2014年9月12日金曜日

瀧山神社・瀧山寺 [山形・中桜田]


村社 瀧山神社
皇紀二千六百年 記念

湯殿山供養 蔵王山 十八夜





 〜石碑の碑文より〜

瀧山神社鎮座地の地名変更のこと

村社瀧山神社は仁寿元年(851年)慈覚大師の開祖にして、正嘉二年(1258年)瀧山より当地、大字中桜田字桜神前1101番地に威霊を移し尊称して来ました。

平成十年(1998年)土地区画整理事業が施行され、同十九年(2007年)工事完了に依る新住居表示に伴い、当地は山形市上桜田五丁目十番二十号と決まる。

この社が地域の鎮護と子々孫々繁栄に御加護あることを祈ります。
平成十九年二月吉日
瀧山神社 氏子一同
山形市芸工大前土地区画整理組合






〜現地・案内板より〜

瀧山寺

醫王瀧山寺と称し、仁寿元年(851)慈覚大師によって開創されたとされる天台宗の古刹である。瀧山頂上に薬師如来を祀り、多くの信仰をあつめたと伝えられ、平安時代から鎌倉時代初期まで西蔵王一帯に堂塔伽藍が立ち並び、繁栄を極めたと伝えられる。

西行もこの寺に滞在し、その時のうた「山家集」に載っている。鳥居が丘の石鳥居もその時代に建てられたものといわれている。しかしながら正嘉二年(1258)鎌倉幕府の執権、北条時頼に閉山を命ぜられ、以来衰退し今は地名と石造物を残すのみである。

閉山後は中桜田の信心堂に移し、瀧山大権現と尊称、瀧山神社を創建し、寛政二年(1790)十月、同敷地内に瀧山寺を再建したと云われている。そして瀧山寺住職に天台宗大本山比叡山から天明元年(1781)より代々御綸旨が贈られ、寺の行事を行い、住民の安全祈祷をつとめるようになった。祭礼は五月八日である。
滝山地区振興協議会
平成三年度 宝くじ助成品





〜『滝山地区 歴史の散歩道』滝山地区町内会連合会より〜

醫王山 瀧山寺

瀧山寺は、正嘉二年(1258)瀧山が閉山された時、寺の僧たちは中桜田信(新)心堂の桜神前に下ったといわれている。

閉山の理由は、瀧山の修験僧たちが、廻国中の北条時頼に無道のふるまいがあったためと古文書に記されているが、時頼の廻国伝説はあくまで伝説であって事実ではない。同時代に朝日山・御所山の修験も閉山されている。これから考えると、北条氏領の領土拡大政策があり、それに従わないほど大きな勢力になっていたための閉山ではなかったかと思われる。

閉山によって追放された僧たちは、瀧山寺としてこの地に落着いたと思われる。中桜田桜神前に「桜神」という神社がある。祭神は不明である。ここに瀧山寺があったといわれている。杉の大木があった。その根本に五輪塔の頭と思われるものがあり、瀧山神社の祭礼の時には、神主がその塔の前で祭事を行う。また、行人田(ぎょうにんた)という地名が残り(現:滝山公民館付近一帯)、そこには五輪塔の部分が残っている(区画整理のため瀧山寺に移された)。寺の存在との係りが考えられる。

瀧山開山にかかわる桜の伝説もある。西行はこの寺で一夜を明かし、

都路を 思ひ出羽(いでは)の 瀧の山
こきくれないの 花の匂ぞ

と詠んだといわれる(「山家集」)。三百坊の西行歌碑の歌と異なっている。

醫王瀧山寺は天明元年(1781)より後は、天台宗大本山比叡山より「御綸旨」が下される寺となっている。仁寿元年(852)慈覚大師の瀧山開山にかかわる口伝書「出羽国最上瀧山寺縁起事」「瀧山大権現縁起」など多くの古文書が保存されており、これらは瀧山別当としての存在を明らかにするものである。「地代廻帳」も多く残っており、「瀧山地代・羽州村山郡瀧山寺」の印が使用され、その印も発見されている(志鎌啓氏)。これによれば、「供田」の分布も広範囲にわたっており、寺の隆盛が偲ばれる。古仏は寺のむかしを語っており、閉山されたとはいえ、瀧山信仰は絶えることなく生き続けてきたのである。

瀧山寺は寛政二年(1792)桜神前より現在地に移り再建されたと伝えられている。瀧山寺の草創は定かではないが、弘長の頃(1261〜1264)、桜神に「瀧山大権現」として建立し祀ったといい伝えられている。明治七年村社として「木花咲耶姫命」を祭神と祀り、社名を桜神社と改めた(神仏分離によるものと思われる)。明治十二年、更に「瀧山神社」と改名、堂宇を新たにし中桜田の氏神として祭祀を行うようになった。

現在は「瀧山大権現」として「薬師如来」と「木花咲耶姫命」を祀っている。五月八日の祭には、瀧山山頂の社で祭祀を行なう。






〜『わがさと平清水』より〜


滝山の開山


旧滝山地区の分水嶺として南東部にそびえる滝山(1,362m)は、中桜田に残る古い縁起書には仁寿元年(851)文徳天皇の御代、諸国を廻り修行していた天台宗の僧・円仁(天台宗第3代座主、慈覚大師のこと)が同年3月6日、滝山に入ったところ一つの大きな滝がありました。

そして、この滝からは「5つの不思議な音」を出していました。

第一は降魔の相があって「降三世明王」と拝します。第二は勝軍の声があって「軍荼利明王」と拝されます。第三に大白牛の声が聞こえました。「大威徳明王」と拝されます。第四に水波はやきこと「金剛夜叉明王」と拝されます。最後、第五に水大いにわかれて黒色でした。これを「不動明王」と拝します。

そして3日3夜、伏し拝み、同仁寿二年(852)水無月(陰暦6月)28日に滝山を開きたもうたとあります。



それから一刀三礼(仏像彫刻の作法)で五大尊を彫刻して、濁世(この世)の行末までのたのみとします。本尊をその滝に奉安して、民も武士もみんな、朝な夕なに正しく念仏を唱えるならば、この世に楽土が生まれるでしょう、と大師が申されたとあります。

この記録された年号が天安二年(858)であり、二度目が応徳元年(1084)、最後に大治三年(1128)2月7日となっています。ずいぶん古い年代の文書が残っていて、さきの古事記や夫木和歌抄所載の和歌などとともに滝山地区、平清水地区は古くより文化的に開けたところとわかります。




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