種は、滋賀県蒲生郡日野町熊野、兵庫県養父郡養父町能座などに自生する貴重な樹種である。
このヒダリマキガヤは、地元の植物研究家「斎藤四郎治」氏によって発見されたものである。


ヒダリマキガヤの特徴
1,種子が大きい。ヒダリマキガヤの実の長さは約3.7cm、普通のカヤ2.8cmの1.3倍ほども大きい。
2,肉質仮種および種皮表面に5〜6条の縦走する隆起線が、基部から先頂に向かって左巻きである。
3,樹冠および枝が左巻きで、葉が普通のカヤより大きい。


小原のヒダリマキガヤの概要
樹高 19m
幹まわり 2.38m
推定樹齢 250年(「日本の天然記念物誌」より)



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2013年7月24日水曜日

中ノ森神社 [宮城]


入口の鳥居

密生する竹林に出迎えられる

青々と伸びる若竹

敷き詰められた笹の葉がじゅうたんのよう

可憐な白い小花が足元に

朝露の重みにしなる

山頂に鎮座する祠

まめにも金種別に置かれたお賽銭

水玉きらめく主不在の巣

梅雨を喜ぶキノコ群

梅雨時に伸びる新芽

艶やかなり

ウルイも花ざかり

山道を歩いていると、時おりセミが飛び上がる



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蕃山 [宮城]


夏目漱石「草枕」の書き出し



山路を登りながら、こう考えた。

智に働けば角が立つ。
情に棹させば流される。
意地を通せば窮屈だ。

とかくに人の世は住みにくい。



蕃山登山は、この名文とともに幕を開ける。
というのも、参道わきにこの文を刻んだ石碑があったのだ。



登山道の入口、恭しくも迎えられる

杉木立を見上げる

清らかなる朝仕事

その葉、しんしん

覚えず拝む

寂光を浴びて

蕃山(標高356m)山頂
開山堂
震災の影響か
石碑割れ、灯籠倒れたそのまま

堂内に閑居する雲居禅師


以下、山頂の説明書きよりの引用


常寂光塔(大梅寺奥院・蕃山開山堂)

大梅寺の開山「雲居禅師(うんご・ぜんじ)」の塔所。禅師は諸国の山野を行脚し、全国に173ヶ寺を開山。天皇にも禅を講じ、のちに朝廷から「大悲円満国師」と諡名された京都妙心寺の禅宗の高僧である。

藩祖・伊達政宗が瑞巌寺を創建し開山に懇請されたが固辞して請けず、27年間も待ち続けた政宗の遺言に心を打たれ、ついに松島に来て瑞巌寺の開山となり、その誠意に報いた。

慶安三年(1650)の冬、蕃山の麓に来て庵を結び終焉の地に定めた。この蕃山をこよなく愛で、いつも大梅寺から登ってきてはここで坐禅を組んだ。「熊や鹿がよく遊びに来てくれた」と自ら漢詩に書き残している。

万治二年(1659)入滅。78歳。この山頂に葬る。遺命により墓石を建てず。元禄13年(1700)、四代藩主・伊達綱村によって、その上に堂を建て「常寂光塔」と称す。現在の堂は嘉永六年(1853)の建立。
堂内の正面は「雲居国師」、右は蕃二、左は蕃三郎の像である。


蕃二(ばんじ)
蕃三郎(ばんさぶろう)


蕃二・蕃三郎の伝説はこうである。


昔、弘法大師(空海)が蕃山を霊場にしようとうしたが、天狗の群れに邪魔されて、やむなく高野山へと去った。

のちに瑞巌寺の雲居禅師がここに大梅寺を建てようとしたが、やはり天狗に邪魔された。だがその時は、蕃二(盤二)、蕃三郎(盤三郎)兄弟が天狗を追い払ったのだという。

そして今でも開山堂の中では、蕃二・蕃三郎兄弟が弓矢を手に、雲居禅師の左右両脇を固めている。


世にも繊細なる織物が至るところに

梅雨に目覚め、梅雨に輝く若葉



終わりに、登山道のはじまりに記されていた看板を引用する。


蕃山(ばんざん)について

蕃二・蕃三郎の伝説にちなんで蕃山という(盤山とも書く)。

山腹の竹藪の巨石の下から、こんこんと清澄な泉が豊かに湧いていた。その美味に、この山の白鹿を巻狩に来ていた藩祖・伊達政宗が、唐の詩人・韓愈(かんゆ)の詩の一節「盤谷の間、泉甘くして土沃ゆ」から、「盤山」「甘泉筧(かけい)」と名付けた。以来、茶の湯として有名であったが、折立団地の造成で惜しくも涸れた。

蕃山は昔から信仰の山、御野掛け(ハイキング)の山として、権現森や太白山とともに仙台市民に親しまれてきた山である。

山腹の臨済宗「大梅寺」は、松島・瑞巌寺を退山した「雲居禅師」がここの白鹿堂跡に来て庵を結び終焉の地に定めた寺で、慶安三年(1650)に創建された禅宗の古道場である。

なお、平安時代に弘法大師(空海)が蕃山に霊場を開こうとして天狗に妨げられ、高野山へ去ったという伝説も残っている。




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