2013年10月17日木曜日

吹浦「十六羅漢像」 [山形]


十六羅漢像

羅漢さんは、釈迦が仏法を説かれたとき集まった仏弟子

海禅寺、21代目「石川寛海」大和尚による

元治元年(1864)より明治初年(1868)に刻まれたという


釈迦・文殊・普賢の三尊はじめ
全部で22体

現地説明版より

名勝「羅漢岩」の由来


現・曹洞宗海禅寺、21代目の石川寛海大和尚が、日本海の荒波の打ち寄せる奇岩の連る数百メートルに点綴して刻んだ、十六羅漢がある。

奇岩怪岩に富んだこの岩石を利用して巧みに仏像22体を彫刻した和尚の努力と精進のほどに敬虔の念を捧げます。

また和尚は作仏発願以来、喜捨金を酒田に托鉢し、一両を求めると一仏を刻し、元治元年(1864)より明治初年(1868)までのあいだ、石工とともに彫刻したのが羅漢像である。

正面に釈迦・文殊・普賢の三尊と、その周囲に十六羅漢そのほかの仏像を配し、全部が半身仏である。

像は岩形に応じてその姿態を羅漢にしたのは自然の景観に一段の奇観を添え、接する人々の庶民信仰を培う和尚の慈悲心のあらわれである。

昭和50年3月

遊佐町
福浦海禅寺


出羽二見


胎内くぐり

あつみ山や吹浦かけて夕すゞみ

芭蕉



吹浦も鳥海山も鳥曇

漾人(ようじん)

渡り鳥が北へ帰って行く頃の曇りがちの空と、長い冬を終えようやく春も来ようかという頃の吹浦の海と、まだ雪を残してそびえたつ鳥海山の景色をひとつにとらえ詠んだ句。

最上郡鮭川村生まれ
医学博士
本名、佐藤要人の作



冬来れば母川回帰の本能に目覚めて愛(かな)し鮭のぼりくる

齋藤勇

先人たちの長年の人口ふ化事業の辛苦のもと、月光川で生を受けた鮭の稚魚が、遠く北洋の旅をへて、ふたたび母なる川・月光川の清流を慕い帰ってくる姿を詠いあげた一首。

南遊佐村(現・酒田市)に生まれ育った歌人
齋藤勇氏の作

2013年10月12日土曜日

鶴岡「高館山」 [山形]


元首相・原敬の句がのこる
原敬 句碑


吹く風に

とまり兼ねてや

秋の蝶



低地標高に生育する珍しいブナ林

何の実か?
登り口にあった漢詩

落日西山の暮


蒼茫たり古戦場

寒狐廃塁に鳴き

陰燐荒塘に映ず

形勝秋気に傷み

興亡夕陽に感ず

徘徊す旧墳の上

荊露人裳を湿す


木道が整備されている箇所もある。

巨木の多さに驚く
山中の説明板より

新・奥の細道(善宝寺と高館山城のみち)

龍神伝説と観音堂跡
昔から高館山は竜の化身といわれ、その背にあたる松倉山に観音様がまつられていたといわれている。


松倉山に眠る五輪塔群
天保13年(1842年)、多くの五輪塔を発掘した。昔からその付近に武藤家の御墓所があったと伝えられている。


戦国時代の山城跡
構築年代は不明である。



新たな命は樹上からも

山頂の手前にあった祠

山頂にそびえ立つ塔

塔のなかから見える緑

円筒のなかのグルグル階段

現地説明板より

高館山 自然休養林

位置 山形県鶴岡市大字大山城山国有林192・193林班

面積 200.64ヘクタール

指定年月日 昭和49年(1974年)10月25日




特徴
山頂からは広大な庄内平野をはじめ、鳥海山・月山などの山々やクロマツ林の緑が続く海岸線、はるか海上に浮かぶ飛島・粟島などが眺められます。

この山には150種以上の樹木やそれを上廻る草本植物が生育するほか、数多くの野生鳥獣や昆虫類が棲息しており、野外観察に格好の場所であります。

とくに海岸線ちかくに見られるブナ林は低地標高に生育していることで、全国的に貴重であるといわれています。


林野庁 鶴岡営林署

2013年10月7日月曜日

湯野浜「温泉神社」 [山形]



湯野浜「温泉神社」

草、旺盛にしげる
現地説明板より

温泉神社

現在、日本海を見下ろす高台に祀られている温泉神社は、昭和51年(1976)まではレストハウスと愉快亭みやじまの間の道路際に鎮座していた。

伝説によれば、初めて温泉が発見された時に、その守り神として祀られたものといわれている。

現存の建物は、昭和52年(1977)に移築に着手し、拝殿が完成されたのは平成2年(1990)12月20日である。また、明治31年〜昭和33年までの約60年間(1898〜1958)、湯野浜小学校がここにあった。



神社への登り途中にある「喜兵衛の井戸」
現地説明板より

学校坂喜兵衛の井戸

昔の小学校、現在の温泉神社への通じる坂道の途中にあり、井戸に一番近い工藤喜兵衛氏の名にちなんで付けられた。

湧き水を枡で囲んで溜めた施設に小屋がけをしたもので、昔は、小学校でもこの水を桶で担いで運び使っていたといわれる。


2013年8月29日木曜日

湯野浜「阿部与十郎像」亀や [山形]


狛犬がわりに、大なるライオンが…

もう一方には亀が控える。
湯野浜温泉の起源は古く、平安時代の天喜年間(1053~58)に遡る。海辺に湧く湯の中で亀が傷を癒していたのを、地元の漁夫が見つけたという伝説に由来しているとのこと。


明治6年(1873年)創業、湯野浜温泉の老舗宿「亀や」の二代目
「阿部與十郎(あべ・よじゅうろう)」

不動明王が祀られる。
近隣の「笹立不動」に掘られたというトンネルは、阿部与十郎氏による功績であり、そのため「与十郎道」とも呼ばれていたという(現在はトンネル落盤により通行不能)。


うろついていた猫



湯野浜温泉
藤沢周平「蝉しぐれ」より


 さほど大きな宿屋があるのでもないが、波がくだける磯とその先の長い砂浜、松林、そして海から上げたばかりの魚の評判がよく、蓑浦の湯宿はむかしから家中の家族の者が湯治におとずれる場所だった。

 だが湯治の季節は秋春先までと決まっていて、真夏の湯の村は閑散としてみえた。助左衛門は村のなかをゆっくりと馬をすすめ、三国屋の前で馬を降りた。

 すると、その姿を見かけたらしく門の中から中年の男が走り出て来た。「お奉行さまでござりましょうか」


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ケサランパサラン(加茂水族館) [山形]

けさらんぱさらん
展示説明より
けさらんぱさらん

山形・庄内地方には元禄時代から「おしろいを食べる正体不明の物体」を「天から降って来た宝物」として大切にしてきました。

「けさらんぱさらん」を持っていると、次の様な良い事があると言われています。

◇衣類が豊富になる
◇病気にかからない
◇金持ちになる

他人に見せると効果がなくなると言われ、門外不出として桐の箱に入れて女性用の化粧用のおしろいを少し入れ、神棚に上げ大切にしています。

名前の由来は「天から降ってくる」という意味のテンサラバサラから、ケサランパサランとなったようです。

展示場所:山形「加茂水族館



周辺情報:

湯野浜「満光稲荷神社」「琴平神社」 [山形]

湯野浜「笹立不動」 [山形]

湯野浜「阿部与十郎像」亀や [山形]




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湯野浜「笹立不動」 [山形]


左に瀬の音を聞きながら、山路をゆく

石鳥居が出迎える

祀られる山神様ら

不動明王は、成田山・新勝寺より勧請されたという。

清らかな山水が湧く
現地説明板より
笹立不動ささだて・ふどう


ここは湯野浜保育園の発祥の地。大正5年に向上講を組織し、千葉の成田山新勝寺から本尊の不動明王を勧請したのが始まりである。

大正13年に公園が整備され、戦時中は空襲の際の避難場所となっていた。

明治24年、ここ笹立てから善宝寺南側までトンネルが掘られ、当時は重要な道路として使用されていたが、昭和15、16年のトンネル落盤で通行不能となり廃道になる。この道路は、俗称「笹立道」、「与十郎道」と言われている。

出世稲荷と名があった

鳥居を這うカタツムリ

「ガッキの水汲み場」
笹立不動のある山から、その水は住民の下へ。
現地説明板より
ガッキの水汲み場


この呼び名は、土俗の言葉で「段差がついている」ことを意味し、その場所の地形から生まれ付けられたもの。
飲用水と洗い場の施設として100軒以上の家々で利用された。



周辺情報:

湯野浜「満光稲荷神社」「琴平神社」 [山形]

湯野浜「阿部与十郎像」亀や [山形]

ケサランパサラン(加茂水族館) [山形]




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2013年8月28日水曜日

湯野浜「満光稲荷神社」「琴平神社」 [山形]


ヒマワリ映える、夏の朝

小高い山からは、朝の眺望

「身を縮して伏し拝み、稲荷の神の恵みを受けん」
手前の鳥居は、腰を屈めなければ通れないほどに狭く小さい。

「満光(まんこう)稲荷神社」
赤い灯籠が印象的

お稲荷さん

少し奥にもお社が
現地説明板より
満光稲荷神社
まんこう・いなりじんじゃ

今から170年前の天保年間の創建と伝わり、代々登り口の奥山家で祀っていた。昭和35年に現在に移転・新築された。



満光稲荷神社と並ぶように、金毘羅神社もある。

金毘羅神社(琴平神社)
 現地説明板より
金毘羅神社

天保13年(1842年)、お伊勢参りのついでに四国のこんぴら祭りに行った漁民によって勧請されたものといわれ、遷宮した時の棟札が残っている。

船の守護神として漁師たちの間で古くから信仰されてきた。明治39年に日露戦争の戦勝記念として公園に整備された。



桧丸のいかり

桧丸は、樺太の港を出航して、日本海の荒波を一路新潟港へと航海していたが、大正11年12月15日夕刻より暴風に遭遇し、飛島に避難の直前に機関が故障し航行不能となる。

550トンの汽船は波に押し流され16日の朝、湯野浜の長岩の沖360mのところで座礁した。その後、船体は大破するが、湯野浜・宮沢の村民の昼夜にわたる救助活動により、総員32名の尊い命は救われた。


道中には庚申塚も


周辺情報:

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2013年8月22日木曜日

大淀「羽黒神社」 [山形]

苔むした石段が長く続く

石段の傍らに

いよいよ社殿の屋根がのぞく

江戸時代創建と伝わる「羽黒神社」
現地説明板より

羽黒神社の由来

祭神 稲倉魂命(いなくらのみこと)



 羽黒神社は、当羽黒山(標高171.9m)の頂上に鎮座し、創建は明暦年間(1655〜1657)と伝えられている。氏子の住む大淀・長島は当時大淀村・下長崎村といい、幕府領であった。現在の社殿は、嘉永3年(1850)に造営したものである。

 当地は三方を最上川が流れており、南側は三ヶ瀬に、北側は早房の瀬に面している。頂上の神社境内からは、東方に大淀、遥かに霊山・甑岳(こしきだけ)を、西方に長島そして霊山・葉山が眺望できる。さらに、その間を蛇行して流れる最上川の景観を一望できる景勝の地である。

 この神社は天正の頃に航路が開かれ、その後さかんになった舟運の安全を祈って創建されたといわれている。元禄・享保の盛時には、250俵ほどの年貢米を積んだ艜船(ひらたぶね)が一日に30〜40艘も下り、上り舟で綿・古着・塩などの生活物資が運ばれていた。

 その舟運で最も恐れられた所が三難所で、船頭や水夫たちが通るたびにこの神社に航行の安全を祈って詣でたという。

 この神社は、もとは観世音菩薩を祀る観音堂で、代々一乗院(鈴木家)が別当を勤めていた。明治になって神社となり、明治6年8月、村社として格付けされ現在に至っている。


平成元年7月30日

羽黒神社



三方を最上川に囲まれる「羽黒山(標高171.9m)」
この辺りは、川行く舟にとって「三難所」と呼ばれるほど危険な箇所が続く。そのためこの羽黒神社は、その舟運の安全を祈願するために創建されたのだという。

天然記念物のイタヤカエデ
推定樹齢300年
現地説明板より
村山市指定文化財 天然記念物
羽黒神社のイタヤカエデ指定 平成2年10月24日


村山市大字大淀、村社・羽黒神社に自生しているイタヤカエデの老木で、根元廻り4.2m、幹廻り2.9m、樹高18mのもので、地上5mの部位で主幹が三方向に分岐し大枝となり、よく繁茂し旺盛な生育を示している。

推定樹齢はおよそ300年。


村山市教育委員会



周辺情報:

河島山「白山神社」 [山形]




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