2014年9月27日土曜日

こもはり山 [山形・滑川]


〜現地・案内板より〜

菰張山(こもはりやま)

前九年の役(1015〜1062)で源頼義・義家親子が、この地で安部貞任・宗任兄弟と戦った。兄弟は山に陣を作り抗戦したが、最後は陣(岩窟)に菰(こも)を張り、居ると見せかけて逃げた。その後この山を、菰張山と称するようになったと言う。

東沢地区振興会
東沢郷土研究会
東沢観光協会


滑川住宅と「こもはり山(左)」


〜横川啓太郎「唐松観音とその周辺」より〜


こもはり山


(唐松観音堂から)眼下の川原を見渡すと、近年まで唐松山の根に向って真直ぐに流れた宝沢川の中心部は、現在は100戸を越える家屋によって満たされている。河川整備の結果である。

 その滑川住宅の背後に、宝沢川と滑川とを境とする険しい岩山が屹立しているのが見える。菰張(こもはり)山という。康平五年(1062)源頼義、陸奥出羽の按察使(あぜち)兼征夷大将軍に任ぜられ、安部貞任、弟宗任を征伐するに当り、安部一族は数千の徒党を引きつれ、この山に菰(こも)を張りめぐらして立て篭った。それで菰張山(こもはりやま)という。

 頼義父子は、八千の兵を随え、安倍一族を討とうとして菰張山に相対する馬見ヶ崎川南岸の山上に陣を築こうと、西方から登った。ところが、家来たちは皆長い旅の疲労の為、喉の渇きをうったえた。義家はこれを見て、士気を強めようと「この山頂に梅の実があるぞ」と叫んだので、家来たちは梅の酸味を思い浮かべ、涸渇を忘れて元気をとりもどして登頂した。義家は神仏を念じ山頂付近の岩を矢じりで掘ったところ、忽ち清水がこんこんと湧き出て来た。家来たちはこれで渇を癒し、陣地を築いて戦いに備えることが出来たという。

 こうして頼義父子は、菰張山に篭城の安倍の徒党と戦ったが、大いに苦戦した。このとき頼義は釈迦尊の仏徳と太子の宮の神霊に祈願したところ、忽ち敵軍は敗れ敗退した。これが菰張山・梅木山のおこりである。清水の湧き出たところを「八幡太郎矢衝きの清水」という。

 戦いに破れた安部の貞任は、義家の矢を目に受けたまま行沢村を笹谷峠をさして逃げのびたが、途中、盲橋の処で目にささった矢をぬいて目を洗ったという。それ以来、この小川に住む魚は皆片目になったといわれている。



こもはり山
上部の断崖

〜東沢地区振興会「東沢の歴史散歩道」より〜

菰張山(こもはりやま)

 滑川住宅の東北部に、三角形の菰張山がある。岩山だが昭和三十年頃までは春には山つつじが綺麗に咲き、そのうえ山形市街地も一望できる風光明媚な山である。しかし、古代の官道(笹谷越)が山地の狭間から平野に出てきたところで、昔から軍事上の要衝の地点(対岸の唐松観音堂は見張所であったともいわれている)で、戦争にからむ多くの伝説が秘められている。

 康平五年(1063)の前九年の役のとき、陸奥守(兼鎮守府将軍)源頼義と義家親子が、国司に抵抗していた奥州の覇者、阿部頼時の一族を追討するよう朝廷から命を受けた際、この菰張山を舞台として安倍貞任、宗任兄弟との一戦を交えた。

 源氏方は長途の旅の疲れから喉の渇きをうったえ、山頂の梅の実で一時的に渇きをいやし(梅の木山)、さらに義家は神仏を念じて鏃(やじり)で岩を掘ったところ、こんこんと清水が湧き出てきた(矢衝の清水)。こうして源氏方は大平山(通称:六郎兵衛山)や梅の木山に陣をしき、菰張山の安倍方と矢合わせ(交戦)したが、当初は源氏方に利あらず苦戦で、三国伝来のお釈迦さま(法来寺)や大子の神(宝蔵院鎮座、行基上人作と伝えられる称徳太子を祭る)に祈願し、その加護によりようやく勝つことができた。

 この時、敗軍の将貞任は陣地(岩窟)に菰を張りカムフラージュして逃げたので、この山を菰張山、また山の下(滑川住宅地)を盾の下と名付けたという。現在も菰張山や大平山いは山城(砦)の跡が残っているが、築造の時代はいつなのか分からない。ただ、中世における山城は何度も手直しして使用したので、今の遺跡は多分戦国時代の最上家のものではなかろうかと(伊藤山大教授、なお大平山の頂上から紙を飛ばせば、風向きによって菰張山まで届く)。

 また、貞任は逃げる途中、目に当たった矢を抜き、滑川村と新山村との間を流れる川で目を洗い、笹谷峠を越えて陸奥に逃れたと。いまもなおこの川に棲む魚は盲目(めくら)で、架けた橋をば盲目橋(めくらばし)という。

 昔から東北地方は源氏との結びつきが強く(とくに平安時代の武士は主従関係)、あまり関係のない土地にも八幡太郎義家や源氏などの伝説が残っており、八幡神社は各地に創建されている。


入山禁止の看板


麓に祀られていた石仏




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