2014年10月3日金曜日

富神明神社とストーンサークル [山形・柏倉]


富神山と神社の鳥居

〜現地・案内板より〜

富神明神社

 当神社は、その名のとおり富神山を祀った神社です。富神山は、秀麗な山容と圧倒的な存在感パワーで古代から神と仰がれ、今もわが古里のシンボルであります。

 社殿は、縄文時代の環状列石という遺跡の中央部に建っています。ここは古代から「トカミ」のお山を仰ぐ「まつり」の場であったのです。国の正史「三代実録」貞観十三年(871)神階従五位下を奉ぜられた「利神」とは「トカミ」すなわち富神山であると考えられています。

西山形振興会



富神明神社



〜西山形振興会「西山形の散歩道」より〜

富神明神社

 昭和五十二年の発掘調査に「窪遺跡の環状列石」がある。これは大体今の富神明神社の境内あたりで発掘され、縄文時代の祭祀跡と考えられている。環状列石とは円形に石を並べて特別な場所を示したもので、窪遺跡では半径20〜25mの円弧状の列石が出土したが、全体の大きさは未定である。普通、南から北を拝して神を祀るのが通例である。われわれの遥か祖先の縄文の昔から「おまつり」をした場所に、後代になって今の富神明神社が建立され、富神山を礼拝し続けてきた実証であろう。

 そうしたいわれをもつ富神明神の御社殿は、高床の一間社流造り(柱間約七尺)、全体に古風を守り、組物も確かで、誠実な古く良い建物である。貞享三年(1686)の棟札が現存している。

 昭和三十七年、郷土史の第一人者武田好吉氏が、この神社のご神体と称する高さ約1mの男神木造を調査拝見している。山形県文化財保護協会の「羽陽文化」八十二号所載の報告によると、台座共一本造りで、烏帽子、袍、拱手が表され、明らかに御神像で、十四世紀頃の作と推定されている。

 古来、神まつりに「像」は必要なかった。地鎮祭はその一例である。仏教の影響で造像されても、本来仏像と違い人目に触れることを目的としないから、簡素な造りが多い。従って神社に御開帳はない。秘して人目に出さないのが普通だから、富神明神社神像も厚く「コモ」に包まれ、古代の「真床覆衾(まどこおふすま)」の古例を今に伝えて貴重である。



境内は上丁の児童遊園になっている。


〜西山形振興会「西山形の散歩道」より〜

富神明神社のストーンサークル

縄文の天体観測?


「ストーンサークルって何?」

「むかしね、石を円を描くようにいくつも並べて、そこでお祭りのようなことをしたんだ。その石の輪をストーン・サークルって呼ぶんだよ」


「むかしって、いつ頃?」

「何千年も前の縄文時代だよ」


「お祭りって、どんな事をしたの? お神輿をかついだりしたのかな」

「いや、石の棒を立てたりしたらしいのだけど、どんな事をしていたのか、くわしいことは何もわからないんだ。亡くなった人の弔いをしたとも言われている」


「むかしのことだから分からないの? どこかにストーンサークルがあるといいな」

「すぐそばにあるんだよ。『おみんつぁま』って知らないかな?」

「柏倉上丁の?」

「そう。富神明神社って言うんだけど、『おみんつぁま』って呼んでるよね。あそこにストーンサークルがあるんだ」

「ブランコと滑り台があったけど、石の列なんかなかったよ」

「それがあるんだ。でも土の中にね。おみんつぁまの社があるだろ。あの社を中心にして半径20mの円を描く。その円を描いたところにストーンサークルの石の列が眠っているんだ」

「ほんとう?」

「ほんとうさ。おみんつぁまの社の前に立ってごらん。社の後ろには富神山が見えるだろう。ほぼ、真北に当たる。だから富神山の上には北極星が見えるよ。縄文の人々は星を愛したんだね。おみんつぁまのストーンサークルは今から四、五千年前に作られた。そのときの北極星は今の北極星とは違うんだ。りゅう座のアルファ星トゥバンが北極星だった。今はこぐま座のアルファ星ポラリスが北極星だ。おみんつぁまのストーンサークルから富神山のてっぺんを見ると、五千年前にはりゅう座のトゥバンが北極星として…」

「富神山のてっぺんに輝いていた!」

「夏至や冬至の日の夜に、おみんつぁまから富神山のてっぺんを見上げてごらん。ストーンサークルは夜空に輝く星と関係があるし、夏至や冬至の太陽とも深くかかわっている」


註:

ストーンサークル(環状列石)は東北に多い。秋田・大湯のストーンサークルは直径40〜48m。西山形柏倉のストーンサークルは直径40mでほぼ同規模。墓地あるいは祭祀場として使用されたと推測されているが、その事実は不明。西山形のストーンサークルは昭和の圃場整備の際、取り付け道路の工事をしているときに偶然発見され、発掘調査が行われた。柏倉の縄文遺跡群の一つ。



イチョウの大木の樹下に、大量の銀杏が。


〜現地・案内板より〜

窪縄文遺跡跡

 発掘調査は県営圃場整備事業に伴う昭和52年7月から約1ヶ月にわたって行なわれました。縄文時代後期の遺跡で、遺物として土器片、鉢、深鉢、いしじり、いしさじ、いしへら、凹石など数多く出土しています。

 遺構は環状列石で、推定外径がほぼ富神社を中心にして40m、発掘された場所は西側の一部です。環状列石は墓地、祭祀の場と二通り考えられたのですが、本遺構は土壙(どこう)などの埋葬地施設が発見されないのと、未発掘の部分が多いため詳細は不明ですが、一応は祭祀的な場所と考えられます。

西山形振興会







〜西山形振興会「西山形の散歩道」より〜

柏倉縄文遺跡群

 山形市の西に流れる須川の西岸には、縄文から平安にいたる古代の遺跡がある。西山形は縄文の栄えた土地だった。畑に鍬(くわ)を入れれば縄文土器が出る。激しい雨の後にはキラリと光る矢じりが出る。素焼きの壺のかけらが出る。

 昭和50年代に入って、そのことがはっきりと示された。山形県が発行した「柏倉地区遺跡群」に西山形の8つの縄文遺跡が報告された。昭和51年5月〜52年11月にかけて県教育委員会は柏倉の埋蔵文化財をすみやかに、綿密に調査し、その結果、おびただしい数の土器や石器、愛くるしい土偶、そして東北有数の規模を持つストーンサークルを掘り出したのだ。

 窪遺跡の環状列石(ストーンサークル)には、こぶし大ほどの石がどっしり置かれていた。半径20mほどの大きさで集石が置かれ、石の輪の中心には富神明神社が建っている。どんな目的で石が円形に置かれていたのか、縄文の謎の一つだが、祭祀や葬送の場とも考えられており、ストーンサークルの北には神名備(かんなび)の富神山が鎮座している。

明源寺住職、柏倉玄神さん曰く、「当山からは環状列石(ストーンサークル)の立石が出てきております。この館の地には少なからず、小さい物から大きい物まであったものと考えられます。環状列石の立石の大きい物では、上丁の富神明神社に出土したものが有名です。明神様の環状列石は調査後に埋め戻しが行なわれましたので、今は境内地の土の中ですが、見学された人も多くいたようです」



社殿がストーンサークルの中心となっていた。


神名備「富神山」




「富神明神社」の緯度経度
38°13'53.5"N 140°15'25.2"E
38.231513, 140.256995




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