2014年9月25日木曜日

考察:「柱」としての鳥居


〜東北芸術工科大学、文化財保存修復研究センター「日本最古の石鳥居群は語る」より〜


(張大石)

 はたして鳥居の「本来の姿」とは何か。

 平安時代に編纂された『和名類聚抄』のなかで、鳥居の語源は「鷄栖」と記している。「鷄栖」は「鶏が住む」という意味であるが、アマテラスを祀る伊勢神宮では、白い鶏が今の境内のなかで大事に育てられている。また、鎌倉時代の『伊呂波字類抄』では「鳥の居るところ」としている。これは神社信仰と「鳥」を結び付けている。だが、現在の鳥居に鳥の姿は見られない。漢字の成り立ちを知るうえで最も重要な『説文』によれば、「鳥」という字は長い尾をもつものを指し、尾の短い「隹」とを分けている。「隹」が単なる動物としての鳥を指しているのに対して、「鳥」は神聖なる鳥を表している。

 日本の神社信仰において神は自然界のなかに存在する。古い神社信仰では自然をあらわす山を御神体とし、本殿などの建造物をもたない。鳥居が今現在のように神社建築の一部となったのは、仏教をはじめとする大陸の文化が大きく影響をおよぼす奈良時代以降とされる。本来、神は大自然のなかに存在するため、一定の場所に「神」を降臨させて祭祀をおこなっていた。祭祀が終わると神は神の世界に帰するわけで、別段と社殿という建築物が不要であったとされる。この際、神の去来する代表的な空間として山がある。神は山をはしごにして天界から下界に、降臨しては帰する。

 伊勢神宮の正殿には、中心部に「心の御柱」を据えている。この柱は床下に設置されるため、建築構造物としての意味は薄く、遷宮の際に基準点を提供する役割をはたしている。神が降臨する「柱」の名残りとして、神社建築の成立以前の信仰形態を示しているものと見られる。

 また民間信仰では、鳥居のかたちを成す笠木や貫などが無くても、両柱さえ立っていれば鳥居と呼ばれる風習が各地に見られる。山形地域に伝わる古式石鳥居群からも実例を見ることができる。山形の石鳥居群は地元産の凝灰岩でつくられ、山岳信仰と関係した街道の要所に立ち並ぶ。なかでも弁慶の一夜造りと伝わる「谷地中の石鳥居」は、笠木や貫など横材が一切無くなって柱だけが立つ。歴とした鳥居としての信仰がいまに伝わり、塀もなければ壁もない鳥居の柱立てとしての風景を物語っている。




(萩原秀三郎)

 奈良県大和の大神神社は、日本で最古の神社形式といわれています。本殿はなく、拝殿のみが神体山である三輪山に昇る太陽を拝するように建てられている。神社では一般的に鳥居の奥に本殿がありますが、大神神社の場合は拝殿の背後、つまり三輪山の前に鳥居が立っています。しかも、柱が三本ある三つ鳥居という特殊な形式です。

 仏教の伽藍配置などを見ても、当初、仏舎利を納めた塔が中心に置かれていましたが、時代が下がるにつれて塔は飾り物になっています。塔を中央に配列されていた形式が、東西に塔を配列するように変化し、さらに東大寺の七重塔のように回廊の外に建てられるようになっています。鳥居も同様に、最初は中心に立てられていたものが、やがて周辺部に立てられるように変化していったと考えることができるのではないでしょうか。

 折口信夫は『古代人の思考の基礎』のなかで、日本の神社の起源は、柱を立てて結界占地をあらわすことにあると言っています。また「髯籠の話」では、古代生活において最も偉大な信仰の対象であった太陽を迎えるためには依代が必要であり、それはやはり最も天に近い山や喬木に太陽神が降りてくるということが原型であったろうと、神社の起源を説いています。つまり「太陽を招く柱」が根本だというわけです。

 混沌から秩序へというのが神話の一つのパターンです。鳥居も一の鳥居、二の鳥居、三の鳥居というようにどんどん、本当は真ん中にあったものが移動している。たとえば仏教にはお釈迦さんが亡くなった菩提樹といういのがあります。それを中心にしていたものが、いずれ仏塔という塔になる。その塔を中心にして伽藍配置が生まれたわけですけども、その塔も二重の塔、三重の塔、それから五重塔と、だんだん塔が中心ではなくて、飾りになって回廊の外にまで出ていってしまう。だから、本来中心で宇宙のヘソを囲むべきものがどんどん周辺にいってしまうことがあるのではないかと思います。



(赤坂憲雄)

 元木の石鳥居(山形)は背後に神社を持っていないのが特徴です。一般的な神社の前に立つ鳥居のイメージと離れている、あるいは断絶している意味は非常に大きいと思います。元木の石鳥居は、明らかに春分の日・秋分の日の朝日が昇ってくる方角を意識して建てられています。成沢やそのほかの山形の石鳥居に関しても、石鳥居の建立時には特定の神社との関わりはなく、その後に関わりができたのではないかと指摘されています。

 思い出したのが瀧山での聞き書きです。僕は西蔵王で聞き書きをしたときに、かつて瀧山や蔵王をお山参りした習俗が昭和のはじめ頃まではきちんと行なわれていたと聞いたことがあります。お山参りは、数えで15歳前後の少年たちが先輩たちに率いられて、瀧山から蔵王の方にかけて縦走していく。身体の弱い少年は丈夫に育つように祈願したといいます。このお山参りは古くは修験道の時代に遡ります。このお山参りの光景が、鳥居とつながるような気がしました。鳥居は特定の神社と関わるのではなく、お山参りと関わるわけです。

 私たちは鳥居を見るとき、近代の神社信仰や神社建築の一部という視点に縛られているんじゃないかと思います。かつての鳥居は、今のような形では存在していなかった可能性がある。門前の鳥居というイメージは近代に作られたものです。それを少しだけ解いていかなければ、私たちが目にしている山形の鳥居群の意味は見えてこないのではないかと思います。われわれの鳥居の感覚というのが、あまりにも神社の門というイメージに縛られてしまっている。けれども日本が最も古い鳥居として、我々のすぐそばに残されている石の鳥居というのは神社に関わりがありません。

 しかし鳥居の信仰と、鳥居を立てる場所について、どのように考えたらいいのか、じつはまだ僕のなかでは混乱があるんです。中国のミャオ族は村の中心の広場に立てる。いわば村という世界の中心に立つ。ところがもう一つ、常陸国風土記のヤツノカミにまつわる伝承が取り上げられています。あの話は、谷間の湿地に水田稲作をはじめた一族の首長であるマタチが、谷を占めている蛇体のヤツノカミを山の方に追い払って、谷間の湿地に標の杖を立てる。そして、今日からはこの杖の手前は人間が田んぼとして使う。その向こうは神々が利用する神の地である、というふうに唱えて、自分たちはこれからずっとあなたを祀り続けるから、どうぞ自分たちに田んぼを開かせてくれと祈願するわけです。その杖を立てられたところが谷の社、神社になっている。このとき、杖を立てた場所は村の中心ではなく村のはずれ、山と田を分かつ境界なんですよね。村のはずれの田から山へと移っていく境界に鳥居が立てられている。

 それから縄文文化と鳥居のかかわりですが、僕は鳥居と縄文との関係は稀薄なような気がします。日本列島で鳥居が宗教的なイメージをもって出てくるのは弥生時代以降、稲作農耕との関わりのなかで生成された宗教的なものではないかと感じています。僕がなぜ縄文と弥生にこだわるのかというと、縄文の聖地と弥生の聖地はつながったり消えたりするからです。たとえば秋田県大湯にあるストーンサークルは、夏至の日に太陽が沈む方角を示しているんじゃないかという説がある。三内丸山遺跡の六本柱のモニュメントも、夏至・冬至、そして春分・秋分に太陽が昇ったり沈んだりする方角を意識して建てられていたと考えられています。いくつかの実証的な裏付けをもって近年、縄文の人々もまた太陽信仰を、あるいは山岳に対する信仰というものを持っていたことが明らかにされつつあります。一方、鳥居がたてられた時期は、明らかに弥生的な世界がかぶさっていると思います。



山形県天童市「谷地中(やちなか)の石鳥居」
弁慶が一夜であわてて造ったため、柱しかないのだとか。


鳥居は「門」であり「柱」である。

柱だけがそびえる「弁慶の一夜造りの石鳥居」は、「柱」としての鳥居の原風景を静かに物語る。



 

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