2014年10月1日水曜日

妙見院 [山形・妙見寺]


西口からの石段






〜横川啓太郎「唐松観音とその周辺」より〜

妙見山

 妙見寺部落の南方に小高い森が見える。妙見山といい北辰妙見菩薩が祀られている。時おり参詣者の鳴らす鐘の音が澄みきった大空に響き渡る。

 昔、源義経の家来、亀井六郎が衣川で討死する直前、まだ幼い遺児、鈴木源治重基が乳母に伴われ、ここ山原村に落ちのびて、義経から給わった大国安堵の書付、秀衡公の定水の庄配分の書付と共に持参した守本尊の北辰妙見菩薩を祀ったと伝えられている。

 この近くに、後世その一族である法印定胤の筆子が、酒好きの師匠のために造立した徳利に盃をかぶせた形の墓がある。名付けて「酒仙の墓」とは心憎い。



籠堂の周辺広場
妙見院は、もう少し小高い山手にある


石階段の脇に
「一億一兆」と刻された燈籠

「妙見院」


〜現地・案内板より〜


真言宗醍醐派
耀應山妙見院 縁起


 当山は源九郎判官義経公の臣下である亀井六郎重清が、文治五年(1189)奥州衣川に於いて主従没落の際、妻板垣氏とその幼児源次重基に亀井家陣中守本尊妙見菩薩および家系図と義経公感状を与えて山原村に落ち延びさせ、妙見菩薩を文殊山々頂に安置したに始まると伝える。

 文殊山は山頂の地狭く祭祀不便なので、延文元年(1356)現今の地、妙見山に堂宇を建立した。

 その後、重基五代の孫帯刀重次に至り、出羽鎮守府将軍斯波兼頼公、山形城に入府するを以て家系図ならびに義経公感状を示し、亀井六郎の兄鈴木三郎の姓を用いて鈴木重次と称し、兼頼公の臣下となり弐百町を賜った。

 後四代鈴木備後重尚は最上義光公の命に依り出陣し奥州二本松に於て戦死し、其の□数馬重政もっぱら妙見菩薩に奉仕するに及び、義光公より妙見堂領として拾七石を寄進され、妙見太夫として別当となった。

 元和八年(1615)最上家没落後、徳川家依りの朱印地となった。

 妙見太夫重政は深く佛法に帰依し、出家して宥山法師となり、京都醍醐寺三宝院の直系、妙見寺を開創した。

 以前この辺りは山原村と称していたが、この寺ができてから村人は自然、妙見寺の邑というようになり、寛延元年(1748)妙見寺を妙見院と改称し現今に至る。

 妙見菩薩は北辰菩薩、妙見尊星王ともいい北斗の主星である北辰のことで、国土を守り貧窮を救い一切諸願を満足せしむる菩薩であるといわれる。

耀應山妙見院 第十五世
鈴木政行代





〜東沢地区振興会「東沢の歴史散歩道」より〜

妙見堂

 妙見寺部落の南方で、山形市街地を一望できる山頂に「お妙見さま」が祭られている。ご本尊の妙見菩薩は北極星を神格化したもので、国土を守護し災厄を除き、福寿を増幅する菩薩で、尊星王、北辰菩薩という。形は一定しないが二臂像、四臂像の形で雲中に結跏趺坐(座る形)する姿、青竜に乗る姿などに描かれる。また吉祥天と同体とも説かれる。お妙見さまの菩薩は御丈(おみたけ)七寸、本地仏は十一面観音である。

 言い伝えによれば、その昔、天竺(現インド)まがた国の千歳王子が熊野権現を日本国の紀州那智(和歌山県)に渡来させるとき、途中欲界の外道どもが行手をじゃましたので、供をしていた能見大臣(のうみのおとど)良高(よしたか)が自分の守り本尊である妙見菩薩を取り出して祈ったところ、本尊から光明が稲妻のようにきらめき、五色の雲がたなびいて虚空にのぼり、火焔の鎧を身にまとった七つの星を引き連れて現れ、外道どもを追い払ったという。

 能見大臣良高の子孫で、兄鈴木三郎家重と弟亀井六郎重清は源義経の家来となり平家を討伐したが、義経が兄頼朝に追われて奥州平泉に下るとき、兄三郎は弟六郎に守り本尊の妙見菩薩を譲り渡し義経の伴をさせた。義経は藤原秀衡の協力により家来達に領地を配分したとき、六郎は是水(ぜすい)の庄(岩手県井沢郡)七百町歩を与えられた。

 文治五年(1189)泰衡(秀衡の長子、四代目)の心変りにより衣川の戦に敗れ、六郎は義経と共に討死したが(兄三郎も後れて平泉に下り討死)、生前に子供の鈴木源治重基(亀井を鈴木に改む)に、本尊の妙見菩薩と大国安堵(是水の庄)の書付を渡して姥(乳母)とともに山原村(現在の妙見寺)に落ちのびさせた。男まさりの姥は農業によって生計をたて源治を育てた(今でも「姥が作(うばがさく)」という地名が残っている)。

 鈴木源治重基の子孫、帯刀(たてわき)の時代にお妙見さまの霊験があらたかであったので、正平十年(1355)前方の文珠山の岩山(古妙見という。今は崩されてない)に草堂を建て安置した。その後、帯刀は現在の妙見山に移した。現妙見堂は延宝元年(1673)から造作、元禄十三年(1700)五代宥清法印時代に建立、前仏の妙見菩薩像は享保十八年(1733)に作られた。



〜横川啓太郎「唐松観音とその周辺」より〜

妙見菩薩と妙見堂

 妙見大菩薩は、御長七寸、本地は十一面観音、北辰菩薩とも称し、天竺狗舎那仏の作、一説に行者作ともいう。

 その昔、紀州熊野権現の臣下、熊見の大臣(おとど)良高の守本尊であった。その後、重高の末孫、亀井六郎重清を経て、六郎の遺児、後の鈴木源治重基に伴われ山原村(後の妙見寺村)に来たのである。後世その末えい鈴木帯刀(たてわき)が文珠山(古妙見山)に祀り、後現在の妙見山に安置したのである。

 妙見院は元禄十三年(1700)建立、妙見院四代宥情法印四十九才、五代宥清法印二十三才のときである。妙見堂はその以前、延宝元年(1673)から二年まで造作、宥清二十三才のとき建立したのである。前仏の妙見御尊像は御長一尺四寸、享保十八年(1733)三月廿日に建立、村中檀那衆の御世話という。

 妙見菩薩の宮殿は、元文四年(1739)の秋から妙見講を初め、延享四年(1747)三月廿日建立したもので、その代金は六両弐分、講中惣人数は三十四人であった。



妙見山からのぞむ山形市
左手の白い建物が山形県庁


〜東沢地区振興会「東沢の歴史散歩道」より〜

同じく伝説によれば元和年間(1615〜1623)山原村の主税之助(ちからのすけ)というものが難病にかかった。女房が水垢(みずこおり)をとり七日間お妙見さまに祈願したところ、七日目の夢枕に菩薩が現れて申すには「お前の夫は過去の業因で悩むのだが、我が方便によって利益を現してあげよう」との霊験により、さすがの難病も平癒した。それで村人たちは城主の鳥居左京大夫忠政に申しあげ妙見寺村にしたという(一説には寛延元年、1748年ともいうが、江戸時代には両方の村名が使われた)。

 妙見寺村(山原村)のお妙見さまは土壁が嫌いで、村民は板のみで家を囲ったものであった。明治十年頃(1877)始めて土蔵を造ったという(信仰の習慣から胡麻の種を蒔かないとの言い伝えもある)。


註:秋田県羽後町飯沢に鈴木三郎家重を先祖とする鈴木家住宅(国重要文化財)があり、現在まで四十五代を数える。



〜横川啓太郎「唐松観音とその周辺」より〜

妙見寺村の由来

 元和年間に山原村の主税之助という者が難病にかかった。女房が七度水垢りをとって七日間妙見菩薩に祈願した。七日目に夢枕に菩薩が申すには「お前の夫は過去の業因で悩むのだ。三不能のうちで転じがたい。だが我方方便によって御利益を現わしてあげよう」と。女房信心肝にめいじて礼拝した。

 主税之助の弟弥六という人が、馬を引き薪を取るため、沼ヶ平へ行ったら、高い山から大風吹荒れ雲が舞下がり馬が大いに嘶いた。それで弥六が落馬した。ところが其の日から主税之助の病気は平復した。そのとき村の者は大変驚き寄合って云った。「是はただ事ではない、神仏の御利益によるものだから村の名を替え、妙見寺村としよう」ということになった。村の安全のためでもあった。

 鳥居左京太夫の代、御上へ御披露申し上げ、山原村引替妙見寺村としたという。一説には寛延元年ともいう。しかし妙見院の御朱印の文では、後代まですべて山原村となっており、江戸時代には両方の名を併用しておったと考えられる。妙見院領十七石は、徳川家光代に御朱印に改められ、妙見院にはそのうち六代分の写が残っている(綱吉、吉宗、家重、家治、家斎)。



御堂わきの石碑



ふたたび籠堂まわりの広場に戻る


鈴木豊喜與先生の像

〜東沢地区振興会「東沢の歴史散歩道」より〜

和銅五年(712)に始まったと伝えられる獅子舞は、その昔、大蛇(おろち)が沼が平を入海にしようとしたとき、氏子不憫と思い妙見菩薩が現れ、大蛇の頭を踏み沈めたと。これよって七匹の獅子(北斗七星にちなむ)が頭を揃え、東南の空の旭日に向って舞い祝うのである。天文十三年(1544)山寺立石寺から免許状を与えられたが、明治初年に絶え、現在は左沢町や寒河江市に残されている。



〜横川啓太郎「唐松観音とその周辺」より〜

妙見寺獅子舞と妙見菩薩

 妙見寺村(山原村)には、古い伝統を持つ獅子舞があった。和銅五年に初まると伝えられている。代々伝わる巻物に次のように記してある。

「沼の平に大蛇現われ、サバネ山で押塞ぎ此の洞を入海となさんとせしとき『モリ岩』より不思議や、ぶと一匹出来しと見給うに、その頭にのり堅くしめ給ひ年頃十四ばかりの女現はれ、我をば誰とや思ふらん、恭しくも妙見菩薩なり、氏子不便と思ひ、其頭踏み沈めたりと、之に依りて、吉日を選び七つの獅子の頭を揃へ辰の一天に旭日に向って祝ひなば未だ目出度く有る可しとなり、さるによりて旭踊と申すなり」

 獅子舞の免許状が天文十三年(1544)七月立石寺円海から出されており、その古さがわかる。この舞は飯田村に伝わり今に残っている。寒河江には山原村と書かれた太鼓が最近まで残っておったという。

 妙見菩薩と関係ある七つの星の名のついた七匹の獅子が舞うのであり、昔は獅子踊りの稽古は古妙見(後の文珠山、今はくづされた)の西方の沢にある沢の坊で行なわれたという。最初の妙見院の別当の屋敷であったからである。明治初年に踊りは絶えた。




妙見山の西麓
「熊野神社」

〜現地・説明板より〜

熊野神社

御祭神 須佐之男命 大山祇命
祭礼 五月三日

由緒

 慶長十三年の頃、山原郷の田代という者、紀州熊野詣の帰路、熊野目道で光り物が頭上を飛び山岸に移るのを見、これは熊野の利生であろうと信じ、その場所に熊野堂を創立し、当地の守護神として祀る。

 以来、人々の崇敬厚く、明治三年、妙見寺村の氏神として祀られ、村社熊野神社となる。

 明治三十八年二月二十日、熊野堂焼失

 大正二年、妙見山の山神神社と合併、熊野神社と改称し、社殿を現在地に造営。境内の面積は百五十坪。本殿はもと上宝沢にあった金比羅大神の神殿で、荘厳な白木の一間社流れ造。特にその床桁を支える三手先出組は丸桁を支える三手先出組と調和し華麗である。拝殿は山上の山上堂を移築。

 昭和二十九年四月 現在の入母屋造拝殿を新築
 昭和五十四年 本殿の鞘堂完成





〜東沢地区振興会「東沢の歴史散歩道」より〜

熊野神社

 お妙見さまの表参道口には「おくまんさま(村人たちの熊野神社の愛称)がある。妙見菩薩が紀州熊野から移ってきたので、村人たちは伊勢参りよりも熊野詣りが盛んであった。

 慶長十三年(1608)頃、山原村の田代という人が熊野参りに出かけた。戦国の世なので妻子と今生の別れをつげて出発したが、熊野権現信仰のかいがあって無事帰ることができた。帰り道、熊の目道で頭の上を光るものが飛んでゆき、山の麓に移っていった。それは熊野権現の出現であろうと、そこ(文珠山の西北山麓)に小さなお堂を建てて祀ったという(今は崩されてゴルフ練習場)。

 明治四十年(1907)この熊野堂は火災(乞食の焚火とか)で焼失したので(この頃までは妙観院鈴木六郎が別当。戦後まで杉の大木が二本あった)、大正二年(1913)現在地に昔からあった山神神社を合併して移った。同三年、鈴木鈴馬氏(妙見院別当、後の東沢村村長)より115坪の寄付を受け、境内を拡張し社殿を新築した。なお、祭神は須佐之男命であるが山神を合併したので大山祇(おおやまずみ)命をも祭る。


山神さま


〜横川啓太郎「唐松観音とその周辺」より〜

熊野神社について

 妙見菩薩は紀州熊野から移って来たので、村人は伊勢参りよりも熊野参りをやった。慶長十三年(1608)の頃、山原村の田代という人が熊野詣りに行った。戦が全国に続いておった時代なので二度と帰れるかどうかわからないので、妻子に今生の暇乞して出発、権現信仰のかいあって、道中無事参詣して帰った。当村熊の目道で、田代の頭が北の方へ向くと、頭の上を光りもの飛び、山の麓に移った。驚いて庄屋に話し、熊野権現の出現であろうと小さな社を造立した。熊野堂は田代という人始めて造立したものであり、印しに一本の杉を植えておいたという。

 明治年間火災に会い、妙見山に移したのである。







妙見院を少し離れ、
東沢公民館の川筋を少し登っていくと

〜現地・案内板より〜

酒仙の墓

妙観院六代の修験、定胤の墓
寛政四年(1792)子弟の造立

東沢地区振興会
東沢郷土研究会
東沢観光協会


「酒仙の墓」

〜横川啓太郎「唐松観音とその周辺」より〜

酒仙の墓などについて

 妙見寺字坦に妙観院初代宥永(現蔵)他代々の墓があるが、その中に、特に珍らしい酒仙の墓がある。高さ130cm、台石がお膳と杯洗、本体が徳利、屋根は杯になっており、正面に

大越家阿闍利法印定胤
寛政四子年三月二十有四日
門弟衆造立之

と刻してある。定胤は、妙観院六代の修験で、寺子屋の門弟衆が酒好きの恩師の霊を慰める為に造立したものであり、子弟の愛情が感じられてほおえましい。

 もとは妙観院(現在の東沢公民館敷地)にあったという。定胤は弟四人おるが、亮慶(亮啓)は八幡神社来吽院の法印、盛音は成就院、覚幢は日光山安養院の法印であり、その弟は松田大炊といって八幡宮の弥宜となった。この他に、妙見院、妙観院が導師となった。石仏は多数残っている。





〜東沢地区振興会「東沢の歴史散歩道」より〜

酒仙の墓

 お妙見さまの東方(妙見寺部落の東南方字坦)の、こんもりした杉林の中に変った墓がある。笠は盃、本体の塔身が徳利、台石は上がお膳、下が盃洗(はいせん)である。酒仙の墓という。その正面に

大越家阿闍利法印定胤
寛政四子年正月二十有四日
門弟衆造立之

と刻んである。「パク」とは梵字で釈迦如来の種字(一字で様々な「仏」を表現する)。大越家(だいおちか)とは檀越(だんおち)、いわゆる檀家のことで僧侶に布施する信者ではなかろうか。また、阿闍梨(あじゃり)とは弟子の師範となる高徳の僧(和尚に次ぐ僧)をいい、法印とは僧の階位で、当初は僧正(そうじょう)、僧都(そうず)など高位のものに授けられたが、後には法体(僧侶の姿)をした仏師、医師、儒者、画工などにまで広げられた。山伏なども一般には法印と称した。

 大越家阿闍利法印という位は、妙観院の初代文殊院現蔵(宥永法印)が大和国醍醐三宝院から頂いたとの説がある。定胤は妙観院六代の修験で、代々寺子屋を開いて村内の子弟を教育してきた。門弟たちが酒好きの恩師の霊をなぐさめるため、寛政四年(1792)立てたものである。このように奇抜な墓、しかも素晴らしい法号は常々酒のための出費(布施)も大きく、弟子たちは大越家と師匠にふさわしく愛着の念をもって称えたのではなかろうか。

 妙観院と妙見院は、共に源義経の家臣亀井六郎の子孫と伝えられ、妙観院は妙見寺村の中屋敷に開山(1600年代)、宝永三年(1706)七月、妙見寺村東端の街道宿と古道の交叉点(字酒塩川、現東沢公民館)に移転し、寺子屋を開いて代々村内子弟の教育に努めた。その後、明治八年(1875)五月、妙見寺小学校(後の東沢小学校)が開設されるに際し学校敷地に譲渡したので、酒仙の墓を含む妙観院の墓地も現在地に移り、六郎屋敷(旧:妙観院)も街道宿の通りに移転した。

 また、鈴木六郎家は近世から大正時代まで続いた地区内の名家であるが、後継者がなく十代六太郎氏の代をもって絶家となった(最後は弟六次郎氏の婿入先小橋町川嶋家で没)。なお、妙観院は明治五年(1872)の修験道廃止によって大きな影響を受けたが、九代六郎重起(宥順法院)は、明治六年頃、妙見寺村の戸長(村長)や、第一大区小六区の区長に、同十二年には滑川村、新山村および関沢村三ヶ村の連合戸長に就き、さらに移転前(文珠山の熊ノ目道添にあった頃)の熊野神社別当も勤めた(ただ、遺族の女性一人は昭和二十年代に没)。一方、妙見院も三代宥情法印が元禄時代から始めた寺子屋は、明治初年の元順法印まで代々続けられてきた。

 妙見寺村の街道宿にあった旧六郎屋敷には、今も笹谷街道松並木の一本の古松が残っているが、小学校敷地(現公民館)の六郎屋敷(旧妙観院)の松並木は、終戦後に道路拡張のため伐られてしまった。


註:鈴木六郎家の門(旧:妙観院の山門)
山形市諏訪町成願寺に移築されて現存している(市内最古とか)。



六地蔵幢


〜横川啓太郎「唐松観音とその周辺」より〜


北辰妙見菩薩


妙見菩薩の由来

 天竺まがた国の王子、千歳王の后(きさき)の御腹に熊野権現が出現なされた。日本国紀州那智山神宮にあらわれ、末世の衆生としてお生まれなされた。御供の臣下はおくみの中将、熊見の大臣の二人である。

 熊野権現が日本へ飛来されるとき、千歳王に千王女の御ぐし慈現上人、おくみの中将・熊見の大臣らがお供して天竺鉄夷山の麓を通られた。このとき欲界六天のげどう共が集り「まがた国の王子が仏法をひろめるため、我等の持分である欲界六天の内にある日本へ渡ろうとしているぞ。これを通してなるものか」と鉄夷山の麓に取巻き、黒雲毒矢を放し、常闇(とこやみ)にして通行を止めた。

 このとき熊見の大臣は守袋から妙見菩薩を出されて、慈現上人がお祈り申し上げた。ところが本尊から光明が稲妻のようにきらめき、五色の雲がたなびいて虚空にのぼり、火焔の甲冑を身にまとい、貪狼星、巨門星、禄存星、文曲星、廉貞星、武曲星、破軍星、七つの星を引きつれ、北方の天に登られ、日天子に近付き、夕刻、北辰菩薩の誓で東方に歩み七つの刻に及んだ。其の日加勢して外道共を攻めるため、須弥山(しゅみせん)から飛来した四天王の持国天、増長天、広目天、多聞天(びしゃもん天)の神通力の矢、宝剣のため外道共は其の鼻を通され、かなわじともとの住家へ逃げ帰った。それで此のときの御姿を北辰菩薩という。

 熊見の大臣は紀州藤城に住んでおった。その末孫の鈴木三郎重家、亀井六郎重清は治承四年(1180)の秋、四国・西国に平家を追討し、帰陣の折紀州に帰り、母と対面の折、鈴木三郎はひそかに亀井六郎に申すには、お前は義経と共に奥州秀衡のもとに下れ、途中難儀の折はこの本尊に祈ればつつがなく奥州につくことが出来るだろうと、守本尊の妙見菩薩を譲り渡したのであった。

 義経は亀井六郎の守本尊の御利益もあって、北国の関を通り過ぎ、奥州平泉の藤原秀衡方へ身をよせた。義経は秀衡の協力によって侍どもに領地を配分したが、亀井六郎も井沢郡の内、是水の庄七百町歩を与えられ、そこに住し、板梯新左エ門の娘を妻とし一子をもうけた。やがて秀衡が死に、恭衡の心変りによって、義経は文治五年(1189)に衣川で戦死した。このとき亀井六郎も討死したのである。

 これより以前に亀井六郎は、討死を覚悟して妻子とめのとに、系図・義経から頂いた大国安堵の書付、秀衡から頂いた是水の庄配分の書付および本尊を渡し、出羽の国山原村に落ちさせた。この頃、既に山原村には黒木惣右エ門(のち善四郎)、黒木勘三郎、黒木甚右エ門、黒木孫兵衛などの人家があったという。こうして当地山原村に留まり、男勝りのめのと(うば)の働きにより、農業によって生計をたてたのである。今に姥ガ作という字名が残っている。鈴木三郎も頼朝の願いを振りきり、後れて奥州に下り義経と共に戦死した。

 やがて、一子成長して二十才のとき、山形城下から妻をめとり、鈴木姓を名のり源氏重基と称した。ところが日本国中騒動して、鎌倉へも江戸へも登れず何時までこうして年月を送ればよいのかと哀しんでおったところ、三月廿日夜、妙見菩薩夢枕に現われ「心永く年月を送るべし、必ず子孫に幸あらん」とお告げがあった。それで以来三月廿日を御縁日と定めた。

 その子孫に鈴木帯刀というものがあって、十五才になったとき、妙見菩薩の霊験があらたかであったので、俗屋にもったいないというので、前の岩山の上(文珠山)に草堂を結んで安置した。時節を待って暮すうち、正平十一年(延文元年)、奥羽黒川郡から斯波兼頼公が山形に入部し山形城を築いた。鈴木帯刀十六才のときから兼頼公の臣松本彦左エ門に兵術を学び、其の縁によって彦左エ門を介して守本尊、大国安堵・是水の庄の書付共に兼頼公へ差上げ、二百石を頂戴した。二十五才のとき、松本彦左エ門の娘を妻として、本尊を岩山の草堂から知行の地となった現在の妙見山の頂に安置した。前の草堂を古妙見山と云う。

 兼頼公の代から山原村は、長柄三十筋の知行の場所となった。鈴木帯刀から四代の子孫、備後は三十筋の大将となり、江戸往来の度に、小白川村・印役村・長町村・四ヶ村百二十筋の扶持人となった。

 鈴木備後の子、監物が成長して二十六才のとき、慶長五年会津の上杉景勝は仙台の伊達政宗、伊達重実、美春清秋、片倉小十郎を討とうと、奥羽と下野の境に白坂から白川の城まで革籠(かわご)原を合戦場として、行程二里の場所、竹木を伐り払い要害堅固にして待ちかけた。奥州三春城主田村清秋、伊達重実、片倉小十郎、二万三千余の軍兵を引きつれ、ここに向った。出羽守義光は政宗方に加勢して、脇坂弾正岡山兵後に五百余の軍兵をさし向けた。そのとき鈴木監物も義光の命によって出陣した。

 鈴木監物は弟鴨左エ門を呼び、「今後上意によって二本松白川の方へ行くが、二度と帰ることが出来るかどうか定めがたい。それで家宝の書付をすべてお前に渡す、四才の我が子左馬之助が成長したならばこれを渡してくれ」と云って出陣し、革籠原で景勝の臣岡野左内、富田将監と戦い討死した。このとき功によって政宗方から次のような改名を頂戴したのであった。

 似虹(でかり)院殿丹亀寿功居士

甲頭(かぶと)に赤亀を立物にしたので、丹亀と書出したのである。鈴木監物の法名は釈迦堂の仏徳山法来寺にある。

 左馬之助重善は成長して妙見太夫と号した。その子に宮内というものがあった。この妙見太夫は最上義光の惣領修理太夫に仕えた。義光父子不和となり、義光は修理太夫を暗殺してしまった。そのため左馬之助重善は二百石を召上げられ、妙見寺領として宮内に十七石を残された。

 鴨左エ門は、先に預かっておいた書付などを監物の子左馬之助に渡さず、死にぎわに女房に云うには「自分が死んだなら地蔵町の実家に帰り、我が子半之助が成人した後でこれを渡しなさい」と、それで書付類は半之助に渡された。半之助は成長して半兵衛と号した。寛永十三年(1636)信濃高筒から保科肥後守山形に入部されたが、翌年半兵衛は義経から拝領した大国安堵の書付を肥後守に差出し、二百石頂戴して侍になった。翌年の秋、殿様が会津若松へ所替になったので、鈴木半兵衛もついて行った。

 宮内は十七石領地した。宮内の子兵部、この人は不如意のためあめを売ったので、俗にあめ別当といった。妙見太夫の子に甚之丞という人もおって、その子に民部、その子供に現蔵という人がおった。出世の後は文殊院といった。兵部に相続人が無かったので、民部の子現蔵を相続人と定めた。



妙見院相続に関する公事

 民部が存命中、あめ別当(宥山法印)と申し合わせ、御朱印拾七石を現蔵(民部の子)に相続させるよう証文を取替した。もし別当と不和合のときは源兵衛の前三百刈のところを相渡し別宅を差置くことと定めておいた。

 別当はこの約定に反して、山形八日町八幡小路の文泉院の所へ大和国から来た浪人山伏の大和坊という修験を相続させた。本寺行蔵院と内談のうえ定めたのである。

 そこで、現蔵は行蔵院に訴え出た。たしかに証文に誤りが無いので、願書は取上げられたが、そのままに差置かれた。現蔵は再三伺いをたてたが、行蔵院の申すには「私一人の了簡でも出来ないから、前田村の大庄屋渡辺加右エ門を通じて、公儀へも願を差出すように」といわれたので、訴状を認(したた)め、大庄屋に持っていったところ、加右エ門は「俗であれば取上げられるが、山伏の願書は庄屋としては取り上げられない」との返事であった。

 現蔵は私宅に帰り、元俗して右の訴状を持って、また願い出た。加右エ門もやむなく願書を受け取り、行蔵院に伺い、寺社奉行の役所へ差上げた。奉行は行蔵院を召して事情を尋ねたが、行蔵院は善く申し上げなかったので、そのまま延々になってしまった。

 現蔵は加右エ門に伺って見たが、御上から沙汰がないとの挨拶であったので、此の上は直々に御上へ差上げようと覚悟をしておったところ、幸い松平大和守様上下百五十人程のお供を引きつれ、光明寺に御参詣になることになった。これ幸いと現蔵訴状を大竹に挟み、片原町本久寺門前の上町中に立ちふさがり、目安を差上げ控えておった。松平大和守が御覧になり、小姓町道の方へ駕篭を控えられ、「何者だ、尋ねて参れ」とのことで、有のままに口上で申し上げたところ、お徒(かち)衆が殿様へそのまま申し上げた。

 そこで訴状は取上げられ、光明寺から山家の金勝寺へお出でになるので、晩方七つ時分に金勝寺へ来るようにとのことであった。現蔵は七つ時分に金勝寺に参上したが、城に帰り吟味を申し付けるという返事であった。現蔵は喜び今日か昨日かと待っておったが、行蔵院の話を聞いたので御上も、何度お伺いしても、もう少し待ってくれという返事だけだった。

 その頃、日本の山伏御仕置のため、山城国醍醐寺三宝院門跡の名代として、近江国長松寺がお廻りになられ、会津南山難行院から行蔵院へ移り逗留なされておった。

 これ幸いと、度々願書を差上げたが、例によって行蔵院が請合わないので、是が非でも、謀事をして願書を差上げようと考え、舎弟、手の者二人と申し合わせ白木綿二反死装束に用意し、真言陀羅尼を書き付けて二人一所に行蔵院の大門に立寄り、双方に立分れて、様子を伺っておったところ、案の定御出立ということで、お供の山伏大勢立ちさわぎ駕篭が玄関に出御なされた。そのとき現蔵大音声をはりあげ「そもそも此度日本国山伏御仕置のためとて、山城の醍醐寺三宝院の御名代として、近江国長松寺御廻りとお聞きしましたが、是はとんでもないにせ者ではないのか、兼ねて一通の訴状を差上げておいたのに、善悪も正さずにお帰りになるとはどうしたことだ」と叫んだ。

 現蔵は、前もって飛脚に馴れた治郎右エ門一家の行沢村長助という者を呼び寄せ、訴状箱の上書に会津南山難行院、長松寺様と書き付け、長助の首にかけさせ行蔵院の玄関に立たせ、高声で「会津南山難行院から飛脚が参りました。御状箱お上げ願います」と叫ばせた。

 御状箱が長松寺に取り上げられ開いて見ると、会津からの飛脚ではなく現蔵の訴状であったので、行蔵院をしかりつけ、その訳を尋ねたが、行蔵院はよくは話さなかったので、長松寺は行蔵院の申すまま早立ちするところであったわけである。

 現蔵は事の次第を語り、「此度は十死一生の場所と思い定め参上したので、このままではお帰り致させません」と大音声によばわった。そこで長松寺も一日逗留をのばし、現蔵を書院のわきまで呼びよせて「訴状を何故謀事などして差出したのか」と咎められた。現蔵は「ご尤もではありますが、訴状は再三差上げましたが、誰も取次ぐ者が無くやむを得ず謀事を以て差上げました」と答えた。


長松寺「謀事も謀事による。会津とは如何」

現蔵「一通の訴状差上げたく千度も願っても鉄の館、それで差上申す方法がないので、長助と申す者と謀事の”合図”をもって差上げましたので、会津と書きました」

長松寺「南山とは如何に」

現蔵「申し上げ度いこと身に余り、”南の山”程あり、他人の身の上でなく、”皆身”の上を申し上げますので、南の山と書き付けました」

長松寺「難行院とは如何に」

現蔵「此の一通の訴状差上げ、願の成就を願い難行苦行致しました。思い立ってこのかた只今までの現蔵の難行を思召下さい。現蔵ならぬ難行院でございます」


 長松寺は一々尤もである。証拠はどうだと尋ねられた。そこで本紙は手元に残し、写しを差上げる。行蔵院から、かねて差上げておった鑑主の証文も差上げた。長松寺はこれを御覧になって行蔵院を呼び寄せ、「証文は相違ないから鑑主のこと早々に拾七石家督相続させなさい」と仰せられた。行蔵院も承知した上でお立ちになった。

 現蔵、笹谷峠までお見送り申し上げたところ、御暇乞のとき、乗物近く召されて、「もし行蔵院がえこひいきして近日中に渡さなかったならば、仙台の柳町三光院へ参るよう」と仰せられた。

 その後待っておったが、家督相続をさせなかった。それで現蔵は仙台の柳町三光院方へ行ったところ、今もって渡さぬとは不届の至、早々相渡すべしとの書状を遣わされた。その上、このようにしても渡さないときは、大峯に登って三宝院門跡に話して埒(らち)を明かしてあげよう。といわれたので、お供の山伏小者仲間などまで、袖の下金二両程遣い御暇乞して帰った。

 右の書状を本寺行蔵院に差出して待っておったがやっぱり渡さない。そして大和坊を迎え相続させた。これが他門から相続した最初である。この人を打山(内山)法印と云った。

 これから、現蔵は開解を振って大峯に登って大和国醍醐三宝院へ参り訴状を差上げたところ、長松寺からも言上してあったので、三宝院門跡から江戸寺社奉行所に御改め遣わされ、御朱印拾七石早速相渡すべしとの奉書が山形へ送られて来た。ところが、松平大和守はその時すでに播州姫路に御国替になってしまった後で、松平下総守が御代主の代になってしまったので、新しい城主は此方は知らぬ事だといって、本寺行蔵院に渡されてしまった。

 御奉書まで賜ったのであるが、このような手違いで埒あかず、今一度大峯に登って御奉書を賜ろうと心掛けておったが、運悪く病の床に伏してしまった。十死一生のとき、枕元に兄弥五郎を呼び「御奉書は手違いによって本望を遂げることが出来なかった。今一度登って解決しようとしたが病には勝てない。これだけは末まで心残りである。私が死んだ後、お前が大峯に登って醍醐の三宝院へ願を立て、江戸寺社奉行迄出向いて御奉書を申請し、望みを遂げてくれ。そしてこの後我が子行淳に相続させてくれ」と遺言したのであった。弥五郎は「お前の言うとおり行淳に相続させるようにするから安心しなさい」といったので、重高(現蔵)は大いに喜び往生した。



文殊師利菩薩

〜横川啓太郎「唐松観音とその周辺」より〜

現蔵が大峯に登られたとき、かねて長松寺の物語りを聞いておった三宝院は、文殊の知恵のようであるといって御褒美を下され、金銀も出さずに大越家阿闍梨法印という位を丁頂したのである。この現蔵を文殊院という。この人が古来の書置を取りまとめ、寛文八年(1668)八月中旬に記しておいたのが残っておるのである。

 妙見院と現蔵の出入は、正保の頃(1645以後)である。その後、妙見院の鑑主の証文は現蔵方へ取り置き、妙見院方に後々まで家督相続が無いときには現蔵の子孫が相続に立つように決めたのである。

 なお、現蔵は一寺妙観院を妙見寺村中屋敷に創建した。宝永三年妙観院は現在の東沢公民館敷地に移って寺子屋も開いておったが、明治初年此処に小学校が創立されたのであった。



旧:妙観院の山門
現在:山形市岩波「成願寺」


 山形市諏訪町「成願寺」に移築された山門は、その後、道路拡張にともない山形市岩波に移転している。






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