2014年10月29日水曜日

玉虫沼 [山形・山辺]


玉虫沼

〜現地・案内板より〜

 玉虫沼は、応永年間(1394〜1428)に高楯城主・武田信安公により溜池(ためいけ)として築堤され、約600年間、山辺の里をうるおしてきました。一帯は山辺西部湖畔自然休養林に指定され、春の新緑から秋の紅葉と、四季折々の自然を満喫でき、ヘラブナ釣りのメッカとしても有名です。また、地元放牧場では生ラム肉ジンギスカン用のサフォーク種緬羊が飼育されています。玉虫沼からは、湖畔の遊歩道、玉虫森林公園のせせらぎ広場を通り、作谷沢「民話の里(まんだらの世界)」へと続いています。



玉虫明神

明神さまと「笠松」

沼ごしに笠松

周遊歩道

朝日に輝く



〜現地・説明板より〜

伝説
玉虫姫物語

 昔々のこと、山野辺(やまのべ)のお城に、玉虫(たまむし)という大変美しく動作もしとやかな娘が奉公していた。玉虫は働き者で、殿様からも奥方様からも非常に気に入られ、台所の仕事を仰せつかった。とくに玉虫の炊いたご飯は、良い香りがしておいしいのでした。また、玉虫の美貌は、お城勤めの若侍のあいだで評判がたち、「誰が彼女を射とめるだろうか」などと、大した人気でした。

 玉虫があまりにかわいがられるので、他の女中たちは妬むようになった。誰が言いふらしたのであろうか、「玉虫は殿様に蛇を入れて炊いたご飯を食べさせている」との噂が立ち、たちまち城中に広がった。そんな噂が身近に漂っているとは露知らない玉虫は、朝夕の仕事もまめまめしく働いていました。奥方はどこまでも彼女の味方であったが、玉虫の疑いを晴らすためにも、はっきりした証拠を見ておこうとした。

 ある朝、奥方はこっそり台所にしのんで、彼女が炊いた釜飯の蓋をとって見た。釜の中には白い蛇がとぐろを巻いたままで湯気を立てている。今までは信じ切っていた奥方は、一気に気力が抜けて目がくらむばかりであった。そして、その夜のことである。玉虫の姿は城中から消えてしまった。玉虫の遺骸が玉虫沼に浮いていたのは、その翌日であった。

 玉虫沼に何時行って見ても、水面が清らかに輝いているのは、玉虫姫が毎朝早く掃除をするからだ、といわれている。五月二十一日の玉虫明神様の御縁日に、東の空のほのぼのと白むころに行って見ると、玉虫姫が御殿勤めのときの美しい姿で水面を掃いている姿を見ることができるそうです。そして、これを見た人は一生幸運に恵まれるという。

武田泰造著「山辺夜話」より



親水広場

農林水産省「全国ため池百選」平成22年6月




2014年10月25日土曜日

菅沢山、古墳と合戦跡 [山形・菅沢]


菅沢(すげさわ)古墳への入口
ここから狭く急な山道を登っていく(車進入可)。

〜現地・案内板より〜

菅沢(すげさわ)古墳 二号墳 入口

本古墳は、東北地方では最大級の円墳で、山形県の指定史跡です。



菅沢古墳 二号墳

〜現地・説明板より〜

県指定史跡
菅沢(すげさわ)古墳 二号墳
昭和48年6月21日指定

 山形市菅沢地内にあるこの古墳は、地形の高まりを利用して造られた二段構築の円墳です。直径は約52mで、高さが約5mあります。そして、下段の周囲には幅8m前後の周湟(しゅうこう、溝)が回っています。

 また、これまでの調査から、円筒埴輪や家・盾・靱(ゆぎ、矢を携行する容器)・甲冑形などの形象埴輪を持つ古墳であることが判っています。円墳としては、規模や内容ともに県下に例を見ないものであり、東北地方においても有数のものです。

 被葬者については明らかではありませんが、古墳の規模や内容から考えると、相当の権力者が埋葬されたものと推察されます。なお、築造年代については、出土した埴輪から、五世紀後半頃と考えられています。

平成四年三月
山形県教育委員会
山形市教育委員会



自然地形を利用したという円墳
直径52m、高さ5mという巨大さ



円墳のてっぺんからの景観
山形市街が一望される。





菅沢古墳からすぐの場所に「直江山城守本陣跡」がある。


直江兼続が本陣を敷いた跡
現在は史跡看板がそれを示すのみ。

〜現地・説明板より〜

直江山城守 本陣跡

 慶長五年(1600)の秋九月、上杉景勝の命をうけた米沢城主・直江山城守兼続は、二万といわれる大軍で山形城へ攻め寄せた。その主力は直江が指揮する精鋭部隊で、旧九月十三日、畑谷城を陥し、勢いに乗った直江軍の物見役は、早くも菅沢山に入っていた。

 時は十三夜、おどろいた村の衆は餅を喰わず逃げたので、「十三夜の餅は早く喰え」と、いまでも伝えられている。

 翌十四日には、総大将山城守が到着して、本陣を構えて半月。長谷堂城主・志村伊豆守勢と史上に残る激しい戦いを繰り返したが、頑強な長谷堂城と勇敢な長谷堂勢の抵抗で城を陥すことが出来ず、ついに関ヶ原の西軍敗報を受けて、十月一日、深い朝霧の中を全軍引き上げた。

平成八年七月
本沢振興協議会
本沢郷土研究会


本陣跡からは、対峙した山形勢の「長谷堂城跡」が望める。
画像右手にみえる黒い小山が、城跡の残る城山である。

〜西山形振興会「西山形の散歩道」より〜

出羽合戦の古戦場
十三夜の餅を搗いたが…

 その時わが地区の民家では、名月十三夜の餅を搗いたが、それを食うどころではなく命からがら逃げ出した、と。押し寄せた敵に、臼の餅は全部くわれたと云う。

 時は慶長五年(1600)九月の出来事であった。二万の大軍にものを云わせた上杉勢は、畑谷の城をひと朝にして陥れ、なお長谷堂城への攻撃をなさんと菅沢山に布陣する途中の出来事だった。

 だがしかし、天下分け目と云われた関ヶ原の戦いはすでに九月十五日に徳川方が圧勝に帰していたのに、その報が二百里(約800km)も離れていた昔の情報は、ただちに出羽に届くはずはなかった。その間、多少の小争があったことも事実だが、双方の睨み合いが数日つづき、二十九日に至っても長谷堂城への攻撃をからめた上杉勢、新影流の剣豪・上泉主水が戦死したのもこの日だった。そしてその日に至って、ようやく関ヶ原の戦いの勝負の報せが届いたのであった。

 上杉の兵を率いた直江兼続は戦いの無意味を察知、いち早く撤退を命じて、攻め来た道を引き返すのであるが、徳川側に身をおいて勝報を知った最上軍は、時を得たりとばかり追い討ちをかけて戦いを挑んだ。畑谷まで引き上げていた上杉の主流軍は、逃れて交戦している兵どもを救おうと再び富神山の麓や七ツ松周辺に下り、この地では壮絶なまでの激戦になったと云われております。ことに双方の犠牲者は二千とも二千五百とも云われ、出羽合戦のすさまじさを推察しながら、仏の供養に合掌してゆきたいと思います。



史跡看板の裏
長谷堂合戦 古戦場図




2014年10月24日金曜日

大ノ越古墳 [西山形]


大ノ越古墳

〜現地・説明板より〜

山形市指定史跡
大ノ越(だいのこし)古墳
昭和53年7月26日指定

 山形市大字門伝地内にあるこの古墳は、昭和53年3月、圃場整備の工事中に偶然ブルドーザーに掘り起こされ、発見されました。発見時に調査が実施された結果、直径約15mの円墳で、内部に二基の箱式石棺があることがわかりました。

 石棺からは環頭大刀(かんとうのたち)、直刀などの武器や、工具・馬具・土器など様々な物が出土し、副葬品の多様さ、豊かさは県内にある古墳の中でも有数のものです。これら副葬品の内容などから、この古墳は五世紀後半に築造され、畿内政権と交流していた山形盆地一帯を支配するような有力者が埋葬されたものと考えられています。

 なお、出土品は山形県の文化財に指定され、山形県立博物館に保管・展示されています。

平成六年三月
山形市教育委員会


径16mの円墳(再現)

〜西山形振興会「西山形の散歩道」より〜

大之越古墳の出土遺物

 大之越古墳は二つの石棺を有し、その副葬品は山形の古墳では例がないほどに多様で数も多い。遊環(馬具)、刀子(鹿角製柄の痕跡あり)、冑残欠(しころの部分か)、鉄斧、鉄鏃(長さ10cmほどで刃の部分は4cmほどある)、鉄鉗(てっかん)…。鉄鉗は金属を挟むプライヤーのような道具で、鉄を折り曲げる、赤く熱した鉄を挟んで持つなどの用途がある。

 日本で鉄が作られたのは6世紀のことだとされている。5世紀に建造された大之越古墳から出土した鉄製品は、大陸からの輸入品だったのだろうか。西山形の古代は、探るほどに謎が深まる。



環頭大刀(かんとうのたち)

〜西山形振興会「西山形の散歩道」より〜

発掘史上、日本で最も古い
大之越古墳の単鳳環頭大刀

 村山盆地の南西端にあるトンガリ山、富神山のふもとで1978年、道路工事中に古墳が発見され、大之越古墳と名付けられた。古墳はすでに見当たらず、遺跡をめぐる溝により、径16mの円墳と推定された。5世紀末ころの築造で、今は整備され史跡公園となっている。

 石棺は二つあり、環頭大刀、直刀、鉄剣、鍛冶具のはさみや馬具が副葬されていた。中でも、権威の象徴ともいえる単鳳環頭大刀は鉄製金装で、長さ948mmある(刀部731mm、茎部219mm)。柄頭(つかがしら)の内環には鳳凰の意匠があり、X写真でタガネ彫りによる銀象嵌(ぎんぞうがん)の様子がわかる(刃の部分には銘のないことが確認された)。鉄地に金箔を押した一級品である。この大刀がどのような人物に所有されていたのか、今もその謎は解けていない。

 発掘例の単鳳環頭では日本最古式である。出土品は山形県指定文化財となり、山形県博物館に展示されている。環頭太刀は中国が起源とされ、朝鮮半島を経て日本に導入された。(「学芸員の宝物」朝日新聞2004年2月21日、山形県立博物館・学芸専門員、安部実)。


古墳上部に設けられた穴



〜西山形振興会「西山形の散歩道」より〜

大之越(だいのこし)古墳とは何か
1,500年前、郷土を支配した王とは?

 大之越古墳の発掘によって、私達の祖先を身近に感じられるようになったのも、地元の人として偽りのない心情と思われます。考古学の権威・小林行雄さんが書かれた『古墳の話(岩波新書・昭和39年)』の中に、こんな事が触れられていました。

…私どもが、各地の古墳の研究に出かけた時に、土地の人からかならずたずねられることが二つある。それは、「この古墳はいつ頃のものか」ということと「だれの墓か」ということである。いつ頃かについては、古墳の規模・副葬品から推定して答えは出せるが、だれの墓かについては、「わかりませんね。多分、この地の有力者だったはずですが」と答えると、はっきりと失望の色が顔に表れます。土地の人の最も聞きたい事だったからでしょう。

 大之越古墳も例外ではなく、築造されたのは五世紀の後半で、被葬者は山形盆地を支配した首長と推定されると、発掘にあたった県の教育委員会が調査結果を出しております。1,500年前に、我々の祖先としてこの郷土を支配したのは誰だったのか…。

 たまたまそのような話の時に、「越族(こしぞく)」との関係があるのではないかと話が出ましたが、恐らく「大之越(だいのこし)」という地名から推測されてのことと思われるのです。大之越古墳の疑問を解く一つの足掛かりになるとして、越族についての資料を探し求めることにしました。





〜西山形振興会「西山形の散歩道」より〜

大之越古墳と越族(こしぞく)は、どんな関係にあるのか?

 幸い手元にある「山形県の歴史散歩道」の中に、小国町・大滝地区にある「古四王(または越王)神社」のことが載っているので、引用してみます。

…越族は、今の中国旧満州から渡来し、日本民族と融和混血し、長期間にわたって難儀した。そこで、母国をしのんで種族の祖先を祀ったのが神社の縁起とされ、日本海側の新潟、山形、秋田県に多く分布されている。その中で荒川渓谷沿いに小国に入り、大滝の地に越王神社を残し、宇津峠を越えて置賜盆地に入り、長井、西根、高玉、鮎貝にもそれぞれ越王神社を残した。ここから更に長谷堂を通って山形方面に達し、他は更に最上川を下って北上する進路が考えられる…。

 とすると、この資料を見る限り、越族が山形盆地に入ったことは確かなことであり、大之越古墳の被葬者も越族と関係がないとはっきり言い切れるものでもないと思われます。大之越古墳の被葬者は、大いなる越の人という民族としての誇りのなかで眠り続ける我々の祖先なのかも知れない。


参考:
大之越古墳は昭和53年4〜5月にかけて発掘調査が行われた。「畿内の政権はもとより、古代東アジアの動きや文化とも何らかの関係があった」(「大之越古墳の調査概要」山形県教育長文化課・昭和53年5月)と調査の概要が報告されている。



トンガリ山、富神山を背景に

古墳の隣りには、豊かな果樹園が広がる。




〜司馬遼太郎「街道をゆく 10 佐渡のみち」より〜




 ある時期までの日本人は、黄金が通貨であるという世界経済の歴史からみれば、まことに”うぶ”である期間が長かった。

 むろん、黄金が貴金属であることは、上代から知っていたらしい。上代、新羅において黄金がよく採れた。新羅貴族の装身具に黄金がふんだんに用いられたことは、文献によっても知ることができるし、げんにそれらの出土品をこんにち見ることができる。そういう新羅国についての上代倭人(わじん)の印象は、まさに黄金の国ということであった。

 欽明天皇十三(552)年に、百済の聖明王が仏像などをもたらしきたったとき、日本の宮廷のおどろきは、「西蕃(にしのとなりのくに)の献(たてまつ)れる仏の相貌(かほ)、端厳(きらきら)し。(『日本書紀』)」ということばで尽くされている。きらきらしという驚きには、彫像がすぐれているという芸術的衝撃のほかに、鍍金(めっき)がかがやくようであったということも、当然ふくまれている。

 その時期までの日本の彫刻はなお太古の古拙をひきずっていて、人間の像をあるがように造形したものを見ることがなかった。さらには黄金の存在は古墳の埋葬品からみて十分知っていたことはまちがいないが、仏像ことごとくが黄金のかたまり(鍍金とはいえ)であるということは、衝撃以上のものであったにちがいない。たしかに、古墳から金製や鍍金製の耳飾りなどがよく出土する。しかしそれらの黄金が国内の河川などで採取されたものであるのか、それとも朝鮮渡来のものか、よくわからないのである。

 その後、仏像が国家規模でつくられるようになってから、金がふんだんに必要になった。金の多くは、朝鮮半島からの輸入品だったであろう。八世紀ごろ、新羅との貿易は、先方から貢(みつぎもの)をもたらし、日本からみやげを渡すという朝貢貿易のかたちをとっていた。当方はいつも絹のたぐいをわたすわけだが、新羅の貢物の品目には必ずといっていいほどに、金や銀がある。仏像の盛んな日本にとってそれが必要だったからであろう。

 おなじ八世紀の半ば近く、聖武天皇が大仏を鋳造するということになって、日本にもさがせば金というものがあるだろうということで、さがさせた。探鉱のしごとをしたのは、多くは朝鮮からの渡来人であった。やがて奥州で百済王敬福(きょうふく)が見つけて都にもたらしてきたとき、聖武天皇がわざわざ大仏の宝前でそれを告げた。その文章に「この大倭国は、天地開闢よりこのかた、黄金は人国より献ることはあれども、この地にはなきものと念(おも)へるに」ということばがある。推して、上代のこの国が、黄金には縁が薄かったことがわかるであろう。






2014年10月5日日曜日

蔵王地蔵尊 [山形・蔵王]


蔵王地蔵尊

〜現地・案内板より〜

蔵王地蔵尊

 このお地蔵さまは、今から二百余年の昔、安永四年(1775)八月に建てられたものであります。

 その昔、麓の東沢村の庄屋に、跡継ぎが幼くして没し育たなかったことから、男子の長命を祈願して建てられたものと伝えられております。

 もともと、この蔵王山はけわしい山で遭難者が絶えなかったのが、ここにお地蔵さまが祀られてから不思議と遭難者が少なくなり、またこのお地蔵さまにお参りすれば願いごとがかなえられ不慮の災難からものがれられるところから、災難よけ地蔵尊とか、諸願成就の地蔵尊とよばれて、年ごとに信仰者がふえ、いつとはなしに右手の円い山まで地蔵岳とよばれるようになりました。

昭和四十二年六月
蔵王地蔵尊保存会





〜山頂駅舎内、説明板より〜

蔵王地蔵尊のいわれ

 蔵王は険しい山として遭難者がたえなかったので、六道能化を主眼とする地蔵菩薩がまつられたのには大きな意味があった。

 この地蔵尊は江戸時代の中期、安永四年(1775)八月に建立されたが、不思議にそれ以降は遭難者が少なくなり、誰いうともなく「災難よけ地蔵」とよばれるようになった。また、この地蔵尊に祈願すればあらゆる願いがかなえられ、殊に不慮の災難をのがれると云われて、年毎に信仰者がふえ、いつとはなしに山そのものを地蔵山とよぶようになった。

 安山岩に刻まれ、二百余年もの長いあいだ風雪に堪えて来たこの地蔵尊像は、全高236cm(七尺八寸)という堂々たるもので、これだけのものを天候の激変する高い山頂に運び上げたことを思い合わせるとき、驚異と同時にいかに建立者の悲願が大きかったかがしのばれる。

蔵王地蔵尊保存会



子地蔵群

〜山頂駅舎内、説明板より〜

尊像の左右に、いわゆる「子地蔵群」がありますが、いつの頃からか、そのうち二体の頭部が欠損しておりましたので、一段とご利益が高まりますように山形市の石材業石駒さんに修復依頼いたしました。

 様々な資料を参考にして衣装・立居等の観点から右側は観音様、左側は不動明王ということが判明し、彫像が完成・修復されました。

平成二十年五月



観音さま

〜蔵王地蔵尊保存会「蔵王地蔵尊」より〜

 地蔵尊は、高さ2m、肩幅1.20m、膝幅1.80m、台座の高さは0.34mの坐像で、像は五個、台座は二つの巨石で組み合わされ、材石はこの山にもみうけられる同じ安山岩である。

 側面には「安永乙未年(1775)八月吉日 上宝沢村施主 為吉他数名 あかし町妙栄 妙見寺村施主 九兵衛」などと刻まれているから、その造立は今から213年前になる。また、「昭和三年七月一日 高湯青年会再建」という刻字もある。これは現在の蔵王温泉の青年たちが、当時台座が崩れ、地蔵様の頭が脱けて地面に落ちていたのを修復したもので、もともとこの辺一帯は樹氷を形成するほどの猛吹雪が荒れるところであるから、登山口の宝沢や高湯(蔵王温泉)の心ある人たちによって、幾度か修復が重ねられてきたのである。昭和四十年になって、蔵王地蔵尊保存会が発足し、現在のような錫杖を持った地蔵尊の姿となり、周辺の整備もゆきとどくようになった。

 宝沢をはじめとする馬見ヶ崎川筋にある地蔵尊の調査にあたっている東沢郷土研究会、会長横川啓太郎氏によれば、蔵王地蔵尊は「子安地蔵」とみているが、昔は天候急変による遭難者も多く出たので、遭難供養の地蔵であろうという説もある。いずれにせよ、この周辺を山頂とする八方沢は、急峻な深い渓谷となっており、迷いこめばなかなか出られない難所であり、地蔵尊修復にあたって、付近にあった供養とみられる五、六体の石仏を台座のところに集め祀っている。やはり、2mを越す大きな地蔵尊の出現によって、悪天候でのよき道しるべともなったので、遭難者も少なくなったに違いない。だから、いつの頃からか、誰いうとなく「災難よけ地蔵」とも呼ばれるようになった。

 横川氏の調査によれば、下宝沢の蔵王権現を祀る三乗院に、地蔵尊の造立発願に際して、奉行所に差し出された古文書がある。それによると、天文三犬午年(1738)とあるから、地蔵尊ができあがるまでには三十七年もの長い歳月をかけていることになる。たしかに、巨石を山頂まで運びあげるのは容易なことではなかっただろう。村の古老に語り継がれた話によれば、力自慢の藤吉という者が、地蔵の頭だけを背負い、二、三人のものが綱を曳いて登ったということである。それ以来、この藤吉の家を”頭藤吉”と呼んだということで、その子孫の家が上宝沢に現存する。

 また、先年亡くなった上宝沢の山川つまさんが生前、横川氏に語ったところによれば、生家である鈴木九兵衛家(地蔵尊造立の施主・妙見寺)の祖先に子宝にめぐまれないものがいて、子供を授かるように祈願して地蔵尊をつくった、といういい伝えがあったということである。

 春秋二回の大祭は四月二十四日と九月二十四日挙行されるが、春の大祭はスキーシーズンが終わった直後のことで、全国からスキーヤーが集まって、古スキーを焼き清めて供養も行われる。



地蔵の図像
現在、蔵王ロープウェイ山頂駅に掲げられている。

〜蔵王地蔵尊保存会「蔵王地蔵尊」より〜

蔵王山に結びついた地蔵尊信仰のいい伝えはいろいろ残っているようだ。その一つに山形市七日町、大風茂雄氏宅に地蔵の図像がある。昔から四月二十四日と九月二十四日の祭日には、この図像を蔵王地蔵尊のある山頂に持参して祀ることになっている。図像に蔵王山とあるうえ、左下に貼付されている古文書に「妙見寺九兵エ」とあるので、蔵王地蔵尊の下絵図か写し図像ではないかとみられているが、不明な点が多い。古文書には


弘化四年未三月
地蔵大菩薩寄附
御酒造一升 妙見寺 九兵エ
青銅拾疋 棒原 松四郎
青銅拾疋 館 清蔵
青銅拾疋 施主 茂平治


とある。弘化四未年は1847年であるから、蔵王地蔵尊が造立されてから72年後のことである。造立に当たっての施主九兵衛と図像にある九兵エとは同一人ではなくて、襲名したものではなかろうか。いずれにせよ蔵王地蔵尊の信仰が深かったことには変わりない。施主茂平治とあるのは大風氏の祖先である。



蔵王スキー場のロープウェイを二基乗り継いで、地蔵尊に至る。


つぶて石 [山形・西山形]


つぶて石


〜現地・案内板より〜

つぶて石

 今は昔、仙台市の近くに力持ちの大男がいました。その男が山寺に向って大きな石を投げると、空高く飛んだ石は山寺を越えて、西に高くそびえる山の中腹に落ちました。その石がここに残る「つぶて石」なのです。

 古代、「つぶて」は戦争の道具でした。この話の力持ちは源氏再興に寄与した朝比奈三郎だと言われています。

西山形振興会



仙台から飛んで来たのだとか


〜現地・説明板より〜

礫(つぶて)石 由来

 昔むかしのこと、仙台市の近くの村に朝比奈三郎という豪傑が住んでいました。体太く、手足は大きくたくましく、すごい力持ち。

 特に三郎の引く弓は強く、村人十数人が力を合わせてようやく引くことができるほどのものでした。三郎が射た矢は草木をなぎたおし、岩をくだき、山の形を変えてしまうほどでした。その跡が宮城県の七ツ森なのです。黒川郡の富合町から大和町にかけての山々なのです。富士山を小さくしたような美しい山が「薬来山」、高さは553mで「加美富士」と呼ばれる。松の木の多い山が「松倉山」、とがった山が「遂倉山」、次に「大倉山」「蜂倉山」「鎌倉山」「撫倉山」と並んでいます。

 ある日、三郎は自分の力を試すことにしました。大きな石をどこまで飛ばせるかと…。目標を山形県の山寺に決めました。なにしろ奥羽山脈のむこう山寺まで大石をとばすというのですから、たくさんの村人が見学がてら応援にいきました。三郎は大張りきりです。大石を肩に深く息をすいこみ、目を見開き「エイ・ヤアー」掛声勇ましく飛ばしたのです。

 石は空高くまい上り、ぐんぐんのびて、山寺どころか山形の町を越え、その西にひときわ高くそびえる白鷹山の中腹に「ドッシーン」、大きな音をたてて落ちました。山は大きく揺れ動き、大木はざわざわと風をおこし地震のようでした。恐ろしさに動物たちも大さわぎ。にわとりは卵を生むことを忘れ、山羊や牛はおちちを出すことを忘れ、ねこや犬はたださわぐだけでした。

 村人たちは、石の落ちたところを礫石というようになりました。

山形市少年自然の家
運営委員会 後藤留吉



朝比奈三郎の伝説が残る。


〜西山形振興会「西山形の散歩道」より〜

つぶて石伝説

大岩を投げ飛ばした朝比奈三郎義秀


 西山形には少年自然の家の近くに礫石(つぶていし)というところがあります。ここに伝説の「つぶて石」があります。優しくて話好きの高野好さんは、高野家に代々伝わる西山形の「つぶて石」の話を子供たちに語り伝えて来ました。さて、その物語は…


 むかし、あったけど。今の仙台市の近くの村に朝比奈三郎義秀という体の大きな、若くてたくましくて力持ちの男がいたんだと。力自慢の三郎が大石を肩さ持ち上げて声勇ましく山寺に向って石を投げたんだと。大石を肩さ担いで深く息を吸い込み、目を見開き、エイ、ヤアーと掛け声勇ましく飛ばしたと。

 ぐんぐん飛んで、山寺へ落ちるどころか山形の町を越え、西にひときわ高くそぴえ立つ白鷹山の中腹さ、ドッシーンと大きな音を立てて落ちたど。山は大きく揺れ動いて、まるで地震のよう。木々はザワザワと揺れて風をおこし、大騒ぎしたと。鶏は卵を生むのを忘れ、山羊と牛は乳を出すのを忘れ、猫と犬は騒ぎまわったど。

 騒ぎが収まったところで山の中腹を見ると、大きな石が突き刺さって、その石には三郎の手形が残っていたど。それで大石の落ちたところが礫石(つぶていし)と呼ばれるようになったんだと。今度、礫石さ行ったら見てけらっしゃい。

 どっぴん


 西山形の礫石には今も、朝比奈三郎義秀の投げた巨石の塊があり、大事に祀られています。その空を飛んで来たという大岩というのは、蔵王連峰の火山が爆発して飛んで来たのだろうとも言われています。

 朝比奈三郎義秀の力自慢の話は西山形ならではの興味深い話です。と言うのも、この怪力の主は、実は鎌倉幕府を開いた源頼朝と縁の深い武将、鎌倉幕府初代侍所別当・和田義盛の子なのです。西山形は平安時代末期から鎌倉時代にかけて頼朝の側近・藤九郎盛長が治めた大曽根庄にあり、鎌倉と深くかかわるからです。

 朝比奈三郎義秀には海に潜るのが上手だったという話が伝わっています。それと共に、彼の怪力ぶりは後世に語り伝えられ、江戸の浮世絵にも多く描かれました。朝比奈三郎は寺山伝説の藤九郎盛長とも関係する武将ですから、西山形に伝わる「つぶて石伝説」はきっと、この土地の歩んだ歴史と関係があるのでしょう。ここでも西山形は中世日本の歴史と深くかかわるのです。



すぐ横の稲荷神社



「つぶて石」の緯度経度
38°14'04.6"N 140°12'55.6"E
38.234599, 140.215444




2014年10月4日土曜日

上丁の観音堂 [山形・柏倉]


上丁の観音堂

〜現地・案内板より〜

上丁の観音堂

 嘉永年間(1850年頃)柏倉八幡神社の行善院から当地に遷座したと伝えられ、住民に信仰されています。御本尊は約6cmの木造で、幟旗には十一面観世音菩薩と書いてあります。





〜西山形振興会「西山形の散歩道」より〜

上丁の観音堂

 昔、ある朝早く、お堂の中でコトコトと音がするので、「中に何かいるぞ」と近所の人々が警戒しながら見守っておりましたら、ギーッとお堂の扉が開いて、中から見たこともない旅人が出てきました。

 近所の人々がお堂の前で驚いていましたが、旅人は「これはどうも失礼しました。昨夜は遅くなって体も疲れて、この観音様に手を合わせてお詣りしておりました処、『旅人よ、泊まる家もないだろうから、此処に泊まって朝早く出立するがよい』と観音様が言ってくれたので、おぼしめしに甘えて、ついゆっくりさせて貰いました。お陰さまですっかり疲れが取れました。本当にお慈悲の深い観音様に頭が下がります。皆様ありがとうございました」とお礼を言って、また旅に立ちました。

 江戸時代後期の嘉永年間(1850年頃)柏倉八幡神社前にあった行善院から上丁の足立林栄さんの処の三叉路付近の一角に遷座されたと聞きますが、その後、現在地の木川氏宅近くに再び遷座し、住民の信仰を集めております。

 御本尊は木像、約6cm程、幟旗には十一面観音大菩薩と書かれております。終戦後間もなくのこと、以前の幟旗が盗難に遭い、昭和二十六年、足立佐逸先生の執筆で復元しております。


観音様の御詠歌

ありがたや 大師のちからで 身を救う
みちびき給う 弥陀の浄土へ



また、椹沢にお住まいの小林松茂さんは、夫婦延命観音菩薩三十三番霊場と銘して巡礼しておられ、この上丁の観音様はその中の十四番目で

さやさやと やま辺によりぬ 古み堂
からすのこえや やさしかんのん

と詠まれております。



観音堂前からのぞむ富神山



「上丁の観音堂」の緯度経度
38°13'50.8"N 140°15'14.5"E
38.230788, 140.254026




義家橋と貞任橋 [山形・柏倉]



「義家橋」
柏倉八幡神社境内


〜現地・案内板より〜

義家橋

 この石は、東から神社に登る道の川に架かっていた橋石です。昔、安倍貞任(あべのさだとう)を平定に、八幡太郎義家が馬にのってきた。その時の馬足跡が付いているので「義家橋」と言います。右に、その訳を記した縁起石標があります。

西山形振興会


〜西山形振興会「西山形の散歩道」より〜

石橋のいわれ

 柏倉八幡神社の拝殿前に「義家橋」という大きい、いわゆる富神山石が建っている。その縁起を刻した石碑がそばにある。昭和三年、村の在郷軍人分会第二班の建立で、土屋東太郎の書、文は西村久次郎、石工和田吉照で、大意は次の如くである。

「この石は昔から義家橋と云われ、大門坂の北百余歩先のT字形の川に架かっていた石橋(奥山忠道さんの前あたり)である。康平年間(1058〜1065)、安倍貞任の反乱(前九年の役)を平定に来た源八幡太郎義家が、馬に乗ってこの橋の上から敵状を見た。その時の馬の足跡がこの石に付いているから義家橋と云う。また南には貞任橋もある。昭和二年秋、橋の架換えがなされ長く埋まっていたこの石をここ神社に移して由来を記す」

 このような石は、実は全国的にあり、民俗学的には「馬蹄石(ばていいし)」と云われ、大体その地に由緒深い英雄と結び付いている。注意すべきは「馬の足跡」と云っていることで、馬は古来神様の乗物とされ、殊に八幡神は馬に乗ったお姿で描かれてきた(これに対して、春日神は鹿、稲荷神は狐などという例がある)。だから、このような石は特別神聖なもので、特に八幡様への登山口辺りに在ったという深い意味があって、後に源義家と結び付いたものであろう。





貞任橋

〜現地・説明板より〜

貞任(さだとう)橋

 この三叉路の堰に架かっていた橋石で、むかし八幡太郎義家に追われた安倍貞任(あべのさだとう)が渡ったので「貞任橋」と言います。だから、この辺一帯を今でも「さだ」と言うのだと伝えています。八幡神社の東登道の「義家橋」と一対の伝承です。





〜西山形振興会「西山形の散歩道」より〜

貞任橋

 柏倉八幡神社から南へ下ると中林(なかばやし)への道と三叉路になる。そこに西村力三さんの屋敷にあった風車(戦後ワラ打にも利用された)への水口辺りの堰に架かっていた石橋を「貞任橋」と云い、義家橋と一対の約1.5mの直径の巨石である。これも近年の道路改修の際、西村さんの屋敷の元の位置近くに保存され、この辺一帯を「さだ」という由来のしるしとして大切にされている。

 さて、この「さだ」と云う地名であるが、大槻『大言海』に狭田・長田・真田のいづれもが「さだ」とある。また、『日本書紀』には「あめのさだ」が高天原の神田を指している。案ずるに地形からも稲作りの原初となり得た古い地名ではなかろうか。

 八幡様と義家、貞任と絶妙の伝承であるが、この「さだ」道も古い八幡様への道筋で、また、古来三叉路は特別の場所と信じられ、道祖神、賽神(さいのかみ)、後に馬頭観音や地蔵様などをまつることと深い関係があると思われる。









「義家橋」の緯度経度
38°14'03.8"N 140°15'54.2"E
38.234379, 140.265063

「貞任橋」の緯度経度
38°13'54.7"N 140°15'55.0"E
38.231859, 140.265283




2014年10月3日金曜日

富神明神社とストーンサークル [山形・柏倉]


富神山と神社の鳥居

〜現地・案内板より〜

富神明神社

 当神社は、その名のとおり富神山を祀った神社です。富神山は、秀麗な山容と圧倒的な存在感パワーで古代から神と仰がれ、今もわが古里のシンボルであります。

 社殿は、縄文時代の環状列石という遺跡の中央部に建っています。ここは古代から「トカミ」のお山を仰ぐ「まつり」の場であったのです。国の正史「三代実録」貞観十三年(871)神階従五位下を奉ぜられた「利神」とは「トカミ」すなわち富神山であると考えられています。

西山形振興会



富神明神社



〜西山形振興会「西山形の散歩道」より〜

富神明神社

 昭和五十二年の発掘調査に「窪遺跡の環状列石」がある。これは大体今の富神明神社の境内あたりで発掘され、縄文時代の祭祀跡と考えられている。環状列石とは円形に石を並べて特別な場所を示したもので、窪遺跡では半径20〜25mの円弧状の列石が出土したが、全体の大きさは未定である。普通、南から北を拝して神を祀るのが通例である。われわれの遥か祖先の縄文の昔から「おまつり」をした場所に、後代になって今の富神明神社が建立され、富神山を礼拝し続けてきた実証であろう。

 そうしたいわれをもつ富神明神の御社殿は、高床の一間社流造り(柱間約七尺)、全体に古風を守り、組物も確かで、誠実な古く良い建物である。貞享三年(1686)の棟札が現存している。

 昭和三十七年、郷土史の第一人者武田好吉氏が、この神社のご神体と称する高さ約1mの男神木造を調査拝見している。山形県文化財保護協会の「羽陽文化」八十二号所載の報告によると、台座共一本造りで、烏帽子、袍、拱手が表され、明らかに御神像で、十四世紀頃の作と推定されている。

 古来、神まつりに「像」は必要なかった。地鎮祭はその一例である。仏教の影響で造像されても、本来仏像と違い人目に触れることを目的としないから、簡素な造りが多い。従って神社に御開帳はない。秘して人目に出さないのが普通だから、富神明神社神像も厚く「コモ」に包まれ、古代の「真床覆衾(まどこおふすま)」の古例を今に伝えて貴重である。



境内は上丁の児童遊園になっている。


〜西山形振興会「西山形の散歩道」より〜

富神明神社のストーンサークル

縄文の天体観測?


「ストーンサークルって何?」

「むかしね、石を円を描くようにいくつも並べて、そこでお祭りのようなことをしたんだ。その石の輪をストーン・サークルって呼ぶんだよ」


「むかしって、いつ頃?」

「何千年も前の縄文時代だよ」


「お祭りって、どんな事をしたの? お神輿をかついだりしたのかな」

「いや、石の棒を立てたりしたらしいのだけど、どんな事をしていたのか、くわしいことは何もわからないんだ。亡くなった人の弔いをしたとも言われている」


「むかしのことだから分からないの? どこかにストーンサークルがあるといいな」

「すぐそばにあるんだよ。『おみんつぁま』って知らないかな?」

「柏倉上丁の?」

「そう。富神明神社って言うんだけど、『おみんつぁま』って呼んでるよね。あそこにストーンサークルがあるんだ」

「ブランコと滑り台があったけど、石の列なんかなかったよ」

「それがあるんだ。でも土の中にね。おみんつぁまの社があるだろ。あの社を中心にして半径20mの円を描く。その円を描いたところにストーンサークルの石の列が眠っているんだ」

「ほんとう?」

「ほんとうさ。おみんつぁまの社の前に立ってごらん。社の後ろには富神山が見えるだろう。ほぼ、真北に当たる。だから富神山の上には北極星が見えるよ。縄文の人々は星を愛したんだね。おみんつぁまのストーンサークルは今から四、五千年前に作られた。そのときの北極星は今の北極星とは違うんだ。りゅう座のアルファ星トゥバンが北極星だった。今はこぐま座のアルファ星ポラリスが北極星だ。おみんつぁまのストーンサークルから富神山のてっぺんを見ると、五千年前にはりゅう座のトゥバンが北極星として…」

「富神山のてっぺんに輝いていた!」

「夏至や冬至の日の夜に、おみんつぁまから富神山のてっぺんを見上げてごらん。ストーンサークルは夜空に輝く星と関係があるし、夏至や冬至の太陽とも深くかかわっている」


註:

ストーンサークル(環状列石)は東北に多い。秋田・大湯のストーンサークルは直径40〜48m。西山形柏倉のストーンサークルは直径40mでほぼ同規模。墓地あるいは祭祀場として使用されたと推測されているが、その事実は不明。西山形のストーンサークルは昭和の圃場整備の際、取り付け道路の工事をしているときに偶然発見され、発掘調査が行われた。柏倉の縄文遺跡群の一つ。



イチョウの大木の樹下に、大量の銀杏が。


〜現地・案内板より〜

窪縄文遺跡跡

 発掘調査は県営圃場整備事業に伴う昭和52年7月から約1ヶ月にわたって行なわれました。縄文時代後期の遺跡で、遺物として土器片、鉢、深鉢、いしじり、いしさじ、いしへら、凹石など数多く出土しています。

 遺構は環状列石で、推定外径がほぼ富神社を中心にして40m、発掘された場所は西側の一部です。環状列石は墓地、祭祀の場と二通り考えられたのですが、本遺構は土壙(どこう)などの埋葬地施設が発見されないのと、未発掘の部分が多いため詳細は不明ですが、一応は祭祀的な場所と考えられます。

西山形振興会







〜西山形振興会「西山形の散歩道」より〜

柏倉縄文遺跡群

 山形市の西に流れる須川の西岸には、縄文から平安にいたる古代の遺跡がある。西山形は縄文の栄えた土地だった。畑に鍬(くわ)を入れれば縄文土器が出る。激しい雨の後にはキラリと光る矢じりが出る。素焼きの壺のかけらが出る。

 昭和50年代に入って、そのことがはっきりと示された。山形県が発行した「柏倉地区遺跡群」に西山形の8つの縄文遺跡が報告された。昭和51年5月〜52年11月にかけて県教育委員会は柏倉の埋蔵文化財をすみやかに、綿密に調査し、その結果、おびただしい数の土器や石器、愛くるしい土偶、そして東北有数の規模を持つストーンサークルを掘り出したのだ。

 窪遺跡の環状列石(ストーンサークル)には、こぶし大ほどの石がどっしり置かれていた。半径20mほどの大きさで集石が置かれ、石の輪の中心には富神明神社が建っている。どんな目的で石が円形に置かれていたのか、縄文の謎の一つだが、祭祀や葬送の場とも考えられており、ストーンサークルの北には神名備(かんなび)の富神山が鎮座している。

明源寺住職、柏倉玄神さん曰く、「当山からは環状列石(ストーンサークル)の立石が出てきております。この館の地には少なからず、小さい物から大きい物まであったものと考えられます。環状列石の立石の大きい物では、上丁の富神明神社に出土したものが有名です。明神様の環状列石は調査後に埋め戻しが行なわれましたので、今は境内地の土の中ですが、見学された人も多くいたようです」



社殿がストーンサークルの中心となっていた。


神名備「富神山」




「富神明神社」の緯度経度
38°13'53.5"N 140°15'25.2"E
38.231513, 140.256995