2015年5月29日金曜日

千歳山 萬松寺 [山形市]





〜現地・説明板より〜


千歳山
萬松寺について


一、宗旨

萬松寺は曹洞宗(禅宗)です。曹洞宗はお釈迦様より代々の祖師がたが相承(うけつが)れた仏法です。

一、歴史

当山は阿古耶姫(中興藤原実方朝臣)の開基で、行基菩薩(法相宗)の開山、慈覚大師(天台宗)の開創でありますが、今は禅宗です。曹洞禅は道元禅師さまが我が国に伝え規範を正され、四祖の瑩山禅師さまが教示し広められたものです。瑩山さまの孫弟子(岩手県正法寺のお弟子)である「清岩良浄」さまが萬松寺を復興開山されたものであります。

一、寺紋

後村上天皇の命により久我竜胆(くがりんどう)です。

一、本尊

法報応を一身にして生誕された釈迦牟尼仏を御本尊と仰ぎます。尚、毘盧遮那仏、虚空蔵菩薩、観世音菩薩、地蔵菩薩、不動明王の仏さま、駒篭出羽稲荷明神などを安置しております。

一、唱名

南無釈迦牟尼仏、又は各々の仏様の御名をとなえます(静かに手を合わせて低頭しましょう)。

一、本山

大本山(越前)永平寺(道元禅師御開創)
大本山(鶴見)総持寺(瑩山禅師御開創)

一、教義

私達は仏の御子であります。しかし、この毎日を省りみれば、恨み、妬み、嫉みと貪瞋癡(とんじんち)の罪過(つみとが)をつくり、社会や家庭、夫婦までも知らずしらずの内に互いに痛め傷つけているのです。真に仏の心にそわない生活を繰り返しています。反省し悔い改めなければなりません。まして人として生まれる事のできた尊さを確信し目覚める事が大切です。神仏を敬い慈悲心をもって人々を愛する優しさが必要ではないでしょうか。この地球上に生まれ、この世の厳しさと苦楽をいつも味わう人間、この私達とて平凡なものばかりです。お互いに仲間の一人一人を大切にして、家庭や職場を明るくし、ひいては社会や世界全体をも明るくして、尊敬信頼の中から世間のお役に立てる事を喜び合いたいと願うものであります。

ここに端座合掌して感謝報恩の生活を営めば、どんな苦難にも負けない静かで深い安らかな日おくりが出来るものでありましょう。最後に参拝者各位に仏神の加護あらん事を祈念して。

山主合掌




〜現地・案内板(歴史の散歩道)より〜

萬松寺

千歳山萬松寺は今より1300年前に阿古耶姫が開基したといわれている。姫の父は藤原鎌足公の曽孫藤原豊充卿で、朝廷の命により陸奥に下って役命を務めておった。姫はこの地にきて生涯を終え、この萬松寺に葬られた(千歳山の山名はここに由来する)。

しばらくは近隣に住む衆の素朴な信仰の寺として存在していたが、幾年かの後に法相宗の行基菩薩が来錫し開山した。その後、天台宗の慈覚大師が来山し寺を開創した。後に禅宗の瑩山禅師の法孫が岩手の正法寺を開き、その正法寺三世清厳良浄禅師が曹洞宗萬松寺を開山した。

阿古耶姫と千歳山の松の精、名取太郎との悲恋物語と、歌枕としての阿古耶の松は、平家物語・今昔物語・古事談に記載され、名勝古跡として、あまりにも有名である。

滝山地区振興協議会
平成三年度 宝くじ助成品




萬松寺 山門


〜現地・案内板より〜

山門

山形開城の祖、斯波兼頼公(足利時代延文年間)が建立せし霞城(山形城)の大手門(南門)である。最上義光公(戦国時代天正年間)が城堀を改造し石垣城とするに当り、旧城門に黒印六十石を付加し、當山へ寄進された門である。

山門上の額「千嵗山(歳は山冠)」は上杉鷹山公の師、細井平洲の筆。

千歳山 萬松寺



萬松寺 仏殿


〜鬼頭尚義「あこや姫伝説の諸相」より〜



萬松寺とはどのような寺院なのか。萬松寺の来歴を記したものに『千歳山萬松禅寺誌』という資料がある(平清水公宣・平清水千秋、1984年)。この資料は萬松寺が発行したものであり、そこに記されている来歴には虚実入り混じっている部分も散見される。しかしながら、萬松寺の来歴を記したほぼ唯一の資料であることを鑑みて、以下『千歳山萬松禅寺誌』を用いながら、萬松寺の来歴を確認していく。

『千歳山萬松禅寺誌』によれば、萬松寺はあこや姫の開基にはじまる。その後、行基が来訪したことによって法相宗となり、さらに円仁(慈覚大師)が来訪した後には天台宗へと改宗している。さらに祖庭春暁という臨済僧によって臨済宗の寺院としてその宗派を変え続けた。

萬松寺が現在の曹洞宗となったのは、14世紀末のことであった。すなわち永徳年間(1381〜1348)に奥州黒石正法寺三世の清厳良浄が萬松寺に入ったことにより、曹洞宗へと改宗された。清厳良浄によって曹洞宗の寺院となった萬松寺は、ふたたび荒廃の憂き目に遭った。その後、文明年中(1469〜1487)に千歳山耕龍寺五世、金貞恵眞によって中興されて以降、萬松寺は曹洞宗の寺院として今日に至る(『曹洞宗全書』)。また江戸時代以降は、徳川幕府からたびたび御朱印を賜っていた。

さて萬松寺の縁起については、18世紀以前のものは今のところは確認できない。現在確認できる最も古い縁起が、元文二年(1737)に成立した『書上』である。『書上』の成立事情については、その序文において以下のように書き記されている。

今度千歳山萬松寺縁起、御尋遊され候処、往古寺消失並頽転シ、盗難度々 之変事御座候節、紛失し候旨申伝候。茲に因て若相残候も御座候哉と穿鑿致候得共、何ニても古き記録も相見申さず候。縁起御座無候ハヾ、所の老農申伝候事成共、申上候様に仰付られ候故、ふつヽかなる事のみに御座候得共、猶又此度彼是承合奏労趣左に申上候。

元文二年(1737)、山形藩に萬松寺の由来を尋ねられたが、寺院の焼失や寺宝の盗難などが重なって古い縁起がない状態だった。しかし地域の老人らの言い伝えでも構わないので進上せよとの仰せが下ったので、それを纏めて書き記したものが『書上』である。

まず『書上』を記した人物について確認しておく。『書上』の末尾には「久左衛門」という名が記されている。この久左衛門とは「平清水久左衛門」という人物である。平清水氏は、千歳山萬松寺のある平清水一帯の大庄屋を勤める家柄であり、佐久間氏とも名乗っていた。また四代目以降の当主は皆、「久左衛門」を名乗ることが慣例となっていた。平清水家(佐久間家)の系図について、元文年間に八代目久左衛門が山形藩に提出した『覚書』の記述から、『書上』を記した久左衛門とは八代目に当る「久左衛門義明」であったことが分かる。

それでは、『書上』に記されている「老農申伝候」話(地域の老人らの言い伝え)とはどのような話なのか。『書上』に記されているのは以下の話である。

寺号は開基阿古屋姫より起り候由相伝候。其由縁は上古いづれの公卿に御座候哉、奥州信夫郡辺に謫居被成候中、姫君誕生之処、美貌の御うまれゆへ、御父の御卿も御称美の思召にて、阿古屋の玉の佳名を御取用ひ、阿古屋姫と御名づけのよし。

然処姫君も御年つもりて後、閑閨さびしく思召程、夜々一人の男子来りて懇にとぶらひ候に、終に夫婦の契約有之。年月被為送候処、一夜又此男来りて姫君へ申し候は、

「是まではつヽみ候得共、元来我は松の精に候を、今時至て橋木に成御筈ゆへ、同床のかたらひも今宵ばかりと思ふ也。去ながらむつび候しるしには、縦伐て倒とも其時姫君御手かけられず候はヾ、動き申まじ」

と語り候ゆへ、姫君も奇怪に思召事大形ならず候処、翌日果して約に違ふ事無 之、其松を伐り数人にて挽候得共更に動き不申候間、所之者不審に存うらかたなど尋候上にて、姫君を頼み挽候に、御手かヽり候へば大木不滞候て、高低の遠路を挽着候に、其道すがら松と姫君さヽやきの聞へ候に付、所之者猶も奇異なる事に覚候て、夫より其橋を「蜜語の橋」と名づけ、今に信夫郡辺に御座候由。

其後姫君程なく卒去之処、御遺言に「わが骸は当国の名山に納め、墳上に松を植へしと被仰候ゆへ、千歳山迄送り唯今の阿古屋の地に葬埋仕候て、御遺言のごとく植候松を「阿古屋の松」と申し候旨。其時阿古屋姫御追福のため寺も建候歟、此由縁にて「千歳山万松寺」と号を申伝候。

久左衛門

以下『書上』は、藤原実方がアコヤノ松を探す話、そして実方の娘である中将姫が父・実方を追いかけてくる話が続けられる(この話は山形では「はずかし川」伝説の名で知られている)。



大正天皇の御手植え
「二代目・阿古耶松」



野口雨情の詩碑

いよいよ
よあけにや
よあけの明星
親だ子だもの
おやこひし

あこや姫事跡
雨情


野口雨情


〜滝山地区町内連合会「滝山地区 歴史の散歩道」より〜

千嵗山萬松寺

 千歳山の北側の道をたどると「熊の前(くまのべ)」に出る。ここに古刹千嵗山萬松寺が建つ。野口雨情の文学碑を右にみて山門へ進む。六地蔵を拝み、萬松寺の由来を語る碑を読み、山門の前に立つ。山形城の南大手門であったものを城主最上義光が寄進したものである。山額の「千嵗山」の文字は、上杉鷹山公の師細井平洲先生の筆になるものである。

 雄大な仏殿に入り、本尊の観音菩薩を拝む。慈覚大師以来のものといわれている。仏殿は方丈型といい、床が土間になっている。このような仏殿は近郊だけなく県内でも珍しいものである。また、大きな俳額とともに、阿古耶姫と名取太郎の悲恋を語る扁額が掲げられている。これは、寺の由来を語っているものといえよう。

 阿古屋姫の父は、藤原豊充(ふじわらのとよみつ)卿といい、信夫郡(福島県)にあって国守の任にあったという。姫は琴をかきならし、さびしさをなぐさめていた。が、ある夜、笛を吹き合せ奏する若者が現れた。以来、笛と琴を合せ奏するようになった。そうして楽しい日が続いたが、ある夜、突然、姫はいとまを告げられ身分を明かされる。

「吾れは、千歳山の松の精で、この度仙台名取川の橋として切られることになった。名残は惜しいが…」と。

 千歳山の松はこのようにして切られたが、次の日になると元の姿に戻っている。ここで阿古耶姫がねんごろに手を合せ弔うと、はじめて切り倒されたという。このようにして松は峠を越えて仙台へと引かれていったが、笹谷峠の頂上まで来たとき、ぴたりと動かなくなった。姫は名残を惜しみ、別れのことばをささやいた(ささやいたことから「ささやき峠」=笹谷峠となったという)。姫の情に動かされた松は、ようやく動きだし、無事名取川の橋となり以後橋が流れることがなくなったという。阿古耶姫は、この地に小さな庵を建て、松の霊を弔い生涯をおくったという。これが萬松寺のはじまりといわれている。

 「阿古耶の松」は古くから歌枕として知られ、歌に詠まれている。

みちのくの あこやの松の 木がくれて いでたる月の いでやらぬかな
夫木和歌集

の古歌が有名である。

 平安時代、一条天皇の怒りにふれた左近衛中将藤原実方(ふじわらのさねかた)は「陸奥の歌枕を探してまいれ」との命により、陸奥守に下向、奥州へと下った。三輪笠島(宮城県)まで来た時、その地の信仰を集めている道祖神の前をとめるのをきかず乗馬のまま通り過ぎようとして、神の怒りにふれ落馬し、非業の死を遂げたという。後世、西行は陸奥の旅にて実方の塚(墓)に実方の昔を慕び、芭蕉もまた

笠島やいづこさつきのぬかり道
奥の細道

と吟じている。

 父のあとを追ってきた十六夜姫(いざよいひめ)も、ここ千嵗山で没したといわれている。十六夜姫(中将姫)の歌として恥川のほとりに碑が立っている。

いかにせん うつる姿は 九十九髪(つくもがみ)
わがおもかげは はづかしの川

疲れ果てた姿で、父実方の後を探し追いもとめてきた姫の心痛はいかばかりだったろうか、その嘆きが聞こえてくるようである。仏殿から奥へ進むと、「阿古耶姫」「藤原実方」「十六夜姫」の三基の墓が静かなたたずまいをみせている。

 さらに上り、阿古耶の松の前に立つ。「二代目阿古耶の松」は、大正天皇の御手植えといわれる。大正天皇の御製として

みしるしを うけて植えたる 我が山の
松のさかえに しのびまつらむ

の歌碑が立てられている。山内には、多くの碑や文学碑が立ち、ロマンが散策する人の心をかきたてる。萬松寺は行基が開き、慈覚大師が復興されたといわれる。幾多の移り変わりがあって、現在は曹洞宗の名刹である。



仏殿内 あこや姫と名取太郎の悲恋を語る扁額



〜斎藤林太郎『馬見ヶ崎川流域の変遷』より〜



 千歳山万松寺も曹洞宗の寺で、開山は千年以前といわれ、御朱印六十石を受けていた。阿古耶姫物語の伝説は有名であるが、他にその書は多く、ここでは記さない。

 大石良雄が、元禄十四年十二月十四日夜、吉良邸に討入りした前日の、十三日に書いた手紙が万松寺に残っている。宛名は、遙泉院、赤穂国神護寺、了雪和尚であり、長文の巻紙で、最初に、この書状は二通書き、寺坂吉右エ門に頼んで、速馬(はやうま)二頭を以てとどけると書いてあり、同志四十八名の名が記されており、遺言書のように細ごまとしたためた手紙である。手紙の最後はただ「十三日、大石内蔵助良雄」となっている。どうして赤穂からこの手紙が万松寺にきたかということになるが、元禄頃は住職の国替えが最も多くおこなわれており、宛名にある了雪和尚が来たのかはわからないが、万松寺には昔、「了」のついた和尚が六名居たことが古文書にある。遙泉院は浅野匠守の奥方である。


仏殿(方丈型)の土間


 全山松の名山として、優雅な姿の千歳山の、北側山麓に在る万松寺は、古色深い大きな寺である。仏殿は二百五十年前の建立であり、萱ぶき屋根、天井が高く、奈良、京都にはあるが、東北では唯一かと思われる広い土間須弥壇に仏像が安置されていて、そのうす暗がりを山風が吹きぬけている。

 山門は六百二十年前、斯波兼頼建立の山形城南大手門を、天正年間、時の城主最上義光が、山形城を石城に大改築したとき、南大手門を万松寺に移して、寄進建立したものである。その造りは古く、頑丈で大手門にふさわしい山門である。「千歳山」の山額は細井平州の筆であり、外に漢詩、和歌も残っている。万松寺には昔から多くの有名な人物たちが訪ねており、沢庵禅師、新井白石、斎藤茂吉、そのほか多くの著名な人たちの、それぞれの歌書をも残している。


細井平洲筆 山門の額


 境内には茶室とともに衆寮(しゅりょう)という建物がある。衆寮というのは、禅宗の寺にあるもので、他の宗にも有るところにはあったが、食も無く寝ぐらも無い流浪の衆、その人たちの救済のために、食と宿をあたえ、罪人であろうが、博徒であろうが逃散者であろうが、一宿一飯だけでなく、何日でも住まわせておった。その間、色々な仕事をさせたり、説教をしたりしたことは無論である。人間が立直って世間に出てゆく者も多かった。織田信長時代に見るような、寺院、僧侶らと百姓らの結束による抵抗一揆、豊臣の地検に対する広範な農民一揆、それには衆寮者らの僧兵としての力も大きく加わっていた。寺に救われた衆徒たちが寺の危急のとき、身を捨てて戦ったのは当然である。だからこそ信長は、寺院焼討、僧侶の火あぶり、キリスト教の導入も許した。しかし戦いの火を消すことは出来ず、因果の如く、本能寺の燃え盛る炎とともに、戦い取った地位も灰じんと帰し、自刃し果てたのであった。

 万松寺には運慶作といわれる毘沙門天像、明治十四年、明治天皇東北巡行のとき使ったオランダ製の大鏡がある。




 先代住職、阿古耶祖山は、慶応元年、下宝沢の石沢長治家に生まれ、万松寺に養われて、明治十八年住職となっている。御朱印六十石を徳川幕府から受けていたが、明治政府によって取上げられ、苦難な時代であった。食うか食わずの生活の中で、妻ももたず、百姓をやりながら寺を守った。しかし仏殿、山門、庫裡の屋根は腐れて雨もりした。

 朝から夜まで働いて、菜大根を作り、桑を売り、庫裡に蚕も飼った。寒中足袋もはかず、電気が来ても電燈もつけず、土地の所有が無ければ、寺を維持することができないと、金をためては土地を買った。そして三町歩の田畑が所有地となり、寺の修理復興を行ったのであった。

 ところが終戦後の土地改革によって、寺社所有の土地はまっさきに解放されてしまい、またもとの無所有に帰してしまった。白ひげをはやして田圃路をひとりで歩いていた姿がいまも目に見えるようだ。阿古耶祖山は昭和二十一年六月八日、八十四歳で亡くなっている。その師に入門して、平清水部落の平清水家から来たのが、現住職平清水千秋氏である。







参考URL:
鬼頭尚義「あこや姫伝説の諸相」説話から縁起へ
万松寺〜阿古耶の松〜


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