2014年9月11日木曜日

山形の姥神さま [蔵王周辺]


蔵王 ワサ小屋跡

〜登山道・案内板より〜


姥神 ヤマンバさま

蔵王の主峰、熊野岳の山頂に『熊野神社(現在の蔵王山神社)』があります。その山頂に至る登山道、神社への参拝道で最後の上り口にあたるこの場所は、「ワサ小屋跡」と呼ばれ、おワサさんという老婆がここにあった山小屋の番をしており、参拝者の面倒をみていたといわれています。この土地は蔵王山神社地とともに山形市下宝沢の神保神官が司る敷地で、ひと頃は参拝者に対してここで水を提供していたといいます。

その昔、三途の川のほとりで衣をはぐという婆という伝説があり、そこから先は「女人禁制」であったという言い伝えがあります。立ち膝にギョロ眼、大きく開いた口の端から牙をむき出して、入山するものをとがめているようです。

この姥神、通称ヤマンバ様の石像がここにいつの頃から居るのか、いつ首が無くなったか、つい最近まで誰にも知られずに、積まれた石の下に埋もれていました。祓川登山道の分岐点を標す「首なし姥神さま」に、あらためて頭・顔部を再生しようという機運が上がり、このたび晴れて開眼と相成りました。

平成二十三年五月二十四日
蔵王山神社 総代会会長 小嶋信一
協力 蔵王ロープウェイ株式会社



〜『蔵王今昔温泉記』伊東久一覚書より〜




案内人の道筋は元、辻屋旅館の下方を通り、川原町から元の小学校前に出て蔵王山供養碑から登り始め、水の出る水神様を通り抜け、祓川と言う冷めたい水の流れている処に、代吉小屋と称する小屋があり、山形屋のお爺さんが長くお籠りして、道中の道苅を受持ち、道苅銭を戴き、又お祓い、祈禱などしてお札渡しをしたり、菖蒲沼から流れて来る豊富な冷めたい水で、そうめんの賄などして有名になっていた。

此処を出てお大黒様、お田の神を通り抜けてワサ小屋に着く。此処には四方石で囲まれたお室(むろ)があり、二、三十人はお籠り出来る。此処には今の堀久さんのお爺さんが一生涯勤められた。お山信仰の始め社地となっており、昔からの深い歴史のある処である。お祓いを受けたり、食事をしたり、又天候が荒れて行動が出来ぬ時は、泊って翌日の行動を待つ場合もあった。

此処を出て熊野山に向かう、此処に又、宝沢口のお室と、高湯側のお室とあって、昔は双方から法印が出ていて、争いを起こし高湯分は焼かれて久しく室は空になっていた。大正になって宝沢との折合がつき、高湯分の方に宮を遷座し、現在の熊野山頂上にお遷ししたものである。お室はその後宝沢の方へ任せきりになっていたが、年一回のお祭り七月十五日には当番の人が供物一切を持参し、双方参列して円満に参詣してお祭りしている。

昔の信者は信仰心厚く、参詣する一週間前から水を被って体を清め、女人を謹み、肴類も断って真劔そのものであった。




蔵王温泉 祓川コース

〜『奪衣婆―山形のうば神』鹿間廣治より〜

この奪衣婆(姥神)に出会った途端、頭に浮かんだのは「河童」であった。いろいろな人が描いた河童の顔の感じとあまりにも似ていると思ったのである。

まるで顔の両端にとどかんばかりに、耳のところまで大きく口が裂けている。頬骨も高く突き出ている。だから逆に、本来の意味の奪衣婆らしい感じのする奪衣婆のようにも思う。眉間の三本の皺も奪衣婆には似つかわしい。着ているものはゆったりとして、はだけた胸元に余裕がある。



蔵王 宝沢口(旧登山道一合目)

〜『奪衣婆―山形のうば神』鹿間廣治より〜

一目会っただけで好きになった奪衣婆(姥神)だ。背中にそっと手を当ててみた。柔らかく丸い背中だ。そして、ふっくらとした苔が緑色の着物となって身体を守っている。


杉林のなかで奪衣婆(姥神)は静かに座っている。今は人っこ一人通らなくなってしまった道。通らないどころか、両側から伸びてきた木の枝と笹で道のありかさえも分らないほどだ。新しくできた立派な登山道(自動車道)が谷川の流れとともに下の方に見える。そのことが尚更この杉林の寂しさを増していた。もう間もなく、この場所は周りから隔絶された、ここだけのちっちゃな空間になってしまうだろう。




蔵王坊平 お清水の森

〜『蔵王山調査報告書』山形県上山市教育委員会より〜

蔵王権現像の下に、石造の奪衣婆(だつえば)が立ひざで坐っている。左手をにぎって突出し、右手をひろげて膝にのせた立てひざ姿で、顔も丸く、胸部も腹部も丸味があって愛きょうがあり、深山の魔女とも思えぬふくよかさは登山者の足をとどめる。


〜『奪衣婆―山形のうば神』鹿間廣治より〜

すぐ近くには、数えるのが大変なくらいに所狭しと石の神仏たち(西国三十三観音)が並んでいる。奪衣婆(姥神)だけが神仏たちと離れて座っているのは、仲間はずれにされたのではなくて、ワイワイ、ガヤガヤが嫌いで、一人瞑想にふけるのが好きだからなのかもしれない。おだやかな顔立ちの奪衣婆である。ふくよかで生気を感じさせる。



瀧山 乳母神コース

〜『奪衣婆―山形のうば神』鹿間廣治より〜

自分の身体だけでもフーフー言いながら登るというのに、昔の人はよくもこんな重い奪衣婆(姥神)をここまで運んだものだと感心する。登って行く人をというよりも、上から下りてくる人の疲れをねぎらっているかのように、頂上に向かって座っている。

顔は人間の顔と変わりない。笑みを浮かべているようにさえ見える。そこらにいる好々爺(婆)の顔立ちだ。頂上に行って来た人たちに「お疲れさん!」と言っている。

麓の案内板には「乳母神コース」とある。「姥」と「乳母」との混同の一つであるし、ここの石仏は、座っている土地の条件からみても、恐ろしい顔ではないのが奪衣婆である。



瀧山 前滝コース

〜『奪衣婆―山形のうば神』鹿間廣治より〜

まるで少年か少女のような顔立ちだ。小柄で鼻すじの通った、奪衣婆(姥神)という名前の似つかわしくない姿だ。赤い胸当ての中で、乳房と乳房との間の窪みに虫が土を固めて巣をつくっていた。



蔵王山田 月山不動尊

〜「平成16年 蔵王地区の歴史マップ 旧堀田村の史跡・名所」より〜

たいへん珍しい石仏として見出されたが、年代など不明です。龍山道中にあったものを3回移動し現在地に安置しております。姥神は水辺に立って幼童を救い、霊山へ女人登拝はここまでと示しています。


〜『奪衣婆―山形のうば神』鹿間廣治より〜

不動尊のそばの草の斜面に立ち並ぶ三十数体の仏たちを護るかのように、その少し手前で奪衣婆(姥神)は目を光らせている。ここからが結界なのであろう。仏様のまわりにも奪衣婆のまわりにも、薬草のドクダミがいっぱい生えている。

不動様の境内に、奪衣婆が坐っていることが数多く見受けられる。それは不動様と奪衣婆とはまんざら無縁の存在ではないからだろう。死者の初七日の裁判官、秦広王の本地仏とされる不動明王は、死者供養のための仏として庶民のなかに浸透している(奪衣婆は三途の川のほとりにいるとされている)。



山形市岩波

〜『奪衣婆―山形のうば神』鹿間廣治より〜

ここは最上三十三観音の一つ「岩波観音」のある石行寺の近く。地名の岩波は、そばを流れている谷川の水が岩に当って砕け散り、波たっている光景からついたものだとか。石行寺の名前も、石の上を踏みしめて行かなければならないからとか。そう言えば奪衣婆(姥神)も、道のそばの自然にあった大きな岩の上に、今にも滑り落ちそうなぎこちない格好で座っている。



千歳山 平泉寺

〜『奪衣婆―山形のうば神』鹿間廣治より〜

奪衣婆(姥神)は、長い参道の入口に近いところに座っている。長い髪を背中に垂らしている。参道を通る人に何か言いたげである。

像の台石の裏に「帝大入学記念 昭和十六年四月 高橋豊吉」と刻まれている。珍しく昭和になってから建てられたものだ。私の出会った奪衣婆のなかで多分一番若い。どうして大学の入学記念に奪衣婆だったのだろうか。そのいきさつを知りたいと思って寺の住職に訊ねてみても、その理由を知ることはできなかった。





山形市・深沢不動尊

〜安彦好重「山形の石碑石仏より」〜

山家(やんべ)
深沢不動入口
姥神坐像

山家深沢不動に行く参道南側斜面の雑草のなかに、切り石の台座を置いて座っている。高さ60cmで、丸顔で、恐ろしい脱衣婆(姥神)に似合わず、一見笑顔にも見える目尻の下がった団子鼻の若々しい人相をしている。髪は長く両肩に垂らし、例により胸肌から腹部にかけてだらりと開け、左膝を立てたしどけない格好で座っている。台石に「安政七年庚申(1860)四月五日 当村中 林蔵 セハ司」の銘紀が刻まれている。


〜鹿間廣治「奪衣婆―山形のうば神」より〜

奪衣婆は、ここの不動尊に来る人の中に悪人でも混じっていないかと、そ知らぬ顔で見張っているのだろうか。杉の大木が鬱蒼とした中、目立たぬように少し後ろにさがって座っている。この薄暗く物音一つしない空間は、まさに目に見えないものによって隔絶された結界だ。



大岡山・山頂付近

〜『奪衣婆―山形のうば神』鹿間廣治より〜

遠くから見ると、大岡山はまるでオムスビのような形をしている。落ち葉に覆われた急で細いくねくねした山道は滑りやすく、ゆっくりゆっくりと登った。

華奢な感じの奪衣婆(姥神)は、ほとんど頂上に近い雑木林のなかに座っていた。この少し奥には三吉神社がある。賽銭がいっぱい奪衣婆の膝のところに置かれてある。夏にはきっと大勢の参拝者がやってくるのに違いない。



天童市・水晶山


〜水晶山パンフレット(山形県天童市)より〜

山姥(やまんば)

「山の神」近くに二体の山姥が祀られている。山姥は「山の神に仕える巫女」という説もある。寛政四年(1792)に右の山姥、寛政十年(1798)に左の山姥が建立された。女人禁制の山に祀られることが多い(終戦ごろまで女人禁制が守られていたらしい)。


〜『奪衣婆―山形のうば神』鹿間廣治より〜

悟りをひらいた仏様のように平然と静かに座っている二人。表情はあどけない。何故に二人の奪衣婆がここで一緒に住むようになったのだろうか。この二人はごく近い血縁関係であることは間違いない。彫り方も石材も同じものだ。水晶山は昔、水晶を掘ったのでその名がある。



天童市・石倉不動尊

〜『奪衣婆―山形のうば神』鹿間廣治より〜

一人くらいは隠れることが出来そうな洞のある杉の古木を背に、奪衣婆(姥神)は座っている。きれいに櫛目のついた長い髪をうしろに腰まで垂らしている。丸顔で引き締まった顔。切れ上がった目が厳しい。



天童市・高瀧山不動尊

〜鹿間廣治「奪衣婆―山形のうば神」より〜

色柄の美しい着物をきた奪衣婆(姥神)は、ふくよかな若い女性のような姿で、薄暗がりの中に座っている。小さなお堂の中で、1mぐらいの高い所にいる。こちらからは足下のほうから見上げるようになるので、なおさら艶めかしく感じる。ふっくらとした唇も印象的だし、優しい目つきも奪衣婆らしくはない。











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