2013年8月29日木曜日

湯野浜「阿部与十郎像」亀や [山形]


狛犬がわりに、大なるライオンが…

もう一方には亀が控える。
湯野浜温泉の起源は古く、平安時代の天喜年間(1053~58)に遡る。海辺に湧く湯の中で亀が傷を癒していたのを、地元の漁夫が見つけたという伝説に由来しているとのこと。


明治6年(1873年)創業、湯野浜温泉の老舗宿「亀や」の二代目
「阿部與十郎(あべ・よじゅうろう)」

不動明王が祀られる。
近隣の「笹立不動」に掘られたというトンネルは、阿部与十郎氏による功績であり、そのため「与十郎道」とも呼ばれていたという(現在はトンネル落盤により通行不能)。


うろついていた猫



湯野浜温泉
藤沢周平「蝉しぐれ」より


 さほど大きな宿屋があるのでもないが、波がくだける磯とその先の長い砂浜、松林、そして海から上げたばかりの魚の評判がよく、蓑浦の湯宿はむかしから家中の家族の者が湯治におとずれる場所だった。

 だが湯治の季節は秋春先までと決まっていて、真夏の湯の村は閑散としてみえた。助左衛門は村のなかをゆっくりと馬をすすめ、三国屋の前で馬を降りた。

 すると、その姿を見かけたらしく門の中から中年の男が走り出て来た。「お奉行さまでござりましょうか」


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ケサランパサラン(加茂水族館) [山形]

けさらんぱさらん
展示説明より
けさらんぱさらん

山形・庄内地方には元禄時代から「おしろいを食べる正体不明の物体」を「天から降って来た宝物」として大切にしてきました。

「けさらんぱさらん」を持っていると、次の様な良い事があると言われています。

◇衣類が豊富になる
◇病気にかからない
◇金持ちになる

他人に見せると効果がなくなると言われ、門外不出として桐の箱に入れて女性用の化粧用のおしろいを少し入れ、神棚に上げ大切にしています。

名前の由来は「天から降ってくる」という意味のテンサラバサラから、ケサランパサランとなったようです。

展示場所:山形「加茂水族館



周辺情報:

湯野浜「満光稲荷神社」「琴平神社」 [山形]

湯野浜「笹立不動」 [山形]

湯野浜「阿部与十郎像」亀や [山形]




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湯野浜「笹立不動」 [山形]


左に瀬の音を聞きながら、山路をゆく

石鳥居が出迎える

祀られる山神様ら

不動明王は、成田山・新勝寺より勧請されたという。

清らかな山水が湧く
現地説明板より
笹立不動ささだて・ふどう


ここは湯野浜保育園の発祥の地。大正5年に向上講を組織し、千葉の成田山新勝寺から本尊の不動明王を勧請したのが始まりである。

大正13年に公園が整備され、戦時中は空襲の際の避難場所となっていた。

明治24年、ここ笹立てから善宝寺南側までトンネルが掘られ、当時は重要な道路として使用されていたが、昭和15、16年のトンネル落盤で通行不能となり廃道になる。この道路は、俗称「笹立道」、「与十郎道」と言われている。

出世稲荷と名があった

鳥居を這うカタツムリ

「ガッキの水汲み場」
笹立不動のある山から、その水は住民の下へ。
現地説明板より
ガッキの水汲み場


この呼び名は、土俗の言葉で「段差がついている」ことを意味し、その場所の地形から生まれ付けられたもの。
飲用水と洗い場の施設として100軒以上の家々で利用された。



周辺情報:

湯野浜「満光稲荷神社」「琴平神社」 [山形]

湯野浜「阿部与十郎像」亀や [山形]

ケサランパサラン(加茂水族館) [山形]




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2013年8月28日水曜日

湯野浜「満光稲荷神社」「琴平神社」 [山形]


ヒマワリ映える、夏の朝

小高い山からは、朝の眺望

「身を縮して伏し拝み、稲荷の神の恵みを受けん」
手前の鳥居は、腰を屈めなければ通れないほどに狭く小さい。

「満光(まんこう)稲荷神社」
赤い灯籠が印象的

お稲荷さん

少し奥にもお社が
現地説明板より
満光稲荷神社
まんこう・いなりじんじゃ

今から170年前の天保年間の創建と伝わり、代々登り口の奥山家で祀っていた。昭和35年に現在に移転・新築された。



満光稲荷神社と並ぶように、金毘羅神社もある。

金毘羅神社(琴平神社)
 現地説明板より
金毘羅神社

天保13年(1842年)、お伊勢参りのついでに四国のこんぴら祭りに行った漁民によって勧請されたものといわれ、遷宮した時の棟札が残っている。

船の守護神として漁師たちの間で古くから信仰されてきた。明治39年に日露戦争の戦勝記念として公園に整備された。



桧丸のいかり

桧丸は、樺太の港を出航して、日本海の荒波を一路新潟港へと航海していたが、大正11年12月15日夕刻より暴風に遭遇し、飛島に避難の直前に機関が故障し航行不能となる。

550トンの汽船は波に押し流され16日の朝、湯野浜の長岩の沖360mのところで座礁した。その後、船体は大破するが、湯野浜・宮沢の村民の昼夜にわたる救助活動により、総員32名の尊い命は救われた。


道中には庚申塚も


周辺情報:

湯野浜「笹立不動」 [山形]

湯野浜「阿部与十郎像」亀や [山形]

ケサランパサラン(加茂水族館) [山形]




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2013年8月22日木曜日

大淀「羽黒神社」 [山形]

苔むした石段が長く続く

石段の傍らに

いよいよ社殿の屋根がのぞく

江戸時代創建と伝わる「羽黒神社」
現地説明板より

羽黒神社の由来

祭神 稲倉魂命(いなくらのみこと)



 羽黒神社は、当羽黒山(標高171.9m)の頂上に鎮座し、創建は明暦年間(1655〜1657)と伝えられている。氏子の住む大淀・長島は当時大淀村・下長崎村といい、幕府領であった。現在の社殿は、嘉永3年(1850)に造営したものである。

 当地は三方を最上川が流れており、南側は三ヶ瀬に、北側は早房の瀬に面している。頂上の神社境内からは、東方に大淀、遥かに霊山・甑岳(こしきだけ)を、西方に長島そして霊山・葉山が眺望できる。さらに、その間を蛇行して流れる最上川の景観を一望できる景勝の地である。

 この神社は天正の頃に航路が開かれ、その後さかんになった舟運の安全を祈って創建されたといわれている。元禄・享保の盛時には、250俵ほどの年貢米を積んだ艜船(ひらたぶね)が一日に30〜40艘も下り、上り舟で綿・古着・塩などの生活物資が運ばれていた。

 その舟運で最も恐れられた所が三難所で、船頭や水夫たちが通るたびにこの神社に航行の安全を祈って詣でたという。

 この神社は、もとは観世音菩薩を祀る観音堂で、代々一乗院(鈴木家)が別当を勤めていた。明治になって神社となり、明治6年8月、村社として格付けされ現在に至っている。


平成元年7月30日

羽黒神社



三方を最上川に囲まれる「羽黒山(標高171.9m)」
この辺りは、川行く舟にとって「三難所」と呼ばれるほど危険な箇所が続く。そのためこの羽黒神社は、その舟運の安全を祈願するために創建されたのだという。

天然記念物のイタヤカエデ
推定樹齢300年
現地説明板より
村山市指定文化財 天然記念物
羽黒神社のイタヤカエデ指定 平成2年10月24日


村山市大字大淀、村社・羽黒神社に自生しているイタヤカエデの老木で、根元廻り4.2m、幹廻り2.9m、樹高18mのもので、地上5mの部位で主幹が三方向に分岐し大枝となり、よく繁茂し旺盛な生育を示している。

推定樹齢はおよそ300年。


村山市教育委員会



周辺情報:

河島山「白山神社」 [山形]




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2013年8月19日月曜日

河島山「白山神社」 [山形]




鳥居から一直線に伸びる石段

山神さま

碁点 河島山 白山神社

HP「白龍の伝説」より


碁点の竜神

 村山市河島山「白山神社」境内に「白山池」があります。干魃の時に雨乞いを修して,白山池をかきまわすと三日以内に二匹の竜が夜半に昇天し,雨雲を呼び起こして降雨をもたらすといいます。この竜は雌雄の二匹で最上川の碁点に棲んでいて,水煙をあげて天と川の間を往来している竜神だといわれています。 




現地説明板より
山形県指定文化財(史跡)
河島山遺跡
指定年月日 昭和27年4月1日所在地 村山市大字河島元塩川字1609番外6筆面積 8.36272平方メートル史跡めぐり所要時間 1時間



 河島山遺跡は、最上川三難所の一つ「碁点」の右岸、河島山にある。

 昭和20年(1945)、地元の人々が開墾した時に発見されたのが始まりで、その後に各時代の遺跡が確認された。遺跡からは旧石器時代後期から中世までの遺物が出土しており、長い人々の営みをうかがうことができる貴重な複合遺跡である。



 白山神社の東側の高台に五輪塔や板碑が集められている「板碑群」がある。室町時代から桃山時代にかけてのものと推考される。

 東斜面中腹の平坦地に、径24m・高さ2.6mの「古墳(円墳)」がある。周囲には幅3〜5mの周溝があり、その中心部から長さ1.9m・幅0.6mの箱式石棺が発掘されている。5〜6世紀のものと推定される。また、丸森山にも未調査の古墳がある。

 山頂とやや離され東方に「シャチ址」と呼ばれる山城址がある。一の丸は針巻式遺跡で、二の丸は二重の空堀で囲まれ、自然地形のままである。両者の築城年代は異なるものと思われる。シャチ址として紹介されてきたが、最近は「中世城館跡」として研究されている。

 前山山頂には「経塚」がある。河原石を並べた中から、経巻を納めた青銅製の筒が甕に入った状態で発見された。経甕は中世須恵器・鎌倉Ⅰ期と見ている。

 さらに河島山からは、杉久保型といわれる長くすらりとした特徴のナイフ型石器が採取されている。1万5,000年前のものである。また縄文土器や弥生土器も出土している。


山形県教育委員会

村山市教育委員会




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2013年8月17日土曜日

鹿島神宮 [茨城]

鹿島神宮へと向かう大通りにて
 現地説明板より
常陸国風土記万葉ライン

和銅6年(西暦713年)に編纂された常陸国風土記に「高天原より降り来たまひし大神、名を『香嶋天之大神(かしまあめのおおかみ)』と稱す。天にては香嶋之宮といひ、地にては豊香嶋之宮と名づく」とあり、鹿島神宮のご祭神「武甕槌命(たけみかづちのかみ)」が日本建国の昔、天降られて関東地方の開拓と鎮撫に当たられたことが書かれてある。

奈良時代に九州の防備に「鹿島立ち」した防人(さきもり)は、鹿島神宮に武運の長久と道中の平安を祈り、那珂郡上丁・大舎人部千文(おおとねりべのちふみ)は

霰(あられ)降り 鹿島の神を祈りつつ 皇御軍(すめらみくさ)に吾は来にしを」と詠んだ。

現在、鹿島神宮の境内は坂戸・沼尾の両摂社また往古の郡家(郡役所)跡を含めて、国の史蹟「鹿島神宮境内附郡家跡」として指定され、周辺地区には風土記、万葉集に詠まれた史蹟名勝が数多く見られる。



本来あった大鳥居は、東日本大震災にて倒壊したとのこと
現地説明板より
大鳥居再建へ向けて

東日本大震災で倒壊した大鳥居は皆様の御浄財により、境内御用材にて以前の鳥居と同等の大きさで再建が進められています。来る平成26年6月1日に竣工祭が斎行され、鹿島鳥居本来の木製の鳥居が披露されます。

大鳥居 身替りになり倒れしと 会ふ人ごとに無事を喜ぶ」牟根天


鹿島神宮「大鳥居」
平成26年6月完成予定
高さ:約10.2m
笠木巾:約14.6m
材料:杉(境内御用材)



重要文化財「楼門」
この楼門の秀麗な造りは、九州の阿蘇神社、筥崎宮とともに「日本三大楼門」に数えられている。

「三木宗策」彫刻による随身像

現地説明板より
重要文化財「楼門」

寛永11年(1634年)に水戸初代藩主「徳川頼房」公の奉納。頼房公は水戸黄門・光圀公の父君。

左右の随神像は東京・荻原捷奉納、彫刻は三木宗策(日展審査員)。



摂社「高房社」
現地説明板より
摂社「高房社」

祭神 健葉槌神(たけはづちのみこと)

鹿島の大神に従い、香々背男(かがせお)を討つ。常陸国二の宮「静神社(しずじんじゃ)」の祭神。

本社参拝の前に詣でるのが古例である。



鹿島神宮「本宮」
現地説明板より
鹿島神宮「本宮」

御祭神 武甕槌大神(たけみかづちのおおかみ)

創祀 神武天皇ご即位の年に神恩感謝の意をもって神武天皇が遣わして勅祭されたと傳える。

御神徳 神代の昔、天照大御神の命により国家統一の大業を果たされ、建国功労の神と稱え奉る。また「韴霊剣(ふつのみたまつるぎ)」の偉徳により武道の祖神、決断力の神と仰がれ、関東の開拓により農漁業、商工殖産の守護神として仰がれるほか、常陸帯の古例により縁結び安産の神様として著名である。さらに「鹿島立ち」の言葉が示すように、交通安全・旅行安泰の御神徳が古代から受け継がれている。



「宝物館」
国宝「直刀(ちょくとう)」展示
パンフレットより
「直刀」金銅黒漆塗平文拵附刀唐櫃

日本最古最大の直刀で、制作年代は今から約1,300年前と推定されます。常陸国風土記に、慶雲元年、国司等が鹿島神宮の神山の砂鉄で剣を作ったとあり、その剣であろうともいわれております。

古くは本殿内に納められていた神刀で、御祭神の神剣「韴霊剣(ふつのみたまつるぎ)」の名も伝えられています。神武天皇はその御東征なかばにおいて思わぬ窮地に陥られましたが、武甕槌大神の「韴霊剣」の神威により救われました。



鹿島神宮御座舩の船首
現地説明板より
平成26年 式年大祭「御船祭」
12年に一度の絢爛壮麗な一大神事


 鹿島神宮の「御船祭(みふねさい)」の起こりは、大神を奉ずる船団による大昔の関東開拓の時代にまでさかのぼり、当神宮にとりましては最大の祭典であります。この御船祭が、来る平成26年9月1日より3日間にわたり行われます。

 9月1日、まず勅使参向例大祭が斎行され、翌2日早朝、御分霊された御神輿は陸路を一の鳥居の大船津河岸までとり、そこから御神輿を奉戴した御座船は、数多の供養船を従えて一路香取市加藤洲へと進みます。そこで香取神宮の御迎祭を受けて後、再び同じ水路を行宮まで戻るという絢爛壮麗なる水上絵巻が繰り広げられるのです。

 例年の御神幸は門前町の大町通りに限られておりますが、12年に一度のこの御船祭は鹿島の大神が陸路と湖上を御神幸する人々の幸せと平安をもたらす一大神事であり、今回この大祭をあわせて東日本大震災の復興を中心とする日本再生の「鹿島立ち神事」とすべく準備に取りかかっております。



重要文化財「仮殿」
現地説明板より
仮殿(重要文化財)

本殿を修復する時など、一時的に神様をお遷しする社殿です。現在、下記の摂末社所管社の御分霊をお祀りしております。

摂社:奥宮、高房社、三笠社、跡宮、鳥栖神社、沼尾神社、坂戸神社

末社:須賀社、熊野社、津東祝詞社、稲荷社、潮社、阿津社、熱田社、御厨国主社、海辺社、鷲社、押手社、年社

所管社:大国社



旧東神門跡
現地説明板より
石灯籠

元和5年(1619)に社殿造営に関係した安藤対馬守が奉納(茨城県指定文化財)



国歌にも歌われる、巌(いわお)となった「さざれ石」
現地説明板より
さざれ石の由来

さざれ石(石灰質角礫岩)は、石灰岩が長い年月の間に雨水で融解し、その粘着力の強い乳状液が次第に小石を凝結し、段々と大きくなりついには巌となり、河川の侵蝕により地表に露出し苔むしたものであります。

国歌「君が代」は天皇の御代の弥栄をさざれ石に託して詠んだ歌がもととなっており、天皇大御代が千代に八千代に年を経て、さざれ石の巌となって苔のむすまで永く久しく栄えますようにという祈りの込められた歌であります。

古今和歌集・巻七賀歌に、題知らず読人知らずの歌として「わが君は 千代に八千代に細れ石の巌となりて 苔のむすまで」とあります。

「君が代」は神事や宴席で最後に歌われる祝歌として各地に広がり、浄瑠璃や謡曲にも取り入れられ、朝廷から一般庶民に到るまで全国津々浦々で歌われる歌となっていきました。

国歌「君が代」は明治26年、日本国歌に制定され、大正時代にニューヨークで開催された世界の国歌コンクールで特等となりました。


国歌「君が代」
君が代は 千代に八千代に さざれ石の巌となりて 苔のむすまで


国旗について

古来、日本人は太陽を信仰の対象としており、国名「日本」も国旗「日章旗」日の丸も太陽崇拝に起源するものと思われる。

日章旗が国旗として扱われるのは明治以降で、平成11年施行の国旗国歌法により正式に国旗として定められた。


「日の丸の旗」明治44年(1911)高野辰之 作詞岡野貞一 作曲

一、白地に赤く日の丸染めて ああうつくしや日本の旗は

二、朝日の昇る勢い見せて ああ勇ましや日本の旗は



神宮境内、21万坪の樹叢は「神の森」といえる荘厳さ
現地説明板より
樹叢(じゅそう)

鹿島神宮境内、約70ヘクタール(70町歩)に繁茂する植物は1,000種の多種にわたり、特に南限北限の植物が同生して植物学上貴重なため、県の天然記念物の指定を受けている。



照葉樹林の北限、フウランなどの北限をなす
現地説明板より

天然記念物
鹿島神宮の森について

最近、森林浴という言葉が話題になっています。これは緑豊かな森の樹木や草花などが発散する殺菌力のある芳香性の物質(フィトンチッド)が人間にも良い影響を与えることから、林野庁が提唱しているものです。

鹿島神宮の森は、その上に「極相林(きょくそうりん)」といって森が到達する極限の状態でありますので、人の心を和らげ、活動を促す精神的な働きもあります。このような姿を昔の人は神々しい森という言葉で讃えましたが、和らぎと明日への活力づくりに皆さんもゆっくりと森の香気にふれて下さい。

なお、境内の宮水である御手洗の湧水も昔から長命水といわれておりますので、この真清水をも賞味され、健康で活力ある毎日をお送り下さい。






重要文化財「奥宮(おくのみや)」


現地説明板より
重要文化財「奥宮」

祭神 武甕槌大神 荒魂

本宮御祭神の「荒魂(あらみたま・分け御魂のことで躍動する魂のこと)」を奉祀する。


社殿 慶長10年(1605)に徳川家康公により本宮の社殿として奉納されたが、元和五年(1619)に二代将軍秀忠公によって現在の本宮社殿が奉建されるにあたり、現在地に引遷して奥宮社殿となった。

明治34年国宝指定、現・重要文化財。



「此松の 実生せし代や 神の秋」

俳聖・松尾芭蕉が当神宮に参拝したおり詠んだ句(1687)。「神前」の前書がある。



地震を起こす「大鯰(おおなまず)」の頭を押さえる

「要石」を祀る
大鯰(おおなまず)を押さえているという説話により、当地方は大地震にも被害が少ないという

意外にも、「要石」は子供の頭ほどに小さい
現地説明板より
要石(かなめいし)

神世の昔、鹿島の大神が座とされた万葉集にいう石の御座とも。あるいは古代における大神奉斎の座位として磐座(いわくら)とも伝えられる霊石である。

この石、地を掘るに従って大きさを加え、その極まるところ知らずという。

水戸黄門仁徳録に、七日七夜掘っても掘っても掘り切れずと書かれ、地震押さえの伝説と相まって著名である。信仰上からは、伊勢の神宮の本殿床下の心の御柱的存在である。


大地震(おおなゑ)に びくともせぬや 松の花」 一茶

小林一茶は文化14年5月26日、鹿島へ詣で右の句を詠みました。


芭蕉句碑

枯枝に 鴉(からす)のとまりけり 秋(穐)の暮



潔斎の池「御手洗(みたらし)」

池の水温は一定して夏は冷たく冬は温かく感じられるという
現地説明板より
御手洗(みたらし)

池水清冽にして四時滾々とし、一昼夜約2,400〜2,500石(432〜450キロリットル)を湧出す


古来、神職ならびに参拝者の潔斎の池である池の水は、清く美しく澄み四時滾々と流れ出て、どのような旱魃にも絶えることのない霊泉で、神代の昔、御祭神が天曲弓(あめのまがゆみ)で掘られたとき、宮造りの折一夜にして湧水したと伝えられ、大人小人によれず水位が乳を越えないという伝説により七不思議の一つに数えられている。

大昔は当神宮の参拝がこの御手洗を起点としてこの池で身を清めてから参拝するので御手洗(みたらし)の名が今に残るのである。



涼しさや 神代のまゝの 水の色

松露庵雪才



古くは御手洗のあたりが参道の起点であったという。
その名残りか、今は裏口のような園の入口にも大きく土が盛られている。



神の使いの子孫「神鹿」

鹿園には、およそ30頭が飼育されている
現地説明板より
神鹿について

鹿島神宮の御祭神である武甕槌大神(たけみかづちのおおかみ)様のところへ、天照大御神(あまてらすおおみかみ)様のご命令を伝えに来られたのが「天迦久神(あめのかぐのかみ)」という方で、鹿の神霊とされていることから、鹿島神宮のお使いは鹿となっています。

神護景雲元年(西暦767年)に、藤原氏は氏神である鹿島の大神の御分霊を奈良にお迎えして春日大社を創建しましたが、そのとき、御分霊を神鹿の背に乗せ、多くの鹿を連れて一年がかりで奈良まで行きました。

その鹿の足跡が、東京江戸川区の鹿骨(ししぼね)をはじめとして、東海道を三重県の名張まで続いて残っています。また、鹿島は古くは香島と書いていましたが、養老7年(723)頃から鹿島と書くようになったのは、この鹿との縁によるものでしょう。

神鹿は長い間大切に保護されてきておりますが、幾度か新たに導入され、現在の神鹿はかつて鹿島から移った奈良の神鹿の系統を受けています。



鹿島八景「鹿島山の晴嵐(せいらん)」

朝ぼらけ 近くききしは鹿島山 松のあらしの さそう鹿の音

吉澤義則



「稲荷社」
現地説明板より
末社 稲荷社

祭神 保食神(うけもちのかみ)

俗に「銚場の稲荷様」と呼ばれ、霊験あらたかで多く人々の信仰を集めている。なお、「銚場」とは直会場(なおらいば)のことで、江戸時代以前はこの広場で祭典の後、直会(なおらい)を行っていたのである。



鹿島七不思議

要石:その根底深くて図り知れずという

御手洗:池の深さ大人・小人によらず乳を過ぎずという

末無川:川の水、流れ行くほど追々かれて行末知らず

藤の花:御山の藤の花の多少により、その年の豊凶を予知すること

海の音:浪の響が上(北)の方に聞こえれば日和、下(南)に響けば雨降るという

根上りの松:すべて御山の内の松、幾度伐れども伐り跡に芽出て枯れることなし

松の箸:鹿島の松で作る箸は、松脂の出たことなしという