2015年5月31日日曜日

熊野神社 [山形市上桜田]








〜現地・案内看板『歴史の散歩道』より〜

熊野神社(上桜田)

 本社は熊野山熊野大権現を御本尊に祀っている。創建の年代は、火災にあったため、縁起書その他の文書が焼失したため詳らかではない。現代の堂宇は「奉再建 熊野山 羽黒山 堂一宇」の棟札から明治四年(1872)に再建されたことが知られる。この年の五月十五日、神主柴田九衛門、供養導師大野栄光によって再建の供養祈祷が行われた。

 堂内には木彫の仏像、石仏が安置されており、木彫の仏像は朽ちて何仏であるか判名できないものもあるが、別当柴田家では、中の一体が蔵王権現であると口承されている。本社の草創年代は不詳とはいえ、古仏たちがその古えを語っている。また、二面の俳額は明治三十九年のもので志鎌先客の書である。

 瀧山の不動明王は、代々柴田家が祭主となっていることを記しておく。

滝山地区振興協議会
平成三年 宝くじ助成品









恥川(はずかしがわ) [山形市平清水]



〜『わがさと平清水』より〜


平泉寺の近くに恥岸川(はずかしがわ)の源流の泉があって、清水が今もこんこんと湧き出ています。むかしの人は「お寺さまの泉」として飲料水にしていたと思われます。水を汲みにきては御仏さまを拝み、村人同志の交流もあり、のどかな山村風景がうかがえるでしょう。

この泉から流れる川を、むかしは「清水川(きよみずがわ)」と呼んでいたのでありますが、中古のころ、父・実方(さねかた)を慕ってきました十六夜姫(いざよい姫、中将姫ともいう)が長旅に姿がやつれ、川を渡ろうとしたとき、みにくい姿が水面に写ったのに驚き

いかにせん うつる姿は九十九髪(つくもがみ)

わかおもかげは はずかしの川

と一首詠じましたところ、水神も感にうたれましたのか、突然、川水が引いたと伝えられています。それ以後、清水川は「恥岸川(はずかし川)」というようになったといわれています。



名勝「はつ可(か)し川」


いかにせん(以可尓世ん)
うつる姿は(宇都る姿者)
九十九髪(つくもがみ)

わがおもかげは(和かおも架希盤)
はづかしの川(はづ可しの川)



石碑側面

〜『千嵗山萬松禅寺誌』より〜

中 將姫(實説)

 ちヽの實方(さねかた)を黄泉(よみぢ)に先立てて、獨(ひと)り都の月は見じ。切(せ)めては亡き跡(なきあと)弔ひ參らせむと、侍女(こしもと)三人を召連れて、馴れも給はぬ道芝の、露踏み分けて姫御前(ひめごぜ)は、東(あづま)の旅の發足(かしまだち)

 姫は孝心世の常に御座(おは)しまさず、唯(ただ)一念を亡父(なきちヽ)中 將に奉ぜんばやと、健 氣にも思(おぼ)し立ちぬる旅なれば、東(あづま)の便り齎(もた)らしヽ、從者(ずさ)が臨終(いまは)の言傳(ことづて)を、世に在(あ)る人より聞く如く、涙と共に呑み下し、亡父(ちち)が下りし東路(あづまぢ)を、覺 束(おぼつか)なくぞ下らるる。哀れ亡父(ちち)は都に心を惹かれ、子は陸奥(みちのく)の空を戀(こ)ふ。子故の闇の世の中に、親故辿(たど)る旅なれば、偲(しの)ぶもぢすり摺(す)るといふ、里の夕(ゆふべ)は一入(ひとしほ)に、偲(しの)ぶ思ひの 彌(い)や増(まさ)り、霜に惱める胡蝶の如く、またうら若き身ながらも、面窶(おもやつ)れして見え給ふに、從ふ侍女等(こしもとら)も涙を呑み、互(かた)みに顔を見交(みかは)して、それといはねど主を思ふ、心は神にも通じけむ。さしもの嶮難惡路(けんなんあくろ)も、夢幻の中に出羽路(いではぢ)の坦々なる平地に出でましぬ。

 亡父(ちち)中 將が永久(とは)の眠りに就(つ)きませる御山(みやま)は、程近しと里の老人等(おいら)が告げけむ時、姫が喜びや如何なりし。將(は)たその悲みや如何なりけむ。翌日(あす)は香花(かうげ)を手向(たむ)けつつ、都の状(さま)をも聞え上げ、身の悲みをも嘆かばやと、思ひし宵の枕には如何なる夢か通(かよひ)つる。明くるも待たで暁(あかつき)の、未だ夜深きに立ち來(き)給へば、仄々(ほのほの)白む空よりぞ奇(く)しき御山は現はれて、何處(いづこ)の寺の鐘の音(ね)か、朝(あした)の風を振(ふる)はせぬ。

 姫は嬉しさ懐(なつか)しさ、飛び立つ許(ばか)りに急ぎ來て、平淸水(ひらしみづ)村といふを過ぎ給ふに、村の中央(なかば)に小川(をかは)あり。打ち渡す橋だになき小川なれば、一跨(ひとまた)ぎに徒渡(かちわた)りせばやと、水邊(みづべ)に立たせ給ふに、こはそも如何(いか)に、澄みたる水に影映(うつ)り、我れながら其の窶(やつ)れたる顔色(かんばせ)に、痛くも打驚きて右顧左眄(とみかうみ)


いかにせん映る姿は九十九髪(つくもがみ)
我が面影は恥(はづか)しの川

と一首を詠じて、無限の感慨を流水に寄せ給へば、有りし川水地を潜(くぐ)りて、遠き福の神と云へる川下よりならでは、流れずなりぬ。さても是(こ)は萬里長途(ばんりてやうと)の旅人に憂ひの浪(なみ)をかけじとの、河伯(かはく)がなしし情(なさけ)にや。是れより此の川を「恥川(はづかしがは)」と改めて、今も昔を偲(しの)ぶとかや。

 此(これ)に就(つ)けても思ひ出でらるるは、父が最後と聞きてより、姫が悲み 彌(や)や深く、今は斯(か)うよと都をば、吹く風誘ふ隋(まま)にして、世をば僞(いつは)る九十九髪(つくもがみ)、結びて來しぞ哀れなる。さても古(いにしへ)、女子(をみなご)は年に連(つ)れての髪結び、お局(つぼね)・丁髪(ちょんまげ)(ゆ)ひ終へて、嶋田となれば水引掛け、何處(いづこ)の方にか進(しん)せんと、其の意を込めて結(ゆ)ひしかと、斯くて嫁(とつ)げば丸髷(まるまげ)(ゆ)ひ、寡婦(やもめ)となれば九十九髪(つくもがみ)、姫は旅路の事なれば、人をたばかる九十九髪(つくもがみ)、如何に心を碎(くだ)きけむ。あはれに悲しき事共なり。實(げ)にや語るも聞くも涙川(なみだがは)、「恥川(はづかしがは)」に名を留めて、恥しからぬ佳(よ)き名をば後(のち)の世迄も殘(のこ)されつ。




恥川 上流部


恥川に築かれた堰堤
その可憐な川名に似合わず、その昔は暴れる川だったという。
さもありなん、峻嶮たる瀧山の膨なる水をあつめては

「戸石山沢」は恥川へと注ぐ
地形としては、千歳山と猿岡山の隘路にあたる。


熊野神社 [山形市南原]



鳥居扁額
「郷社 熊野神社」





〜現地・案内看板『歴史の散歩道』より〜


南原 熊野神社

本社は熊野山熊野大権現が本尊として祀られている。当神社の創立年は不詳であるが、一説に後鳥羽院の勅使により建立されたと伝えられる。元明元年(1781)六月に社殿を再建し、明治六年七月に郷社に列せられ、開拓の神として五穀豊穣、家内安全、家業の繁栄として崇敬が厚い。

南原二丁目に鎮座する(元内務省指定郷社)熊野神社の神輿は文化三年(1806)八月に作られた。当時は、南村山郡滝山村の郷宮として栄え、この地域の住民は農耕を生業として営み、特に、大字前田は氏神様の尊敬の念が篤く、滝山村として率先して神輿を作られたものと伝えられ、百八十年間、今日に至るまで連綿とつづいている。

滝山地区振興協議会
平成三年 宝くじ助成品



神輿殿





〜滝山地区「歴史の散歩道」滝山地区町内連合会より〜

熊野神社(南原)

 南原の熊野神社は、元は前田の熊野神社として敬われ、熊野大権現を本尊として祀っている。草創の時は 祥らかではないが、後鳥羽上皇の勅使によって、文治年間(1185〜1189)に建立されたと伝えられている。

 天保六年(1835)の前田村古文書によれば、斯波兼頼の入部により、延文元年(1356)後、兼頼によって建立され、最上義光が再建し知行を与え崇(うやま)ったと記されている。また、氏家山城守も二百石の知行を与え、先祖の供養をしている。しかし、義光が死亡し慶長十九年(1614)、最上家が改易になった元和八年(1622)からは知行もなく、社の維持経営が困難におちいったという。天明元年(1781)六月に社殿を再建、明治六年(1873)七月、郷社に指定された。開拓の神として五穀豊穣・家内安全・家業繁昌の神として尊崇されている。

 修験を語る衣服が蔵されて古を語っている。見事な神輿は文化三年(1806)八月に作られ、熊野神社が前田の氏神として敬われてきたことを示すものである。この神輿は、絵馬とともに県立博物館に収められている。もう一つの神輿は六角形という珍しい型で、制作年代は不詳だが、華麗を極めたもので、村民の信仰の篤さが偲ばれる。神輿は祭礼の日には各戸を廻り、家内安全を祈っている。


熊野山


寛政九丁巳年
蔵王大権現
八月朔日之吉


御神木
種蒔桜




2015年5月29日金曜日

千歳山 萬松寺 [山形市]





〜現地・説明板より〜


千歳山
萬松寺について


一、宗旨

萬松寺は曹洞宗(禅宗)です。曹洞宗はお釈迦様より代々の祖師がたが相承(うけつが)れた仏法です。

一、歴史

当山は阿古耶姫(中興藤原実方朝臣)の開基で、行基菩薩(法相宗)の開山、慈覚大師(天台宗)の開創でありますが、今は禅宗です。曹洞禅は道元禅師さまが我が国に伝え規範を正され、四祖の瑩山禅師さまが教示し広められたものです。瑩山さまの孫弟子(岩手県正法寺のお弟子)である「清岩良浄」さまが萬松寺を復興開山されたものであります。

一、寺紋

後村上天皇の命により久我竜胆(くがりんどう)です。

一、本尊

法報応を一身にして生誕された釈迦牟尼仏を御本尊と仰ぎます。尚、毘盧遮那仏、虚空蔵菩薩、観世音菩薩、地蔵菩薩、不動明王の仏さま、駒篭出羽稲荷明神などを安置しております。

一、唱名

南無釈迦牟尼仏、又は各々の仏様の御名をとなえます(静かに手を合わせて低頭しましょう)。

一、本山

大本山(越前)永平寺(道元禅師御開創)
大本山(鶴見)総持寺(瑩山禅師御開創)

一、教義

私達は仏の御子であります。しかし、この毎日を省りみれば、恨み、妬み、嫉みと貪瞋癡(とんじんち)の罪過(つみとが)をつくり、社会や家庭、夫婦までも知らずしらずの内に互いに痛め傷つけているのです。真に仏の心にそわない生活を繰り返しています。反省し悔い改めなければなりません。まして人として生まれる事のできた尊さを確信し目覚める事が大切です。神仏を敬い慈悲心をもって人々を愛する優しさが必要ではないでしょうか。この地球上に生まれ、この世の厳しさと苦楽をいつも味わう人間、この私達とて平凡なものばかりです。お互いに仲間の一人一人を大切にして、家庭や職場を明るくし、ひいては社会や世界全体をも明るくして、尊敬信頼の中から世間のお役に立てる事を喜び合いたいと願うものであります。

ここに端座合掌して感謝報恩の生活を営めば、どんな苦難にも負けない静かで深い安らかな日おくりが出来るものでありましょう。最後に参拝者各位に仏神の加護あらん事を祈念して。

山主合掌




〜現地・案内板(歴史の散歩道)より〜

萬松寺

千歳山萬松寺は今より1300年前に阿古耶姫が開基したといわれている。姫の父は藤原鎌足公の曽孫藤原豊充卿で、朝廷の命により陸奥に下って役命を務めておった。姫はこの地にきて生涯を終え、この萬松寺に葬られた(千歳山の山名はここに由来する)。

しばらくは近隣に住む衆の素朴な信仰の寺として存在していたが、幾年かの後に法相宗の行基菩薩が来錫し開山した。その後、天台宗の慈覚大師が来山し寺を開創した。後に禅宗の瑩山禅師の法孫が岩手の正法寺を開き、その正法寺三世清厳良浄禅師が曹洞宗萬松寺を開山した。

阿古耶姫と千歳山の松の精、名取太郎との悲恋物語と、歌枕としての阿古耶の松は、平家物語・今昔物語・古事談に記載され、名勝古跡として、あまりにも有名である。

滝山地区振興協議会
平成三年度 宝くじ助成品




萬松寺 山門


〜現地・案内板より〜

山門

山形開城の祖、斯波兼頼公(足利時代延文年間)が建立せし霞城(山形城)の大手門(南門)である。最上義光公(戦国時代天正年間)が城堀を改造し石垣城とするに当り、旧城門に黒印六十石を付加し、當山へ寄進された門である。

山門上の額「千嵗山(歳は山冠)」は上杉鷹山公の師、細井平洲の筆。

千歳山 萬松寺



萬松寺 仏殿


〜鬼頭尚義「あこや姫伝説の諸相」より〜



萬松寺とはどのような寺院なのか。萬松寺の来歴を記したものに『千歳山萬松禅寺誌』という資料がある(平清水公宣・平清水千秋、1984年)。この資料は萬松寺が発行したものであり、そこに記されている来歴には虚実入り混じっている部分も散見される。しかしながら、萬松寺の来歴を記したほぼ唯一の資料であることを鑑みて、以下『千歳山萬松禅寺誌』を用いながら、萬松寺の来歴を確認していく。

『千歳山萬松禅寺誌』によれば、萬松寺はあこや姫の開基にはじまる。その後、行基が来訪したことによって法相宗となり、さらに円仁(慈覚大師)が来訪した後には天台宗へと改宗している。さらに祖庭春暁という臨済僧によって臨済宗の寺院としてその宗派を変え続けた。

萬松寺が現在の曹洞宗となったのは、14世紀末のことであった。すなわち永徳年間(1381〜1348)に奥州黒石正法寺三世の清厳良浄が萬松寺に入ったことにより、曹洞宗へと改宗された。清厳良浄によって曹洞宗の寺院となった萬松寺は、ふたたび荒廃の憂き目に遭った。その後、文明年中(1469〜1487)に千歳山耕龍寺五世、金貞恵眞によって中興されて以降、萬松寺は曹洞宗の寺院として今日に至る(『曹洞宗全書』)。また江戸時代以降は、徳川幕府からたびたび御朱印を賜っていた。

さて萬松寺の縁起については、18世紀以前のものは今のところは確認できない。現在確認できる最も古い縁起が、元文二年(1737)に成立した『書上』である。『書上』の成立事情については、その序文において以下のように書き記されている。

今度千歳山萬松寺縁起、御尋遊され候処、往古寺消失並頽転シ、盗難度々 之変事御座候節、紛失し候旨申伝候。茲に因て若相残候も御座候哉と穿鑿致候得共、何ニても古き記録も相見申さず候。縁起御座無候ハヾ、所の老農申伝候事成共、申上候様に仰付られ候故、ふつヽかなる事のみに御座候得共、猶又此度彼是承合奏労趣左に申上候。

元文二年(1737)、山形藩に萬松寺の由来を尋ねられたが、寺院の焼失や寺宝の盗難などが重なって古い縁起がない状態だった。しかし地域の老人らの言い伝えでも構わないので進上せよとの仰せが下ったので、それを纏めて書き記したものが『書上』である。

まず『書上』を記した人物について確認しておく。『書上』の末尾には「久左衛門」という名が記されている。この久左衛門とは「平清水久左衛門」という人物である。平清水氏は、千歳山萬松寺のある平清水一帯の大庄屋を勤める家柄であり、佐久間氏とも名乗っていた。また四代目以降の当主は皆、「久左衛門」を名乗ることが慣例となっていた。平清水家(佐久間家)の系図について、元文年間に八代目久左衛門が山形藩に提出した『覚書』の記述から、『書上』を記した久左衛門とは八代目に当る「久左衛門義明」であったことが分かる。

それでは、『書上』に記されている「老農申伝候」話(地域の老人らの言い伝え)とはどのような話なのか。『書上』に記されているのは以下の話である。

寺号は開基阿古屋姫より起り候由相伝候。其由縁は上古いづれの公卿に御座候哉、奥州信夫郡辺に謫居被成候中、姫君誕生之処、美貌の御うまれゆへ、御父の御卿も御称美の思召にて、阿古屋の玉の佳名を御取用ひ、阿古屋姫と御名づけのよし。

然処姫君も御年つもりて後、閑閨さびしく思召程、夜々一人の男子来りて懇にとぶらひ候に、終に夫婦の契約有之。年月被為送候処、一夜又此男来りて姫君へ申し候は、

「是まではつヽみ候得共、元来我は松の精に候を、今時至て橋木に成御筈ゆへ、同床のかたらひも今宵ばかりと思ふ也。去ながらむつび候しるしには、縦伐て倒とも其時姫君御手かけられず候はヾ、動き申まじ」

と語り候ゆへ、姫君も奇怪に思召事大形ならず候処、翌日果して約に違ふ事無 之、其松を伐り数人にて挽候得共更に動き不申候間、所之者不審に存うらかたなど尋候上にて、姫君を頼み挽候に、御手かヽり候へば大木不滞候て、高低の遠路を挽着候に、其道すがら松と姫君さヽやきの聞へ候に付、所之者猶も奇異なる事に覚候て、夫より其橋を「蜜語の橋」と名づけ、今に信夫郡辺に御座候由。

其後姫君程なく卒去之処、御遺言に「わが骸は当国の名山に納め、墳上に松を植へしと被仰候ゆへ、千歳山迄送り唯今の阿古屋の地に葬埋仕候て、御遺言のごとく植候松を「阿古屋の松」と申し候旨。其時阿古屋姫御追福のため寺も建候歟、此由縁にて「千歳山万松寺」と号を申伝候。

久左衛門

以下『書上』は、藤原実方がアコヤノ松を探す話、そして実方の娘である中将姫が父・実方を追いかけてくる話が続けられる(この話は山形では「はずかし川」伝説の名で知られている)。



大正天皇の御手植え
「二代目・阿古耶松」



野口雨情の詩碑

いよいよ
よあけにや
よあけの明星
親だ子だもの
おやこひし

あこや姫事跡
雨情


野口雨情


〜滝山地区町内連合会「滝山地区 歴史の散歩道」より〜

千嵗山萬松寺

 千歳山の北側の道をたどると「熊の前(くまのべ)」に出る。ここに古刹千嵗山萬松寺が建つ。野口雨情の文学碑を右にみて山門へ進む。六地蔵を拝み、萬松寺の由来を語る碑を読み、山門の前に立つ。山形城の南大手門であったものを城主最上義光が寄進したものである。山額の「千嵗山」の文字は、上杉鷹山公の師細井平洲先生の筆になるものである。

 雄大な仏殿に入り、本尊の観音菩薩を拝む。慈覚大師以来のものといわれている。仏殿は方丈型といい、床が土間になっている。このような仏殿は近郊だけなく県内でも珍しいものである。また、大きな俳額とともに、阿古耶姫と名取太郎の悲恋を語る扁額が掲げられている。これは、寺の由来を語っているものといえよう。

 阿古屋姫の父は、藤原豊充(ふじわらのとよみつ)卿といい、信夫郡(福島県)にあって国守の任にあったという。姫は琴をかきならし、さびしさをなぐさめていた。が、ある夜、笛を吹き合せ奏する若者が現れた。以来、笛と琴を合せ奏するようになった。そうして楽しい日が続いたが、ある夜、突然、姫はいとまを告げられ身分を明かされる。

「吾れは、千歳山の松の精で、この度仙台名取川の橋として切られることになった。名残は惜しいが…」と。

 千歳山の松はこのようにして切られたが、次の日になると元の姿に戻っている。ここで阿古耶姫がねんごろに手を合せ弔うと、はじめて切り倒されたという。このようにして松は峠を越えて仙台へと引かれていったが、笹谷峠の頂上まで来たとき、ぴたりと動かなくなった。姫は名残を惜しみ、別れのことばをささやいた(ささやいたことから「ささやき峠」=笹谷峠となったという)。姫の情に動かされた松は、ようやく動きだし、無事名取川の橋となり以後橋が流れることがなくなったという。阿古耶姫は、この地に小さな庵を建て、松の霊を弔い生涯をおくったという。これが萬松寺のはじまりといわれている。

 「阿古耶の松」は古くから歌枕として知られ、歌に詠まれている。

みちのくの あこやの松の 木がくれて いでたる月の いでやらぬかな
夫木和歌集

の古歌が有名である。

 平安時代、一条天皇の怒りにふれた左近衛中将藤原実方(ふじわらのさねかた)は「陸奥の歌枕を探してまいれ」との命により、陸奥守に下向、奥州へと下った。三輪笠島(宮城県)まで来た時、その地の信仰を集めている道祖神の前をとめるのをきかず乗馬のまま通り過ぎようとして、神の怒りにふれ落馬し、非業の死を遂げたという。後世、西行は陸奥の旅にて実方の塚(墓)に実方の昔を慕び、芭蕉もまた

笠島やいづこさつきのぬかり道
奥の細道

と吟じている。

 父のあとを追ってきた十六夜姫(いざよいひめ)も、ここ千嵗山で没したといわれている。十六夜姫(中将姫)の歌として恥川のほとりに碑が立っている。

いかにせん うつる姿は 九十九髪(つくもがみ)
わがおもかげは はづかしの川

疲れ果てた姿で、父実方の後を探し追いもとめてきた姫の心痛はいかばかりだったろうか、その嘆きが聞こえてくるようである。仏殿から奥へ進むと、「阿古耶姫」「藤原実方」「十六夜姫」の三基の墓が静かなたたずまいをみせている。

 さらに上り、阿古耶の松の前に立つ。「二代目阿古耶の松」は、大正天皇の御手植えといわれる。大正天皇の御製として

みしるしを うけて植えたる 我が山の
松のさかえに しのびまつらむ

の歌碑が立てられている。山内には、多くの碑や文学碑が立ち、ロマンが散策する人の心をかきたてる。萬松寺は行基が開き、慈覚大師が復興されたといわれる。幾多の移り変わりがあって、現在は曹洞宗の名刹である。



仏殿内 あこや姫と名取太郎の悲恋を語る扁額



〜斎藤林太郎『馬見ヶ崎川流域の変遷』より〜



 千歳山万松寺も曹洞宗の寺で、開山は千年以前といわれ、御朱印六十石を受けていた。阿古耶姫物語の伝説は有名であるが、他にその書は多く、ここでは記さない。

 大石良雄が、元禄十四年十二月十四日夜、吉良邸に討入りした前日の、十三日に書いた手紙が万松寺に残っている。宛名は、遙泉院、赤穂国神護寺、了雪和尚であり、長文の巻紙で、最初に、この書状は二通書き、寺坂吉右エ門に頼んで、速馬(はやうま)二頭を以てとどけると書いてあり、同志四十八名の名が記されており、遺言書のように細ごまとしたためた手紙である。手紙の最後はただ「十三日、大石内蔵助良雄」となっている。どうして赤穂からこの手紙が万松寺にきたかということになるが、元禄頃は住職の国替えが最も多くおこなわれており、宛名にある了雪和尚が来たのかはわからないが、万松寺には昔、「了」のついた和尚が六名居たことが古文書にある。遙泉院は浅野匠守の奥方である。


仏殿(方丈型)の土間


 全山松の名山として、優雅な姿の千歳山の、北側山麓に在る万松寺は、古色深い大きな寺である。仏殿は二百五十年前の建立であり、萱ぶき屋根、天井が高く、奈良、京都にはあるが、東北では唯一かと思われる広い土間須弥壇に仏像が安置されていて、そのうす暗がりを山風が吹きぬけている。

 山門は六百二十年前、斯波兼頼建立の山形城南大手門を、天正年間、時の城主最上義光が、山形城を石城に大改築したとき、南大手門を万松寺に移して、寄進建立したものである。その造りは古く、頑丈で大手門にふさわしい山門である。「千歳山」の山額は細井平州の筆であり、外に漢詩、和歌も残っている。万松寺には昔から多くの有名な人物たちが訪ねており、沢庵禅師、新井白石、斎藤茂吉、そのほか多くの著名な人たちの、それぞれの歌書をも残している。


細井平洲筆 山門の額


 境内には茶室とともに衆寮(しゅりょう)という建物がある。衆寮というのは、禅宗の寺にあるもので、他の宗にも有るところにはあったが、食も無く寝ぐらも無い流浪の衆、その人たちの救済のために、食と宿をあたえ、罪人であろうが、博徒であろうが逃散者であろうが、一宿一飯だけでなく、何日でも住まわせておった。その間、色々な仕事をさせたり、説教をしたりしたことは無論である。人間が立直って世間に出てゆく者も多かった。織田信長時代に見るような、寺院、僧侶らと百姓らの結束による抵抗一揆、豊臣の地検に対する広範な農民一揆、それには衆寮者らの僧兵としての力も大きく加わっていた。寺に救われた衆徒たちが寺の危急のとき、身を捨てて戦ったのは当然である。だからこそ信長は、寺院焼討、僧侶の火あぶり、キリスト教の導入も許した。しかし戦いの火を消すことは出来ず、因果の如く、本能寺の燃え盛る炎とともに、戦い取った地位も灰じんと帰し、自刃し果てたのであった。

 万松寺には運慶作といわれる毘沙門天像、明治十四年、明治天皇東北巡行のとき使ったオランダ製の大鏡がある。




 先代住職、阿古耶祖山は、慶応元年、下宝沢の石沢長治家に生まれ、万松寺に養われて、明治十八年住職となっている。御朱印六十石を徳川幕府から受けていたが、明治政府によって取上げられ、苦難な時代であった。食うか食わずの生活の中で、妻ももたず、百姓をやりながら寺を守った。しかし仏殿、山門、庫裡の屋根は腐れて雨もりした。

 朝から夜まで働いて、菜大根を作り、桑を売り、庫裡に蚕も飼った。寒中足袋もはかず、電気が来ても電燈もつけず、土地の所有が無ければ、寺を維持することができないと、金をためては土地を買った。そして三町歩の田畑が所有地となり、寺の修理復興を行ったのであった。

 ところが終戦後の土地改革によって、寺社所有の土地はまっさきに解放されてしまい、またもとの無所有に帰してしまった。白ひげをはやして田圃路をひとりで歩いていた姿がいまも目に見えるようだ。阿古耶祖山は昭和二十一年六月八日、八十四歳で亡くなっている。その師に入門して、平清水部落の平清水家から来たのが、現住職平清水千秋氏である。







参考URL:
鬼頭尚義「あこや姫伝説の諸相」説話から縁起へ
万松寺〜阿古耶の松〜


2015年5月27日水曜日

蔵王温泉と少名彦名神 [山形・蔵王]



少名彦名神


〜現地・説明板より〜

お湯神様
少名彦名神(すくなひこなのかみ)

酢川温泉神社の主祭神、大国主神が病に伏した時、少名彦名神が温泉を探して入浴させ病を癒した故事から、二神様を温泉の神として崇めるようになりました。このご尊像は、特に少名彦名神のご神徳を仰ぎ、入浴者の安寧を祈ってご安置いたしました。





〜現地・説明板より〜

大露天風呂

蔵王温泉街の東方に位置し、蔵王温泉に湧出する温泉郡の一つで、通称「一度川源泉」又は「シンドノサワ源泉」と呼ばれ、きりきずやあせも等に特効のある湯花採取場として利用していました。蔵王の湯花は樽に入れ、山形のべにばなと共に京都大阪の薬種業と商いしていた江戸時代の記録があります。

この露天風呂は五箇所の源泉より湧出する温泉を利用し、量は毎分約820リットル、湧出温度は45〜54℃で入浴には最適であり、自然の景観を充分活用し1987年に完成しました。

蔵王温泉は古くは高湯、最上高湯と呼ばれ、景行天皇の御代(西暦110年頃)大和武尊の 臣・吉備多賀由により発見されたと伝承され、三代実録(901年)には西暦837年、酢川温泉神社に従五位下を授けたと記録されており、県内はもとより日本でも有数の永い歴史をもつ温泉場といえます。素晴らしい蔵王の四季の景観とともに心行くまで堪能してください。

平成三年
蔵王温泉






2015年5月25日月曜日

最上義光 馬上像 [山形城]



最上義光



〜彫像台座・碑文より〜

最上義光公 勇戦の像

 慶長五年(西暦1600年)の秋九月、怒涛の如く攻め寄せた上杉方の謀将・直江山城守のひきいる二万三千余の大軍をむかえ、自ら陣頭に立って指揮奮戦し敵を撃退してよく山形を死守した山形城主・最上義光が、決戦場・富神山にむかって進撃せんとする英姿であり、鎧兜は時代考証にとらわれず表現したものであります。

 右手にかざして持っているのは鉄の指揮棒で、「清和天皇末葉山形出羽守有髪僧義光」と刻んであります。銅像をとりまく縁石は山形城三の丸をかたどったものであります。

最上義光公顕彰会







2015年5月23日土曜日

白鷹不動尊 [山形・南陽市]



国道348号、小滝トンネル脇の林道をのぼる


〜現地・案内板より〜


白鷹不動尊

白鷹山の登山口(御坂の石段登り口)から西側に100mくらい入ったところに白鷹不動尊があります。

白鷹不動尊は、今から107年前、不動尊を信仰する小滝地区の熱心な信者が、日本三不動として知られる新潟県新発田市菅谷不動尊から遷して、滝を開き、白鷹不動尊として祀ったといわれている。

昔から、身体堅固、諸願成就として霊験あらたかな、由緒ある不動尊といわれている。どのような交通手段で当地に安置されたかなど、当時を思い巡らし、身を清めてみたい。毎年五月の白鷹山祭り前に、本尊前の池の落葉などが掃除され、皆様のご参拝をお待ちしております。

平成五年 南陽市観光協会


虚空蔵御坂舗石供養塔
寛保三年(1743)四月廿五日


急坂を直登する石段がえんえんと続く


〜現地・説明板より〜


白鷹不動尊

当地に祀られている不動尊は、今から107年前の明治19年、日本三不動として知られる、新潟県新発田市菅谷不動尊から遷して、滝を開き白鷹不動尊として安置されたといわれている。

その記録は、本尊の後部に朱文字で

常ニ不動尊ヲ信ジ
其ノ滝ヲ開キ越国
菅谷不動尊ヲ遷シ
祭リテ白鷹不動ト
称ス

明治十九年

新敦施主山川幸七小関小清次山川嘉七江口卯左エ門松田未次川井善次江口荘吉山川嘉六

導 司禅正興宗

と刻されている。

昔から、身体堅固、諸願成就に霊験あらたかである。

平成五年 南陽市観光協会






不動さまを発する流水が、山野を潤す




2015年5月22日金曜日

ジャガラモガラ [山形・天童市]



この「すり鉢状のくぼ地」がジャガラモガラ


〜現地・説明板より〜


県指定 天然記念物
ジャガラモガラ
平成7年3月28日指定


 ジャガラモガラは、天童で一番高い905mの雨呼山の北西の山腹、標高570mのところにある東西90m、南北250mの大きな、すり鉢状の凹地である。その中でも、凹地の南端にある550mの等高線で囲まれた東西30m、南北62mのすり鉢状の凹地が通称ジャガラモガラと呼ばれている。

 ジャガラモガラは、凹地の底でありながら、雨が降っても水がたまらない。地下は石英粗面岩の砕石からできている。所々に風穴があって、真夏でも3℃から7℃の冷たい風が出ている。その冷たい空気が凹地の底に淀み込むために、ジャガラモガラは異様な景観と特異な植生を呈している。

 春の訪れが遅い。植物の垂直分布が逆である。亜高山性の植物が群生している。乾燥地を好む植物が見られる。植物が矮小化している。植物の種類が豊富である。花の咲き方に特色がある。絶滅危惧種や希少性の植物が多いなど、学術的にも貴重な場所である。

平成25年3月31日
天童市教育委員会
津山地域づくり委員会


これらの風穴から「冷たい風(真夏でも3~7℃)」が流れ出ている。


春遅いジャガラモガラ
訪れた5月中旬にしてようやく桜が


低山にも関わらず、亜高山性の植物が群生している。



2015年5月21日木曜日

山寺の「根本中堂」と「日枝神社」 [山形]



根本中堂


〜現地・説明板より〜


山寺 立石寺と根本中堂

 山寺は、正しくは宝珠山(ほうじゅさん)立石寺(りっしゃくじ)といい、貞観二年(860年)清和天皇の勅願によって、慈覚大師が開いた天台宗のお山である。慈覚大師は、辺境の東北各地に多くの寺院を建立したが、立石寺の創建には特に力を入れ、明るく正しい人間を養成する道場を確立し、鎌倉時代には東北仏教界の中枢をなして、山上山下(さんじょうさんげ)三百余の寺坊に一千余名の修行者が居住、盛況を極めた。

 戦国時代、山内が兵火をあびて一時衰退したが、江戸時代には御朱印二千八百石を賜わって再び隆盛を見、宗教文化の殿堂を築きあげた。現在の立石寺は、境内三十五万坪(150万5,000平方メートル)の自然の岩山に、四十余の堂塔を配し、平安初期以来の山岳仏教の歴史を物語る、日本を代表する霊場である。

 正面の大きな建物は、国指定重要文化財の根本中堂(こんぽんちゅうどう)である。延文元年(1356)初代山形城主・斯波兼頼が再建した、入母屋造(いりもやづくり)・五間四面の建物で、ブナ材の建築物では日本最古といわれ、天台宗仏教道場の形式がよく保存されている。

 堂内には、慈覚大師作と伝える本尊の木造薬師如来坐像をはじめ、文殊菩薩、飛車恩典などが安置され、伝教大師が中国から比叡山に移した灯(ひ)を立石寺に分けたものが、今日も不滅の法灯として輝いている。織田信長の焼打で延暦寺を再建したときには、逆に立石寺から分けたという、不滅の法灯を堂内で拝することができる。

あきらけく のちのほとけのみよまでも
ひかりつたえよ のりのともしび


招福 布袋尊
布袋尊のからだをなでて、願いごとをお祈りする。




日枝神社


〜現地・説明板より〜


日枝(ひえ)神社

 貞観二年(860)、慈覚大師の開山にあたり、釈迦・薬師・阿弥陀三尊を安置し、守護神とした。江戸時代までは山王権現(さんのうごんげん)といわれ、明治維新で村社となって、大山咋尊(おおやまぐいのみこと)を祭神としており、五月十七日に祭礼がおこなわれる。

 右側の大きな碑は、この地に行幸された大正天皇と、貞明(ていめい)皇后の記念碑である。後方の大銀杏(おおいちょう)は、慈覚大師お手植えと伝えられ、一千百余年の樹齢というその下には、高浜虚子・年尾の親子句碑がたっている。

いてふの根床几斜に茶屋涼し  高浜虚子
我もまた銀杏の下に涼しくて  高浜年尾


山寺の大イチョウ



〜現地・説明板より〜


市指定天然記念物
山寺の大イチョウ
昭和40年3月5日指定

 史跡名勝「山寺」の山内、山寺日枝(ひえ)神社境内の南東隅にあるイチョウの雄株です。根元の周りが約10m、地上1.5mのところの幹周りが9.6mを測ります。山形県内では、南陽市宮内熊野神社の大イチョウ、鶴岡市湯田川の乳イチョウなどと肩をならべるほどの巨木で、市内では最大のイチョウの木です。

 以前は、樹高およそ30mの主幹がありましたが、昭和47年9月17日未明の暴風によって、地上4mほどの上部で折損し、樹冠の大半を失いました。その後、数十年の歳月を経て現在のように樹勢は挽回し、山寺一円の守護神である日枝神社のご神木として、歴史の年輪を刻み続けています。

平成22年7月
山形市教育委員会




山寺の姥神さま [山形]



〜現地・説明板より〜

姥堂(うばどう)

 この堂の本尊は奪衣婆(だつえば)の石像。ここから下は地獄、ここから上が極楽という浄土口で、そばの岩清水で心身を清め、新しい着物に着かえて極楽に登り、古い衣服は堂内の奪衣婆に奉納する。一つ一つの石段を登ることによって、欲望や汚れを消滅させ、明るく正しい人間になろうというもの。


山寺「姥堂(うばどう)」




〜鹿間廣治『奪衣婆―山形のうば神』より〜


ここ山寺の宝珠山・立石寺は、最澄の弟子・慈覚大師円仁の開山(貞観二年・860年)とされ、それ以来1,000年以上ものあいだ消えることなく、延暦寺から分火されたと伝えられる「不滅の法灯」が今も灯り続けている。東北随一の天台宗霊場といわれ、現世と来世の境界域として古くから深い信仰を集めてきた。

俳聖といわれた松尾芭蕉が、元禄二年(1689年)5月27日ここを訪れ、有名な「閑さや 岩にしみ入る 蝉の声」の句を詠んだ。


山寺「姥神さま」三尊


(中央の姥神さま)

見るからに荒々しい顔立ちだ。「奪衣婆の長」のような風貌である。これこそ奪衣婆の名を辱めない風貌というべきだろう。長いあいだ悪を懲らしめてきたのだろうか、その本心はあくまでも救済であるはずだ。


(右方の姥神さま)

並んで座っている奪衣婆は、一方の恐ろしい形相の像とは対照的に、うつむき加減で自己主張などする風もなく、まるで気の短い夫にどうしようもなく黙って従っている大人しい妻のようだ。歯も欠けたままである。そのことでなおさら古女房のように見えるのかもしれない。


(左方の姥神さま)

頭部だけだからという理由からだろうが、隅に押しやられている。明治の廃仏毀釈の波をもろにかぶったのであろう、一生懸命はたらいただろうに、あたかも忘れられたかのように隅っこにいる。参拝客は、この頭部だけの可哀想な奪衣婆のいることなど気づく風もなく、(中央と右)二体の奪衣婆にだけ手を合わせ、その恐ろしげな風貌に驚き、それを話題にしながら通り過ぎていく。




2015年5月19日火曜日

垂水不動尊 [山形・山寺]





蜂の巣のごとき岩肌








〜現地・説明板より〜

垂水(たるみず)遺跡

 巨大な岸壁一面の蜂の巣状の穴、祠には古峯(こぶはら)神社、稲荷神社が祀られている。





暗がりに不動明王




〜現地・説明板より〜

 巨大な岩の割れ目から水が滴(したた)り、中ほどの暗がりに不動明王が拝される。左手の岩肌には、千手観音様が線刻されていたと伝えられる。自然の妙と尊崇する神仏を拝した先祖の心が伝わってくる。




慈覚大師・円仁の修行宿

〜現地・説明板より〜

 ほの暗いここ垂水霊域には、大正時代頃まで山伏の居住修行の姿があった。一説によると、目の前の窟(いわや)は山寺を開山(860年)した慈覚大師円仁の修行宿跡とされる。