2014年9月18日木曜日

賀茂雷神社と大ケヤキ [山形・下宝沢] 


大欅(ケヤキ)
推定樹齢500年、山形市内最大

睨むが如し

銘「村社 賀茂雷神社」
左側面「明治四十二年 旧七月十五日」
右側面「施主人 會田金五郎 世話人 當所 横山清太郎」






〜現地・案内板より〜

延文五年(1360年)山形初代城主、斯波兼頼が京都上加茂明神の分身を祭った。神木(ケヤキ)は推定樹齢500年といわれており山形市内で最も太い(目通り周囲、7.35m)。本殿内に横3.08m、縦1.48mの大絵馬(蔵王登拝)が明治33年3月15日、三人の崇敬者によって奉納されている。

東沢地区振興会
東沢郷土研究会
東沢観光協会






〜東沢地区振興会「東沢の歴史散歩道」より〜

賀茂神社(通称:雷神社)

「あーめんたんもれ雨たもれ

 雷神さまから雨もらた」

 と叫びながら筵旗(むしろはた)を押立てた農民達の雨乞い行事を、子どもの頃にはよく目にしたものである。雷神さまとは即ち下宝沢の賀茂神社(通称:雷神社)で、日照り続きの旱魃の年には近郷、近在の農民達が、必ず雷神さまに参拝して雨乞いをした(その範囲は、馬見ヶ崎川の水利により耕作している村々)。

 賀茂雷神社の祭神は「分雷神(わけのいかづちのかみ)」で、伝えられるところによれば、延文五年(1360)山形城主、修理大夫斯波兼頼(しば・かねより)が城の東南方(鬼門)にあたるこの地に、京都の上加茂明神を勧請したのが始りと伝えられる。馬見ヶ崎川は京の鴨川にやや似ており、山の形状なども上加茂と同じこの土地を選んだという。

 水神として農民の崇敬が深いことは勿論であるが、昔から武士の尊崇も厚く、殊に明治維新までは領主の堀田藩の祈願所として庇護され、造営や屋根替などすべてに経費の寄進を受けてきた。昔は狭小な堂宇に過ぎなかったが、現在の社殿の荘厳なことは近隣にも類をみない稀なものである。

 古社にかかわる文書は散逸して残っておらず、しかも、別当三明院(さんみょういん)も昭和初年に廃絶し(最後は金井三好法印)、現社殿の建立年月もはっきりしない。ただ、延享三年(1746)十一月の造営には、堀田藩(同年四月、佐倉に移封。その後も宝沢は堀田領)より三十両の寄進がなされているので、この時に建立されたのではなかろうか。


佐倉藩(堀田藩)の寄進状

宝沢村雷神宮造営に就き金参拾両御寄付被成(なされ)候、後裔社頽廃に及ばざるよう致さるべく候、仍而(よって)御寄付の状 如件(くだんのごとし)

従四位侍従 紀正亮群吏(紀正亮とは佐倉藩主堀田備中守正亮のこと)
延享三丙年十一月 平尾一郎大夫

雷神宮別当 三明院



註1:宝沢十二坊と三明院
宝沢には十二の坊があったといわれ、慶安元年(1648)のご朱印状には雷宮の別当が林蔵坊とあるので、後の三明院とは異なる坊であったとも考えられる。

註2:神社名の改称
第二次大戦の終了前までは国家神道による加茂雷神社の名称であったが、戦後は政教分離による宗教法人、賀茂神社として届出登録した。



蔵王信仰 大絵馬(明治三十三年)

〜東沢地区振興会「東沢の歴史散歩道」より〜

 本殿内に横3.80m、縦1.48mの大絵馬が明治三十三年(1900)三月十五日、三人の崇敬者によって奉納されている。この大絵馬は蔵王信仰の盛んなときに、現在の防原町の東端の大鳥居(現:蔵王権現の参道に移転)から熊野岳の頂上まで、白衣姿の行者の列が続いており、その描かれている人数も500人を超え、それに出身地や氏名が記入されてあり、お東さま参りの盛時が偲ばれる。


〜横川啓太郎「唐松観音とその周辺」より〜

 宝沢の里は蔵王信仰の発祥の地といわれ、蔵王登山の宝沢口として知られており、山岳宗教の華やかな時は、宝沢十二坊と称し、山伏の栄えたところでもあった。むかし宝沢の枝郷であった防原も、蔵王信仰者の坊のあった名残りの地名である。

 現在に残る坊を挙げれば、蔵王開山の伝説の残る蔵王大権現(刈田嶺神社)の「三乗院」、義家が清原武衡・家衡を討伐した際、軍神として当地に聖徳太子を祀ったと伝えられる太子の宮の「宝蔵院」、延文五年(1360)山形城主、修理大夫斯波兼頼が神夢により、京都上加茂明神を勧請したと伝えられる「加茂雷神社」がある。

 この加茂雷神社には、蔵王信仰(お東詣)の大絵馬が奉納されている。昔は旱魃のとき近郷の農民が多勢筵旗を立て「雨(あーめ)たもれ、雨(あめ)たもれ」と叫びながら、この神社に参拝するのが常であった。この神社の別当は三明院といったが、昭和初期になくなった。



神社前の石碑群
左から「巳待供養塔」「金華山」「愛染明王(線刻像)」「湯殿山大権現」

線刻「愛染明王」

〜安彦好重「山形の石碑石仏」より〜

下宝沢には雷神社の前に立っている愛染明王碑がある。高さ1.10m、巾70cm、厚さ28cmの川原石の正面に、像高一ぱいの日輪を背に、一面六臂の忿怒相の愛染明王の坐像を線刻している。下には宝瓶の上に蓮座を重ねている。上宝沢・養福寺の愛染明王と同じ形式であるが、年紀銘は不明である。

愛染明王とは何か

金剛薩埵が姿を変えた仏で、浄化された人間の愛欲を尊格化した明王といわれている。仏体ははげしい愛欲を表す赤色で、赤い日輪を背にして、獅子冠を頂き、三目忿怒相をなし、一面六臂かあるいは一面四臂で、金剛杵、鈴、弓矢、蓮華などを持っている。宝瓶に乗る姿であるが、異像も多い。不動明王と共に両脇侍とされる場合もある。

民俗信仰では、愛染の「愛」は「藍」と同音であることから、「あいそめ(藍染)」の神となって染物業の神となってしまった。また「愛染」は「愛情」と解釈して愛情の神として、女性、特に遊女たちに信仰された。




〜東沢地区振興会「東沢の歴史散歩道」より〜

 境内には雷神さまの御神木である樹令500年以上と思われる欅(けやき)の大木がある。本来ならば山形市の保存木として保護されるべきものであるが、下を県道(272)が走っており、枯れ枝の落下などもあって惜しいかな指定されていない。



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