2016年11月30日水曜日

山形蔵王へのアクセス



山形蔵王
Yamagata Zao
交通ガイド
Traffic Guide

『るるぶ山形2017』より





車で山形蔵王へ

山形蔵王へは、山形道を「山形蔵王IC」で降り、国道286号から西蔵王高原ライン(無料)でアプローチ。

川口JCTから「山形蔵王IC」まで約350km(高速料金8,160円)。山形蔵王ICから蔵王温泉までは約18km。トータルで4時間10分程度。



公共交通で山形蔵王へ



飛行機

山形県内には2つの空港(庄内空港と山形空港)がある。山形空港へは羽田空港(東京)から1日2便、伊丹空港(大阪)から1日3便、小牧空港(名古屋)から1日1便、就航している。



鉄道

メインルートは山形新幹線。東京駅から「つばさ」が山形方面へ直行している。

山形新幹線「つばさ」
東京駅から山形駅まで、約2時間45分(1万1,340円)。1時間に1〜2本。



バス

首都圏からの高速バスは、すべてが独立3列シート。早朝から動き回るのに便利だ。

東北急行バス「レインボー号」
東京駅八重洲通 夜行1便(23:05発)
山形・山交ビルまで約6時間45分(6,600円)

上野駅前、浅草駅前でも乗車OK。終点の山交ビル(バスターミナル)は山形駅から徒歩5分。ほかに新宿駅南口発の「ドリームさくらんぼ号」(JRバス東北)、浜松町BT発東京駅八重洲通・山形経由新庄行き「TOKYOサンライズ号」(東北急行バス)もある。



山形駅〜蔵王温泉へ

山交バス(37分・1,000円)
山形駅から蔵王温泉バスターミナルへ、ほぼ1時間に1便。日中は山形駅前を毎時20分発。



Telephone Guide

鉄道

JR東日本(お問い合わせセンター)
050-2016-1600

航空

全日空(ANA)
0570-029-222

日本航空(JAL)
0570-025-071

バス

東北急行バス(高速バス予約)
03-3529-0321

山形交通(山交)バス
023-632-7272(案内センター)
023-632-7280(高速バス予約)

レンタカー

駅レンタカー
0800-888-4892

トヨタレンタカー
0800-7000-111

ニッポンレンタカー
0800-500-0919

日産レンタカー
0120-00-4123




鴫の谷地[蔵王]



鴫(しぎ)の谷地(やち)沼
面積:66.888平方m
周囲:1.2Km
最大深度:6.8m





斎藤茂吉 歌碑


ひむがしに 直にい向ふ 岡に上り 蔵王の山を 見守りて下る



〜現地・案内板より〜


鴫の谷地沼
斎藤茂吉 歌碑
昭和44年 山形新聞・放送建立


昭和20年、茂吉は郷里の金瓶村(上山市)に疎開生活中に、この歌を詠みました。蔵王山は茂吉にとっては単なる精神の支柱というだけでなく、蔵王を愛する茂吉そのものの姿といえるでしょう。


ひむがしに 直(ただ)にい向(むか)ふ 岡に上(のぼ)

蔵王の山を 見守(まも)りて下(くだ)

『小園』昭和20年


歌碑は、自筆書を黒みかげに陰刻し、安山岩にはめ込んだもの。

雑木林の中に、銀ドロの木が2本、ひときわ明るく碑をかこんで風情をそえている。






※ 斎藤茂吉『小園』
第15歌集。歌数782首。62〜64歳まで。昭和18〜21年1月まで。
疎開先の金瓶を去って、再疎開地大石田に赴くまでの期間の歌を収録。題名は「小園(せうゑん)のをだまきのはな野の上の白頭翁(おきなぐさ)のはなともににほひて」に拠ったものである。



佐藤助雄 『振向く』



〜現地・案内板より〜


佐藤助雄『振向く』

1919(大正8)-1987(昭和62)
山形市に生まれる。後に北村西望に師事。

1955(昭和30)日展特選
1980(昭和55)日本芸術院賞受賞




瀧山に朝の光があたりはじめる


横倉瀧


大森ゲレンデ側にカモシカあらわる


啓翁桜


沼の周囲は1.5kmの遊歩道


水神


鴫ノ谷地 溜池 竣工記念碑
昭和22年


周辺地図




2016年11月29日火曜日

Zao Cards




Zao Hot Spring
蔵王温泉

Zao Onsen is a hot spring village founded approximately 1,900 years ago. It's said to have been discovered in 110 AD. Zao Onsen is one of the strongest highly acidic spring in Japan (pH1.8, sulfur spring). The water has a unique smell, you can't make any soap bubbles. It's also known as "The Fountain of Beauty" due to its reputation for healing the skin and blood vessels.



Zao Big God
蔵王大権現



Volcano Lake
蔵王お釜



Zao Buddha
蔵王地蔵



Nabekura Fall
鍋倉の滝
 


Zao Big Gate
蔵王大鳥居


The red gate is known as Torii. They were considered the boundary between the world of gods and the world of humanity.
16.34m tall and 22m wide.
Built in 1968, renewed in 2016



Mountain Lady
山姥



Blue-Green Butterfly
アサギマダラ


Flower Queen
コマクサ


Wild Animal
かもしか



Edited by Rollip



南無阿弥陀佛碑と見返り滝[蔵王]



南無阿弥陀仏碑


嘉永二年(1850)五月吉日





〜現地・案内板より〜


南無阿弥陀仏碑
嘉永二年(1850)
初代 孫七 書


川沿いに建つこの古い石碑は、旧高湯村入口に建立されたもので、村人・旅人の安全を祈願したものです。

「一切衆生平等利益」
Wishing for fairness and goodness of people

当時の面影を残し、現在も温泉街と人々の安全を願っております。



高湯温泉(蔵王温泉)のパンフレット絵図


蔵王三山


温泉街


龍山



〜現地・案内板より〜


どんどんびき(見返り滝)
Dondon-biki(Mikaeri-taki)

この川(酢川)は、温泉と山水が混ざり、温かい川になってどんどんと音を立てて流れており、この場所は通称「どんどんびき」と呼ばれています。

This river water consists of quite a bit of hot spring water and mountain water, and it becomes rapid stream around this area. This place is known as Dondon-biki, by the local people, because the stream makes a roaring noise sounds Don-Don.

その昔、子供たちが悪いことをすると「ここから放り投げるぞ」と言われた場所です。

In the past, when the children misbehave, the parents used to say "You will be thrown out to the Dondon-biki so behave yourself" to their kids.

また、元来この滝のあるところが温泉街の玄関口であったので、お客様が帰り際にもう一度温泉街を振り返る場所ということから、この滝が「見返り滝」と呼ばれていました。

Also, a long time ago, this area was the gateway of Zao-Onsen, the river used to called "Mikaeri-Taki (Turning around Water Fall)" as people turn around the Onsen village one more time before leaving.



どんどんびき(見返り滝)


大正8年 電燈が灯ったころ


羽州村山郡 最上高湯村 温泉之図 (弘化二年)




2016年11月28日月曜日

下湯[蔵王温泉]



蔵王温泉


下湯 共同浴場



〜現地・説明紙より〜


当浴場の温泉表示

温泉地名:蔵王温泉
利用施設名:下湯共同浴場

源泉名:蛇荒川折口・インキョ・上の川混合源泉
採水位置:山形市蔵王温泉字中森886番地、882番地の2
泉質:酸性・含硫黄・硫酸塩・塩化物温泉
源泉の温度:56.9℃
供用場所での温度:43.0℃
水素イオン濃度:pH 1.8

加水:源泉温度が高いので、水道水(井戸水)を加えて温度調節をしています。
加温:加温は一切行っていません。
かけ流し・循環ろ過:温泉水は、すべてかけ流し(放流式)です。
入浴剤・消毒:入浴剤、消毒剤は一切使用していません。

当館は、社団法人山形県温泉協会に加盟しており、安心して利用できる温泉を提供しています。

施設名 下湯共同浴場



源泉かけ流し



〜現地・案内板より〜


蔵王温泉の由来
The origin and evolvement of Zao Onsen


日本最古の温泉の一つに数えられる蔵王温泉は、西暦110年、日本武尊の蝦夷征伐に従軍した吉備多賀由が発見し、傷ついた身体をこの湯に浸かり完治したと言われています。

Zao Onsen is counted among the oldest Hotsprings in Japan. It is said that around year 110 of the Christian era, this hot springs was discovered by a wounded warrior named "Kibino Takayu", in which he was completely recovered from a serious injury after he bathed a couple times. 

また、日本書紀を含む六国史の日本三代実録にも蔵王温泉(酢川温泉神社)の記述が残されており、山形城主・最上義光公も当温泉を愛したと言われています。

This hot spring area was used to called "Takayu Onsen", and described in one of the oldest historic book in Japan "Nihonshoki" published in seventh century. It is also said that Mogami Yoshiaki, the Lord of Yamagata Castle, (1546-1614) loved Takayu Onsen.

蔵王山は、古来より山岳信仰の霊山と称されており、特に龍山には三百坊舎があり(出羽風土記参照)多くの修験者がこの湯に浸かり身を清めました。

Zao Cordilleras was also known as "Hallow Mountain" of the ancient mountain worship; holy men used to come and bath at Takayu Onsen to rest and purify their bodies.

標高900mの高地に湧き出す温泉は、日本有数の強酸性泉で、切傷、皮膚病、胃腸病に効果があり、「美人の湯、子供が丈夫に育つ湯」としても知られています。

Zao Onsen is one of the strongest highly acidic springs in Japan, and it is not only said to be good for cut, skin diseases and gastrointestinal illness, but also known as "Springs of the beauty" and "Springs for raising the healthy children."

昭和25年に蔵王山が日本観光地百選の山岳部第1位に輝いてから、それまで呼ばれてきた高湯温泉を蔵王温泉に改め今日に至っています。

On 1950, Mt. Zao was chosen a winner of Mountains category of "Best 100 Tourist site in Japan", and "Takayu Onsen" was renamed as "Zao Onsen" and continuing the development.



足湯



〜『蔵王今昔温泉記』伊東久一覚書より〜


高湯の湯治
木村富子





高湯温泉はその頃ようやく旅館の形態を整えていたが、余り行届いたサービスとては無かった。或時、行きつけの○屋が満員だというので、夏休みだったと思うが親戚の小学生など連れて、急に知人から紹介して貰った○○屋に投宿した。

二、三日なので「はたご」で依頼したが、通された処は古い座敷で、濡縁の下は崖になっていて、その下に細い道がだらだらと坂になっていた。折角来たのにと思って私はがっかりしたが、相手は子供達なので、すぐに裸になって表側の方に面した浴場に行った。

何しろ高湯は子供の「疳」に効くと言われているが一寸した皮膚の傷でもあると猛烈に痛い、しかし我慢して這入って仕舞えば大したことはないが、又湯から出る時空気にふれると飛び上るように痛い、それを事もあろうに四才になる皮膚炎の姪を連れて来たのであるから、浴場は大騒ぎである。泣き叫ぶのを湯から上げて、タオルの上で一面にシッカロールをつけるのだが、大きい子供に手伝わせて大奮闘である。しかしその後は大変さっぱりして気持良さそうであった。



子供連れのことなので果物やお菓子を持参して行ったが、荷物と一緒に床の間に置いたり、地袋の棚の中へ入れたりして寝んだが、翌朝床の荷物が散乱していて、地袋の中の梨とぶどうは皆鼠に喰い散らかされていた。

おまけに大きな糞が沢山落ちていたのである。しかし、こんな時にも女子供連れの客である私は、宿に一言の不平も言えなかった。女中さんに一言「鼠が出て果物皆食べられて仕舞った」と唯それだけ。子供達が、がっかりしたので、外へ行って何かお菓子を買って来たのだった。

紬の風呂敷を囓られたのが私は一番悲しかったが、不思議なことに、夜眠っている部屋を鼠が走り廻ったりして、細菌を一っぱい撒き散らしていったことなど、余り気にしないでいられたと言うのは、私の知能指数が低かったのか、時代的な認識なのか、今では一向判らないのである。

二晩泊って三日目に帰宅したが、皮膚炎の○子ちゃんは、浴室で二日間声を限りに泣いたので、帰宅してよく見ると、脱腸していて驚いた。






「蚤しらみ馬の尿する枕元」

封人の家の修復で脚光を浴びた陸羽東線「堺田」、芭蕉さんの歩いた三百年前ならば、旅としらみは当然の付き物であったことと思う。

蚤、しらみが一般家庭に棲息していたのは、極最近迄のことである。DDTなる物が現れる前までは、個人の家庭がいくら清潔にしていても、どこかで蚤が発生し、どこかで、しらみがもぐり込んで来たものである。

戦争末期の猛烈な繁殖は今でも記憶する人が多いと思うが、大正時代には学童の頭髪、下着等に根が絶えず田舎に行く程教師も困ったものであった。



或年、昭和○年、私は小さい子供達と老母を連れて高湯に行った。始めて行ったのである。バスは山形、蔵王間六十 銭位と覚えている。紹介して貰った○屋に五日程泊っていて、老母だけもう暫く湯治すると言うので、宿に食事を依頼して先に帰ったのであった。

当時の高湯温泉は殆どが自炊制であったが、「はたご」として泊まれば食事も出してくれたのである。部屋も同宿を拒む訳に行かず、人の出入りが多いので、蚤の活躍は致し方がないが、大きな蠅が食べ物の上を飛び廻り、便所やゴミ棄場には黒くなる程群っていた。これには何としても耐えられない思いであった。

二週間も老母は滞在していたが、迎いに行く時は子供を近所に頼んでおいて、私が独りで迎いに行った。老母はその頃七十才位かと思うが、「綺堂捕物帖」と言うのを読んでいて少しも退屈しなかったと云うが、家に帰って驚いたのは、頭髪の「しらみ」であった。実に見事に半白の髪の毛に巣喰っていたのである。老母曰く「毎日温泉で頭を温めると気持ちが良かったから、温めていたのでそれで殖いたのだね」。こんなこともあった。

誠に長閑な浮世風呂を思わせるものであった。



近隣に無料駐車場あり



話:飯田煕男(第一通信社クリエイティブ部副部長)





たいていの物には、表と裏がある。だが、球体に表と裏をみつけることは難しい。蔵王山もまた然り。

宮城県では蔵王山の表は宮城側だという。山の形の美しさが問題にならぬ。山形人のありがたがっている蔵王は裏側にすぎない。すると、山形人もまけてはいない。山形側から見た蔵王山の美しさがわからぬとは、よほどフィーリングのない連中だ。第一、山形側には竜山という前山があり、蔵王温泉があるではないか。すべての点から蔵王の表は山形側である。

かくて球体のように蔵王山に表と裏をきめることは、きわめて困難だ。ともあれ、山形人も宮城人も蔵王を愛することに於いて共通している。





このころの蔵王温泉は、まだ近在の人たちの保養地的な性格が強く、蔵王というよりは高湯の名で知られている。

今日同様、蚊はいなかったが、旅館に宿泊すると蚤の大歓迎。それだけ衛生設備や、環境衛生思想が未発達だったことになる。たまりかねた客が高湯の悪評をたてる一方、県や警察に苦情をもちこんだりしたために、それまで旅館同士が互いの利益保全を目的として、分家をしない、よそものを入れないなど閉鎖的な内容で結ばれていた協定が、話し合いによって解消され、自由競争の時代を迎える。







2016年11月27日日曜日

沢庵和尚と春雨庵[山形県上山市]



通りから見る「春雨庵」







〜現地・案内板より〜


春雨庵の由緒


江戸幕府の厳しい宗教統制のなかで、元和法度(幕府の禁止令)や紫衣(しえ)事件に抗議した京都大徳寺153世の沢庵禅師は、寛永6年(1629)8月、この上山に流されてきました。

当時の藩主・土岐頼行は、この地に小庵を建て居住させたが、沢庵は殊の外この小庵がお気に入り、自ら「春雨庵」と命名し、花鳥風月を愛でながら配流の身を慰められたと言われています。

藩主・頼行も、名僧・沢庵に帰依して教導を仰ぎ、上山藩政史上、顕著な治績を挙げ、領民からも名君として慕われました。



寛永9年(1632)7月、三代将軍・家光により赦免された沢庵は、3年間の流刑生活を終え江戸に帰られたが、この間、禅道のほか、詩歌・風流の道、水利や築庭の設計など、京都や江戸の文化を伝え、領民のためにも広範な知識を授け、城下町の発展に貢献されました。

寛永16年(1639)4月、沢庵に帰依した将軍家光は、江戸品川に東海寺を創建し、沢庵を住職に迎え開山としました。

沢庵は、江戸になっても上山の春雨庵で過ごした頃が忘れられず、時折、語り種(かたりぐさ)になるので、正保元年(1644)に頼行は上山の春雨庵を模して、東海寺の境内に塔頭(たっちゅう)を建立し、その名も春雨庵と名付け、土岐家の菩提寺としました。



爾来、幾星霜を経て品川春雨庵が一部改造の際、一間(ひとま)の長押(なげし)と天井板などを譲り受け、昭和30年7月、この地に復元したのが現在の春雨庵であります。

正面には沢庵の尊像(原図は吉川英治、作は初代野川陽山)と、茶人でもあった沢庵を偲び、南側には日本茶道院石山太柏設計による茶亭(望岳 軒[ぼうがくけん]、聴雨亭[ちょううてい])および飯田十基設計の茶庭が配されています。

また、この「春雨庵跡」は、昭和28年8月31日、山形県史跡に指定されたものであります。



春雨庵にて詠める歌 二首

花にぬる胡蝶の夢をさまさじと ふるも音せぬ軒の春雨

浅くともよしや又汲む人もあらば われにこと足る山の井の水





沢庵禅師 春雨庵



春雨



春雨庵 内部 沢庵禅師 木像


〜現地・石碑文より〜


澤庵禅師 遺跡 春雨庵 復元記念誌


江戸二代将軍徳川秀忠の寛永六年 京都大徳寺の高僧沢庵禅師 紫衣勅許事件により徳川幕府の忌諱に触れ抗弁するも入れられず 羽前は上山城主土岐山城守頼行に謫流預けの身となる

城主頼行日頃その徳を敬仰し閑寂を好む禅師のためこの地に草庵を与えし処 禅師殊のほか欣び春雨の二字を木額に掲げ春雨庵と称し 家光三代将軍となるや寛永九年赦免となるまで三ヶ年 禅師この草庵に配所の月を眺めし遺跡なり

将軍家光禅師に深く帰依し江戸品川の地に東海寺を建立 寛永十六年落慶の上開祖としてこれを迎える 特に禅師の為に春雨庵をこの地上山より東海寺に遷しその徳に酬いたり

然るに今次太平洋戦争により帝都灰燼に帰したるも幸い春雨庵のみ戦禍をまぬがる 昭和二十六年村尾要助氏の提唱により春雨庵復元保存会を結成 旧庵所有者土岐 章管理者伊藤康安両氏諒承のもと旧庵の天井なげしその他を譲り受け 昭和三十年七月落慶入仏式を終え完成をみたのである

さらに禅師愛用の山の井の水は滾々として今も尽きることなく 茶人禅師を偲ばんと石山太柏氏設計の茶室二軒 茶庭築造は飯田十基氏の指導により風致を添えたり

茲に春雨庵復元再興のため協力せる奉賛御芳名とその記録を永く伝え 特に本事業に尽瘁せられたる故村尾要助夫妻 石山太柏 伊藤康安 野川陽山氏をはじめ当時役員たりし斎藤又兵衛 朝一圭鳳氏等 先人の功績を顕彰すべく今般沢庵禅師遺跡 春雨庵保存会再発足を機に大方の寄進を仰ぎ記念碑を建立せるものなり



澤庵禅師 遺跡 春雨庵 復元記念誌


禅師尊像 西村清一郎鋳造


尚 記念碑の禅師尊像は山形市銅町西村清一郎氏の鋳造寄進になるもので 昭和二十七年村尾旅館御宿泊の際 今上陛下の天覧を賜わりしものなり

昭和五十八年八月十五日 春雨庵保存会 庄司三郎撰文 岡村利三郎 謹書



土岐灯籠


〜現地・案内板より〜


土岐灯籠の由来


寛永六年(1629)、上山藩主土岐頼行公は、江戸幕府の厳しい宗教統制から紫衣(しえ)事件に連座し、上山に配流された京都大徳寺第153世住持の沢庵禅師を、この春雨庵に迎え厚遇し、三年間禅師を尊師として教導を仰ぎ、上山藩政史上格別の治績を遺し、領民からも名君と慕われ、二代藩主頼殷(よりたか)公は大坂城代にまで栄進した。

元禄六年(1693)、頼殷(よりたか)公は東京都港区虎ノ門の江戸見坂に上屋敷を拝領され、その後、三度の屋敷替えもあったが、明治三十一年(1898)まで代々の土岐氏が居住した。

その屋敷跡の庭園が、昨年七月に改造されることになり、土岐家19代当主實光氏のご厚意により、上山土岐会にその庭園にあった石灯籠六 基と七層石塔一 基が寄贈された。

この灯籠の様式は、江戸時代中頃の風格を持つ貴重なものであり、上山市とも協議のうえ、「土岐灯籠」と命名し、上山市制施行並びに上山郷土史研究会発足50周年記念事業として、会員や有志の協賛と上山市の援助により、土岐氏と縁の深い当春雨庵に灯籠一基を建立したものである。

平成十六年四月十五日
上山土岐会
上山郷土史研究会



〜真壁仁『斎藤茂吉の風土 蔵王・最上川』より〜




地元のSさんや記念館の事務局長の案内で、ぼくらは茂吉の弟の旅館山城屋の前を通り、月岡公園で二つの茂吉歌碑を見、それから沢庵禅師謫居の跡の春雨庵を訪れた。

茂吉は昭和九年一月に輝子夫人を預かってもらうため上山に来、山城屋旅館に滞在中、雪のつもっている近郊の山みちを歩きさまよいながら、ふかく現世厭離(おんり)のおもいに沈んでいた。人を嫌(いと)う気持から諦念の世界へ落ち込んでいったのである。



斎藤茂吉「上ノ山に籠居したりし沢庵を大切にせる人しおもほゆ」



そういうときに、春雨庵を訪れ

上ノ山に籠居したりし沢庵を大切にせる人しおもほゆ

という歌を詠んでいる。

沢庵を大切にした人というのは、当時禅師を引き取った上山城主土岐山城守のことだといわれている。沢庵和尚はいうまでもなく、京都大徳寺の紫衣事件に罪を得て、権力に屈しなかったために寛永六年七月、遠くみちのくの上山まで遠流されたのである。

土岐は禅師の徳を慕い、上山の松山という所に草庵を造ってあたえた。この庵は沢庵自身のことばでいえば「無明之住地」であった。

謫居三年半にして、徳川家光は品川に万松山東海寺を造営して沢庵を迎え住持せしめた。そのとき推輓(すいばん)につとめたのは、禅師を敬慕していた柳生宗矩であった。






茂吉は沢庵の生涯と人物に興味を抱いていた。

昭和十一年五月十六日、東海寺を訪れ、加茂真淵の墓とともに沢庵和尚の墓に展(てん)している。このとき、ふさ子へは「品川東海寺の牡丹を見にゆきます。同処は加茂真淵の墓のある処です。遠方の花の如き人をしのぶにはこれ以上の処はないとおもつてゐます」という手紙を書いた。



沢庵「浅くともよしや又汲む人もあらじわれにこと足る山の井の水」



春雨庵には

浅くともよしや又汲む人もあらじわれにこと足る山の井の水

と禅師が歌に詠んだ井戸があり、今も真清水を湛えている。



山の井の水


二つの茶室があるが、それに望岳亭、聴雨亭という名をつけたのは、二十数年前の石山太柏という画家である。茂吉の歌は他筆で碑になって茶室の前に建っているが、さりげないこの歌にも、流謫者の孤独な心情に、自らの現世厭離の思いを重ねあわせて詠嘆していたのではなかったろうか。



茶室 望岳庵


茶室 聴雨庵



〜真壁仁『斎藤茂吉の風土 蔵王・最上川』より〜


春雨庵


”たくあんづけ”の名で知られる禅僧沢庵は、江戸時代初期の高僧であった。



沢庵漬 名称 発祥の地


各地に修行し尊信を集めたが、寛永六年(1627)、大徳・妙心両寺のいわゆる紫衣事件で幕府に抗議して罪を得、出羽国上山に流されること五年におよんだ。

やがて許され、晩年は徳川家光に重用され品川東海寺の開山に迎えられた。その上山配流時代の住居が春雨庵である。ときの城主・土岐山城守頼行はこの庵を設けて沢庵を遇したといわれる。沢庵は殊の外この庵を愛し、”春雨庵”と 名づけた、と。



沢庵 大和尚 行状録



現在の建物は原型をその遺跡に復元し、春雨の井戸、茶室聴雨亭が往時の侘びた俤をしのばせている。

上ノ山に籠居したりし沢庵を大切にせる人しおもほゆ

通りに面して春雨庵跡を左に見て、中庭に入った左手奥に茂吉の歌碑は立っている。碑の高さ138cm。春雨庵保存会によって建立され、昭和39年除幕された。

林谷広氏は”大石田に疎開中、聴禽書屋に住んでいた茂吉の心境は、沢庵のそれと似通うものがあったのだろう”とし、

しづかなる秋の光となりにけりわれの起臥せる大石田の恩

の歌を引いている。



庵には沢庵和尚の木像が安置され、茶室見覧、点茶も行われている。

上山駅より徒歩約15分。