2014年9月9日火曜日

頭加智地蔵 [山形・小白川]


頭加智地蔵


〜安彦好重『山形の石碑石仏 〜無言の野の語部たち〜』より〜


小白川町にある天台宗白雲寺の門前のお堂内にまつられている山形市内最大の地蔵石像である。坐像で総高約3m、仏高2.36m、座張1.70m、座の奥行1.40m、肩張1.40m、頭長1.10mと、頭長が総仏高の約3分の1を占めている。

面相は柔和であるが力が弱く形式的である。頭は僧形で赤い頭巾をかぶっている。体形も固く、両手は小さく形式的に彫っていて、錫杖と宝珠は失われている。俚伝では、このように頭が大きいことから「頭勝(あたまかち)地蔵」と呼ぶようになったという。

『山形風流松の木枕』に「新白雲寺という寺の鳥居のそばに石の延命地蔵が造立している。この地蔵は頭が大きく手ちいさく、腹をかかえるほどおかし。この石像を造っていた信濃国の石工があまりに不都合なため、細工を止めて国へ逃げ帰ってしまったので、彼の国まで人を遣って、是非是非完成するようにいって、造らせた。ある人の歌に『絵本にも終に見なれぬから天窓(あたま)石きり逃げてしなのわるさよ』と詠んだという」というようなことが記してある。



最上地蔵尊 第九番霊場

御詠歌

くるしみも
かわるちかいの
あらたなる

みのりをここに
しらくもの
てら

〜山形市観光協会『山形十二花月』より〜

愛宕神社参道入口(小白川町通り)に巨大な地蔵尊が鎮座している。戦国末期から軍に勝利をもたらすという“勝軍地蔵信仰”があり、武家を中心として広まったのが地蔵信仰の形で現在に至っている。 当地蔵尊は、最上三十三観音の札所としても知られており、県内各地から多くの巡拝者が訪れ、詠う御詠歌に

「くるしみも、かわるちかいの新たなるみのりをここに白雲寺」

があり、講中の人々による大祭は地蔵尊前に参列し行われる。 この行事には“地蔵尊を信仰する縁で結ばれたひとびと”ということでだれでも参加できる。 また、お念仏で終わると“地蔵尊一緒に飲食する会”の直会が行われ多数の講中の人々が参加する。





〜斎藤林太郎『馬見ヶ崎川流域の変遷』より〜

 小白川街道に面した愛宕神社参道の入口に、頭加智地蔵が建っている。大きさでは石地蔵として県一ではなかろうか。頭部よりも胴体、台座はずっと古く、蔵王山地蔵岳の石地蔵とよく似ており、蔵王参道としての関係があると思われる。

 また最上義光が山形城改築の際、馬見ヶ崎川上流から石を運んだ時の、犠牲者の供養の為に建造されたものだなどともいわれ、ほかに二、三の伝説もあるが定かなことは解らない。昔から子供らの遊び場となり、頭に智を加え、安産子育ての地蔵として多くの信仰をあつめている。



地蔵尊の東側にある石造物

光明真言の曼荼羅

〜安彦好重「山形の石碑石仏」より〜

山形の光明真言供養塔

 小白川頭勝地蔵堂の東側に立っている碑で、川原石の平面に、蓮座の上に光明真言の曼荼羅を刻んでいる。

 光明真言というのは、不空大灌頂光真言、略して光言ともいい、真言宗で最も重要視される真言(神聖な呪句)で、これを二、三べんから七へん誦すれば一切の罪障が滅するとされている。

 曼荼羅とは、サンスクリット語で、「マンダ」は「真髄、本質」の意味であり、「ラ」は接尾語で「得る」の意味である。すなわち曼荼羅は「本質を得る」最高の悟りの境地を表しているものである。それを円輪で表すのは「円い輪のように、過不足なく、充実した境地」を意味している。真言密教では「悟りを開いた場所、道場」を意味し、「道場には、壇を設け、如来、菩薩が集まるところから、如来、菩薩の集合像を描いたもの」を曼荼羅と称するようになったといわれている。曼荼羅の主尊に大日如来がはじめて出現するのは七世紀から八世紀ごろにかけてで、以後胎蔵界曼荼羅、金剛界曼荼羅、金胎両部曼荼羅が完成する。

 この小白川の光明真言碑は、胎蔵界大日を主尊とし、それを四仏が囲み、その周囲を光明真言「オン、アボギヤ、ベイロチャノウ、マカボダラ、マニハンドマ、ジンバラ、バリタヤ、ウン」が囲んでいる。その意味は「オーム、不空なる者よ、ベイローチャナよ、摩尼と蓮華の総合状態にある者よ、光焔を放て、フーム」という大日如来への呼びかけと解している。曼荼羅の下には「光明真言供養塔、奉漸読」と刻んである。

 山形地区の光明真言碑は『山形市史別巻 生活文化編』によると、総数で21基ある。



大日碑

〜安彦好重「山形の石碑石仏」より〜

小白川 大日碑

 小白川頭勝地蔵堂の東側に光明真言供養塔と並んで立っている。

 川原石の表面中央に円輪を彫り、その中に蓮座の上に、胎蔵大日の種子アを刻んでいる。蓮座は浮き彫りに写実的に彫っているのが特徴である。円輪の下に「定立阿字浮図之旨趣者為雙全離苦 沙界得楽也 塔主 法印光賢」と刻まれている。



六地蔵幢





〜蔵王地蔵尊保存会「蔵王地蔵尊」より〜

頭加智地蔵(邪恋の懺悔)
小白川町三丁目

 山形の市街から旧笹谷街道(国道286号線)を東へ歩くと小白川三丁目に、坐像の高さ300cm、台座の間口160cm、総高360cm、馬見ヶ崎河畔最大の石地蔵が鎮座している。数個の安山岩自然石を加工して組み合わせたものである。

 頭の高さが100cm、頭があんまり大きいので、俗に「アタマガイヅ地蔵」と呼ばれ、庶民に親しまれている。頭加智の宛名は、西光寺四十五世鳳隋の命名という。文字の記入はなく、製作年代など一切不明である。ただ「山形風流松木枕」に「其地蔵首(あたま)大きく腹なく、手ちいさく、いやはや腹筋かかいて可笑(おかしき)尊像にて御座候。信濃国石工切り余り不図合(ふつかう)故にや、細工止め国に逃帰りしに、彼地迄人を遣、是非是非造立するように申付しが、有人の歌に”絵本にも終に見なれぬから天窓(あたま)石きり逃てしなのわるさよ”」とある。


 また、この地蔵には次のような伝説が人々の口から口へ、秘かに伝えられてきた。何時の頃か、一人の六部がこの地にやって来た。夕方近くであった。空腹をかかえてあるそば屋に入った。そばを食べながら、そば屋のおかみに、問わず語りに諸国廻遊の話に花をさかせた。他に客は誰もいなかった。

 やがて、おかみは問うた。「あなたは、まだお若いのに、何んの仔細があって結婚もなさらずに、六部になどなって諸国を巡り歩いておられるのですか」。すると六部は「そのことですよ。私のは、よその男のと比べてあまりにも大きいので、結婚するような女人が見つからんのです。それで、これも前世の因果とあきらめ、六部となって諸国を巡り歩いているのです」と答えた。おかみは、これを聞き「それは、気の毒なことです。それには秘伝がございます。お教え致しましょう」ということになり、二人はつい、懇になってしまった。そば屋の亭主は長い旅をしていたのである。

 数日を経て、六部は立ち去った。人の口に戸は立てられぬ。そば屋の亭主が旅から帰る途中、笹谷峠の茶屋でその噂を耳にしたから大変。亭主は家に帰るなり大声でどなった。「嬶、酒を一升買って来い」といって、五合徳利を、おかみにつきつけた。「それは無理でしょう」と、おかみが言った。「お前なら出来るだろう。ごまの油をつければよいではないか」と、また亭主はどなりつけた。おかみが六部に教えた秘伝は、ごまの油だったのである。おかみは居たたまれなくなって、馬見ヶ崎川に身を投げた。

 幾歳か過ぎて、件の六部がまたやって来た。おかみの悲業の死を知った六部は前非を悔い、その冥福と罪障消滅を祈願して、この石地蔵を造立し、何処ともなく立ち去ったという。




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