2014年11月12日水曜日

畑谷(はたや)城 [山形・山辺町]


畑谷城略図
(現地案内板より)

〜現地・説明板より〜

山辺町文化財 指定第七号
畑谷城址

 山形最上氏は、置賜、下長井地方に通ずる要衝の地である畑谷に、その部将江口氏を配置して、置賜との境を守らせていた。江口氏は東黒森山の尾根続きの館山に、山頂を本丸として、各所に空堀を配した山城を築き、その任に当たった。館山山頂は標高549mで、山形城を遥かに一望でき、山麓低地との比高は約70mである。南方は急斜面で、狐越街道白鷹方面を直視し、西方は山続きとなっている。

 慶長五年(1600)関ヶ原の戦にあたり、上杉家直江山城守は、主力軍約二万をひきいて、荒砥から進撃し、山形城を目指して途中の畑谷城に迫った。九月十三日、江口道連(光清)は手勢を指揮して迎え撃ったが、約二時(ふたとき)の戦いで敗れて、自刃し落城した。山城の攻防戦としては、山形県下に於いて代表的なものである。

 最上家との義に殉じ、不利な山間の山城で散った江口公とその一党の事蹟には特筆されるものがある。墓地の奥地には、江口公のお墓と彼の義に生きた生涯を顕彰する碑が建てられている。



戦国の城「出羽・畑谷城」
(現地の看板より)

〜現地・案内板より〜

特異な縄張りを持つ”最上領の防波堤”
出羽・畑谷城(はたやじょう)

圧倒的な兵力で侵攻する上杉勢。これに対して最上勢は、西部山間部に防衛ラインを構築した。その要となるのが、畑谷城である。壮烈な死闘の舞台となったこの城は、従来にない特異な縄張りを持っていた。

畑谷城鳥瞰図(推定復元)
イラストは、上杉勢侵攻を間近に控えた畑谷城を南東からみたものである。城を守る江口五郎兵衛の軍勢が、合戦の準備を行っている様子を描いた。
①主郭
②枡形虎口
③二重堀
④未整形空間(駐屯地として使用)
⑤三重堀切(竪堀)
⑥東の尖り森と城のある館山の鞍部に設けられた方形空間。中央を街道が通る。
⑦城下を流れる鵜川を堰き止めて造った冠水地帯。





畑谷城への登山口

石碑・石像群

落葉を踏みながら登っていく

畑谷城・虎口(こぐち)

主郭
空濠(からぼり)曲輪(くるわ)

空壕曲輪(下から)

畑谷城・主郭(しゅかく)跡
館山山頂(標高549m)

城主・江口光清(あききよ)公之碑

「旅人ゆきて伝えよ最上のために戦いたおれし者を」

西部三重空濠
その名の通り、深く三重に掘り込まれている。


搦(から)めて口
もう一つの登山道へと通じている。


もう一つの登山口

竪濠(たてぼり)の内部


東部大空濠



正面に見える「西黒森山」

〜歴史読本「日本の名城」より〜

畑谷(はたや)城は、慶長五年(1600)に直江兼続が最上氏を攻めた際の激戦地である。道を挟んで両側に壮大な空堀が続き、それを見下ろす山頂に山城の主郭が構えられている。その尾根続きに築かれた三重の堀切の規模の大きさにも度肝を抜かれる。この時期の大名と大名が正面からぶつかり合う戦争がどれほど凄まじいものだったのか、まざまざと思い知らされる圧倒的な城である。


首洗池

長松寺

城主・江口光清の墓

石碑「噫江月公」


噫江月公(あゝこうげつこう)

江公忠義貫心肝
闔族散華守谷間
萬古白鷹山上月
清光凛々逼人寒

江公忠義(こうこうのちゅうぎ)心肝(しんかん)を貫き
闔族(こうぞく)散華(さんげ)谷間(こくかん)を守る
萬古(ばんこ)白鷹山(はくようさん)上月(じょうのつき)
清光(せいこう)凛々(りんりん)人に逼(せま)って寒し

静松東貫(じょうしょうとうかん)



畑谷城 周辺図

慶長合戦図




巡見使の宿 [山形・畑谷]


「巡見使の宿」跡

〜現地・説明板より〜

山辺町指定文化財 第十三号
巡見使の宿
吉田作兵衛氏邸宅

 徳川幕府は、新しい将軍になると全国に巡見使を派遣し、その政情を報告させた。そこで、各大名や幕府直轄地の天領では丁寧にもてなし、何事もなく巡見使一行が通過するように願った。上山の宿を出立した一行は長谷堂から門伝、そして畑谷と回り、畑谷では三軒に分かれて昼食を摂り、休憩するのが例であった。

 宝永七年(1710)五月、幕府巡見使一行を迎えるために山形城主堀田正虎公は、畑谷で接待に当たる作兵衛、作蔵、助右衛門の三軒の家の改修を命じ、大工・木挽二十五人、左官三人等が来て工事に当たっている。畑谷には店がないので、山形から肴屋、青物屋、菓子屋、餅屋等を派遣している。こうした努力により幕府巡見使一行を無事に通過させることができたのである。

 この吉田作兵衛家は巡見使の使用する玄関を始め、身分によって入り口が三つに分けられ、各部屋もそれに対応していた。その後は基本はそのままであり、山形城主堀田公の命による改修以前の時期を考えても、建築されて以来、約三百年を経過している。これだけの長い歴史のはっきりしている民家は東北地方では例が無いし、基礎・基本等がしっかりしているので、貴重な文化財として丁寧に永く保存したいものである。なお、その庭園も見事なものがあり、東黒森山を借景とし、小さいながらも雄大な感じを与えるものである。

山辺町教育委員会

山形の宝より
「旧吉田家住宅」

2014年11月現在、300年来の邸宅はすでに無くなっていた。




2014年11月10日月曜日

八乙女像と錨 [山形・鶴岡]


八乙女像
恵姫・美鳳

〜現地・説明板より〜

八乙女像の由来

 今より1,400年前、霊峰出羽三山を開いたという蜂子皇子が都を追われ丹後の由良浜より海路、流浪にのり北上を続けていたところ、荒波にそそり立つ絶壁と神秘を感じさせる洞窟群八乙女浦の巌上で、麗しき乙女たちが笛の音に舞いながら皇子を迎えたと伝えられている。

 皇子は三本足の烏によって導かれ羽黒山に赴いたという。洞窟は羽黒山頂の神の井戸とつながっていると言われ、今なお人踏まれなロマンに彩られたところである。

 ここに出羽三山ゆかりの地に八人の乙女の内、恵姫、美鳳の二人の像を記念として建立した。

羽黒山神社社史より



「錨(いかり)」とともに

〜現地・説明板より〜

『錨』

昭和53年(1978年)、ここ由良の沖合で世界で初めて本格的に実験された波力発電装置「海明」と、その後の海洋人工島「ポセイドン」の実験に使用された錨の一基である。

海洋科学技術センター寄贈



2014年11月2日日曜日

白州正子と瀧山


〜話:白州正子〜




 ただ一つ付け加えておきたいことがあった。やはり連載を終った後、『白い国の詩』という東北地方のPR雑誌で読んだのであるが、西行の歌に「瀧の山」というところで詠んだものがある。

またの年の三月に、出羽(いでは)の国に越えて、瀧の山と申す山寺に侍りけるに、桜の常よりも薄紅(うすくれない)の色濃き花にて、波たてりけるを、寺の人々も見興じければ

たぐひなき思ひいではの桜かな
薄紅の花のにほひは

 という歌で、東北地方へ取材に行った時、訪ねたいと思っていたが、どこだかわからないので果たせなかった。その雑誌にも「現在地未詳」としてあったが、大体の見当はついたので、雑誌の編集者に案内をお願いした。彼もたしかなことは知らなかったが、西行がわざわざ平泉から出羽の国へ越えて見に行ったほどの桜なら、よほど美しいに違いない。少くともその痕跡ぐらいは残っているだろうと探してみたのである。



 東京の桜は既に終っていたが、東北の山は今が花盛りで、私を勇気づけてくれた。その夜は山形県の上の山(かみのやま)温泉に泊り、翌朝早く蔵王連峰へ行く。山家集の註釈には、瀧の山というのは蔵王の龍山(りょうぜん、霊山とも書く)のことで、新しい地図で見ると、龍山ではなく、「瀧山」と記してある。だが、実際に行ってみると、そこは千数百米(メートル)もある高山で、荒々しい岩肌は、とても桜が自生するようなのどかな山容ではなかった。

 編集者のKさんは、方々走りまわって「瀧の山」の在処(ありか)をたずねて下さった。やはりこういうことは、土地の人に訊いてみるに限る。やがてそれは昨夜泊った上の山温泉の北の方に位置することが判ったが、道がこみ入っているので中々はっきりしない。行きつ戻りつ何度同じところを右往左往したことか。何時間もそうして迷ったあげく、やっとそれらしいところに辿りついた。

 道ばたに瀧の山の歌を記した西行の歌碑があり、そこで道は二つに分れて山へ入って行く。車は行かないので、暗い山道を歩いて登って行くと、1キロ半ほどで山ぶところの開けた大地へ出た。と、思いもかけず裏の山から下の谷へかけて、全山桜に埋もれているではないか。「常よりも薄紅の色濃き花にて、波たてりけるを」の形容にふさわしく、新緑にまざってもくもくと湧き上がってくるように見える。瀧の山とは、花の瀧の別名ではないかと思われるほどの眺めであった。

 かつてはここに寺があったらしく、五輪塔のかけらや礎石がちらばっており、桜の根元には小さな祠(ほこら)が建っている。その中には平安時代の神像が二体、風化したままで祀ってあり、水など供えてあるのは里人に信仰されているのであろう。東の方には木立ちを通して雪を頂いた蔵王の瀧山が望まれ、無言のうちにこの廃寺が経てきた歴史を語るようであった。



 帰宅した後、大日本地名辞書を読んでみると、龍山は修験道の霊場で、「又、桜田村に瀧山寺あり、是古の山寺なりしが、後世此村に引かれしといひ伝えたり」と記し、龍山が廃滅した後、現在の地に移されたように書いてある。桜田村がどこだかわからないし、「後世」がいつ頃のことだか不明だが、周囲の環境から見て、西行の「瀧の山と申す山寺」は、ここ以外にはないように思われた。

 人里離れた山奥にあったために、訪れる人もなく、農家の人々のほか知るものもなかったので、崩れたままで残ったに違いない。それとて絶対に正しいというわけではないが、薄紅の花にかこまれた廃寺の風景は、私にとってもたぐいなき思い出として永く心に残るであろう。その美しさに比べたら、瀧の山の詮索など、もうどうでもいいような気がしてくる。







出典:白州正子「西行 (新潮文庫)



2014年10月29日水曜日

玉虫沼 [山形・山辺]


玉虫沼

〜現地・案内板より〜

 玉虫沼は、応永年間(1394〜1428)に高楯城主・武田信安公により溜池(ためいけ)として築堤され、約600年間、山辺の里をうるおしてきました。一帯は山辺西部湖畔自然休養林に指定され、春の新緑から秋の紅葉と、四季折々の自然を満喫でき、ヘラブナ釣りのメッカとしても有名です。また、地元放牧場では生ラム肉ジンギスカン用のサフォーク種緬羊が飼育されています。玉虫沼からは、湖畔の遊歩道、玉虫森林公園のせせらぎ広場を通り、作谷沢「民話の里(まんだらの世界)」へと続いています。



玉虫明神

明神さまと「笠松」

沼ごしに笠松

周遊歩道

朝日に輝く



〜現地・説明板より〜

伝説
玉虫姫物語

 昔々のこと、山野辺(やまのべ)のお城に、玉虫(たまむし)という大変美しく動作もしとやかな娘が奉公していた。玉虫は働き者で、殿様からも奥方様からも非常に気に入られ、台所の仕事を仰せつかった。とくに玉虫の炊いたご飯は、良い香りがしておいしいのでした。また、玉虫の美貌は、お城勤めの若侍のあいだで評判がたち、「誰が彼女を射とめるだろうか」などと、大した人気でした。

 玉虫があまりにかわいがられるので、他の女中たちは妬むようになった。誰が言いふらしたのであろうか、「玉虫は殿様に蛇を入れて炊いたご飯を食べさせている」との噂が立ち、たちまち城中に広がった。そんな噂が身近に漂っているとは露知らない玉虫は、朝夕の仕事もまめまめしく働いていました。奥方はどこまでも彼女の味方であったが、玉虫の疑いを晴らすためにも、はっきりした証拠を見ておこうとした。

 ある朝、奥方はこっそり台所にしのんで、彼女が炊いた釜飯の蓋をとって見た。釜の中には白い蛇がとぐろを巻いたままで湯気を立てている。今までは信じ切っていた奥方は、一気に気力が抜けて目がくらむばかりであった。そして、その夜のことである。玉虫の姿は城中から消えてしまった。玉虫の遺骸が玉虫沼に浮いていたのは、その翌日であった。

 玉虫沼に何時行って見ても、水面が清らかに輝いているのは、玉虫姫が毎朝早く掃除をするからだ、といわれている。五月二十一日の玉虫明神様の御縁日に、東の空のほのぼのと白むころに行って見ると、玉虫姫が御殿勤めのときの美しい姿で水面を掃いている姿を見ることができるそうです。そして、これを見た人は一生幸運に恵まれるという。

武田泰造著「山辺夜話」より



親水広場

農林水産省「全国ため池百選」平成22年6月




2014年10月25日土曜日

菅沢山、古墳と合戦跡 [山形・菅沢]


菅沢(すげさわ)古墳への入口
ここから狭く急な山道を登っていく(車進入可)。

〜現地・案内板より〜

菅沢(すげさわ)古墳 二号墳 入口

本古墳は、東北地方では最大級の円墳で、山形県の指定史跡です。



菅沢古墳 二号墳

〜現地・説明板より〜

県指定史跡
菅沢(すげさわ)古墳 二号墳
昭和48年6月21日指定

 山形市菅沢地内にあるこの古墳は、地形の高まりを利用して造られた二段構築の円墳です。直径は約52mで、高さが約5mあります。そして、下段の周囲には幅8m前後の周湟(しゅうこう、溝)が回っています。

 また、これまでの調査から、円筒埴輪や家・盾・靱(ゆぎ、矢を携行する容器)・甲冑形などの形象埴輪を持つ古墳であることが判っています。円墳としては、規模や内容ともに県下に例を見ないものであり、東北地方においても有数のものです。

 被葬者については明らかではありませんが、古墳の規模や内容から考えると、相当の権力者が埋葬されたものと推察されます。なお、築造年代については、出土した埴輪から、五世紀後半頃と考えられています。

平成四年三月
山形県教育委員会
山形市教育委員会



自然地形を利用したという円墳
直径52m、高さ5mという巨大さ



円墳のてっぺんからの景観
山形市街が一望される。





菅沢古墳からすぐの場所に「直江山城守本陣跡」がある。


直江兼続が本陣を敷いた跡
現在は史跡看板がそれを示すのみ。

〜現地・説明板より〜

直江山城守 本陣跡

 慶長五年(1600)の秋九月、上杉景勝の命をうけた米沢城主・直江山城守兼続は、二万といわれる大軍で山形城へ攻め寄せた。その主力は直江が指揮する精鋭部隊で、旧九月十三日、畑谷城を陥し、勢いに乗った直江軍の物見役は、早くも菅沢山に入っていた。

 時は十三夜、おどろいた村の衆は餅を喰わず逃げたので、「十三夜の餅は早く喰え」と、いまでも伝えられている。

 翌十四日には、総大将山城守が到着して、本陣を構えて半月。長谷堂城主・志村伊豆守勢と史上に残る激しい戦いを繰り返したが、頑強な長谷堂城と勇敢な長谷堂勢の抵抗で城を陥すことが出来ず、ついに関ヶ原の西軍敗報を受けて、十月一日、深い朝霧の中を全軍引き上げた。

平成八年七月
本沢振興協議会
本沢郷土研究会


本陣跡からは、対峙した山形勢の「長谷堂城跡」が望める。
画像右手にみえる黒い小山が、城跡の残る城山である。

〜西山形振興会「西山形の散歩道」より〜

出羽合戦の古戦場
十三夜の餅を搗いたが…

 その時わが地区の民家では、名月十三夜の餅を搗いたが、それを食うどころではなく命からがら逃げ出した、と。押し寄せた敵に、臼の餅は全部くわれたと云う。

 時は慶長五年(1600)九月の出来事であった。二万の大軍にものを云わせた上杉勢は、畑谷の城をひと朝にして陥れ、なお長谷堂城への攻撃をなさんと菅沢山に布陣する途中の出来事だった。

 だがしかし、天下分け目と云われた関ヶ原の戦いはすでに九月十五日に徳川方が圧勝に帰していたのに、その報が二百里(約800km)も離れていた昔の情報は、ただちに出羽に届くはずはなかった。その間、多少の小争があったことも事実だが、双方の睨み合いが数日つづき、二十九日に至っても長谷堂城への攻撃をからめた上杉勢、新影流の剣豪・上泉主水が戦死したのもこの日だった。そしてその日に至って、ようやく関ヶ原の戦いの勝負の報せが届いたのであった。

 上杉の兵を率いた直江兼続は戦いの無意味を察知、いち早く撤退を命じて、攻め来た道を引き返すのであるが、徳川側に身をおいて勝報を知った最上軍は、時を得たりとばかり追い討ちをかけて戦いを挑んだ。畑谷まで引き上げていた上杉の主流軍は、逃れて交戦している兵どもを救おうと再び富神山の麓や七ツ松周辺に下り、この地では壮絶なまでの激戦になったと云われております。ことに双方の犠牲者は二千とも二千五百とも云われ、出羽合戦のすさまじさを推察しながら、仏の供養に合掌してゆきたいと思います。



史跡看板の裏
長谷堂合戦 古戦場図




2014年10月24日金曜日

大ノ越古墳 [西山形]


大ノ越古墳

〜現地・説明板より〜

山形市指定史跡
大ノ越(だいのこし)古墳
昭和53年7月26日指定

 山形市大字門伝地内にあるこの古墳は、昭和53年3月、圃場整備の工事中に偶然ブルドーザーに掘り起こされ、発見されました。発見時に調査が実施された結果、直径約15mの円墳で、内部に二基の箱式石棺があることがわかりました。

 石棺からは環頭大刀(かんとうのたち)、直刀などの武器や、工具・馬具・土器など様々な物が出土し、副葬品の多様さ、豊かさは県内にある古墳の中でも有数のものです。これら副葬品の内容などから、この古墳は五世紀後半に築造され、畿内政権と交流していた山形盆地一帯を支配するような有力者が埋葬されたものと考えられています。

 なお、出土品は山形県の文化財に指定され、山形県立博物館に保管・展示されています。

平成六年三月
山形市教育委員会


径16mの円墳(再現)

〜西山形振興会「西山形の散歩道」より〜

大之越古墳の出土遺物

 大之越古墳は二つの石棺を有し、その副葬品は山形の古墳では例がないほどに多様で数も多い。遊環(馬具)、刀子(鹿角製柄の痕跡あり)、冑残欠(しころの部分か)、鉄斧、鉄鏃(長さ10cmほどで刃の部分は4cmほどある)、鉄鉗(てっかん)…。鉄鉗は金属を挟むプライヤーのような道具で、鉄を折り曲げる、赤く熱した鉄を挟んで持つなどの用途がある。

 日本で鉄が作られたのは6世紀のことだとされている。5世紀に建造された大之越古墳から出土した鉄製品は、大陸からの輸入品だったのだろうか。西山形の古代は、探るほどに謎が深まる。



環頭大刀(かんとうのたち)

〜西山形振興会「西山形の散歩道」より〜

発掘史上、日本で最も古い
大之越古墳の単鳳環頭大刀

 村山盆地の南西端にあるトンガリ山、富神山のふもとで1978年、道路工事中に古墳が発見され、大之越古墳と名付けられた。古墳はすでに見当たらず、遺跡をめぐる溝により、径16mの円墳と推定された。5世紀末ころの築造で、今は整備され史跡公園となっている。

 石棺は二つあり、環頭大刀、直刀、鉄剣、鍛冶具のはさみや馬具が副葬されていた。中でも、権威の象徴ともいえる単鳳環頭大刀は鉄製金装で、長さ948mmある(刀部731mm、茎部219mm)。柄頭(つかがしら)の内環には鳳凰の意匠があり、X写真でタガネ彫りによる銀象嵌(ぎんぞうがん)の様子がわかる(刃の部分には銘のないことが確認された)。鉄地に金箔を押した一級品である。この大刀がどのような人物に所有されていたのか、今もその謎は解けていない。

 発掘例の単鳳環頭では日本最古式である。出土品は山形県指定文化財となり、山形県博物館に展示されている。環頭太刀は中国が起源とされ、朝鮮半島を経て日本に導入された。(「学芸員の宝物」朝日新聞2004年2月21日、山形県立博物館・学芸専門員、安部実)。


古墳上部に設けられた穴



〜西山形振興会「西山形の散歩道」より〜

大之越(だいのこし)古墳とは何か
1,500年前、郷土を支配した王とは?

 大之越古墳の発掘によって、私達の祖先を身近に感じられるようになったのも、地元の人として偽りのない心情と思われます。考古学の権威・小林行雄さんが書かれた『古墳の話(岩波新書・昭和39年)』の中に、こんな事が触れられていました。

…私どもが、各地の古墳の研究に出かけた時に、土地の人からかならずたずねられることが二つある。それは、「この古墳はいつ頃のものか」ということと「だれの墓か」ということである。いつ頃かについては、古墳の規模・副葬品から推定して答えは出せるが、だれの墓かについては、「わかりませんね。多分、この地の有力者だったはずですが」と答えると、はっきりと失望の色が顔に表れます。土地の人の最も聞きたい事だったからでしょう。

 大之越古墳も例外ではなく、築造されたのは五世紀の後半で、被葬者は山形盆地を支配した首長と推定されると、発掘にあたった県の教育委員会が調査結果を出しております。1,500年前に、我々の祖先としてこの郷土を支配したのは誰だったのか…。

 たまたまそのような話の時に、「越族(こしぞく)」との関係があるのではないかと話が出ましたが、恐らく「大之越(だいのこし)」という地名から推測されてのことと思われるのです。大之越古墳の疑問を解く一つの足掛かりになるとして、越族についての資料を探し求めることにしました。





〜西山形振興会「西山形の散歩道」より〜

大之越古墳と越族(こしぞく)は、どんな関係にあるのか?

 幸い手元にある「山形県の歴史散歩道」の中に、小国町・大滝地区にある「古四王(または越王)神社」のことが載っているので、引用してみます。

…越族は、今の中国旧満州から渡来し、日本民族と融和混血し、長期間にわたって難儀した。そこで、母国をしのんで種族の祖先を祀ったのが神社の縁起とされ、日本海側の新潟、山形、秋田県に多く分布されている。その中で荒川渓谷沿いに小国に入り、大滝の地に越王神社を残し、宇津峠を越えて置賜盆地に入り、長井、西根、高玉、鮎貝にもそれぞれ越王神社を残した。ここから更に長谷堂を通って山形方面に達し、他は更に最上川を下って北上する進路が考えられる…。

 とすると、この資料を見る限り、越族が山形盆地に入ったことは確かなことであり、大之越古墳の被葬者も越族と関係がないとはっきり言い切れるものでもないと思われます。大之越古墳の被葬者は、大いなる越の人という民族としての誇りのなかで眠り続ける我々の祖先なのかも知れない。


参考:
大之越古墳は昭和53年4〜5月にかけて発掘調査が行われた。「畿内の政権はもとより、古代東アジアの動きや文化とも何らかの関係があった」(「大之越古墳の調査概要」山形県教育長文化課・昭和53年5月)と調査の概要が報告されている。



トンガリ山、富神山を背景に

古墳の隣りには、豊かな果樹園が広がる。




〜司馬遼太郎「街道をゆく 10 佐渡のみち」より〜




 ある時期までの日本人は、黄金が通貨であるという世界経済の歴史からみれば、まことに”うぶ”である期間が長かった。

 むろん、黄金が貴金属であることは、上代から知っていたらしい。上代、新羅において黄金がよく採れた。新羅貴族の装身具に黄金がふんだんに用いられたことは、文献によっても知ることができるし、げんにそれらの出土品をこんにち見ることができる。そういう新羅国についての上代倭人(わじん)の印象は、まさに黄金の国ということであった。

 欽明天皇十三(552)年に、百済の聖明王が仏像などをもたらしきたったとき、日本の宮廷のおどろきは、「西蕃(にしのとなりのくに)の献(たてまつ)れる仏の相貌(かほ)、端厳(きらきら)し。(『日本書紀』)」ということばで尽くされている。きらきらしという驚きには、彫像がすぐれているという芸術的衝撃のほかに、鍍金(めっき)がかがやくようであったということも、当然ふくまれている。

 その時期までの日本の彫刻はなお太古の古拙をひきずっていて、人間の像をあるがように造形したものを見ることがなかった。さらには黄金の存在は古墳の埋葬品からみて十分知っていたことはまちがいないが、仏像ことごとくが黄金のかたまり(鍍金とはいえ)であるということは、衝撃以上のものであったにちがいない。たしかに、古墳から金製や鍍金製の耳飾りなどがよく出土する。しかしそれらの黄金が国内の河川などで採取されたものであるのか、それとも朝鮮渡来のものか、よくわからないのである。

 その後、仏像が国家規模でつくられるようになってから、金がふんだんに必要になった。金の多くは、朝鮮半島からの輸入品だったであろう。八世紀ごろ、新羅との貿易は、先方から貢(みつぎもの)をもたらし、日本からみやげを渡すという朝貢貿易のかたちをとっていた。当方はいつも絹のたぐいをわたすわけだが、新羅の貢物の品目には必ずといっていいほどに、金や銀がある。仏像の盛んな日本にとってそれが必要だったからであろう。

 おなじ八世紀の半ば近く、聖武天皇が大仏を鋳造するということになって、日本にもさがせば金というものがあるだろうということで、さがさせた。探鉱のしごとをしたのは、多くは朝鮮からの渡来人であった。やがて奥州で百済王敬福(きょうふく)が見つけて都にもたらしてきたとき、聖武天皇がわざわざ大仏の宝前でそれを告げた。その文章に「この大倭国は、天地開闢よりこのかた、黄金は人国より献ることはあれども、この地にはなきものと念(おも)へるに」ということばがある。推して、上代のこの国が、黄金には縁が薄かったことがわかるであろう。