2014年9月17日水曜日

養福寺と弁財天像 [山形・上宝沢]


道路(県道272)沿いに、ずらりと石碑石像がならぶ。
「天照大神」「金剛山」「巳待供養」

そのうちの一像
「弁財天」さま

〜安彦好重「山形の石碑石仏」より〜

弁才天とは何か

 インドのサラスバティ川の精で水の神で、はじめは農業神であったが、さわやかな流水の音と関連して音楽、雄弁、学芸などの神として尊崇された。日本では鎌倉時代以降、弁才(財)天と記すようになり、福徳神として尊崇され、江戸時代には七福神の紅一点として富貴の神となる。農家では水の神、商家では財の神、一般に芸能の神として広く尊ばれた。

 写真は「上宝沢にある弁才天像」であるが、この像容は金光明最勝王経大弁才天女で、蓮弁型の光背に一面八臂の坐像をほとんど丸彫りに近い形に浮き彫りにしている。光背の上部、像頭の真上に鳥居の陽刻がある。総高1.10m、巾中部85cmの蓮弁型の光背、その正面に像高60cm、肩張40cm、膝張50cm、面相は丸顔で穏やか、髪は両肩に垂らした女形で、頭頂に兜巾のような小さな冠を頂いている。体躯は豊満でゆったりと衣をまとい、衣のひだも丁寧に刻んでいる。

 背後の方から左右に各三臂ずつと、胸前に二臂を出し、右手に短剣、左手に宝珠を持っている。上手は上に上げ、右に独鈷、左に三鈷を持ち、中手は右に鈎、左に法輪を持っている。下手は右に矢、左に弓を持っている。

 丸々とした上体に比して安座は薄いが、開いた蓮座の上に座し、その下の敷茄子には牡丹の飾りが彫刻されている。光背の背面には「天明元辛丑年(1781)九月四日 当村講中」の銘紀があり、講中があったことを物語っている。水神として、また農業神としてまつられたものであろう。



〜黒木喜久治「馬見ヶ崎川の流れとともに 防原の歴史」より〜

 弁財天は梵名を「サラスバチー」といい、インドの神を神格化したものである。ゆえに水神として池や河、そして海のほとりに祀った。また、水と縁深い龍にちなむ神話も多く、巳(蛇)の日の祭に展開していった。中世期以降は、河水がよく流れ常にささやきの音響を発するように、弁財天も能弁にして妙音を発する音楽を司る「妙音天」ともいわれ、インドでは吉祥天と共に最も尊崇された女神である。日本では七福神の一つとして、福徳を与える神となった。

 水神信仰などから蛇は弁天の神使とされ、弁天=水神=人頭蛇身(宇賀神)=蛇=巳の信仰は、己巳(つちのとみ)の前日の戌辰(つちのえたつ)に行なわれる巳待(みまち)の民間信仰を生んだものといわれる。

 弁財天の像は当初、八臂(八手)で各種の武具を持ったが、鎌倉時代には二臂で琵琶を持つ女神像が一般化した。八臂は左手に弓、刀、斧、羂索。右手に箭(矢)、三股戟、独鈷杵、輪を持つ。当地(山形市宝沢地区)はこの像が多い。



線刻「愛染明王」

〜安彦好重「山形の石碑石仏」より〜

上宝沢 愛染明王 線刻碑

上宝沢の道路側に立っている自然石の碑である。下に自然石の台石を置き、その上に高さ1.63m、巾下部で73cm、厚さ下部で25cmの川原石の正面に、上部に日、月を線刻し、その下に宝瓶に敷茄子をのせ、その上に愛染明王の坐像を線刻している。

像容は一面六臂の忿怒相で、日輪の頭光に怒髪に獅子冠、六臂に各々金剛杵、独鈷、弓、矢、蓮華、鈴を持っている。非常に美しい線刻である。石の背面に「明和二乙酉七月二十六日 山形石工兵之助 当女講中」とあり、二十六日夜さまとして当村の女講中で信仰していたことが分る。多分安産の神としてまつったものであろう。

上宝沢にはもう一基、雷神社の前に立っている碑がある。高さ1.10m、巾70cm、厚さ28cmの川原石の正面に、像高一ぱいの日輪を背に、一面六臂の忿怒相の愛染明王の坐像を線刻している。下には宝瓶の上に蓮座を重ねている。前記の愛染明王と同じ形式であるが、年紀銘は不明である。この二基の愛染明王碑から、上宝沢では二十六夜待が盛んだったことがうかがえる。



曹洞宗「養福寺」

〜山形観光協会「山形十二花月」より〜

養福寺(ようふくじ)
菩薩形の地蔵

曹洞宗の寺院で、風光清らかな高台に建つ。代々の住持は寺務のかたわら寺子屋をもうけ、子弟の教育に携わったので、報恩碑や宝沢芝居の碑、六角の石地蔵の灯籠など石碑が数多く建立されている。本堂内陣の天井にえがかれた「龍の絵」なども特筆される。






蟇股(かえるまた)から顔を出す小鳥たち






菩薩形の地蔵

〜山形観光協会「山形十二花月」より〜

上宝沢の養福寺の参道石段を登る途中、左側に一間四方の方形造りの地蔵堂があり、中に石地蔵が祀られている。その地蔵堂の右側に数体の小さな石地蔵が安置されているが、その中に「菩薩形の地蔵」がある。

この石地蔵は坐像で、右手は、掌を前方に向けて垂れた与願印を結び左手は蕾の蓮花を持って、頭には宝冠を抱いている。 印度における地蔵のお姿は、すべて、菩薩形であったのであるが、中国から日本に渡って来る間に僧形に変わったのであるという。




絆□堂

庚申塔 青面金剛

上臂は万歳をしたように上に上げ、日天日月を捧げ、下臂には弓と矢、中臂は胸前で合掌しているという変わった印相をしている。これと似た青面金剛像が落合地蔵堂の左側にも立っている。


〜安彦好重「山形の石碑石仏」より〜

庚申(こうしん)とは何か

 庚申とは干支の庚(かのえ)と申(さる)のことで、十干と十二支を組み合わせて年や月日、方位、時刻を数える方法を古代から用いていた。我国では大陸から陰陽道や暦法がまだ伝わらない時代から、太陽信仰や月信仰のまつりが行なわれていたことが、縄文時代の祭祀場遺跡からでもうかがわれる。しかし庚申信仰はおそらく陰陽道と共に中国から伝来したものと思われる。

 中国の庚申信仰というのは、人間の体内に「三尸(さんし)の虫」というものがいて、それが庚申の夜、人が眠っている時に人体を脱け出して天に昇り、天帝にその人の日頃の悪事を告げ、その人を死に追いやったり、寿命を縮めたりするという迷信である。三尸というのは三鬼ともいい、人の体内にいる上・中・下の三匹の虫で、頭にいるのは上尸、彭倨という黒色の虫で、腹にいるのは中尸、彭質という青色の虫で、足にいるのは下尸、彭矯という白色の虫である。

 これらの虫は庚申の日に鬼となって人に害を与える。この三尸の虫が人間の体内で日夜その人の行動を監視していて、庚申の夜を待って天に昇り、天帝にその人の悪事を残らず報告すると、天帝はその悪業により命をとったり寿命を縮めたり、その他の罰を与えたりするので、人は三尸の虫が体内から脱け出さないように、眠らずに徹夜をする。三尸の虫は人間が眠らないと脱け出せないし、夜が明けると昇天できない。

 それではなぜ、三尸の虫は庚申の夜に限って昇天するのか。それは十干の庚(かのえ)、つまり「金の兄(かのえ)」と十二支の申(さる)はともに金性で、その組み合せの日がもっとも剛勢となり、要注意の日となる。その日を選んで三尸の虫は人間の隙を見て昇天するのである。三尸の虫は天帝の使いもので、後に「青面金剛の本地」とされる。










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