2014年9月24日水曜日

成沢城跡と八幡神社 [山形市]




「馬頭観音堂」
かつては成沢城の二の丸だった。

秋田藩の佐竹氏による寄進と伝わる。


〜現地・案内板より〜

副郭(二の丸)跡

 成沢城には中心となる曲輪(くるわ)が2ヶ所ありますが、標高が低いこちらが副郭となります(標高188.3m)。

 副郭は主に北方面に対しての防御を担っていました。北や西の尾根筋に麓から続く小規模な曲輪が設けられ、これらと連動して敵の侵攻を防いだと考えられます。副郭と主郭の間は直線距離にして約350mで、見通せる位置にあります。双方が連絡しあいながら、効果的に防御したと考えられます。

 また、副郭には江戸時代に秋田の藩主である佐竹氏が寄進した馬頭観音堂が建てられています。



彼岸花(ひがんばな)が山道を彩る。

主郭(本丸)と副郭(二の丸)をむすぶ「和合」

〜現地・案内板より〜

和合(大手口)

 主郭への道と副郭への道の合流点が「和合(わごう)」と呼ばれています。この通路は城の西側にある街道に通じているので、この方面が大手口と考えられます。また、成沢の集落へもつながるので成沢口とも呼ばれます。

 ここから主郭および副郭へ通じる通路沿いに、小規模な曲輪(くるわ)が多数設けられております。これは、この通路に敵が侵入した際に、曲輪に配置した兵が敵に対して弓鉄砲などで攻撃するための施設です。この通路の重要性を物語っています。



半ば野生化していた柿の木に

曲輪(くるわ)・切岸(きりぎし)跡

〜現地・案内板より〜

曲輪(くるわ)・切岸(きりぎし)

 曲輪とは山の傾斜面を削って平坦に造成された一区画で、斜面を削る際に意図的に造られた、敵が登りにくいような崖のことを切岸(きりぎし)と呼びます。曲輪には建物を構えて兵士が寝泊まりしたり、柵を立てて防備したりする機能がありました。

 この切岸は6m程の段差があり、この高低差を利用して敵の侵入を防ぎました。本来はなだらかな斜面だったと考えられますが、人工的に斜面を削って切岸を造り、発生した土砂を利用して平坦な曲輪を造成したと考えられます。



土塁(どるい)跡

〜現地・案内板より〜

土塁(どるい)

 矢や鉄砲などの攻撃を防ぐため、あるいは敵の侵入を防ぐため、要所要所に構築された土手のことです。この土塁は、主郭か副郭のどちらかが敵の手に落ちても、残りの曲輪(くるわ)に敵が侵入するのを防ぐ目的で作られたと考えられます。

 残存している土塁は、高さ約1.2m、長さ約5mと小規模です。しかし、主郭と副郭の往来を妨げる目的で作られたと考えられるので、本来はもっと西に長大に伸びていたと考えられます。



主郭(本丸)跡
標高199.4m


〜現地・案内板より〜

主郭(本丸跡)

 成沢城には中心となる曲輪(くるわ)が二つありますが、標高が高いこちらが主郭になります。本来山頂であったところを削って平らにしたと考えられます。南の麓にある八幡神社は元はここに鎮座し、成沢城築城に際し現在地に移転したと伝えられるように、当城は信仰と密接にかかわっていました。

 主郭に戦前まで遠見石という大岩があり、ここに立つと眺望が良かったそうです。ここは、西側の麓に街道が走り、北の山形方面および南の上山方面まで一望できる絶好の場所です。敵の動静をここで見張っていたのでしょう。



案内板にあった航空写真より


〜現地・案内板より〜

史跡 成沢城跡

面積:約11.6ha
南北:約580m
東西:約350m

 南北朝時代の延文元年(1356)、山形に入部した斯波兼頼(しば・かねより)が山形城を築いた。その後、永徳元年(1381)、兼頼の孫兼義(かねよし)が成沢の泉出(いずみで)に城を築き、その二年後、永徳三年(1383)、御神託により山頂に鎮座していた八幡宮を現在地に移し、その跡地に城を築いたと言われる。その際、兼義は一切経(いっさいきょう)と八幡大神を埋納し、武運長久を祈願したと『八幡神社縁起書』に伝えられる。

 『奥山家家伝記』(寛永九年、1632)によれば、城は「高さ七十二間、南北十七間、東西四十五間」とあり、成沢城は山形城南方の守りの第一戦として重要な城であった。成沢地区の中心高台にあり、山形城・長谷堂城さらには上山方面を一望できる地である。西方は急斜面、麓には鳴澤川を天然の内堀として、さらに外堀をめぐらし難攻不落の要塞であった。

 天正六年(1578)最上義光(もがみ・よしあき)と上山満兼(かみのやま・みつかね)とが松原柏木山で戦った際に、当城は山形防御の前線となり、その当時の城主は成沢道忠(なりさわ・どうちゅう)であった。

 城は、元和八年(1622)最上家改易とともに、禄高一万七千石と言われる氏家氏を最後の城主に廃城となったが、初代城主以来約240年にわたって存続した。

 昭和四十年に、成沢道忠公の木像が数百年ぶりに奉還され、現在は八幡神社に奉納されている。

 館山には、天喜五年(1057)に創建したと言われる八幡宮、築城以前からの馬頭観音堂、麓には歴代の城主から篤く信仰された常禅寺(じょうぜんじ)があり、今でも住民の素朴な祈りの山である。

平成十四年十二月吉日
山形市 成沢郷土史研究会


成沢城跡、南の登山口
「成沢の石鳥居」

〜現地・案内板より〜


国指定重要文化財
八幡神社の石鳥居
昭和27年11月22日指定


 凝灰岩製、総高436cm、柱は直径95.5cmの直立円柱で、その上に一石よりなる、島木と笠木をのせている。和様建築のこの石鳥居は平安時代末期の造立と推定されている。

 その頃に、この東方の龍山に興隆した仏教文化の遺物と考えられ、同様の石鳥居が、元木地区にものこっており、共に重要文化財に指定されている。

 この石材については、龍山の空清水(うつぼしみず)から、天仁二年(1109年)に採石したという古文書が、この地区にのこっている。

 本県のみならず、わが国でも最古に属する、貴重な石鳥居である。

平成18年4月
山形市教育委員会



成沢「八幡神社」
成沢城の築城にあたり、山頂から麓の現在地に遷座。


〜現地・案内板より〜


成澤八幡神社


由緒沿革

御祭神 誉田別尊(応神天皇)

 当神社は人皇第七十代後冷泉天皇の天喜五年(1057)五月、陸奥守源頼義が安倍貞任追討の途次、瀧山々麓の丘上に男山八幡を分遷し、戦勝を祈願したと伝えられる。この丘は八幡山と呼ばれ、今日の館山々頂である。

 住民これを崇拝し天仁二年(1109)高さ九尺三寸、柱の廻り九尺三寸、笠石三間の石鳥居を建立した(国の重文)。凝灰岩の石鳥居としては日本最古のものと高く評価されております。

 永徳三年(1383)山形城主、右京大夫直家六男、大極兼義が成澤城を八幡山々頂に築城するに当り、御託宣により社殿を現在地に遷座し、御神徳を讃え十一ヶ村からなる流鏑馬(やぶさめ)神事が行われ、毎年盛大な祭典がなされていた。

 元和八年(1622)最上家改易により成澤城も廃城。後の領主堀田正虎公、正徳四年(1714)九月、社殿を改築。明治六年、郷社に列せられた。

 大正二年八月二十八日、大暴風雨のため社殿倒潰し、大正五年八月十一日復興再建し、現在に至っている。

 昭和二十年、第二次世界大戦後、信教の自由にもかかわらず、昭和四十九年(1977)八月、氏子住民一丸となって神橋改築ならびに社殿の改修がなされた。

 このたび山形市が成澤城跡を歴史公園として整備することになり、地区民一同の協賛により成澤城本丸跡(館山々頂)に八幡神社奥宮を建立し、平成十一年六月十三日、遷宮式を斉行し地区の守護神として御神徳を新たに崇拝しております。

平成十一年八月吉日
成澤八幡神社



社殿わきに祀られていた稲穂

社殿裏の岩下に祀られていた
「古峯神社」と「黄金山大神」

「奥の宮」へと続く山道

展望台より山形市

まもなく奥の宮


成沢八幡神社「奥の宮」
朝日とともに

成沢城の築城以来600年ぶりに
この山頂に戻ったのだという。



〜現地・案内板より〜

成澤八幡神社
奥の宮 御由緒

 社殿に人皇七十代後冷泉天皇のの天喜五年(1057)五月、陸奥守源頼義が安倍貞任追討の途次、瀧山々麓の丘上に男山八幡を分遷し、戦勝を祈願したと伝えられる。この丘は八幡山と呼ばれ、今日の館山々頂のこの場所であり、八幡神社創建の歴史である。

 永徳三年(1383)山形城初代城主、斯波兼頼公の孫、大極播磨守兼義が成澤城を八幡山々頂に築城するに当り、御託宣により八幡神社々殿を現在地に遷座し、社田三町歩を与えられた。成沢城の鎮護神社として武運の長久と領土領民の平和を祈願したのである。成沢村ほか十一ヶ村相集い八月十五日を祭日を定め、御神徳を讃え毎年盛大なる祭典として流鏑馬(やぶさめ)神事などが奉納されて居りました。以来、毎年の祭典が連綿として継承されている。

 山形城の南の守りとして重要な成沢城は、初代城主大極兼義以来八代の城主、この間二百四十年継続された。然し元和八年(1622)最上家改易により廃城となったのである。

 このたび山形市が成澤城跡を歴史公園として整備する事になり、これを記念して地区民一同の協賛による多大な浄財により、成沢城本丸跡八幡神社創建のこの地に平成十年十一月、成沢八幡神社奥の宮が建立された。遷宮式は成沢城歴代の城主を合祭し平成十一年六月十三日に斉行され、隆々発展する成沢の象徴として崇拝されている。

平成十二年十一月吉日
成澤八幡神社



奥の宮のとなりに「秋葉神社」

快活な「南妙法蓮華経」

遠方に山形市街

下山路に咲いていた彼岸花




成沢城跡の東麓にある「地蔵堂」

六面幢(ろくめんどう)が祀られている。

〜安彦好重「山形の石碑石仏」より〜

成沢地蔵堂 六面幢

 成沢旧道沿いに最近新しくできた六面堂がある。その中に立っている複制の六面幢がある。蔵王石とみられる粗い凝灰岩であるため、磨滅がひどく、ほとんど原形をとどめていない。古い雄大な複制で、笠も塔身も中台も欠失して、基礎と龕部だけもとのものが残っている。

 基礎は六角形で角はほとんどないほど磨滅しているが、高さ40cm、巾は下部で80cm。その上にある龕部は高さ70cmで、ここも六角の角は磨滅して丸くなっているが、六面にわずかに仏体の陽刻がみられる。仏体の大きさは高さが21cm、肩巾が8cmで、立像である。その上の笠はもとのものは失われ、他の自然石の破片がのっている。しかし、この龕部から壮大な複制の六面幢であることが分かる。そしてこの塔の造立年代は室町時代は下らないものと推定される。






西麓の駐車場
山道も含め全体的にかなり整備されている。

〜現地・案内板より〜

成沢城跡公園

 成沢城は南北約580m、東西約350m、主郭の標高199.4m、麓からの高さ約57mの丘陵に築かれた山城です。城郭の内部には、曲輪(くるわ)や土塁を設置し、その間を効果的に通路を通すことによって、巧に防御する構造となっております。また、城郭の西側を鳴沢川(なりさわがわ)が流れ天然の堀として機能し、川の周辺に城主の居館や家臣の屋敷がありました。上の図の範囲外になりますが、さらに西に宿町が広がり、それを外堀で囲む惣構えという構造になっていました。

 東には山岳信仰の山として昔栄えた瀧山(りゅうざん)がそびえております。成沢城は瀧山への登り口の一つに当たります。このため、城郭周辺には、当時をしのぶ石造文化財などが現在まで多く残っており、かつての面影を伝えています。

山形市



かつては瀧山を信仰する参詣者の登拝口だった。

〜現地・案内板より〜

成沢城と瀧山

 蔵王山系は蔵王信仰の山として昔から信仰をあつめてきましたが、瀧山はそれを構成する霊山の一つとして、多くの参拝者が訪れました。成沢城は、瀧山への登拝口の一つである成沢口に築城された城郭です。このため、城郭周辺や参拝ルートに沿って石造文化財など信仰の痕跡を示す文化財が数多く残っています。






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