2016年12月15日木曜日

蔵王権現とは?[黒木衛]



〜黒木衛『蔵王権現ファンタジー』より〜



権現


1. 〈感得〉本地三仏を一身に具える


過ぎたことですが、最澄に仮託される『末法灯明記』などによって、永承7(1052)年からは、お釈迦さまの教えがすたれる末法時代にはいると信じられていました。そんなとき、のちの乱世に何によって人を導けばいいかを案じた役行者・小角が、吉野金峰山に1,000日籠って祈り出したのが蔵王権現で、それは7世紀後半、白鳳年間のことだといいます。


役行者 坐像



僧・文観(1278〜1357)が後醍醐天皇に撰上したといわれる『金峯山秘密伝』(1337奥書)によると、祈りのはじめに釈迦が現われ、これでは身近な救いには向かないと、そのまま祈り続けていると、柔和な観音から未来の弥勒までくるくる変ったものですから、やさ形ではなく「悪魔をやっつけるものを!」と力んだとたん、天地がにわかに揺れ動いて、ものすごい雷鳴とともに、忿怒相もすさまじい金剛蔵王権現が、大地を割って出現しました。

眼は三つで髪は逆立ち、頭に三鈷冠・右手に三鈷杵、左手は腰にあてて人差し指と中指を伸ばした刀印を結び、右足を大きく上げて火炎を背負い、青い身体は慈悲までをも表しています。






すこし解釈をくわえますと、真ん中の眼は釈迦の観想「昨日の悟り」、右眼は観音の慈悲「今日の手当」、左眼は弥勒の智慧「明日の救い」を表しており、逆立つ髪は悪に対する怒りの表現です。

「三鈷」というのは煩悩を打ち砕く道具で、本地三仏の象徴でもあります。刀印はまた、過去・現在・未来の悪縁を断ち切るもので、右足は天空の悪魔をはらい、左足は地下の悪魔をおさえる構えをとっており、火炎は弥勒の智慧を表しているものです。悪の大元は煩悩ですから、これを克服して真の安らぎを求めていく修養の、うしろ盾となるのが蔵王権現、ということです。

釈迦・観音・弥勒、三体の本地仏が、過去・現在・未来の三世にわたって衆生を救う一体となって現われたものですから、小角は、これこそ求めていたものだと大いに悦んで、山頂にお祀りしたといわれています。



2. 〈由来〉蔵王の名は天地の主から


仏教の根元は、宇宙そのものを大日如来としてとらえ、それが人の姿で現れたのが釈迦如来であるとするもの、といえるでしょう。つまり、永遠の昔に悟りを開いた釈迦が、人間として正しく生きるにはどうすればよいかを、宇宙の原理に照らして明らかにした教え、ということです。

宇宙は、いわばソフト面から見た金剛界と、ハード面から見た胎蔵界とから成っているとされ、金剛界は天・父・慈にたとえられて中心に智の大日如来が居り、胎蔵界は地・母・悲にたとえられて中心に理の大日如来が居って、一体の如来としては毘盧舎那如来ということでとらえられているものです。

如来というのは過去の釈迦、現在の薬師、未来の阿弥陀など完成した存在。菩薩はその域を目指す者の先達。明王は啓発をうながす権化。天部はこれらの守り。こうした仏界の全容を哲学的に掌握し、その宇宙観を図で示したものとして曼荼羅があります。

蔵王という名は、この天地両界の王・金剛胎蔵王から来たともいわれ、京都聖護院文書には金剛胎蔵王如来として登場するそうです。別に、三仏の徳を一身に蔵して統べる意味合いともいわれますが、いずれ渡来仏をふまえてはいても日本オリジナルの思索の所産なのですから、手本になるものなどはありません。

けれども、前身はとなると、中国ゆかりの金剛童子説、五大力菩薩説、執金剛神説などがあり、ヒンドゥー教三大神の一、ヴィシスのからだが青いことが引き合いに出されたり、その10の化身の9番目に過去七仏の一、釈迦が配されたりもしていますから、世界は昔から、どこかでつながっていたのかも知れません。

仏教の根本理念を、筆者なりに哲学として言い換えたものを、ここに列記しておきます。

諸行無常(すべて変化している)
諸法無我(すべて繋がっている)
一切皆苦(すべて作用しあっている)
涅槃寂静(すべて調和している)



3. 〈創出〉菩薩の心を忿怒相に託す


蔵王権現の成り立ちを見ていきましょう。

奈良東大寺の「お水取り」では、神名帳(じんみょうちょう)第一番で”金峯大菩薩(きんぷだいぼさつ)”が読み上げられますが、そのいわれはよく分かりません。

広島浄土寺の、文保元年(1317)の胎蔵界曼荼羅では、右下のところに青い身体の”金剛蔵王菩薩”が大きめに描かれていますが、形は、のちの蔵王権現とはまったく異なるものです。

”蔵王権現”としては、『醍醐根本僧正略伝』によると、寛平7(895)年、京都醍醐寺の開祖・理源大師聖宝が奈良金峯山にお堂を建てて、如意輪観音像、脇侍多聞天像と金剛蔵王菩薩像の三尊を安置したところが出発点となっており、そのもとは、正倉院文書により、滋賀石山寺創建時、天平宝字5(761)年に造像をはじめたものからといわれ、準拠するものがない中で、忿怒相の明王や仁王の形なども借りながら、成立していったもののようです。


石山寺 三尊像 右脇侍の心木



784〜平安時代には、”金剛蔵王菩薩”のほか”蔵王大菩薩”、”金剛菩薩”とされることが多く、長徳4(998)年銘の道長理経に”金剛蔵王”の名が見えますが、”蔵王権現”とされるのは、寛弘4(1007)年銘道長経筒(きょうづつ)に「南無教主釈迦蔵王権現…」とあるのが初めで、降って仁安3(1168)年の鳥取三佛寺正本尊造立願文に”さう王権現”とあり、この名が一般的になるのは、1180〜鎌倉に入ってからのことです。


藤原道長 経筒



金剛というのは、ゆるぎない智徳といったところ。権現の「権」は「かりそめ」を意味し、「仏が臨機応変に化身となって現われたのが神」とする神仏習合、本地垂迹説から来ているもので、権現信仰の例としてはほかに、熊野三所権現、白山権現などがあり、富士の方では、浅間大菩薩主神が、明治の神仏分離で木花佐久夜毘売命(このはなさくやひめのみこと)に変ったりもしています。



4. 〈典型〉悪魔降伏の猛々しい姿に


聖宝が金峯山に蔵王の像を安置してから100年になるころには、蔵王権現はすでに中国にまでも聞こえ、その姿は「顔は一つ、眼は三つ、腕は二本、右手に三鈷、左手に刀印、右足を上げ、左足で立つ」という忿怒相に典型化されてきます。

二つ目や両足立ちなどもあって、必ずしも一様ではないのですが、それがビジュアルな形で残っている最古のものが、長保3(1001)年に内匠寮(たくみりょう)が関与して、金峯山に奉納され、明治38(1905)年に東京総持寺に寄進された国宝・銅板線刻蔵王権現像で、東京国立博物館に寄託されているものです。


国宝 蔵王権現鏡像 白黒反転



これは、復元すると下に足がついていて、高さ90.0cm、巾94.0cmにもなるという、三葉光背形の大きな線刻銅鏡だったようですが、いま残るのは高さ68.0cm、巾78.0cmの上部断片です。主尊は、眼は三つ、逆立つ炎髪を宝冠でおさえて、牙を上に出し、右手に三鈷杵、左手は五本指を伸ばした形で腰にあて、右足を高く蹴り上げて火炎の光背を背負い、左足で立つという、悪魔降伏(ごうぶく)の猛々しい姿に描かれ、たすきがけの衣装表現などもきっちりしていて、蔵王権現の像容が、ほぼ完成してきている証となっています。まわりに、人か何かというような小さな異形の眷属が38体ほど組み込まれていますが、こちらは、朝廷として、当時の疫病流行の調伏を祈願したいわれのようです。

12世紀、平安後期になると、たくさんの金剛仏が造られますが、奈良国立博物館にある像高30.5cmの重要文化財、蔵王権現像などからは、その工法までもうかがい知ることができます。


奈良国立博物館 「蔵王権現像」 重文






5. 〈本尊〉今の三尊は出火後の安置


蔵王権現が出現したとき、小角がこれを桜の木に彫ってお堂に祀ったということですが、いま本拠となっている奈良金峯山寺の蔵王堂に安置されているものは、時代が降ってからの秘仏三尊です。






蔵王堂が天正14(1586)年の出火後に再建され、三尊仏も天正20(1592)年ころに完成したもので、京都方広寺の大仏を 手がけたことでも知られる宗印仏師が、後述の如意輪寺の像を参考にして何とか造りあげたといわれるものです。

三尊は、いずれも蔵王権現の姿ですが、本地は、真ん中が釈迦如来で高さ7.28m、右が観音菩薩で6.15m、左が弥勒菩薩で5.92mという、日本最大の木造で重要文化財になっており、同じころに完成した蔵王堂は、重層入母屋造り、桧皮ぶき、高さ30.4m、周囲36.0mの建築で、こちらは国宝になっております。


金峯山寺 蔵王堂



この蔵王堂にはほかに、1180〜鎌倉時代の作かともいわれる高さ4.37mの、別寺本尊だった蔵王権現の巨像があります。また、1600〜江戸時代にくだる像高104.0cmの、品格の整った厨子入蔵王権現像では、観音の慈悲をあらわす青い身体を黒漆だけでイメージした頭のところの、釈迦の観想をあらわす金色の光背と、弥勒の智慧をあらわす真っ赤な火炎との対照が、鮮やかに見てとれます。

奈良如意輪寺は、南北朝時代に後醍醐天皇の勅願寺とされたところで、天皇の念持寺だったという像高87.1cm、桜の一木造りでは日本一大きいという蔵王権現像があります。運慶の弟子だった源慶の手になる、嘉禄2(1226)年銘のもので、三鈷が五鈷になり、火炎を負うというより全身火炎に包まれてはいるものの、おおむね『金峯山秘密伝』にいうイメージにかなっており、その造形美とあいまって蔵王権現木像の基準作とされてきた重要文化財です。


源慶作 「蔵王権現像」 奈良如意輪寺



ふつうは、天皇の奉納といわれる延元元年(1336) 銘の厨子に納められているのですが、その扉の内側には、吉野の自然のなかに吉野の神々を配した美しい曼荼羅の世界が展開され、立体の大きな広がりを感じさせられます。


吉野曼荼羅 彩絵厨子






6. 〈寄木〉小像ながら代表的な秀作


もう一つ、少し前の時代に蔵王権現造像の基準作とされたものがあります。

仁安3(1168)年の造立願文があって、その技法と作風から、日本の木像を代表する秀作といわれてきた、鳥取三佛寺奥の院、投入堂(なげいれどう)の正本尊です。


鳥取 三佛寺
投入堂 正本尊 「蔵王権現像」



寺は県の中央部、三徳山(みとくさん)にあって、慶雲3(706)年、役行者開山といわれ、享保19(1734)年の『三徳山三佛寺境内絵図』などによって、「小角が葛城山で三枚の蓮の花びらを放って、蔵王大権現を祀る行場となる適地に届くようにと願ったものが、奈良吉野山、愛媛石鎚山(いしづちさん)、鳥取三徳山に舞い降りたところから始まった」とされる、修験のメッカでもあり、平成27(2015)年、日本遺産第一弾に挙げられています。

尊像は、金峯山の三尊と違って目は二つ、像高は115.0cmばかりと小像ながら、静と動を一瞬に捉えて巨像の迫力を放ち、済度の想いが伝わってくるような重要文化財で、『広辞苑』や平凡社の『世界大百科事典』の挿絵などにも用いられている代表的なものです。



7. 〈一木〉よみがえる平安のいぶき


正本尊は寄木造りですが、その段階に到らない一木造りの蔵王権現像6体が共に重要文化財になっていて、やはり目は二つ、像高は84.2cmから140.1cmまでといろいろ、像容もまちまちで、正本尊の少し前の年代で古さを競っていたのですが、近年の年輪年代測定法によって、ほこりをかぶっていた別の像が先輩格とわかりました。

長保4(1002)年を木材伐採年代の上限とする像高74.6cmのこの像は、正本尊の御前立ちとされてきたもので、両の目は丸く、手足はゆったり、程よい肉づきで、憤怒相とはいっても、むしろ人なつこいようにも見え、”化粧を落としたら平安の顔”と報道されて話題になったものです。


”化粧を落としたら平安の顔”



平安の蔵王権現木像としては、奈良国立博物館のものや京都広隆寺の現存最古という像などもありますが、この三佛寺のように揃っている例はないので、金峯山の三尊が、もとのものは焼失して必然的に1568〜安土桃山時代に降る現状からしても、かけがえのない遺産といえましょう。

標高520mほどの、足場もないような断崖絶壁の、ちょっとした窪みに納まった流れつくり、桧皮ぶき、正面一間、側面一間のお堂は、とても人の力で作れるものとは思えず、開祖、役行者が法力で麓から投げ入れたものだということで「投入堂」と呼ばれ、国宝になっているのですが、やはり年輪年代測定法によって、康和2(1100)年ころの、日本最古クラスの神社建築であることが判明しました。


鳥取 三佛寺 投入堂



同じように蓮の花びらが舞い降りたと伝えられる愛媛石鎚山は、山そのものが蔵王権現という特異なキャラクターで、ロープウェイなども整った観光地となっています。







出典:
黒木衛「蔵王権現ファンタジー」
三井記念美術館「蔵王権現と修験の秘宝」




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