2014年9月27日土曜日

石倉の石鳥居 [山形・天童市]


石倉の石鳥居

〜現地・案内板より〜

石鳥居

 この石鳥居は、凝灰岩(ぎょうかいがん)で笠木(かさぎ)の長さ6.2m、柱の高さ3.17m、柱の太さ直径0.89m、柱と柱の間は2.99mあります。

 造立年代について、干布村郷土史では「近世前期のようだ」としていますが、天童市史では「中世後期」と推定しています。また、この鳥居について郷土史は、雨呼山(あまよばりやま)大権現(龍神様)への奉納であろうとし、市史では向きが南向きだったとも考えられ、山寺に関わる鳥居ではないかと推測しています。

 しかし、これは総合的に判断すると、干布村郷土史が記した、雨呼山の信仰に対して造立されたものと考えるのが自然と思われます。そして、この鳥居を造った苦労を思うとき、それだけ雨呼山に対する先人の信仰の厚さと深さを考えさせられます。

平成19年10月
干布地域づくり委員会



額束(がくづか)が2つある珍しい石鳥居

〜東北芸術工科大学、文化財保存修復研究センター「日本最古の石鳥居群は語る」より〜

石倉の石鳥居

所在:天童市下萩野戸
様式:明神系八幡鳥居
年代:近世
材質:石英粗面岩質凝灰岩
寸法:総高3.9m、柱径0.7m、柱間隔3m、笠長6.25m
位置:38.32514444,140.41567500


 額束を二つもつこの石鳥居は、天童市の東に位置する雨呼山の麓に立っている。鳥居の帰属は、天童市の舞鶴山方面の佛向寺と関係深い雨呼山とされる。柱の径が約0.7m、笠木の長さも約6.25mあり、古式の石鳥居のなかでは大型に分類される。形態の特徴は額束が二つ並んでいる点と、笠と島木の両側面が垂直に切られている点である。そして柱は僅かに転びがあるうえ、八角形に近い断面を示す。八角柱の鳥居は、大鳥神社など明神系鳥居に見られる特徴として、その用例は制限されている。

 鳥居の様式分類上では明神系八幡鳥居の変形と考えられる。だが、額束が二つあるなど、倒壊にともなう一定の改変が加わっている可能性が高い。これを裏付けるものとして、地元の著名な歴史家である川崎浩良氏による証言がある(『出羽文化史料』)。そのなかに、かつて石鳥居の左半分が崩れていたという記述がみられる。崩れた理由は鳥居下の中央部が雨水の影響で渓流となったためであり、右半分はかろうじて樹木に支えられて立っていたという。鳥居の位置する辺りは傾斜のある登山路と川が隣接しており、豪雨の影響を受けると道は渓流となる地形を示す。もう一つ述懐のなかで興味深い事実は、現在のような二つの額束はないとしている。すなわち、この鳥居の特徴を島木の切り落とし部分としているものの、額束が二つあるという記述は見られない。現在の二つある額束は昭和二十年代以降、修理の際に加えられたものと考えられる。


 鳥居の向きに関連して、一説では近隣の立石寺を意識し、現在のような東西ではなく南北向きだったという見解もある。しかし、村山地域の古式鳥居の立地条件は、東へ向う街道沿いを選んでいる。この点、現在の位置は少々山奥に入り込んではいるが、西から東の雨呼山に至る山門としての役割を勘案すると、現在の東西向きが本来的な姿と言えよう。

 製作年代に関しては、帰属する雨呼山の歴史・民俗を考慮して考えるべきであろう。農耕における雨呼び行事は根強い民間信仰として、近隣の立石寺と佛向寺との関連性は地元の歴史研究家により言及されている。ただし、その実態についてはより詳細な研究事例が求められるが、今のところ明確な分類や時代考証などは成されていない。


 南北に長い山形盆地は、南北に羽州街道が走り、これを主軸として盆地内の各地域は東西の横街道によって結ばれている。村山地域における古式石鳥居群の立地条件は、南北の主軸となる街道から、信仰空間である東の山々に向う方向に建立されている。こういった空間性からすると、立石寺との関係は山と街道条件からして無理がある。一方、佛向寺は山の反対側に位置するため、鳥居と参道の動線関係に矛盾を生じる。したがって、石倉の石鳥居の帰属は雨呼山とみるのが妥当であろう。

 ただし、石鳥居の表面の風化度合いや、製作痕の残存度合いなどからして製作年代はそうは古くないと考えられる。この他に、笠、島木の平面的な切り落とし方も近世的な変容と思われる。こういった点から、石倉の石鳥居の建立年代は近世頃とするのが無理がなさそうに思える。いずれにせよ、石倉の石鳥居は額束を二つ有する唯一の事例として、そのユニークさは印象深いと言えよう。










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