2014年9月10日水曜日

元木の石鳥居 [山形]


元木の石鳥居


〜現地・案内板より〜


国指定重要文化財
鳥居
昭和27年11月22日指定


竜山を背景に西に面して立つこの石鳥居は、古来より「元木(もとき)の石鳥居」とよばれ、最上三鳥居の一つに数えられています。

凝灰岩(ぎょうかいがん)で造られた素朴な鳥居は、総高が351cmで、左柱の直径が97.1cm、右柱の直径は92.3cmあります。笠木(かさぎ)と島木(しまぎ)は一石から彫り出し、貫(ぬき)は柱を貫通しないで、両側から穴を掘ってさしこんでいます。柱をはじめと各部分の割出しが太く、幅に対して高さの低い姿が古さを示しています。

造立は竜山の仏教文化全盛の平安時代と言われ、日本でも古い時代の鳥居の一つです。山形市蔵王成沢の「八幡神社の石鳥居」とともに、山形市が誇る文化財です。
平成四年三月
山形県教育委員会
山形市教育委員会




〜竜山地区町内会連合会『竜山地区 歴史の散歩道』より〜


御立の鳥居

瀧山信仰の象徴である「御立の鳥居」は、通称「元木の鳥居」と呼ばれてきた。いつの頃のものかは不明だが、天延の頃(973〜976)瀧山大権現へ奉納されたものと言い伝えがある。日本石像文化財の権威、川勝政太郎先生によれば、日本最古のものであるとの折紙つきのものである。大阪天王寺鳥居に比べても、また、大分県臼杵市深田の石鳥居よりも更に古いと言われている。

昭和27年(1952)、国の重要文化財に指定された。瀧山への鳥居としては蔵王成沢の八幡神社にもあり、これも国の重要文化財に指定されている。蔵王成沢の滝本家文書によれば、天仁二年(1109)建立となっている。

瀧山詣の信者たちは、この雄大な鳥居から瀧山を仰ぎ、瀧山川に沿って山頂へとむかったのである。


上山藩の儒学者、五十嵐于拙(うせつ)は、「…柱の根もといと細らぎて、久方の天津乙女が羽衣もてなづるいはほの古る事と思ひあはされ侍る…西行上人もまうで玉ひて花の一言を残し玉ふ名所なるけるらし。

瀧の山 かへりまうでの 袖ふれて
いしの石居も 細らぎやせし

」と記している。

心なき者のために、台座がセメントで固められたことは、かえすがえすも残念なことである。最上の三鳥居の一つに数えられている。





〜安彦好重『山形の石碑石仏』より〜


鳥居が丘 元木の石鳥居


国道113号線、元木から東に約50mほど入った所に、国重要文化財に指定されている通称「御立の鳥居」が立っている。風格堂々として古雅な趣があり、一見して誰もが驚嘆する偉容がある。

地表総高3.51m、柱はやや角味をおびた円柱で、直径94.5cm、高さ2.91mで直立している。その上に一石からなる笠木と島木が両端を少し上に反らしてのっている。笠木の長さ5.67m、島木の長さ5.18m、この両木までの高さが55.2cmで、島木は別石で継ぎ足している。両木とも両端は垂直である。貫は円柱を貫通せずに差し込み、貫の両端は別石をもって柱外に出して補っている。島木と貫の間の束は後補である。

全体的に高さに比して横に広く、そのためにどっしりした安定感をかもし出している。円柱は円い礎石の中に刺し込んで固めている。

現在は保護のために周囲に石柵で囲み、道路も両側に回しているが、西面しているところから、この鳥居の造立は竜山信仰の参道(元木、小立、岩波、八森、土坂へと至る表参道)に立てられたものというのが定説になっている。そして、その造立年代は、竜山信仰の隆盛な平安時代を下らないといわれている。

石質は粗い石英粗面岩で、「最上三鳥居の一」と称されている。



凝灰岩

〜朝日新聞 リポートやまがた(2013年11月24日)より〜

「元木の石鳥居」守りたい

元木の鳥居が国重要文化財に指定され、10年がたった1962年、岡本太郎がふらりと訪れた。隣に住む伊藤孝子さん(78)は、しげしげ見て回る男が岡本太郎だと聞かされ、「有名人が遠くから来るほど立派な鳥居なんだと、誇らしく思った」と振り返る。

現在は住宅に囲まれ隠れてしまったが、かつては遠くから見えるランドマークだった。地元の郷土史研究会で顧問を務める山川栄司さん(86)は「建立した当時、この辺りは貧しい農民ばかり。苦労して資金を出し建てたのだろう」。

天延年間の建立なら、ゆうに千年。風化が進んで、はがれやひび割れが目立つ。山川さんは今年(2013年)5月、鳥居の下で大人のこぶし大もある落石を見つけ、市に「抜本的な保全」を要望。市教委は、来年度(2014年度)から2カ年かけて鳥居の調査と修理に取りかかると回答した。



〜東北芸術工科大学、文化財保存修復研究センター『日本最古の石鳥居群は語る』より〜

元木の石鳥居

1962年10月19日
岡本太郎は元木の石鳥居を訪れて写真を撮っていた。

カメラのレンズを隔てて太郎の眼が光る。愛用のカメラのシャッターをしきりに押している。

どっしりと立ち尽くす石鳥居の姿を見ながら、彼は何を思い描いていたのだろうか。一切の飾り気のない無垢な石鳥居を目にしながら、大らかで純朴な東北の風土を、そして縄文の息吹までを感じ取っていたのではなかろうか。

石鳥居はそんな彼を静かに見守っていたであろう。


所在:山形市鳥居ヶ丘
様式:明神系古式春日鳥居
年代:平安時代
材質:頁岩質凝灰岩
寸法:総高3.51m、柱径0.94m、笠長5.66m
指定:国指定重要文化財(昭和27年)
位置:38°13'43.4"N 140°19'44.2"E

 元木の石鳥居は、山形県の村山盆地を南北に走る国道112号線と、蔵王山系の瀧山から西に流れる瀧山川の交差点に位置し、瀧山へ向かう小立街道沿いに東西に面して立っている。

 信仰対象となる瀧山は、豊富な水を一年中絶え間なく大地に注ぐ。このためか、瀧山の山中と麓には縄文遺跡が発見されており、代表的な例として熊ノ前(くまのべ)遺跡がある。これらの縄文遺跡は、瀧山が古くから豊かな生活環境が保たれていたことを物語る。この自然の恵みをもたらす瀧山への人々の思いは、やがて瀧山信仰へつながっていく。

 瀧山の開山は奈良時代の行基菩薩によると言い伝えられ、仏教が全国に広まる平安時代には「霊山寺」という定額寺が建立されたとする伝承が残る。定額寺とは言わば国認定の寺院のことであるが、このくだりは『三代実録』にも記載され、貞観九年(867)という創建年代を記している。また、地元に伝わる『瀧山大権現中桜田縁由』にも「麓に霊山寺の大伽藍を築造す、今の護摩堂是なり…」と記されている。つまり、瀧山には少なくとも9世紀頃から山岳仏教信仰と関わる数多くの宿坊があり、山門としての鳥居もその頃には存在していた可能性が高い。

 日本における神仏習合は、神宮寺が設けられる8世紀を境に一般化し全国に広がるが、元木の石鳥居もその時代の影響を受けたであろう。ただし、古い鳥居は常に木製であったに違いない。元木の石鳥居は笠木や島木などといった木造づくりの要素をそのまま残しており、木造の鳥居に取って代わって造られていたことが容易に想像できる。すなわち、現存する日本最古の「元木の石鳥居」は、木から石づくりに変わる鳥居造りの変遷を知る上で、大変重要な文化遺産といえよう。



 元木の石鳥居の建立年代をめぐっては、鳥居に刻まれた銘文の痕跡がなく、地元の文献記録も残っておらず、その推定にあたっては非常に厳しいのが現状である。しかし、元木の石鳥居に酷似した鳥居が瀧山の麓にもう一基残っており、この場合は建立に関する記録が伝わり、元木の石鳥居についても触れている。また、幕末の文人による記録や地元の言い伝えも一部残っており、これらを総合することで建立年代に関する一定の推定は不可能ではない。

 龍山の麓のもう一基の鳥居とは「成沢の石鳥居」と称するもので、建立は平安時代とされており、昭和27年に元木の石鳥居と合わせて国指定重要文化財となっている。この石鳥居は元木の石鳥居から南方1kmの蔵王成沢地区に立つ。その位置は瀧山へ登る入り口となり、裏参道の山門としての役割を果たしていたとされる。この状況から瀧山信仰に関係する石鳥居であることは疑う余地がない。ただし、近世に現在の位置に移動されたという言い伝えがあり、今現在は成沢城跡の南斜面の麓に鎮座する八幡神社の入口に立っている。

 この成沢地区の奥山家に『寛永九年家伝記』が伝わる。これによると、同地区の八幡神社の縁起を語りながら、「石鳥居の柱は九尺三寸まわり、高さ九尺三寸、笠石は三間であり、天仁二年丑年に建てられた」としている。一方、その記述と並んで「本木村の石鳥居は柱九尺五寸まわり、高さ九尺八寸、笠石までの高さは一丈二尺」と記されているが、なぜか建立年代は書かれていない。八幡神社の鳥居は現在の「成沢の石鳥居」を、本木村の鳥居は「元木の石鳥居」を指している訳だが、重要なのは石鳥居の建立年代が記されている点である。また、鳥居の寸法が記載されているのも注意すべきである。これらの記し方からは、両者の信仰対象が同一であり、建立時期も平安時代に遡るとしていることが分かる。



 具体的に、成沢の石鳥居の建立年代とされる天仁二年(1109)は、平安時代後期に差し掛かる。瀧山信仰の歴史的な背景を勘案しても、この年代はさほど無理がなさそうであるが、それと同時に様式上の特徴が大いに考慮されていたであろう。すなわち、明神系鳥居でありながら笠木の反りがなく、柱の転びもない。しかも、柱間と貫下の空間が横長の傾向が強い。これらは室町時代以前の特徴であり、典型的な古式鳥居の様式を成している。

 実際に、昭和27年の重要文化財の審議にあたっては、石造美術の最高権威である川勝政太郎氏が主幹となったが、地元の歴史研究の権威として川崎浩良氏も同席していたことが分かっている。平安時代後期という建立年代の推定は、地元の歴史研究と様式による時代考証が加えられて見出されたのである。ちなみに、天童市出身の川崎浩良氏は、山形に伝わる古式鳥居群の重要性にいち早く注目した人物であり、歴史的検証のために大分県の臼杵石仏群の入口に立つ「深谷の石鳥居」を調査している(『出羽文化史料』)。ただし、両者が審議にあたって、『寛永九年家伝記』における「天仁二年」を参考にしたかどうかについては定かではない。

 いずれにせよ、こういった成沢の石鳥居の建立年代の記載や、文化財指定の際に行なった時代推定の状況を考慮すると、元木の石鳥居の建立も平安時代に遡る可能性は極めて高いと考えられる。ただし、『寛永九年家伝記』は多くの家伝記がそうであるように、言い伝えを単に聞き書きしたり、書き写したりしたものである。このため、しばしば年代における時系列的な矛盾が見え、人物の名が時代に合致しないなど、歴史資料としての価値は比較的に低いとされる。しかし、この家伝記における元木と成沢の石鳥居については、建立年代はともかく寸法の大きさが記され、その記録値と現在の計測値はほぼ一致している。家伝記の全文の検証可能性は疑わしいとしても、一定の信憑性を有する部分も混在していて、その峻別が今後における課題となるのではなかろうか。



 元木の石鳥居に関する唯一の文献記録として『寛永九年家伝記』だが、客観的に検証可能な部分として寸法の記載があり、両者における寸法の書き方や詳細な寸法が異なっている。ここで、両者の実寸法を三次元レーザー計測法により求めて比較を試みた。その結果、元木と成沢の石鳥居は細部の構成と寸法において相違点が多いことが明らかになった。

 なかでも人が通る開口部の貫までの高さを「1」として、柱間隔(柱内)を比較すると、成沢は「1.1」に対して、元木では「1.3」の割合で横に長い。一般的に鳥居の変遷は構造的に横長から縦長へ、また柱の転びと笠木の反りなどを含む装飾性が増加する。その点で元木の石鳥居は成沢より古い形式を示すと言える。

 さらに、島木の断面構造にも差が見られる。島木断面の高さを「1」にして幅を比較すると、成沢は「1.4」に対して元木は「1.9」を示し、開口部と同様に元木の石鳥居が成沢より横が長い。この他に、元木の笠木は成沢に比べて約0.5mも短いが、額束の大きさは1.5倍も大きい。このため、高さが低い元木の石鳥居の方が、笠と貫との空間が広くなっている。他にも柱と笠木の両端までの長さや、島木の反り度合いなどにも差が見られる。すなわち、細部形状ではあるが、全体にわたって両者の差が多く見受けられる。

 これらの違いが何を意味するのかは現時点で判然としない。信仰の帰属を同じくする鳥居が同時期に制作されたとすれば、同じ産地の石を使い、同じ設計と技法により制作された可能性が高い。しかし、細部の寸法はともかく形状も異なっているのは釈然としない部分である。成沢の石鳥居に限定して建立年代を記載しているところも、「同時期制作説」に疑問を感じさせる一場面である。ただし、現段階においてこれ以上を語る客観的な根拠は見当たらない。



 家伝記には元木の石鳥居に関する興味深い記述がもう一か所見られる。幕末、農民たちの不満が爆発した村山一揆に関する内容である。

 「天童からはじまった怒りを募られた二千人あまりの群衆が次第に南下して、元木の鳥居に集まった。下桜田の三九郎はこの群衆に酒と握り飯をふるまった」と記している。

 実際に二千人の人が集まったのかは確認できないが、怒りをあらわにする人々が最終的に結集する場所として、元木の石鳥居を選んだことは大変興味深い出来事である。元木の石鳥居は神社の前ではなく、御神体の瀧山の麓に立つが、瀧山の麓は緩やかな扇状地を示し、古くから広大な水田が広がっていたことが絵図からも確認される。このことを念頭に入れると、元木の石鳥居は一つのランドスケープとして、常に人々の心の寄り所となっていたのではなかろうか。「鳥居の周りには田圃しかなく、どこからも良く見え、鳥居に見守られているようであった」という地元の証言がある。このあたりは石鳥居と人々との係わりが覗える場面であり、元木の石鳥居が心の原風景となっていたことを示唆する。

 その後、群衆は寒河江からやってきた大官により解散したと記されている。



 ところで、元木の石鳥居は最初から石鳥居であったのだろうか。本来、鳥居は木で造られていたが、耐久性などの問題もあって、時代が下るにつれ石造が主流となっていく。というわけで、平安後期とされる建立年代は変遷上にどういう意味をもつのだろうか。検討すべき重要課題の一つである。

 鳥居の石造への変遷を示す代表例として、大阪市の四天王寺の石鳥居がある。四天王寺は聖徳太子録の奈良時代創建の寺院であり、鎌倉時代の絵巻物に見える鳥居は赤塗りの木造を示す。しかし、現在の重要文化財として指定されている四天王寺の石鳥居は、その名の通り主な部分が花崗岩の石で造られている。鳥居の島木部に「永仁二年(1294)に石造に作り替えた」という銘文が刻まれており、木造から石造への変遷を裏付けている。

 また、昭和の解体修理にともなって研究調査が行われていたが、興味深いことに貫と島木を覆う銅版のなかから、梁状の木材が見つかっている。さらに、そのなかには巻物状の経典や髷など奉納品が収められていた。これは鳥居を石造に変える際、既存の木造の鳥居の部材を再利用していることを表わし、構造物としての機能よりは、神木のような信仰的な意味づけがより強かったことを物語る。

 いずれにせよ、四天王寺の石鳥居は木造の部材を意図的に残している事例として、鳥居の石造への変遷を既定する際に、大変重要な資料となる。この四天王寺の石鳥居への造り変えが永仁二年とすると、元木の石鳥居はそれよりも185年も古いことになる。すなわち、元木の石鳥居は「現存する最古の鳥居」であり、木造から石造への変遷を示す最古事例となる。



 元木の石鳥居の建立年代をめぐっては、天仁年間のほかに「天延年間説」が地元に見られる。地元の『瀧山の歴史』には、元木の石鳥居の建立年代を天延元年(973)と記載している。これは地元の言い伝えを記録したもので、考証可能な史料は現時点で見当たらないのが実情である。

 また、幕末の上山藩士で儒学者として名高い五十嵐于拙が、元木の石鳥居に足を運び聞き書きを残している。その聞き書きには「天延頃建立」と記されている。だが、この場合も天延年間説の根拠となる文献史料はないに等しい。ただし、石鳥居の建立年代が平安時代に遡ることを示す「地元の伝承」という意味では、大変貴重な事実と言えるのではなかろうか。五十嵐于拙は元木の石鳥居の前に立ち、

「たきの山 かへり詣の袖ふれて 石の鳥居も細らぎやせし」

という句を残している。彼は石鳥居の「細らぎやせし」姿と、「天延頃建立」の話に古を感じていたのかもしれない。







山形の石鳥居:

成沢の石鳥居 [山形]

三百坊の石鳥居 [山形・龍山]

父母報恩寺 [山形・村山市]

清池(しょうげ)の石鳥居 [山形・天童]

谷地中(やちなか)の石鳥居 [山形・天童市]







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