2013年8月14日水曜日

村松皇大神宮と虚空蔵尊 [茨城]



出迎える仁王

浮き出る血管

仁王門・鐘楼堂・四阿
 説明板より
村松山虚空蔵尊 宗派・真言宗

 平安時代の開山といわれ、伊勢の朝熊山(あさまやま)、会津の柳津(やないず)と並んで「日本三大虚空蔵」の一つで、弘法大師の作といわれる虚空蔵菩薩を本尊に祀る。

 菩薩は福徳知能を授け、厄除け、開運の守本尊として、徳川家康、徳川光圀などの尊信が厚かった。

 今も「十三詣り」といって、十三才の子女が参詣すると知恵が授けられるといわれ、近郷からの参詣者が多い。



水戸藩「三つ葉葵」の紋
説明板より
日本三体の一
村松山 虚空蔵堂の由来

809(大同二年) 弘法大師が鎮護国家と萬民豊楽、平和祈願のため一刀三礼の礼をつくし、等身座像の虚空蔵菩薩をお刻みになり、平城天皇から「村松山神宮寺」の勅額を賜り創建となる。

この後、平安末期より安土桃山時代までの約500年の間、佐竹氏が隆盛を極め、当山もまた塔中寺院、円蔵寺、松林寺、歓喜寺、東光寺、竜蔵寺、竜光院ら幾多の塔中を連ね、多数の僧侶の養成に貢献する。

1485(文明17年) 岩城常陸の兵と戦を交えることとなり、当山も戦火に遭い伽藍一切が勅額とともに焼失する。ただし、本尊と御厨子(佐竹氏一族、真崎浦天神山城主・真崎三郎奉納)は戦火から免れる。

1487(長享元年) 頭白上人が虚空蔵堂を再建し「村松山神宮寺」を改め「村松山日高寺」と称し、福徳知能、除災招福、一代開運を授ける祈願寺の根本道場として伽藍の整備がされる。

1610(慶長15年) 徳川家康公が方五十丁(約5.5km)朱印地五〇石を寄進。

1683(天和3年) 水戸光圀公が封をつぐにおよび、塔中の寺を龍蔵院、龍光院の二院をもってそれぞれ別当とし修験道に改宗。五所明神と虚空蔵尊を分離し堂塔伽藍を修理する。光圀公御仏前たる虚空蔵尊を修飾する。

その後、光圀公はさらに巨額の資を献じて伽藍の美を一新させるが、佐竹氏の僧侶を嫌忌し、真言宗日高寺を廃することとなる。
江戸時代初期より明治維新までの間、当山は乱世の坂東に幾度も戦火に遭い盛衰を越えつつ、法燈は連綿として維持されてきた。ある古書の一説には、当山が慈覚大師の開基と記されているものもあるが、文献は兵火により全く消失し、未だ定かではない(慈覚大師は戒律の教えを最も尊重し行動的に興し、関東・東北地方の仏教開発の稀代の名僧)。

1869(明治2年) 「廃仏毀釈の令」が行われ当山も「星の宮」と改称されたが、ほどなく水戸藩庁役所より「村松村星ノ宮、従前之通、虚空蔵に御改」との命令があり、真言宗日高寺となり再び創建も弘法大師の開基と改められた。

1900(明治33年) 門前民家からの火災により、本堂(330平方m)仁王門(現在の大きさ)三重塔(古代美術を誇る華麗な建築様式)客殿等ことごとく焼失。しかし幸いにも本尊・御前立・鍾馗霊尊画像・霊験木などは火災から免れる。

1917(大正6年) 本堂落慶、書院再建
1924(大正13年) 長廊下再建
1925(大正14年) 鐘馗霊神堂再建
1926(昭和元年) 仁王尊献納会より献納を受ける。
1934(昭和9年) 講社より客殿寄付、奥之院多宝塔一基を寄進される。
1970(昭和45年) 仁王門再建
1972(昭和47年) 石畳参道完成
1980(昭和55年) 大鐘楼堂再建
1983(昭和58年) 信徒会館完成
1998(平成10年) 三重之塔再建
2007(平成19年) 創建1,200年記念
2008(平成20年) 手水舎落慶



巨大な絵馬の奉納されている「鍾馗(しょうき)霊神堂」
説明板より
東海村指定文化財(有形民俗・信仰)
鐘馗霊神絵馬(一枚)
昭和59年3月10日

 この絵馬は、延宝三年(1675)悪疫が大流行して世人が大いに苦しみ悩んでいたとき、藤原高信が百ヶ日のあいだ沐浴潔斎して精魂を注ぎ描き上げたものと伝えられ、悪病退散の権之丞鍾馗大神として崇敬されている。

 絵馬は、縦150cm、横200cmと大型の杉材・木板彩色絵画で、画面右側に「延宝三年□月吉祥」、左側に「藤原高信」などと記されており、今から300年以上前の絵馬で、時代・作者名とも明確であり、大きさも県内絵馬の中では最も大きなものに属し貴重なものといえる。

 しかも、疫病退散を願ってこの絵馬をかつぎ歩く行事が昭和25年頃まで行われていた。近世における信仰を物語る民俗資料として価値の高い絵まである。

昭和59年5月

東海村教育委員会



「安産地蔵尊」

「三重之塔」
1900年、焼失。1998年、再建。

三重之塔のてっぺんに輝く「相輪(そうりん)」

奥之院「多宝塔」
説明板より
奥之院のわきには、俳聖・芭蕉の「野を横に 馬引むけよ 時鳥(ほととぎす)」の句碑と、詩人・山村暮鳥の「おう土よ」の詩碑が建っている。

山村暮鳥の詩碑
「おう土よ 生けるものよ その黒さに太古のかほりがただよってゐる」
録暮鳥詩犀星、昭和十四深秋



出世稲荷「荼吉尼天尊」



茨城一の宮「村松皇大神宮」
茨城県の「お伊勢さま」
説明板より
村松大神宮 御由来

御祭神 天照皇大神 天手男命 萬幡豊秋津姫命

 村松大神宮は伊勢皇大神宮の御分霊を奉祀する神社であり、その創立年代は桓武天皇の御代にすでに奉崇されていたとの由を伝えていて、平城天皇の勅号を賜り、さらに嵯峨天皇の御代に奉弊があった。

 また後冷泉天皇、康平三年(1060)に源頼義・義家父子が奥州征討のさいに戦勝を祈って社殿の造営寄進があり、古来より東国の名神霊社として敬われ、その神領は数百町にも及び現在もなおゆかりの地を多く存している。「村松」「阿◯」などの地名は即ち当宮の勢州奉遷によって起った名称である。

 しかしながら時の流れは止むことなしに、中世時運の変遷によりその神域に異動が生じ、神宮寺(中世仏教渡来し全国諸大社にその茶布のために寺院を従属建立して神宮寺とした)の建設をみるに至った。

 そして神仏習合の弊風が次第に移り変わり、祭祀の紊乱が生じ、かつ戦乱のために社殿は兵火を被り神領も侵掠され、ついにその宗元を逸し奉祀祭神の変更を余儀なくされたが、徳川幕府の覇業成るに及んで朱印地当高三十三石一斗九升、ならびに神地三十余町の寄進があった。

 しかしなお末だ祭祀の紊乱変革を嘆かれ、有司に命じて特に神殿を造影して元禄九年(1696)改めて伊勢皇大神宮の御分霊を奉遷され、天照皇大神神宮と奉称し多数の神宝神器を奉納されて参拝された。これより以後は祭典に水戸藩主の参拝があり、尊崇はなはだ篤く他とは異なった。

 御社殿は神明造りにして、その簡素荘厳なる構えはいよいよ神域の尊さを覚えさせるものである。

大神宮



関東型みこし
明治四年(1871)制作

水戸藩奉納の「飾り神輿(三代目)」

神輿の屋根中央には「鳳凰」を置くのが一般的

ギロリと目を剥く「天狗面」

説明板より
お神輿 由緒案内

 神輿、「しんよ」または「みこし」ともいう。

 神幸の際や氏子地域を神幸する歳の、御霊代を納める輿であり、動く神座と成ります。祭礼を重視する神社にとっては必要不可欠な神様の乗り物です(お神輿の上に人間が乗ることは、この意に反します)。普通その形式は木製黒漆塗りで、四角形・六角形・八角形に造られる。屋根の中央には、一般的に鳳凰を置く。大きく分けて関東型と京阪型がある。

 当大神宮のお神輿は、水戸藩下賜の三代目の尊いお神輿です(当宮例大祭には、歴代水戸藩主の参拝を常とした)。水戸藩三つ葉葵の神紋が有る方が、そのお神輿です。

 京阪型は飾り神輿とし、展示の状態で保管されるのが一般的です。関東型神輿は、当宮の神紋(菊紋)のお神輿がそれにあたります。

 今回の修復にあたり、制作年度と製作者の氏名が判明し、その署名によると明治四年(1871)に制作され既に125年近くの歳月が経過しております。前回の大神宮競馬祭(ヤンサマチ)に渡御した伝統のお神輿です。

 中央の「天狗の面」は、同じく当宮競馬祭(ヤンサマチ)の際、渡御したものを同じく修復したものです。



村松皇大神宮「本殿」
ことに徳川光圀の崇敬厚く、佐々介三郎(助さん)に命じて神鏡を奉納している。

神社周囲には数々の祠が点在する。

赤の映える稲荷の祠
キツネ様てんこ盛り


徳川斉昭、自筆による「村松晴嵐」
説明板より
水戸八景「村松晴嵐」

水戸八景とは水戸藩内の8つの景勝地で

「仙湖暮雪(せんこのぼせつ)水戸市常磐町
「青柳夜雨(あおやぎのやう)水戸市青柳町
「山寺晩鐘(やまでらのばんしょう)常陸太田市稲木
「太田落雁(おおたのらくがん)常陸太田市栄町
「巌船夕照(いわふねのゆうしょう)大洗町祝町
「広浦秋月(ひろうらのしゅうげつ)茨城町下石崎
「村松晴嵐(むらまつのせいらん)東海村村松
「水門帰帆(みなとのきはん)ひたちなか市和田町

のことである。

 天保四年(1833)水戸九代藩主・徳川斉昭(烈公)が中国の「瀟湘(しょうしょう)八景」になぞらい、藩内の子弟に自然鑑賞と健脚鍛錬とを図るため設定されたものである。

 烈公は、この村松の地を

真砂地に 雪の波かと見るまでに 塩霧はれて 吹く嵐かな

と詠み、「村松晴嵐」と命名された。この碑石の題字は烈公自らの書であり、天保五年(1834)に建てたものである。

東海村

東海村観光協会


白砂
説明板より
水戸八景(徳川斉昭 作)

雪時嘗(かつ)て賞す仙湖の景
雨夜更に遊ぶ青柳の頭(ほとり)
山寺の晩鐘幽壑(ゆうがく)に響き
大田の落雁芳洲を渡る
霞光爛漫(かこうらんまん)岩船の夕べ
月色玲瓏(れいろう)たり広浦の秋
遥(はる)かに望む村松晴嵐の後
水門(みなと)の帰帆高楼(こうろう)に映ず



浜の植物


誰かさんの落し物
説明板より
白砂青松・村松の海岸

 村松海岸は「白砂青松(はくさせいしょう)」の景勝地で、天保4年(1833)水戸第九代藩主・徳川斉昭(烈公)は、水戸八景の一つに選び、自筆による「村松晴嵐」の名勝碑を建てさせた。

 砂浜には、ハマボウフウやハマヒルガオ、松林の中には茸などの植物が多く自生し、野ウサギやリスなどの動物も見られる。大神宮先の砂の高台からは、美しい白い砂・緑の松・青い海を一望することができる。 
東海村

東海村観光協会



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