2016年11月11日金曜日

蔵王の歌[斎藤茂吉]



〜真壁仁『斎藤茂吉の風土 蔵王・最上川』より〜


歌集『赤光(しゃっこう)』に蔵王の歌が出てくるのは、明治39年作「折に触れて」の中の蔵王山五首が最初である。茂吉はこのとき25歳、東大医科大学二年生であった。短歌の上では、伊藤左千夫に入門を果たした年にあたる。

8月になって郷里・金瓶(かなかめ)に帰省し、たぶん蔵王高湯温泉にも遊んだ。


火の山を繞(めぐ)る秋雲(あきぐも)の八重雲(やほぐも)をゆらに吹きまく天つ風かも

(いは)の秀(ほ)に立てばひさかたの天の川(あまのがは)南に垂れてかがやきにけり

(あめ)なるや群(むら)がりめぐる高(たか)ぼしのいよいよ清し山高みかも

雲の中の蔵王(ざわう)の山は今もかもけだもの住まず石あかき山

あめなるや月読(つきよみ)の山(やま)はだら牛うち臥すなして目に入りにけり


これがそのときの作品である。

「岩の秀(ほ)に立てば」という句も見えるが、このときはたして蔵王山に登ったかどうか、明らかではない。どうも中腹の温泉から眺めて作った歌のようである。

翌40年に

岩根ふみ天(あめ)路をのぼる脚底(あしそこ)ゆいかづちぐもの湧き巻きのぼる

底知らに瑠璃(るり)のただよふ天(あめ)の門(と)に凝れる白雲誰まつ白雲

蔵王(ざわう)の山はらにして目を放つ磐城(いはき)の諸嶺(もろね)くも湧ける見ゆ

などの歌があるが、これは東京にいて作った歌である。

「明治四十年に、左千夫先生が日本新聞紙上で歌を募集したとき、それに応募したもので題詠であるから、いろいろの場合を求め、長いあひだかかり、非常に苦労したものであった。……自分の歌はかういふ応募歌を本として進歩した形跡がある」

と茂吉はのちに『作歌四十年』の中でこの歌について書いている。出題に応じて山の歌を眼前の諷詠として書ける想像力による写象の可能性をきたえていたことがよみとれる。しかし、実際に行っていないから、蔵王の山原から「磐城の諸嶺」に湧く雲が見えるなどとつい書いてしまった。

茂吉は41年ごろから「実際にあたつて作ることをおぼえ、それに作者の好きな感情を盛つて、一首をしらべあげる」歌風に変っていった。

しろがねの雪(ゆき)ふる山に人かよふ細(ほそ)ほそとして路見ゆるかな

は大正元年の作で、「東北(羽前)の冬の山を見て作ったもの」であるが、この時期になると「写生を突きすすめて行けば象徴の域に到達する」という考えが、すでにできていたと『作歌四十年』には書いている。



「死にたまふ母」一連59首は『赤光』のなかの絶唱で、「おひろ」の連作とともに『赤光』をして『赤光』たらしめている感動的な挽歌である。

大正2年5月23日、生母いくは亡くなった。それに先だって危篤の知らせをうけた茂吉は、5月16日急ぎ帰省し、臨終の母につきそって看病にあたった。母はついに逝き、村の火葬場で荼毘(だび)に付し、お葬式をすませる。

そのあと茂吉は高湯温泉(いまの蔵王温泉)に行って、親戚の若松屋旅館に二泊した。その第二日に、宿の主人と龍山に登った。爆裂火口そのものである高湯から見ると、龍山は山体の半ばを噴きとばしたままの姿で、赤い地肌を露出している。頂上への道は急峻だ。茂吉は、母をうしなった悲しみをまだ拭いきれないままに、黙々と山を登った。


寂しさに堪へて分け入る山かげに黒々(くろぐろ)と通草(あけび)の花ちりにけり

見はるかす山腹なだり咲きてゐる辛夷(こぶし)の花はほのかなるもの

蔵王山(ざわうさん)に斑(はだ)ら雪かもかがやくと夕さりくれば岨(そば)ゆきにけり

遠天(をんてん)に流らふ雲にたまきはる命(いのち)は無しと云へばかなしき

「死にたまふ母」の最後の部分のこれらの歌が、傷心を抱いて龍山にのぼったときの作であろうと想像される。目にとめる晩春の山の通草(あけび)や辛夷(こぶし)の花にも、残雪や空ゆく雲にも、悲しみの余韻がひびきわたっているのが感じとられる。



昭和16年になってからも、甥の高橋重男を同道して龍山に登り、

ひさかたの天(あめ)はれしかば蔵王のみ雲はこごりてゆゆしくおもほゆ

など19首の歌をのこした。






〜斎藤茂吉没後50年記念出版『茂吉の山河 ふるさとの風景』より〜



真澄なる空となりしかど一しきり蔵王のいただきに雪げむりたつ

ふかぶかとした灰色(はひいろ)を奥にして白き蔵王は聳えけるかも

おほよそに過ぎ来つるごと年老いてわれの見てゐる蔵王の山



いただきはきその一夜(ひとよ)に白くなり五月五日の蔵王の山

この見ゆる蔵王の山の前山のはだらの紅(あけ)に雲は移ろふ

すでにして蔵王の山の真白(ましろ)きを心だらひにふりさけむとす



真白なる鳥海山を見る時に蔵王の山をわれはおもへり

蔵王より離(さか)りてくれば平らけき国の真中(もなか)に雪の降る見ゆ

蔵王山に斑(はだ)ら雪かもかがやくと夕さりくれば岨ゆきにけり



きさらぎといふ日を継ぎて降れる雪この山河(やまかは)をまどかならしむ

ひさびさにわれは来て見つみちのくの入日(いりひ)あたれる大(おお)き雪山

みちのくの蔵王の山にしろがねの雪降りつみてひびくそのおと



朝な夕なこの山見しがあまのはら蔵王の見えぬ処(ところ)にぞ来(こ)

ひむがしの蔵王(ざわう)を越ゆる疾(と)きかぜは昨日(きのふ)も今日(けふ)も断ゆることなし

蔵王をのぼりてゆけばみんなみの吾妻(あづま)の山に雪のゐる見ゆ



たち上(のぼ)る白雲のなかにあはれなる山鳩(やまばと)(な)けり白くものなかに

死にしづむ火山(くわざん)のうへにわが母の乳汁(ちしる)の色のみづ見ゆるかな

万国(ばんこく)の人来り見よ雲はるる蔵王の山のその全(また)けきを



とどろける火はをさまりてみちのくの蔵王の山はさやに聳(そび)ゆる

金瓶(かなかめ)のわぎへの里ゆ雲幾とほりにもなりて越えくる

ひいでつつ天(あみ)が下(した)なる厳(おごそ)かさ山形あがたの蔵王の山は



蔵王よりゆるくなだるる高はらはなべて真白し雪ふりつみて

蔵王ねのいただき今しあらはれて退(そ)きゆく雲のゆくへしらずも

蔵王より雁戸(がんど)にわたる山なみに雪かも降れるくもりの奥に



くもりたる空を奥(おき)にししろたへの蔵王の山はしばしあらはる

蔵王のくもりて見えぬこのあした一人(ひとり)あゆみて小山(をやま)にのぼる



雪ふりし山のはだへはゆうぐれの光(ひかり)となりてむらさきに見ゆ

ひさかたの雪はれしかば入日(いりひ)さし蔵王の山は赤々と見ゆ

ひむがしをふりさけみれば雪暴れむ蔵王ぞこもる黄雲(きぐも)のなかに





私はべつに大切な為事(しごと)もないので、よく出歩いた。

山に行っては沈黙し、川のほとりに行っては沈黙し、隣村の観音堂の境内に行って鯉の泳ぐのを見ていたりした。

そうして少年であったころの経験の蘇(よみが)えってくるのを知った。

たましひを育(はぐく)みますと聳(そび)えたつ蔵王のやまの朝雪げむり

斎藤茂吉『小園』


熊野山頂の朝



〜真壁仁『斎藤茂吉の風土 蔵王・最上川』より〜



たましひを育みますと聳えたつ蔵王のやまの朝雪げむり

とうたった蔵王さんは、茂吉にとってもっと別な山であった。それはくらしのなかにやしないをそそぐ山であり、自分の心のなかに屹立する山であった。

茂吉の金瓶(かなかめ)の家には、蔵王の連嶺のなかから流れ出た水が堰にあふれ、傾斜のつよい村道に沿うて奔っている。その水をとりこんだ池で顔を洗い、遊びで汚れた足をすすぎ、鍋や茶碗のたぐいも洗ってきた。その水はまた日々の糧である稲を育てる水でもある。



金瓶から東を望むと、噴火のため山体の半分を噴きとばした龍山がいちばん近くに見える。金瓶はその溶岩流の丘のどんじりにできた集落である。龍山の右手には、断層のため切り立っている三宝荒神(さんぽうこうじん)岳、それから地蔵岳、熊野岳、さらに刈田(かった)岳の峰々が並んでいる。この荒々しい火山群はまた烈しい乱気流の渦巻く世界でもあり、雲の中に身を包んで姿を見せない日も決して少なくはない。

茂吉の少年時代に遠望するこの山がどんな威厳と畏れと情念のかげりをおとしたか。それを直接に証しするものは何もない。それはまた、理づめで証しできることでもない。しかしそれにもかかわらず、作品こそはもっともたしかな証言となるのである。

茂吉は十五歳の夏、父に連れられて湯殿山参りをした後まもなく上京している。だからそれまで蔵王に登ることはなかったと思われる。はじめて蔵王に登っての歌が出てくるのは明治44年(1911)である。


あまつ日に目蔭(まかげ)をすれば乳いろの湛へかなしきみづうみの見ゆ

死にしづむ火山のうへにわが母の乳汁(ちしる)の色のみづ見ゆるかな

秋づけばはらみてあゆむけだものも酸(さん)のみづなれば舌触りかねつ


火口湖お釜の歌であり、濃い硫黄泉の湯を流す酢川の歌である。これらの歌八首は、処女歌集『赤光』に収められている。

茂吉三十歳、東京帝国大学医学科副手、同大学付属巣鴨病院に勤務していて、八月帰省の際蔵王にのぼったのである。一月には、母いくの病気を見舞うために帰っているが、夏の帰省も、病気の母に会うためであったと思われる。








意外にも茂吉はその後、二十八年間も蔵王に登っていない。

陸奥をふたわけさまに聳えたまふ蔵王の山の雲の中に立つ

という歌を刻んだ碑が熊野の山頂に建ったのは1934年だけれど、その除幕式のときにも登らなかった。



※茂吉はそのころ、家庭の事情などから、極端に人を嫌(いと)うこころが深くなっていた。世間の晴れがましい場所に出ることを避け、人に会うことにもうとましさとためらいを感ずる厭世厭人の思いにさいなまれていた。そういう茂吉に、弟高橋四郎兵衛は強引に歌を作らせ、字を書かせ、歌碑を建ててしまったのである。それにしても、蔵王連峰の主峰である熊野岳頂上を選んだというのは、高橋四郎兵衛の気宇の壮大さを思わせ、茂吉理解のたしかさ、さらには兄貴思いの深さを考えさせるに足る。



歌碑を建てた弟、高橋四郎兵衛が、ぜひとも兄貴に見てもらおうと誘い出し、ようやくのことでそれが実現したのは、建碑から五年経った39年7月のことである。

このときは弟が先頭にたち、河野与一、河野多麻、結城哀草果、岡本信二郎らが同行した。茂吉は、山頂に建っている自分の歌碑をはじめて見て深く感動した。それは次のような詠嘆となって歌いあげられている。


歌碑のまへにわれは来りて時のまは言ぞ絶えたるあはれ高山や

この山に寂しくたてるわが歌碑よ月あかき夜(よ)をわれはおもはむ

一冬を雪にうもるる吾が歌碑が春の光に会へらくおもほゆ


夜になれば、山頂には人影が絶える。そのときも、わがいしぶみはひとり立っている。その孤絶の姿がすぐ茂吉には写象となって浮かぶのだ。冬は五ヶ月あまりも雪に埋もれる。春が来て凍結の 縛(ばく)から解き放たれ、いしぶみが姿をあらわし、春の光を浴びる。その一瞬の形象も、作者の心象とかさなりあった感動となっている。



熊野岳山頂 茂吉歌碑「陸奥をふたわけざまに聳えたまふ蔵王の山の雲の中に立つ」




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