2015年7月3日金曜日

姥神と姥石 [山形市千嵗山]


姥石の軒下に宿る石仏群


その中央、姥神



〜鹿間廣治『奪衣婆―山形のうば神』より〜

姥石 山形市松波

 かつては、ここはあまり人家もない静かな所だったのだろうが、今は住宅地の中。奪衣婆は姥石と呼ばれる大きな石の上にいる(註:現在は石の下)。

 奪衣婆の頭が無い。そばに立っている地蔵様のような石仏にも無い。横倒しになっている二体にも首から上が無い。みんな明治の馬鹿げた廃仏毀釈の犠牲者たちだ。近所の老人に聞いたら、昔はもっと石仏の数も多かったのだが、いつのまにか少なくなっていったのだという。石碑や石仏が盛んに盗まれた時期があったから、誰かが持ち去ったのだろうと。

 姥石のそばに太い藤の木があり、石の上にもその枝が伸びている。春の季節には、藤の花と、まだ小さい木だが、石の脇に植えられている桜の花が、藤色と桜色とで仏たちを慰めてくれるのであろう。





2015年7月2日木曜日

水方不動尊 [山形市柏倉]



かつての参道は草木に埋もれている

石柱「姥ノ神」



〜鹿間廣治『奪衣婆―山形のうば神』より〜

水方不動尊参道 山形市柏倉

 ここにお参りに来た人の何人に一人が奪衣婆のいることに気づくだろうか。百人に一人? いやいやもっと少ないに違いない。「姥ノ神」と彫った石柱があるが、それさえも目につかない。参道から大して離れていないが、杉と雑木の暗い林の斜面に座っている奪衣婆は、よほど注意して探さないと見つからない。かつては、きちんとした階段か道がついていたのだろうが、今はその跡すら無い。

 でも、奪衣婆はこれを悲しんでいるのだろうか。ひょっとしたら、かえってせいせいしているのではないだろうかとも思った。心にもない見せかけだけの人には会うだけでも煩わしく、それよりはたった一人でもいい、本当に会いたい人だけが来てくれればいい。そう思っているようにも見えた。口元には笑みさえ浮かべている。


鐘楼

「前鐘は昭和十七年、大東亜戦争に供出しましたが
各地区民の執意により
部落平和学校進学交通安全商売繁盛を祈念して奉納されました
昭和五十一年十二月十八日」


水方不動尊

〜現地・説明板「西山形の散歩道」より〜

水方不動尊

柏倉陣屋の御典医・中村文哉が文政12年(1829)、屋敷に奉っていた不動尊を現在の地に移して村人の病気平癒を願いました。その子・周七は法印の修行を積み修験となり与勝海と名乗り明治9年、水方不動尊の行屋を建てなおし、父の意志を継ぎました。水方不動尊は特に目の病に効き目があると言われています。

ご縁日 毎月18日

西山型振興会



石碑「不動尊縁起」
不動尊縁起

明治廿七年旧十月十八日

文政十二年中村文哉…
尊像ヲ得テ彼ノ處ニ安
置シ奉リ而シテ永ク天下
泰平志願成就ヲ祈…
二世安楽ノ為ノ諸…
結縁ヲ仰ギ□ヲ祈…

行者…


本堂

本堂奥の水場

線刻・不動明王


〜西山形振興会『西山形の散歩道』より〜

水方不動尊

のうまく さんまんだ ばさらだんかん

 不動尊は昔から不動明王とも呼ばれて民衆の信仰を集めてきましたが、火焔を背にして右手に剣を持ち、誓願によって素生と苦楽を共にすると言われてきました。

 文政十二年(1829)堀田藩柏倉陣屋の御典医であった中村文哉が同家に安置していた不動尊の古い木造を村民の信仰と病気平癒のためこの地(大森山北東の谷間)に遷座を発願したと伝えられています。

 文哉の息子、周七(結城家に婿養子に入る)は五十歳のとき病気にかかり、その回復のため明治三年、大井沢の湯殿山道場に出掛け祈祷を受けて自分の病気の癒されたのに深く感動して、其処で引き続き厳しい法印の道の研鑽と修行を重ね、ついに与勝海という名を頂くようになった。また、彼は大井沢滞在中、六里もある朝日登山道を開き、その道が今も顕然として残っていると言われております。

 こうして健康を取り戻し柏倉に帰った周七は、父・文哉が遷座した不動尊を奉戴し、明治九年には其処に行屋を新築して、民衆のために諸願成就や病気の平癒・安産などの祈祷の社としたのであった。近隣の村々から多くの信者や参詣の人々で賑わっていたが、明治三十八年、周七は二男・周助に法印の道を授けて湯殿山に帰るのであるが、同四十年九月二十六日、八十六歳の天寿を全うして大往生を遂げた。戒名を与勝海善行天徳という。

 水方不動尊は明治十九年、世話方ができ多くの信者からの浄財で三間四面の回廊付きの拝殿が建立され、益々信仰者の参詣を多くしたのであります。周助は大正五年に老齢の為この世を去った。その後に勘五郎という法印が着座したが、わずか二年で退座したとか。

 また大正十三年、柏倉宿の黒田清次郎は行屋の倒壊したのを嘆き、これを再建すると共に翌十四年には立派な鐘楼堂を建て、大きな梵鐘を吊って国家の安泰を願った。其の後、時代の変遷にともないながらも村人や近村の方々に支えられては来たが、何せ戦前戦中の長いこと多湿地の社屋は雨雪風に晒され、いたみは烈しく荒廃の一途を辿るわけですが、昭和四十六年になって宿部落の志田義男・斎藤正志・斎藤繁・結城和諸氏をはじめとする庚申講の方々の、ひたすらな願を込めた努力は大衆の心を動かさずにはおらず、多くの浄財のご寄付をいただき本堂と拝殿を再建することができたわけです。

 拝殿の南斜面に文哉と其の妻(周屋文哉居士、月光正円大姉)の墓が残っている。参道を少し登り始めた右側の山中に姥神も祀られている。祭日は四月十八日です。

(結城義吉『水方不動尊縁起と記録』より)