2014年9月30日火曜日

鍋倉不動 [山形市]



蔵王ダムの登山口から約1時間30
鍋倉不動への入り口
杉林の奥の赤屋根が「篭り堂」
〜現地・案内板より〜

鍋倉不動尊
鍋倉不動滝

特に篭り堂に篭って断食修行、武道、山伏修行などが行なわれてきた。

東沢地区振興会
東沢郷土研究会
東沢観光協会



鍋倉不動「篭り堂」

「鍋倉山」

鍋倉不動「御詠歌」

鍋倉不動 御詠歌

ありがたや
なべくらふどう
いはのたき

せんにもひとつ
ねたものはなし

奉納者
山形市三日町 鍋倉つるよ
昭和四十七年九月二十八日


篭り堂内に祀られる「鍋倉不動尊」

篭り堂を抜けたところに


不動明王

大蝦蟇(がま)

〜東沢地区振興会「東沢の歴史散歩道」より〜

鍋倉不動滝

 蔵王ダムから葉の木沢川と雁戸沢川のあいだの脊梁を通り、名号の峯にのぼる途中に、節理が鮮やかで滑らかな岩壁を流れ落ちる美しい滝がある。鍋倉不動滝と呼ぶ。

 ここの不動尊には仁王門造の籠り堂(こもりどう)がある(間口三間、奥行一間半)。篭り堂内には天保十四年(1843)九月に造立した不動尊石造(50cm)、また滝壺に下る途中にも嘉永七年(1854)四月に立てられた石像(110cm)、さらに滝壺傍に明治二十六年(1893)八月と刻まれた石像(50cm)があり、いずれも山形町民たち崇敬者によって造立されたものである(篭り堂側に大蝦蟇の石像もある)。

 伝説によれば、昔は阿部不動ともいい、阿部貞任、宗任が始めて祀ったものという。多くの人々の信仰が篤く、特に篭り堂に篭っての断食修行、武道、山伏修行などが行なわれてきた。



鋭い斜面を下っていく。

鍋倉不動の滝壺

階段状の岩肌

滝となる岩壁
9月下旬、水はチロチロとしか流れていなかった。


滝壁を少しのぼり、滝壺をのぞむ。


ここは滝の中腹であり
さらに下にも滝が続いている。

〜横川啓太郎「唐松観音とその周辺」より〜

鍋倉不動

 蔵王ダムの上流、名号の峯に登る途中、文字通りの深山幽谷の大自然のなかに、独特の節理のある滑らかな岩壁を流れ落ちる美麗な滝がある。鍋倉不動という。この不動尊は地元のみならず、古来山形の町民の信仰が篤く、山門型の篭り堂にひっそりと篭り、滝にうたれて体を清め、不動明王に念じ武道の修行、闘病のため断食祈願する人々が跡を絶たなかった。




高房神社の石鳥居 [山形・高畠町]



高房神社の石鳥居


〜東北芸術工科大学、文化財保存修復研究センター「日本最古の石鳥居群は語る」より〜



高房神社の石鳥居


所在:高畠町北和田
様式:明神系八幡鳥居
年代:平安後期〜室町時代
材質:石英粗面岩質凝灰岩
寸法:総高3.23m、柱径0.72m、柱間2.27m
指定:県指定有形文化財
位置:37°57'27.0"N 140°12'11.0"E


 山形県の南端に置賜盆地が位置し、その中央部を飯豊山脈に発する最上川が北に向かって流れだす。盆地の東側の山麓には日本三大文殊として有名な亀岡文殊堂がある。そして、亀岡文殊堂から東南2kmほど離れたところに、優美な曲線をした山がそびえ立つ。地元では堂山と呼ぶ聖なる山である。

 高房神社はこの堂山の南面に鎮座し、石鳥居は神社の南の入り口に建てられている。高房神社の現在の宮司によると、本来の鎮座地は福島県方面の山奥で、今の上和田高房と字窪と呼ばれるところに鎮座していたという。その後、現在の地へ遷座したわけで、以前のところを一ノ宮と二ノ宮、そして現在地を三ノ宮と称しているという。


 一材からなる笠木と島木を太い柱が支える石鳥居は、村山地方における古式石鳥居群と同じく横に長いかたちをしている。笠と島木部分が船のような緩やかな反りを示すのは、天童市荒谷の清池の石鳥居とに類似する。また、貫の外は島木の端よりも短く、柱の上段部に台輪を設けている。この台輪は室町以降の鳥居に見られる八幡鳥居の特徴的な要素と見るべきであろう。

 だが、柱には転びがなく、左柱は二材つなぎの構成となっている。この他、台輪の彫りが浅いうえ、貫は笠木と島木を合わせた高さに近い。このため、一般的な鳥居の様式と比べて相対的に太い印象を与える。台輪部を除いてこれらの特徴は、村山地方の石鳥居に通じる、横長のどっしりとした古い様式を覗かせている。


二材つなぎの「左柱」

 これに加えて、左材が二材つなぎとなっているのは修理の跡なのか、それとも製作当初のものと見るべきなのか。接合面は精巧に削られ、高い平滑度を保っているうえ、左柱上段の貫刺し部分の風化が比較的に少ない。これに対して反対側の右柱では、貫刺し部はすでに大きなヒビが入り、風化による痩も進行している。これだけ両柱の風化の度合いが違うのは何故だろうか。

 さらに、通常の石鳥居では、組み立て易くするために貫穴の方を貫より幾分大きく掘りだす。しかし、ここでは真ん中の刺し穴よりも寸法が大きく、差し込み部分だけ細くしている。また、左右の貫と中央の貫の寸法がだいぶ異なっており、構造的なバランスに欠けている。このような不自然な形状や異なる寸法は、すべての部材が同一時期のものではない可能性を示唆している。つまり、時代変遷にともなって部分的な改変があったのではなかろうか。


島木前面にみられる「等間隔の3つの穴」

 鳥居の形状と関係して目を引くもう一つのところは、島木の前面に見られる、同間隔の直径10cmほどの三つの穴である。凝灰岩は火山灰の堆積した岩石で、運搬された岩石粒子を多く包含する。運搬環境や条件が揃っていた場合だと、等間隔の岩石包含状態を示すこともある。凝灰岩が平地で形成した場合だと、岩石は水平の堆積方向を示す。通常はこれを水平方向に沿って切り出して鳥居の部材に用いる。この際、表面に露呈した大きい岩石粒子は、比較的に容易く剥落を生じ、三つの穴は岩石自身の素性に由来する可能性が十分にある。

 一方で、等間隔、同径という側面から、意図的な穴の可能性も排除できない。岩石の素性に合わせて意図的なデザインの可能性も検討すべきであろう。これに関しては、伊東忠太(1867〜1953)という地元出身の建築家が戦前に残したスケッチがあり、一つの参考資料となる。彼のスケッチを見る限りでは、同間隔の穴が記載されていない。このうえ、現在は付いている左右の貫の外部が描かれていない。絵具を用いて彩色を施している丁寧な表現からすると、スケッチは現状を忠実に描写していると考えられる。しかし、穴と貫外も描かれていないのは何故だろうか。このスケッチを鵜呑みにすれば、同間隔の穴は戦後から出来たもので、この場合は意図的なデザインの可能性が高い。

 ただし、何時、何の目的で掘られたかが分からない現段階では結論を急ぐべきではない。また、貫外が描かれていない点から、現在の貫外は一時期ながら地面に落ちていたか、もしくはそれ以降に修繕されていた可能性が考えられる。石鳥居は凝灰岩という軟らかい材質であり、ホゾ差し込み構造という要因から、貫外の欠損を生じ易い。外貫の欠損は、村山地方の古式石鳥居においても多く見られる現象である。


 建立年代に関しては、向かって左柱の中央部に刻まれている銘文が重要な鍵をにぎる。地域の郷土史研究家たちの間では「天文七戊戌九月十八日」と解釈され、このことが『郷土史叢書』などに記されている。天文七年(1538)は室町末期であり、台輪のある鳥居の様式編年とおおむね合致すると言えよう。

 ただし、凝灰岩製の古式石鳥居のほとんどが柱に銘文を刻んでおらず、縁起書上での神社の成立は中世以前に遡る。そして、台輪を覗いた鳥居の様式は、村山地域の古式石鳥居と類似する。こういった点を踏まえると、建立年代は天文年間よりさらに遡る可能性は排除できない。また、石鳥居の建立年代と、銘記年代は必ずしも一致するとは限らない、という点も考慮すべきであろう。

 これを示すかのように、地元の研究家の間では「天元二年」、「天永二年」、「天永元年」など、異なる見方で銘文を読んでいるのが現状であり、定説を得るまではしばらく時間を待たざるを得ない。多孔質で脆い凝灰岩表面に銘文を刻むこと自体が難しく、風化が進んでいる場合は、解読そのものが困難を極める。今後、さらなる研究成果を踏まえた上で、銘文の年号について論じる必要がある。


 こういったなか、高房神社の創建などを記す文献記録の存在が沙汰され、歴史家の間で注目を集めている。現職の宮司である八巻喜教氏が近年手書きで写した「羽州置賜郡和田村総鎮守高房大明神縁起」という写本がそれである。原本の縁起書は本来神社に保管されていた巻物状のものだが、いま現在は地元の白石家に原本が保管されている。

 縁起書は江戸時代に書かれたものであり、「神社ヲ造営シテ二ノ宮ヨリ遷座シ奉リ、同所ヨリ桜樹ヲ移シテ神ノ御前ニ植エタリ、又其後天永元年ニ至リ桜樹ノ辺江石似テ一門ノ華表ヲ献リ」と記されている。縁起書そのものは文久年間(1861〜1863)と新しいが、神社の遷座に関する具体的な伝承を記録している面で、一定の資料的価値が認められる。恐らく以前の口伝などを基に作製されたものであろう。

 ここには天永元年(1110)、桜の木の近くに門として石造の「華表」を献じたとしている。この記述のままだと、神社は天永元年以前から存在し、「華表」が新たに建てられたことになる。すなわち、日本最古の石鳥居とされる山形の元木、成沢の石鳥居とほぼ近い年代にまで遡り、従来の天文年間とは大分隔たりを生じる。歴史変遷からしてみれば、村山と置賜地方との差はほとんど見られない。というのを前提にすると、それほど違和感のない年代推定かも知れない。ただし、両者ともに明確な裏付けが少ない現状においては、いずれも可能性の一つとして残しておくのが精いっぱいと言える。


 しかし、このような建立年代より興味深いのは、文末に見られる「華表」という文句である。この縁起書では「華表」を門として立てたとしている。「華表」とは、中国の宮殿や陵墓などの参道に立つ日本の標柱を指し、一般には「神道柱」または「石望柱」とも呼ばれる。その代表例は、北京の紫禁城の門の前に立つ花崗岩製の「華表」がある。

 この華表が江戸時代になると、確実に「鳥居」のことを指すようになる。聖なる空間の入口に立つことを勘案し、中国の「華表」を「鳥居」に見立てたのだろうか。それとも、天にそびえる両柱のイメージから鳥居としたのか。その真意については詳細が分からないにしても、「華表」という表記を「鳥居」に用いたという事実は、鳥居の起源と変遷を探るうえで重要な意味をもたらす。


安久津八幡神社の「じじばば石」

 この二本の鳥居の柱にまつわる重要な石造文化財が近隣に伝わる。安久津八幡神社の「じじばば石」と呼ばれる両柱石である。現在は神社入口に立つ木造鳥居のすぐ後ろ側に横たわっている。鳥居に向かって右側の石柱が「ばば石」であり、左柱が「じじ石」と呼ばれる。

 地元の高畠層から産する凝灰岩製であり、直径は約90cmで、長さは7mもある。何時、どういう経緯でここに置かれたのかについてははっきりしない。その位置が今の鳥居のある場所であることから、石鳥居を建てる目的から運ばれていたことは容易に想像できる。このあたりの古い地名が鳥居と呼ばれているのもそれを裏付ける。柱の直径や長さからすれば、村山地方に見られる古式鳥居群よりも大きい規模の石鳥居を建てようとしたに違いない。だが、どういう理由だか建てることを放棄して今のように横たわるままとなっている。

 もう一つ面白い点は「じじ石」と「ばば石」という名にある。何時からか地元の人々のあいだで付けられたであろうこの名からは、民間信仰で多く見られる陰陽的な考え方が覗かれる。伊勢信仰の聖地の一つである二見浦(三重県伊勢市二見町)の二見興玉神社の前に夫婦岩があり、この場合も陰陽を表す両柱のイメージと重なる。夫婦岩は注連縄でつながり、結界としての鳥居を表徴している。このような類型は全国の至るところから見ることができ、安久津八幡神社の「じじばば石」も、そういった象徴体系を示しているのではなかろうか。







5代目、鍋掛松 [山形・中山町]


中山町長崎「鍋掛松」



〜現地・石碑文より〜

鍋掛松

舟運栄えたる最上の河畔、樹令三百の松影と芋煮の宴を偲ぶ
月山、蔵王の秀峰、正に雄大なり

昭和五十二年十月
最上川伝承遺跡 鍋掛松復元実行委員会




〜現地・説明板より〜

「鍋掛松(なべかけまつ)」
〜芋煮会発祥の地〜

 最上川舟運が中山町長崎から荒砥まで通じたのは、元禄七年(1694)のこと。それまでは、長崎港が舟運の終点であり、米沢方面へ船荷の積み換えが行なわれた要地でした。内陸からは米、紅花などを運び、一方京都からの帰り荷には衣料、蚊帳や雛人形など上方文化を積み帰ってきました。

 船頭や水夫たちは船着場で風待ちの逗留の間、京都から運ばれた棒だらと地元の里芋を材料に河岸の松の枝に鍋を掛けて煮て食べました。これが山形名物「芋煮会」の始まりであり、ここに立つ松が「5代目鍋掛松」なのです。






2014年9月29日月曜日

楯岡の石鳥居 [山形・村山市]


楯岡の石鳥居

〜東北芸術工科大学、文化財保存修復研究センター「日本最古の石鳥居群は語る」より〜

楯岡の石鳥居

所在:村山市楯岡
様式:明神系八幡鳥居
年代:近世頃
材質:石英粗面岩質凝灰岩
寸法:柱高2.2m、柱径0.5m(左)、0.54m(右)、笠長3.8m、総高 柱間隔2.0m
指定:山形県指定有形文化財
位置:38.473117, 140.398832


 村山盆地の東を走る山脈から蔵王、面白山、黒伏山、御所山などが連なる。これらを集落のある平地から見た場合、南部では蔵王山系の瀧山(海抜1362m)が、北部においては御所山系の甑岳(海抜1015m)が、雄大なスケールで眺望できる。いずれも盆地の平野部に接しているわけで、高さの割には人々に与える印象は大きい。この甑岳から西へ流れる大沢川に沿って扇状地が発達し、その上に現在の楯岡の町並みが広がる。楯岡の石鳥居は、甑岳の麓にある父母報恩寺(1935年創建)の脇に東西方向に面して立っている。

 村山地域に伝わる古式石鳥居群の大きさは、柱径を基準に考えた場合、90cm、70cm、50cm級に分類される。楯岡の石鳥居は柱の径が約50cm程度であり、最も小規模の鳥居となる。鳥居の笠木にわずかな反りが見られ、貫外や額束がなく一見して中山鳥居の様式に近い。だが、それらは欠落しているだけであり、本来は他の古式石鳥居と同様に明神系八幡鳥居と分類される。総高は2.5m、貫までの高さは昭和20年代頃には約1.6mあり、大人がやっとくぐれる鳥居である(最近の整備でさらに低くなっている)。また、形状の特徴として笠木の長さが極端に短くなっており、全体的な構成にバランスを欠き、石鳥居の改変が疑われる部分となる。

 建立年代に関しては定かな説を有しないが、「最上出羽守義光の父、義守の寄進」などと言われている。地元に伝わる「元和八年之楯岡事跡略図」には、現在地の鳥居に「最上義光公建立」という朱書きが記され、最上家の関連説を裏付けている。もし、この状況のみを考慮すると、建立年代は最上義光の時代である天正年間(1573〜1591)となる。

 しかし、村山の古式石鳥居群の研究をはじめて行なった川崎浩良氏によると、柱に刻まれた銘文を考慮し、建立年代がそれ以前に遡る可能性があると指摘している。同氏は鳥居の左柱に刻まれた文字を「かつ田大明神」と読み、本来は蔵王山系の刈田神社の入口に立っていたのが、最上義光の時代に現在の地に移されたとしている(『出羽文化史料』昭和20年)。さらに、移る以前の場所について、刈田嶺登山口の南村山中川村の金谷付近(現在の上山市)と推定をしている。この過程で、鳥居の形状も変えられたのかも知れない。

 ただし、風化が進んでいる現在では、「かつ田大明神」の文字を確かめることは困難である。このため、文字の解析をめぐっては異論を提議する地元の研究者もいて、建立年代の確定には再考の余地を残すべきであろう。また、石鳥居の材質は石英粗面岩質凝灰岩を示し、この石は地元の楯岡付近には産するが、推定地の上山には産しない(「山形県地質図」)。今後、刻まれた銘文を含めてさらなる検討が必要とされる部分である。いずれにせよ、山形に伝わる古式石鳥居群のなかでは、たった二つ目の年号の刻まれた貴重な事例と言えよう。

 この他、「元和八年之楯岡事跡略図」には楯岡の石鳥居が現在の位置に記され、古式石鳥居群のなかで最も古い絵図記録として意味深い。また、この絵図を通して現在地に石鳥居の存在が確認できる点は、石鳥居をめぐる空間性を語るうえでも重要である。すなわち、山形に伝わる古式石鳥居は東の奥羽山脈の山を信仰対象とし、その麓や羽州街道につながる地点に東西に面して立つ。かつての古街道もこの空間的関係を考慮すると、楯岡の石鳥居は典型的な立地条件を満たしていると言えよう。現に、鳥居からはじまる参道は小松沢観音につながっている。小松沢観音は最上三十三札所のうち、二十番目にあたり、かつて地元では篤い信仰を集めていたという。

 こういった状況から、楯岡の石鳥居は甑岳および小松沢観音との関わり深い鳥居であると言えよう。ただし、石鳥居の大きさや形状の特異性などからして、移された可能性も排除できない。川崎浩良氏の「刈田神社説」は、その改変の一例を示しているのではなかろうか。










炭焼藤太の伝説 [山形]



〜横川啓太郎「唐松観音とその周辺」より〜


炭焼藤太の伝説


豊丸姫、京より来る

 鳥羽天皇の御代とか、羽州金井荘宝沢の里に炭焼藤太という人が住んでおった。毎日炭を背負って寒河江、白岩の里までも炭売りに行くことを業としておったという。

 その頃、京都一条殿に豊丸姫という美しい姫君が住んでおった。豊丸姫は日頃信仰している清水観音の霊夢によって、自分の夫となる人は羽州宝沢の里の住人炭焼藤太という人であると確く信じ、京都からはるばる宝沢の里をめざして、遠い旅路を辿ったのであった。


恥かし川

 途中、尋ね尋ねて漸く平清水の里までやって来たところ、そこに小川があった。橋がなかったので、姫は裾をまくって渡ろうとした。ところが川面にうつった自分の姿を見て、「ああ恥かしい」と思わず口走った。それからこの川を「恥かし川」と呼ぶようになったという。

如何にせん うつる姿はつくも髪
わが面影は 恥かしの川


五度坂・姫沢、股旅の清水(すず)

 やがて千歳山の麓を通り、馬見ヶ崎ぞいにさか登って行くと、山坂の道があった。姫はこの坂を登れば果たして宝沢の里に辿りつけるのだろうかと、ためらいながら五度も行きつもどりつしたのであった。それでこの坂を「五度坂」と呼ぶようになったという。

 五度坂を過ぎて、右の方を沢を見ると、煙が立登っておる。やれ嬉しや、ここが藤太の住む里かと、そこまで沢を登ってみると炭焼小屋があるだけであった。姫は仕方なしにその沢を引き返したのである。今でもこの沢を姫沢と呼んでいる。姫は疲れた足どりでなおも山路を辿って行くと、こんこんと湧き出る泉があった。姫は大いに喜びその水を飲み旅の疲れをいやした。この泉は「股旅の清水」と呼ばれている。漸く宝沢の里の藤太の住居に辿りつき、事情を話しその妻となった。

 あるとき、豊丸姫は夫の藤太に小判を渡し、これで米と味噌を買って来るようにたのんだ。藤太は炭を背負い山形の国分寺の近くまでさしかかると、池に鶇(つぐみ)が遊泳しているのを見つけた。藤太は「よし、あの鳥を獲ってやろう」と、思わず手にした小判を池の中の鳥に投げつけた。小判は鳥にあたらず水中に沈んでしまった。平気な顔で帰った藤太に、豊丸姫は「小判は都では大変値うちのあるものです。おしいことをなされました」というと、藤太は「ああ、あれか、あんなものなら裏の山に行けば沢山ありますよ」と事もなげに答えた。姫は驚いて裏山に行って見ると果して、そこには金が山ほどあったのである。藤太は大金持になった。その池は鴻の池といって今もなお存在している。


薬師寺の池


 藤太が炭売りに通うときは、藤森稲荷(山形北高の近くにあり)で休むのを常とした。今塚には藤太道があり、長崎の八幡神社境内には藤太の休石があった。長崎は沼尻郷と呼ばれておった時代で、鴻の池の伝説と同じような伝説が此処にもある。


藤森稲荷神社


鍋掛松と芋煮会

 長崎にはもう一つ、藤太の鍋掛松という伝説がある。宝沢の里から炭売りに来た藤太は、沼尻郷の最上川畔の松の木の下で、枝に鍋をかけて昼飯を食べたという。その松は藤太の鍋掛松と呼ばれておった。


中山町の「鍋掛松」


 この鍋掛松の下で後世、最上川の舟で運ばれて来る棒だらと最上川べりの沼尻郷の湿地から取れる里芋を、松の枝につるした鍋で煮込んだ船頭たちが酒盛りをしたという。こういうわけで、山形芋煮会の発祥の地ともいわれている。昭和五十二年秋以来、毎年九月中旬から約五十日間、唐松観音川原で、山形市民が芋煮祭を楽しむようになったが、これも炭焼藤太が取り持つ縁かも知れない。


唐松観音に置かれた初代「芋煮の大鍋」


金売吉治兄弟

 藤太には吉治・吉内・吉六という三人の子供があったという。長男の吉治信高は天治元年(1124)九月二十日に生れ、源義経に仕えた金売吉治であり、康治二年(1143)六月十二日、二男吉内信氏が、久安元年(1145)七月十九日に三男吉六信義が生れた。三人の兄弟は京都に金売りに通ったのであるが、後世奥州白坂で盗賊熊坂長範の為に殺害せられた。

 その後、藤太夫婦は清水観音に祈願したところ、嘉応元年(1169)四月、豊丸姫五十七才で四男喜藤太信正を生んだ。其の子孫は住吉神社宮司、宝崎家であり、藤太は八十三才、姫は七十八才で往生したと伝えられる。

 金売吉次兄弟の墓は今もなお福島県白河市白坂皮篭(かわご)にある。



恥川(平清水)
五度坂(宝沢)
姫沢(宝沢)
股旅の清水(宝沢)
藤森稲荷(山形北高の近く)
鴻の池(国分寺)
藤太道(今塚)
休石(長崎の八幡神社)
鍋掛松(長崎)
吉次兄弟の墓(白河市白坂皮篭)

2014年9月28日日曜日

虚空蔵堂 [山形・防原]


道路沿いの「燈篭」
地域内最大級

〜東沢地区振興会「東沢の歴史散歩道」より〜

 現在の市道(旧:国道)から虚空蔵さまへの入口に、火袋の上に笠石を乗せた大きな「燈篭」は、慶応二年(1866)に立てられたもので、地域内では最大ではなかろうか。


〜黒木喜久治「防原町の歴史」より〜

虚空蔵堂 常夜灯

 現市道防原、妙見寺線(元:国道286号線)から入る虚空蔵菩薩参道入口の川崎屋の土地(防原で無償で借入)に「安山岩の常夜灯」がある。高さ3.3m、笠石の直径(長辺)は1.7mもある大石灯籠で、近辺では類をみないものである。下から台石(基礎)、竿、中台、火袋、笠石の順に重ねている。

 竿石の裏に造立関係者の名が刻んであるが、その年月日はない。この記録からみるかぎり、防原の若者組(若い衆、若者中)が主体となって村の安全を祈願し造立したものである。石工は石井孫兵エ(唐松観音別当)が工事している。若者世話人の貞蔵(会田権右エ門家、現石井薫のところ)、又蔵(会田孫太郎家、現会田市郎のところ)、善之助(会田與三郎家、現江口猛夫のところ)の三人は、いずれも上宝沢村防原の住民である。また、地主久五郎以下七人の世話人は上宝沢村防原が三人、下宝沢村防原が四人となっている。

 ただ、造立年月日が刻字してないので、残念ながらはっきりしない。しかし、これほどの大燈籠を建てるとなると、神仏分離前の大事業であったに違いない。事実、防原公民館の古記録の中に表紙だけあるが、「虚空蔵常夜燈萬覚帳」が残っている。これによれば慶応二寅年(1866)三月の造立が確である。ただし、内容の記録は残念ながら亡失しており調べようがない。なお、慶応二年といえば幕末の戦乱が東北にも及ぼうとするときで、防原住民はどんな願をこめて造立したものであろうか。 



防原の虚空蔵堂


〜現地・案内板より〜

虚空蔵菩薩

寛永三年(1750)再建。
東山三十四観音札所、境内には地区で珍しい石経塔(塔の下に経文を書いた多数の小石埋設)、中腹に六地蔵幢(室町後期)や庚申塔(徳川初期)等がある。

東沢地区振興会
東沢郷土研究会
東沢観光協会

〜東沢地区振興会「東沢の歴史散歩道」より〜

防原の虚空蔵菩薩

 わが東沢地域内で特記すべきことを多分に秘めている「防原町の虚空蔵さま」を取りあげよう。防原の南の山に虚空蔵さまを祀ったお堂がある。虚空蔵信仰は奈良時代に伝えられ、福を知を虚空のように無限に持っていて、庶民の望みに応じて分け与える仏である。


〜黒木喜久治「防原町の歴史」より〜

防原町の南方山並の西山への山道を、約100mほど登った中段の突き出したところに(大字上宝沢字防原山2119番の2、宅地17坪)、虚空蔵菩薩が祭られており、昔から防原部落の氏神として崇拝されてきた。

 参道はもと西山の畑(明治八年の地押のときには三反二五歩の畑があったが、現在はすべて山林となった)に通う農道といっしょで、しかも沢づたいに登るので雨のたびに流され、そのうえ材木の山出しで破損するなど荒れ道である。また、この参道中腹に水の湧き出る(井戸)平地があって、樅(もみ)の大木と古い石碑や石仏がたっている。



石造物群
年代は右から古いという

六地蔵幢

〜東沢地区振興会「東沢の歴史散歩道」より〜

 中腹の「六地蔵幢」は六角柱で宝珠と笠を付け、各面に一体づつ地蔵さまが浮彫されているが、磨滅の状況からみても室町時代の造立かもしれない。地蔵さまは単に人間世界だけでなく、六つの世界(六道=地獄・餓鬼・畜生・阿修羅・人間・天)を救済するとの考えから、古くから六体の地蔵が作られ礼拝してきた。


各面に一体ずつ浮彫りされた「お地蔵さま」



〜黒木喜久治「防原町の歴史」より〜

六地蔵幢

 虚空蔵山境内で最も古いとみなされる「六地蔵幢」は、石英粗面岩の六角柱で、六面にそれぞれ地蔵菩薩が一体ずつ浮彫されている。

 建立年月日が彫られておらず、しかも、地蔵像も長年の風雨にさらされ不鮮明で、地蔵菩薩六体の形状がはっきりしない。塔身六角柱の上に同じ六角形の笠をつけ、その上に宝珠をのせている。全体に素朴で重厚な感じがある。かなり損じているが、横川啓太郎氏によれば、元禄以前の造立を思わせるものだと。

 なお、六地蔵信仰は平安時代中期からはじまっているが、ここの虚空蔵菩薩との関係はわからない。あるいは、虚空蔵菩薩建立の数十、数百年前から部落第一の神聖なる地として、神仏に祈願する場所だったのかもしれない。



庚申塔

〜東沢地区振興会「東沢の歴史散歩道」より〜

 「庚申供養塔」も造立年月は不明であるが、立地(上段から下段へ順に)からみて最下段の元禄四年の巳待塔よりも古いとみられる。正面と左、右面に三猿(見ざる・聞かざる・言わざる)がそれぞれ浮彫され、経文や願文(?)が刻まれている。なお、三猿の両足はすべて垂直な形から江戸初期前のものかもしれない(時代が新しくなるにつれ足首が接近し逆三角形)。



銘「夫以善根功徳者光明□雲拂追智徒宇證者照迷精 龍共」
「奉造立庚申供養塔」
「闇夜然則出離過去八難□國忽至九品浄刹而巳 白」

〜黒木喜久治「防原町の歴史」より〜

庚申供養塔

 この庚申塔(おごすんさま)は、山内では六地蔵に次いで古く、安山岩でできている。四角柱の塔身の上に笠、さらにその上に宝珠がのっている。建立年月日がなく、いつの頃かわからない。ただ、立ててある位置(六地蔵幢の下)や、元禄四年の巳待塔などから考えて、徳川初期以前のものに間違いない。

 当東沢地域には多数の石造物があり、中でも庚申塔や巳待塔が最も多いが、この庚申塔はそのうちでも最たるものである。というのは、塔身の三面に「言わ猿」「聞か猿」「見猿」の三猿が浮彫(造立時の技術水準からみて優れたものと思われる)され、さらに左右に経文、正面に願文と思われる多数の文字が刻まれている。


 正面「言わ猿」の上の梵字「ウーン」は、愛染明王の種字である。本来、庚申塔は青面金剛童子で、その種字は「ウン」であるべきはずであるが、ただ青面金剛が庚申塔に登場するのは江戸時代に入ってからであるといわれているので、この庚申塔はさらにその前かもしれない。なお、本来は日月を刻むものであるが、本庚申塔は梵字の左右に日輪のみが彫られている。また、正面に「龍共白」とあり、修験者「龍共」が祈願文を記めたものなのか、龍共はどこの誰なのか一切不明である。

 しかし、当東沢地域には愛染明王の種字「ウーン」をつけた庚申塔は、滑川白髪神社(正徳四年九月廿一日建立、1714)境内にもあるが、同じ防原の三叉路にあった庚申塔(現在、下宝沢妙泉寺境内に移転。寛政三年、1791建立)の種字は「ウン」である。当時は特に限定されず、同趣旨のものはお互に混用されたのかもしれない。



銘「覚了一切法□如夢幻郷音」
「経曰」
「満足諸妙願□如是刹」


 右側面の「アバンウーン」はそれぞれ胎蔵界大日如来、金剛界大日如来、金剛薩埵を示す種子を考えてきたが、桃山期以降になると、三字を一つの真言として取り扱い、呪力ある有難い真言として用いられている。



銘「恕等□□是菩薩道」
「施主」
「漸々修学悉当成佛」


〜黒木喜久治「防原町の歴史」より〜

左側面の梵字「リー(またはイ)」は何を表示しているかわからないが、見猿と関係があるものか。

 ただ、庚申塔に三猿が定着した当初は、諸佛の種字と三猿を彫るものが珍しくなかった。これは三猿を庚申塔の主尊としたものであろうが、青面金剛が庚申信仰の主尊となるにつれ、その眷属の位置に彫られるようになった。三猿が登場した江戸初期前後のものは、手首から肘へは三角形をなし、両足は膝から垂直に近い形をとっていたが、時代が新しくなるにつれ足首が接近し(逆三角形)、全体像としては菱形のようになったものも現れたという(「佛像見分け方辞典」北辰堂)。当地の庚申塔の三猿の両足はすべて垂直の形状であり、江戸初期前のものかもしれない。



巳待塔

〜黒木喜久治「防原町の歴史」より〜

 参道中腹湧水池にある「巳待塔」は元禄四年(1691)九月十八日に建立されたもので、表面に「右ハ山ミち(山道)」、「左ハ古空蔵(虚空蔵)」との道標がある。


巳待(みまち)供養塔

 この供養塔は元禄四年(1691)九月十八日に十一人の講中によって立てられたもので、年代のある石造物では一番古い安山岩の塔である。その基礎石(あるいは手洗鉢か?)といわれるものが、六地蔵幢、庚申塔、万年塔の下座に建立されている。年代順に立てられたものとすれば、この塔は元禄年間のものでも一番新しい石塔となる。

 道標(みちしるべ)を兼ねており、別れ道(追分)に立てられてたものに違いないが、右は山ミち(山道)、左は古空蔵(=虚空蔵)と考えれば、現在地でないようにも思われる。とすれば湧水地入口上手ではなかろうか。だとすれば、ここから山道と別れ、左側の山の稜線の斜面を上ったのかもしれない(何となく道の跡形があるような感じがする)。また、一説には左は「ゑと道=江戸道」との説もあるが、右山道から考え理屈に合わない。



「万年塔」
左右側面にそれぞれ「日輪」と「月輪」

〜黒木喜久治「防原町の歴史」より〜

万年塔

 この万年塔は記録されていることが何もなく、造立年月日も不明で詳細ははっきりしない。材質は安山岩と思われる。



「大仏頂首楞厳石経塔」

〜東沢地区振興会「東沢の歴史散歩道」より〜

 境内には当地域では珍しい宝暦四年(1754)造立の「大仏頂首楞厳石経塔(だいぶつちょうしゅりょうごんせききょうとう)」がある。石経塔とは、小石に経文の一字(一字一石塔)か、または多くの字を書いて(多字一石塔)塔の下に埋込んだもので、それに楞厳経は禅宗の要義を説いた主要な経典である(あるいは経塚から変化したものか)。別当の会田家で国道286号線の新設付替のとき、墓地を移転したが、「大乗妙典石経塔」から多数の経石が出てきた(地区内の経石塔はこの二つのみか)。



〜黒木喜久治「防原町の歴史」より〜

大仏頂首楞厳石経塔

(正面)大佛頂首楞厳石経塔 釈氏良□敬立
(右側面)寶暦四申戌七月朔旦

 この石経塔は、虚空蔵堂の再建四年後の宝暦四年(1754)七月一日、釈氏良□が立てたものである。一般的に「釈」という法名は浄土真宗(ごもんと)が用いるものであるが、当時は宗派にかかわらず在家の僧が用いている。会田家の墓石の法名には「釈」を用いたものが三人あり、これは信女などの戒名から判断して明らかに禅宗である。

 ただ釈氏良□という法名は別当家の墓石にはない。別当家かまたは信者が直接立てたものか、あるいは流された廃寺(浄土真宗)から移転して再建したものかはっきりしない。しかし、楞厳経は禅宗の重要な経典であることから勘案し、防原の信者(ほとんどが禅宗)が建立したものに違いない。

 これを実証するには、基壇を発掘することによって楞厳経を記した経石が出てくるならば、当初からそこに建てられたものに違いない。これもやはり五輪塔を形どった感じがする。


註:

大佛頂、「大佛頂陀羅尼(だいぶつちょうだらに)」すなわち「楞厳呪(りょうごんじゅ)」のこと。この大佛頂陀羅尼は悪魔・怨霊の退散、病気平癒に効験あると信ぜられた。

首楞厳教「首楞厳」は、「雄々しく歩く勇士、すなわち菩薩のこと」、詳しくは「大佛頂如来密因修証了義諸菩薩万行首楞厳教」といい、禅宗の要義を説く経典として禅家において尊重された(以上、日本仏教語辞典より)。



地蔵尊 1


〜黒木喜久治「防原町の歴史」より〜

 地蔵尊の一基は、右手に蓮華(青蓮華か?)を持つ。地蔵像の向って右に「文政三年辰年」、左に「七月吉日」と彫られている。

 佛教語辞典によれば、地蔵菩薩(地蔵尊)は釈迦の入滅ののち、弥勒菩薩が出現するまでの間、六道(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天)の衆生を教化する菩薩とされ、多くは僧形で右手に錫杖を持ち、左手に宝珠を捧げるものが普通である。また、六道救済の菩薩として六地蔵信仰が平安中期からみられる(参道中腹に六地蔵幢がある)。


地蔵尊 2



〜黒木喜久治「防原町の歴史」より〜

 他の一基は、左手に幢を持ち、地蔵像の向って右に「女人講中」と刻まれている。

 この石佛は文政三年(1820)七月に地蔵講の女性たちが建てたもので、安産と子育てを第一とし、あわせて長命と穀物成熟を願ったものと思われる。いずれも船形光背で、二基にそれぞれ地蔵菩薩が浮彫されている。





虚空蔵堂

〜黒木喜久治「防原町の歴史」より〜

由来と縁起

「山坂をいとわず参る人々に
    福徳よろず授け与へる」

の御詠歌にもあるとおり虚空蔵菩薩は、記憶・知恵・福徳の三つを与えるものとして信仰されてきた。別当会田賢一家にも、由来や縁起を記したものがないのではっきりしないが、現在のお堂は棟札によれば、寛延三年(1750)信者250人の助成をもととし、新庄領(戸沢藩)小国(現:最上町)の大工三人が建てたのである。この寛延三年の建築は「再建」となっているので、もっと早くからお堂があったに違いない。

 そもそも、虚空蔵信仰は奈良時代に日本に伝えられ、僧侶の間では福徳・知恵増進・災害消除の性格が経典や修法にみられる。民間でもこれに沿った信仰が展開し、丑寅年生れの人の守り本尊として全国的に信仰されてきた。さらに、蚕糞(こぐそ)から蚕神に、穀蔵(こくぞう)から作神信仰になっている例も多い。それに虚空蔵菩薩は追善供養としての十三佛の最終佛、あの世への導者としての役割が室町期まで定着してゆくとある(以上、平凡社「大百科事典」による)。

 また、福と智を虚空のように無限にもっていて、衆生の望みに応じて分け与える菩薩とある(三省堂「大辞林」から)。財宝や佛宝をことごとく施すことをもって、最大の喜びとするスケールの大きな菩薩である(「大方等大集経」の「虚空蔵品」)。



 お堂は間口、奥行きとも一間半(約3m)のほぼ方形で、屋根は切妻造(ただし以前は方形造)、平入、下屋向拝(前庇)の高床式(束の高さ二尺)木造建物である。昭和43年(1978)の屋根替以前は、方形造の茅葺屋根であったが、トタン葺の切妻造に変えられた。

 この建物は寛延三年(1750)の建築で、材料は主に栗材を使っており、正面の外側に多くの木札が打ちつけてあるが、その文字は長らくの風雨にさらされて読み取れない(寄進者の木札か?)。内部は内陣(0.75坪)と三畳(1.5坪)の外陣に分かれている。建物全体が相当痛んでおり、虫喰いが甚だしく早急に改築を要するものと思われる。



内陣


〜黒木喜久治「防原町の歴史」より〜

 本尊の虚空蔵菩薩は、蓮華の台座に乗った木像の立像(立像部分:約30cm)で、光背は輪光、左手に宝珠(三弁宝珠か?)を捧げ、右手は下にさげ衆生の畏(おそれ)を去り、願望するものを与える与願印を結ぶ。作者および作成年日は不明であるが、古いため金箔を塗り替えたという。

 また、同じ内陣に東山三十四観音十八番の千手観音様が祀ってあり、さらに脇仏かどうかわからないが、二体の石仏がある。誰かが、何かの理由で置いたのかもしれない。二体のうち一体は首が欠け、詳細は不明で今後の調査に待つしかない(山神さまにも首のないのが一体ある)。ただ一説(あるいは俗説)によれば、博打を打つ者がよく当るように、神や佛を頼みとして首だけ(全部では重いため)を懐に入れ博打場に臨んだという。

 この宮殿は現在の状況から判断するに、虚空蔵堂を建てた寛延三年(1750)に同時に造られたものかどうか疑問である。というのは、外陣と内陣との境の頭貫より宮殿の屋根が高く、棟の前先端はその貫に陰れて見えず、ちぐはぐなことである。しかも、須弥壇は漆塗と思われるのに、宮殿の塗は別のようで、お堂、宮殿、須弥壇がそれぞれ別々に造られてたのではなかろうか。






〜東沢地区振興会「東沢の歴史散歩道」より〜

 お堂の棟札によれば、寛延三年(1750)九月に250人の信者の寄進で、上宝沢村の養福寺を導師として再建したもので、方形造(昭和48年、屋根替により現在は切妻造)で、向拝(前ひさし)は木目細かな細工を施した立派なお堂である。しかし、再建とあることから創立の時期はもっと早いに違いない。たとえば、参道中腹の湧水池に元禄四年(1691)造立の巳待塔(みまちとう)があり、さらにこれよりも古い六地蔵幢と庚申塔がある。

 山上のお堂は調べたところによると、枘穴が一致しない箇所などがあることからみて、他所から移築されたものとも考えられ、同境内に二基のご神塔があるが、天明六年(1786)行沢村(なめざわむら)神保と刻まれている(菰張山山麓にあった寺との関係はないものか)。



〜黒木喜久治「防原町の歴史」より〜

 別当会田氏によれば、昭和48年最後の屋根替(茅葺をトタン葺に)の際、しらべたところによると枘(ほぞ)の折れているものがあったが、折れ残りが枘穴になく、また、釘(日本釘)が使われていたことから考え、何処かのお堂を移築したものではなかろうかと。しかも、何かに(何だったか記憶なし)行沢村講中二十七人とも記されていたという。あるいは菰張山にあったと伝えられる廃寺のお堂を運んできて、建替たのではなかろうかとも思料される。

註:

現在の七日町寺内の善龍寺が、この菰張山麓にあったという。それが七日町来迎寺向に移り、その後現在地に移ったのだと。それで檀徒総代の一人に会田六郎兵衛、会田七郎兵衛、そのほか滑川に檀徒がある(なお、同寺の現在職に問合わせたが不明である)。



「龍」の彫り
反対側にもある。

精巧に彫刻された獅子頭と象頭


〜黒木喜久治「防原町の歴史」より〜

お堂の正面と左右に回り縁が巡らされ、向拝の軒は二軒(ふたのき)の繁垂木(しげたるき)造りですこぶる賑やかであり、虹梁(水引紅梁と海老紅梁)には若草の唐草模様が彫られている。しかも、両紅梁の木鼻(きばな)には正面に獅子頭が一対、左右にそれぞれ象頭が精巧に彫刻されている。



2014年9月27日土曜日

石倉の石鳥居 [山形・天童市]


石倉の石鳥居

〜現地・案内板より〜

石鳥居

 この石鳥居は、凝灰岩(ぎょうかいがん)で笠木(かさぎ)の長さ6.2m、柱の高さ3.17m、柱の太さ直径0.89m、柱と柱の間は2.99mあります。

 造立年代について、干布村郷土史では「近世前期のようだ」としていますが、天童市史では「中世後期」と推定しています。また、この鳥居について郷土史は、雨呼山(あまよばりやま)大権現(龍神様)への奉納であろうとし、市史では向きが南向きだったとも考えられ、山寺に関わる鳥居ではないかと推測しています。

 しかし、これは総合的に判断すると、干布村郷土史が記した、雨呼山の信仰に対して造立されたものと考えるのが自然と思われます。そして、この鳥居を造った苦労を思うとき、それだけ雨呼山に対する先人の信仰の厚さと深さを考えさせられます。

平成19年10月
干布地域づくり委員会



額束(がくづか)が2つある珍しい石鳥居

〜東北芸術工科大学、文化財保存修復研究センター「日本最古の石鳥居群は語る」より〜

石倉の石鳥居

所在:天童市下萩野戸
様式:明神系八幡鳥居
年代:近世
材質:石英粗面岩質凝灰岩
寸法:総高3.9m、柱径0.7m、柱間隔3m、笠長6.25m
位置:38.32514444,140.41567500


 額束を二つもつこの石鳥居は、天童市の東に位置する雨呼山の麓に立っている。鳥居の帰属は、天童市の舞鶴山方面の佛向寺と関係深い雨呼山とされる。柱の径が約0.7m、笠木の長さも約6.25mあり、古式の石鳥居のなかでは大型に分類される。形態の特徴は額束が二つ並んでいる点と、笠と島木の両側面が垂直に切られている点である。そして柱は僅かに転びがあるうえ、八角形に近い断面を示す。八角柱の鳥居は、大鳥神社など明神系鳥居に見られる特徴として、その用例は制限されている。

 鳥居の様式分類上では明神系八幡鳥居の変形と考えられる。だが、額束が二つあるなど、倒壊にともなう一定の改変が加わっている可能性が高い。これを裏付けるものとして、地元の著名な歴史家である川崎浩良氏による証言がある(『出羽文化史料』)。そのなかに、かつて石鳥居の左半分が崩れていたという記述がみられる。崩れた理由は鳥居下の中央部が雨水の影響で渓流となったためであり、右半分はかろうじて樹木に支えられて立っていたという。鳥居の位置する辺りは傾斜のある登山路と川が隣接しており、豪雨の影響を受けると道は渓流となる地形を示す。もう一つ述懐のなかで興味深い事実は、現在のような二つの額束はないとしている。すなわち、この鳥居の特徴を島木の切り落とし部分としているものの、額束が二つあるという記述は見られない。現在の二つある額束は昭和二十年代以降、修理の際に加えられたものと考えられる。


 鳥居の向きに関連して、一説では近隣の立石寺を意識し、現在のような東西ではなく南北向きだったという見解もある。しかし、村山地域の古式鳥居の立地条件は、東へ向う街道沿いを選んでいる。この点、現在の位置は少々山奥に入り込んではいるが、西から東の雨呼山に至る山門としての役割を勘案すると、現在の東西向きが本来的な姿と言えよう。

 製作年代に関しては、帰属する雨呼山の歴史・民俗を考慮して考えるべきであろう。農耕における雨呼び行事は根強い民間信仰として、近隣の立石寺と佛向寺との関連性は地元の歴史研究家により言及されている。ただし、その実態についてはより詳細な研究事例が求められるが、今のところ明確な分類や時代考証などは成されていない。


 南北に長い山形盆地は、南北に羽州街道が走り、これを主軸として盆地内の各地域は東西の横街道によって結ばれている。村山地域における古式石鳥居群の立地条件は、南北の主軸となる街道から、信仰空間である東の山々に向う方向に建立されている。こういった空間性からすると、立石寺との関係は山と街道条件からして無理がある。一方、佛向寺は山の反対側に位置するため、鳥居と参道の動線関係に矛盾を生じる。したがって、石倉の石鳥居の帰属は雨呼山とみるのが妥当であろう。

 ただし、石鳥居の表面の風化度合いや、製作痕の残存度合いなどからして製作年代はそうは古くないと考えられる。この他に、笠、島木の平面的な切り落とし方も近世的な変容と思われる。こういった点から、石倉の石鳥居の建立年代は近世頃とするのが無理がなさそうに思える。いずれにせよ、石倉の石鳥居は額束を二つ有する唯一の事例として、そのユニークさは印象深いと言えよう。