2014年11月12日水曜日

畑谷(はたや)城 [山形・山辺町]


畑谷城略図
(現地案内板より)

〜現地・説明板より〜

山辺町文化財 指定第七号
畑谷城址

 山形最上氏は、置賜、下長井地方に通ずる要衝の地である畑谷に、その部将江口氏を配置して、置賜との境を守らせていた。江口氏は東黒森山の尾根続きの館山に、山頂を本丸として、各所に空堀を配した山城を築き、その任に当たった。館山山頂は標高549mで、山形城を遥かに一望でき、山麓低地との比高は約70mである。南方は急斜面で、狐越街道白鷹方面を直視し、西方は山続きとなっている。

 慶長五年(1600)関ヶ原の戦にあたり、上杉家直江山城守は、主力軍約二万をひきいて、荒砥から進撃し、山形城を目指して途中の畑谷城に迫った。九月十三日、江口道連(光清)は手勢を指揮して迎え撃ったが、約二時(ふたとき)の戦いで敗れて、自刃し落城した。山城の攻防戦としては、山形県下に於いて代表的なものである。

 最上家との義に殉じ、不利な山間の山城で散った江口公とその一党の事蹟には特筆されるものがある。墓地の奥地には、江口公のお墓と彼の義に生きた生涯を顕彰する碑が建てられている。



戦国の城「出羽・畑谷城」
(現地の看板より)

〜現地・案内板より〜

特異な縄張りを持つ”最上領の防波堤”
出羽・畑谷城(はたやじょう)

圧倒的な兵力で侵攻する上杉勢。これに対して最上勢は、西部山間部に防衛ラインを構築した。その要となるのが、畑谷城である。壮烈な死闘の舞台となったこの城は、従来にない特異な縄張りを持っていた。

畑谷城鳥瞰図(推定復元)
イラストは、上杉勢侵攻を間近に控えた畑谷城を南東からみたものである。城を守る江口五郎兵衛の軍勢が、合戦の準備を行っている様子を描いた。
①主郭
②枡形虎口
③二重堀
④未整形空間(駐屯地として使用)
⑤三重堀切(竪堀)
⑥東の尖り森と城のある館山の鞍部に設けられた方形空間。中央を街道が通る。
⑦城下を流れる鵜川を堰き止めて造った冠水地帯。





畑谷城への登山口

石碑・石像群

落葉を踏みながら登っていく

畑谷城・虎口(こぐち)

主郭
空濠(からぼり)曲輪(くるわ)

空壕曲輪(下から)

畑谷城・主郭(しゅかく)跡
館山山頂(標高549m)

城主・江口光清(あききよ)公之碑

「旅人ゆきて伝えよ最上のために戦いたおれし者を」

西部三重空濠
その名の通り、深く三重に掘り込まれている。


搦(から)めて口
もう一つの登山道へと通じている。


もう一つの登山口

竪濠(たてぼり)の内部


東部大空濠



正面に見える「西黒森山」

〜歴史読本「日本の名城」より〜

畑谷(はたや)城は、慶長五年(1600)に直江兼続が最上氏を攻めた際の激戦地である。道を挟んで両側に壮大な空堀が続き、それを見下ろす山頂に山城の主郭が構えられている。その尾根続きに築かれた三重の堀切の規模の大きさにも度肝を抜かれる。この時期の大名と大名が正面からぶつかり合う戦争がどれほど凄まじいものだったのか、まざまざと思い知らされる圧倒的な城である。


首洗池

長松寺

城主・江口光清の墓

石碑「噫江月公」


噫江月公(あゝこうげつこう)

江公忠義貫心肝
闔族散華守谷間
萬古白鷹山上月
清光凛々逼人寒

江公忠義(こうこうのちゅうぎ)心肝(しんかん)を貫き
闔族(こうぞく)散華(さんげ)谷間(こくかん)を守る
萬古(ばんこ)白鷹山(はくようさん)上月(じょうのつき)
清光(せいこう)凛々(りんりん)人に逼(せま)って寒し

静松東貫(じょうしょうとうかん)



畑谷城 周辺図

慶長合戦図




巡見使の宿 [山形・畑谷]


「巡見使の宿」跡

〜現地・説明板より〜

山辺町指定文化財 第十三号
巡見使の宿
吉田作兵衛氏邸宅

 徳川幕府は、新しい将軍になると全国に巡見使を派遣し、その政情を報告させた。そこで、各大名や幕府直轄地の天領では丁寧にもてなし、何事もなく巡見使一行が通過するように願った。上山の宿を出立した一行は長谷堂から門伝、そして畑谷と回り、畑谷では三軒に分かれて昼食を摂り、休憩するのが例であった。

 宝永七年(1710)五月、幕府巡見使一行を迎えるために山形城主堀田正虎公は、畑谷で接待に当たる作兵衛、作蔵、助右衛門の三軒の家の改修を命じ、大工・木挽二十五人、左官三人等が来て工事に当たっている。畑谷には店がないので、山形から肴屋、青物屋、菓子屋、餅屋等を派遣している。こうした努力により幕府巡見使一行を無事に通過させることができたのである。

 この吉田作兵衛家は巡見使の使用する玄関を始め、身分によって入り口が三つに分けられ、各部屋もそれに対応していた。その後は基本はそのままであり、山形城主堀田公の命による改修以前の時期を考えても、建築されて以来、約三百年を経過している。これだけの長い歴史のはっきりしている民家は東北地方では例が無いし、基礎・基本等がしっかりしているので、貴重な文化財として丁寧に永く保存したいものである。なお、その庭園も見事なものがあり、東黒森山を借景とし、小さいながらも雄大な感じを与えるものである。

山辺町教育委員会

山形の宝より
「旧吉田家住宅」

2014年11月現在、300年来の邸宅はすでに無くなっていた。




2014年11月10日月曜日

八乙女像と錨 [山形・鶴岡]


八乙女像
恵姫・美鳳

〜現地・説明板より〜

八乙女像の由来

 今より1,400年前、霊峰出羽三山を開いたという蜂子皇子が都を追われ丹後の由良浜より海路、流浪にのり北上を続けていたところ、荒波にそそり立つ絶壁と神秘を感じさせる洞窟群八乙女浦の巌上で、麗しき乙女たちが笛の音に舞いながら皇子を迎えたと伝えられている。

 皇子は三本足の烏によって導かれ羽黒山に赴いたという。洞窟は羽黒山頂の神の井戸とつながっていると言われ、今なお人踏まれなロマンに彩られたところである。

 ここに出羽三山ゆかりの地に八人の乙女の内、恵姫、美鳳の二人の像を記念として建立した。

羽黒山神社社史より



「錨(いかり)」とともに

〜現地・説明板より〜

『錨』

昭和53年(1978年)、ここ由良の沖合で世界で初めて本格的に実験された波力発電装置「海明」と、その後の海洋人工島「ポセイドン」の実験に使用された錨の一基である。

海洋科学技術センター寄贈



2014年11月2日日曜日

白州正子と瀧山


〜話:白州正子〜




 ただ一つ付け加えておきたいことがあった。やはり連載を終った後、『白い国の詩』という東北地方のPR雑誌で読んだのであるが、西行の歌に「瀧の山」というところで詠んだものがある。

またの年の三月に、出羽(いでは)の国に越えて、瀧の山と申す山寺に侍りけるに、桜の常よりも薄紅(うすくれない)の色濃き花にて、波たてりけるを、寺の人々も見興じければ

たぐひなき思ひいではの桜かな
薄紅の花のにほひは

 という歌で、東北地方へ取材に行った時、訪ねたいと思っていたが、どこだかわからないので果たせなかった。その雑誌にも「現在地未詳」としてあったが、大体の見当はついたので、雑誌の編集者に案内をお願いした。彼もたしかなことは知らなかったが、西行がわざわざ平泉から出羽の国へ越えて見に行ったほどの桜なら、よほど美しいに違いない。少くともその痕跡ぐらいは残っているだろうと探してみたのである。



 東京の桜は既に終っていたが、東北の山は今が花盛りで、私を勇気づけてくれた。その夜は山形県の上の山(かみのやま)温泉に泊り、翌朝早く蔵王連峰へ行く。山家集の註釈には、瀧の山というのは蔵王の龍山(りょうぜん、霊山とも書く)のことで、新しい地図で見ると、龍山ではなく、「瀧山」と記してある。だが、実際に行ってみると、そこは千数百米(メートル)もある高山で、荒々しい岩肌は、とても桜が自生するようなのどかな山容ではなかった。

 編集者のKさんは、方々走りまわって「瀧の山」の在処(ありか)をたずねて下さった。やはりこういうことは、土地の人に訊いてみるに限る。やがてそれは昨夜泊った上の山温泉の北の方に位置することが判ったが、道がこみ入っているので中々はっきりしない。行きつ戻りつ何度同じところを右往左往したことか。何時間もそうして迷ったあげく、やっとそれらしいところに辿りついた。

 道ばたに瀧の山の歌を記した西行の歌碑があり、そこで道は二つに分れて山へ入って行く。車は行かないので、暗い山道を歩いて登って行くと、1キロ半ほどで山ぶところの開けた大地へ出た。と、思いもかけず裏の山から下の谷へかけて、全山桜に埋もれているではないか。「常よりも薄紅の色濃き花にて、波たてりけるを」の形容にふさわしく、新緑にまざってもくもくと湧き上がってくるように見える。瀧の山とは、花の瀧の別名ではないかと思われるほどの眺めであった。

 かつてはここに寺があったらしく、五輪塔のかけらや礎石がちらばっており、桜の根元には小さな祠(ほこら)が建っている。その中には平安時代の神像が二体、風化したままで祀ってあり、水など供えてあるのは里人に信仰されているのであろう。東の方には木立ちを通して雪を頂いた蔵王の瀧山が望まれ、無言のうちにこの廃寺が経てきた歴史を語るようであった。



 帰宅した後、大日本地名辞書を読んでみると、龍山は修験道の霊場で、「又、桜田村に瀧山寺あり、是古の山寺なりしが、後世此村に引かれしといひ伝えたり」と記し、龍山が廃滅した後、現在の地に移されたように書いてある。桜田村がどこだかわからないし、「後世」がいつ頃のことだか不明だが、周囲の環境から見て、西行の「瀧の山と申す山寺」は、ここ以外にはないように思われた。

 人里離れた山奥にあったために、訪れる人もなく、農家の人々のほか知るものもなかったので、崩れたままで残ったに違いない。それとて絶対に正しいというわけではないが、薄紅の花にかこまれた廃寺の風景は、私にとってもたぐいなき思い出として永く心に残るであろう。その美しさに比べたら、瀧の山の詮索など、もうどうでもいいような気がしてくる。







出典:白州正子「西行 (新潮文庫)