住吉(すみよし)神社
宝沢に住む炭焼藤太と、京都一条殿の豊丸姫の伝説がある。境内には、本殿(藤太夫婦の霊)と奥の宮(豊丸姫と三人の子供の像)がある。藤太の藁(わら)打ち石や黄金池などは当時を語り伝えるものである。
東沢地区振興会
東沢郷土研究会
東沢観光協会
〜現地案内板より〜
住吉神社
祭神 炭焼藤太夫婦の霊、大山祇命、須佐之男命
例祭 五月五日〜七日
月次祭 毎月七日
由緒
建久二年(1190年)四男喜藤太信正、父母の霊を住吉大明神として奉斎。文和元年(1352年)斯波兼頼公より黒印を、慶安元年(1648年)家光公より朱印を賜う。寛政九年(1797年)社殿を再建。明治七年(1874年)村社となる。大正五年(1916年)熊野神社、山神社合祀する。
伝説
鳥羽天皇の御代(1100)頃、羽州金井の荘、宝沢の里に炭焼藤太という炭焼きを業とする人がいた。京都一条殿に住む豊丸姫は、日ごろ信仰している清水観音のお告げにより、はるか宝沢の地に住む炭焼藤太と夫婦になった。金の産出に恵まれた宝沢で、藤太夫婦は大金持ちになったという。
藤太夫婦には、吉次、吉内、吉六の三人の子供があった。長男吉次は源義経に仕えた金売吉次である。三人兄弟は京都に金を運び商いをしていたが、奥州白坂で盗賊熊坂長範に殺害された。その墓はいまも白河市白坂皮籠にある。
藤太夫婦は大変悲しまれ、清水観音に祈願し、四男喜藤太信正が生まれた。子孫がいまの宝崎家である。藤太83歳、豊丸姫78歳で亡くなられた。
「奥の宮」への登り口 |
石段が長く続く |
〜現地案内板より〜
奥之宮 由来
この地に住む人々、豊丸姫の徳をしのび、清水観音の化身なりと敬ひ、また熊坂のために殺害された金売吉次、吉内、吉六の御子たちをも祭り冥福を祈らんと、裏山に二百余段の石段を造り御堂を建立して祀った。観音堂と称した。外に二体の観音像(十日町丹波屋奉納)が安置されていたが、明治初年神仏分離により二体を養福寺に奉納。当社の奥之宮として奉斎した。
住吉神社 宮司
〜斎藤林太郎『馬見ヶ崎流域の変遷』より〜
上宝沢に住吉神社がある。神仏混合時代は、真言宗石宝山藤太寺吉蔵院であった。
別当の宝崎家には足利尊氏の手紙がある。「丹波国しの村の八幡宮別当…(読めず)…あるに候」と達筆で書かれている。「観応二(1351)、十月二十六日、尊氏、花押、三宝院僧正御房」と書かれているが、まだ誰も解読した人がいないという手紙である。どうして尊氏の手紙がそこに来たか、これも住職の国替えかと思うが不明である。
住吉神社の祭神は、藤太夫婦の霊、熊野神社、山ノ神で祭日は五月七日である。由緒は「藤太はこの地の人々に鉱業採金の業、農業、製炭の業を教え、炭焼藤太とも云う。京都一条院殿より豊丸姫と号す姫が尋ね来て後夫婦となる。天治元年(1124年)長男吉次信高誕生、康治二年(1143年)二男吉内信氏誕生、久安元年(1145年)三男吉六信吉誕生、京都三条に宅地を求め、当地より金のあらがねを運び商いをした。その後、奥州白坂(福島県)で熊坂長範のため兄弟三人殺される。藤太夫婦は子なきを悲しみ、神に祈念し、その願いが報いられ、豊丸姫57歳で四男喜藤太信正誕生、現在宝崎家はその子孫である。藤太夫婦は深山に入ると言い伝え、その後行くえ知れず、喜藤太信正は両親を祭った。この地の人々、藤太夫婦の偉徳をしのび住吉明神と称し、また氏神として奉斎し今に至る。人皇九十九代後光厳院御宇、文和元年(1352年)出羽国大主修理大夫兼頼公黒印を受け、慶安元年(1648年)三代将軍家光公より御朱印に改められ、明治六年(1873年)上地になり、同七年(1874年)村社に列せらる」と記されている。吉次、吉内、吉六三兄弟の墓がいまも福島県白坂の八幡宮裏に在ることを別当の宝崎氏が語っている。
源平の戦いでは源義経に従って、金売吉次としていっしょに歩いたが、平泉で義経が討たれてから吉次はもとの金売り商人となって京都に行き来したとも考えられる。父の藤太は豊丸姫を京都からつれて来たのだと思う。釈迦堂に京都の清水寺を真似て、唐松観音を私財で建立したことは確かである。藤太が鉱山業のために東北の各地を廻っていることも確かであり、昔から東北は金・銀・銅を産し、馬産地としても確固とした地域であった。それが農業と深く結ばれておったわけである。
〜黒木喜久治『馬見ヶ崎川の流れとともに 防原町の歴史』より〜
炭焼藤太=住吉神社
炭焼藤太(または炭焼小五郎として)の伝承は、全国各地に様々な形で語られている。大方は、神のお告で高貴な家の娘が嫁にきて、持ってきた小判(平安末期のその頃は小判はまだない)を藤太が無造作に取り扱うのをみてたしなめると、「こんなものは裏の山や沢にいくらでもある」という。その価値を知らなかった山の男がやがてその金や銅または鉄を採って長者になるという筋書である。
ここ住吉神社の社伝でも、藤太はこの地に居住して製炭や採鉱を始め住民にも教えたという。金や鉄で長者になるということは、金山師、鉄穴師(かんなし)※、タタラ師などである。しかも「タタラ」という溶鉱炉は沢山の木炭を必要とし、生活様式が進むにつれて鉄文化が発展し、一つのタタラに砂金や砂鉄、銅鉱を採る人、木炭を焼く人、木炭を炉に入れるとか炉に風を送る人など多勢が集団で働いたに違いない。
※鉄穴師(かんなし)とタタラ…鉄穴師とはタタラ製鉄などの原料となる砂鉄(または山を崩した土砂や砕いた鉱石)を水路や河川の流れを利用して土砂から分離する方法。
ただ、これらの人達はそこに資源がなくなると、新しい場所を求めて移動する漂白民、流浪民または山の集団となり、やがてこれらの産鉄(金)民は消え細り、木地師や「サンカ」「マタギ」という山の集団あるいは山岳修験者などに変わっていったのではなかろうかと。
このような優秀な採金(鉄)技術を身につけた集団に対する古代の王権政府(大和朝廷)は、如何なる手段をとったのであろうか。王権政府はこれらの集団を攻撃し、または懐柔したのではなかろうかという。坂上田村麻呂の蝦夷征伐もこのようなことではあるまいかと(井口一幸著『古代山人の興亡』より)。すれば平安時代の藤太は大和朝廷に帰順し、定住した集団の子孫と考えられないこともない。
また金売吉次も藤太の長男で宝沢に生まれたとの言い伝えであるが、宝沢(ホウザワ)は本来は「タカラサワ」であったのかもしれない。明治から大正にかけて馬見ヶ崎川上流では多くの銅鉱山(あわせて金や銀も)が開発された。
上宝沢の古老(佐藤亀之助、明治45年生まれ)の話によれば、上流の「村木」地内坑口傍から古いタタラの鉱滓が出たというし、また、防原の金光鉱山を開発した五十公野一氏(山形市七日町)もやはり釈迦堂の「梅の木」から同じくタタラの鉱滓が出たという。したがってその溶鉱炉→タタラからタタラサワ→タカラサワとなった可能性もあるのではなかろうか。
※タタラ(踏鞴)…粘土で造った角形の炉で、原料の砂金(鉄)や鉱石と木炭をいっしょに入れ、下から風を送って燃焼させ溶解し製成する。
〜東沢の歴史散歩道「住吉神社本殿」より〜
上宝沢 住吉神社(昔は藤太宮)
平安時代の末期、出羽国宝沢の里に藤太という炭焼が住んでおり、炭を焼いては遠く白岩や寒河江の里まで炭売りに行くのを仕事としていた。
その頃、京の一条院の豊丸姫が日頃信仰する清水の観音さまから夫となる人は、宝沢の住人藤太であるとのお告げがあり、京から宝沢まではるばる遠い旅路を辿ってきた。途中あられもない姿をうつした「恥ずかし川」、行きつ戻りつ思案にくれた「五度坂」、立ち登る煙を見て訪ねた「姫沢」、長旅の疲れをいやした「股旅の清水」などの説話を留めながら、ようやく藤太の住まいに辿りつき夫婦になった。
或るとき、妻の豊丸姫は藤太に小判を渡して来て味噌を買ってくるようにたのんだ。炭を背負った藤太は途中国分寺(薬師寺)の近くの池で鶫が泳いでいるのを見かけ、この鳥を獲ろうと思い小判を投げつけたが、鳥にあたらず水中に沈んでしまい、米も味噌も買わずに帰った。
姫から小判は値うちあるものと教えられ、これまで見向きもしなかった裏山の金で藤太は大金持ちになった。
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