2014年9月27日土曜日

法来寺 [山形・釈迦堂]





〜横川啓太郎「唐松観音とその周辺」より〜

法来寺と釈迦如来像

 大悲閣(唐松観音)の正面に当たって、馬見ヶ崎川原を挟んで、釈迦堂部落の屋並みが近くに見える。その河岸は「まま」と呼ばれる崩崖が続き、荒れ川馬見ヶ崎を象徴するかのように赤肌をさらしておった。今は国道286号線がその下を通り、「まま」は埋め立てられて元の面影は無くなった。

 下が淵になっている「まま」を昔は「まみ」と言った。これが馬見ヶ崎の語源であろう。しかし、馬見ヶ崎の語源にかかわる釈迦と白馬の伝説は別に伝えられている。部落の東端の老松繁る岩山の麓に、白馬山法来寺の高い屋根が見える。ここに三国伝来、日本三釈迦如来と伝えられる嵯峨野清涼寺式の仏像が安置されており、県の有形文化財に指定されている。この寺は室町時代の大日碑、仏足石などでも知られている。



白馬山 法来寺


〜現地・案内板より〜

法来寺

由来

 三国伝来の日本三釈迦如来の佛像が祀られるようになってから釈迦堂という地名が生まれ、それが白い馬に乗って来たことで白馬山の山号に、また、その法(お釈迦さまの教え)が法来寺という寺号にもなりました。

 はじめは馬見ヶ崎北(右岸)唐松に安置され、人々が祈願するとどこからともなく「馬のいななき」が聞こえ、大願成就するので、その辺一帯を「馬が見える崎」それとともに川の名前も馬見ヶ崎川と呼ぶようになりました。室町時代、法来寺は馬見ヶ崎川南(左岸)に移り、それにともない唐松の人たちも次第にこちら側に移り住むようになりました。

 法来寺はこのようにして、鎌倉以前の日本佛教の二大宗派の一つ天台宗を源流とし、一方の真言宗(南光屋敷を含む)坊跡を受け継いで成立し、現在は曹洞宗の寺院になっております。

平成十一年六月
紀識


〜横川啓太郎「唐松観音とその周辺」より〜

白馬山法来寺

 山形市釈迦堂の東端、馬見ヶ崎をはさんで唐松観音の対岸に、白馬山法来寺がある。その開山は詳らかでないが極めて古く、初めは天台宗であった。そこに応永廿五年(1481)在室祐石大和尚が住持となり曹洞宗に改め、自ら開山となり、後本寺万松寺の三世となり、永享七年三月廿三日、入滅した。

 法来寺釈迦の伝説は古く、これを略記すると、長和二年九月九日、神僧図澄が釈迦如来の尊像を白馬に乗せこの地にやって来た。これより以前、平清水の郷民森山氏が軍吏に傭われ戦中に死んだ。唯一残された妻女は、亡父の霊を弔う為、尼となって唐松の地に草庵を結んだ。これを江滸(こうこ)尼公庵と称し観世音菩薩を祀っておった。これが唐松観音の創始とも伝えられている。この草庵に釈迦尊木像が安置され後釈迦ヶ峯に移った。その後さらに堂平に移った。当時馬見ヶ崎の北岸一帯を唐松と称し、笹谷街道はここを通り、道添いに唐松村の村落が長く連なっておったのである。

 神僧は深く尊像を崇敬し、万民の為め苦しみを無くして幸福に暮らせるよう願っておった。其の頃、処々に悪い病が流行して死亡するものが多かったが、この釈迦如来像に祈願すると皆病気の伝染を免れ、病気になった人もたちどころに快癒したので、崇拝するものが非常に多かった。人々が祈願をする時は、必ず何処からともなく馬の嘶(いななき)が聞え、その願いが叶えられた。それで誰が言いはじめたともなく、このお堂の前方一帯を馬見ヶ崎と称するようになったという。

 馬見ヶ崎の語源については種々の説がある。鳥居忠政が馬見ヶ崎川の堤防を築くとき、盃山で馬上から川原を見渡した、というのも一説だが、この時代より釈迦如来と白馬の伝説のほうが旧いようである。しかし、馬見というのはこの川岸の崩崖をママといい、ママの下の水が淵になっているところをマミということから出た名前とも考えられる。


源義家、法来寺の開基

 庚平五年、源頼義が安倍一族を征伐するとき、この釈迦如来に祈り、その霊徳によってこれを撃滅し、続いて寛治元年、源義家陸奥守兼鎮守府将軍となると清原真衡を助けて、武衡・家衡を討とうとして出羽の此地に来て釈迦如来像を拝し、大刀一振、願状一通を納めたという。

 その文に「如来調御の徳を以て一夫を殺さず、一鏃を費やさず、朝敵亡滅の証を見せ給え」とあり、再拝やや久しうして帰陣した。翌朝出陣のとき、空中に甲冑を着けた人馬がぞくぞくと進軍するのを見て、敵は大いに恐れ躁いで、収めることが出来ず敗走した。義家これを見て深く仏の徳に感激して、自ら「仏徳山法来寺」と書いた山額を掲げ、供田若干、山林数町を献じ、堂宇伽藍を建築する資金を寄附したので、壮麗な巨刹となった。それで義家を永く当時の開基とした。

 天治元年四月廿日、尊堂は天災で焼失したが、幸いに釈迦尊像は無事であった。


最明寺時頼、中興の開基

 建長三年、最明寺時頼、行脚の折、此の釈迦如来像を拝して一首を詠じた。

嵯峨與利茂 奈於最上奈留 古及茂登仁
心津久志仁 於加美奴留加奈

 此れを書いて宝殿に貼り、また供田を喜捨し、伽藍を造営させたので、時頼を中興の開基とした。其の後、嘉元二年に再び火災に罹り、寺宝典籍ことごとく焼失してしまった。尊像は再び難を免かれ、当時源義経の臣、亀井六郎重清の後裔、鈴木将監重知が郷民と相謀り、応永二十五年現在地に堂塔を築いた。ゆえに重知を法来寺再興の祖と称している。



釈迦如来立像の安置された蔵


〜現地・説明板より〜

山形県指定 有形文化財
木造 釈迦如来立像
昭和三十年十月二十五日指定

時代:鎌倉時代
像高:124.2cm
材質:桧
構造:割矧造


 本像は、平安時代末期〜鎌倉時代前半にかけて全国的に盛んに作られた「清涼寺式」木像です。「清涼寺式」とは、京都嵯峨に所在する清涼寺の本尊の釈迦如来立像から派生した造りの仏像を指します。

 本像の両手足の部分は後世につくられたものと考えられますが、胴体と衣紋の彫刻は、鎌倉時代仏像の特徴をよく表しています。

 釈迦堂地区は出羽国と陸奥国をつなぐ笹谷峠の西麓に位置し、古代からの交通路に面していたものと推定されます。鎌倉時代初期の仏像がこの地に残されていることは、古くよりこの地区に集落が形成されていたことを示しており、「釈迦堂」の地名もこの釈迦如来立像に基づくものと伝えられています。

平成十六年三月
山形市教育委員会


〜東沢地区振興会「東沢の歴史散歩道」より〜

三国伝来の釈迦如来

 釈迦堂(旧:山原村)の白馬山「法来寺(曹洞宗、旧:天台宗)」に、山形県有形文化財の「釈迦如来立像」がある。丈四尺一寸のダブタ式(ガンダーラ様式)で栴檀(せんだん)の香木に毘首羯摩(びしゃかつま)の作と伝えられ、優雅で美術の精巧を極め、嵯峨の清涼寺、大和の西大寺の釈迦像とともに古代三国伝来の「日本三釈迦」の一つと伝えられている。

 寺伝によれば長和二年(1013)九月九日、神僧図澄が釈迦如来の尊像を白馬に乗せて馬見ヶ崎川北岸の江滸庵(こうこあん)の草堂に持ってきた。後に釈迦ヶ峯に移った。霊験のあらたかな仏で、願が叶えられるときは何処からともなく「馬の嘶(いななき)」が聞こえたと。それ以来、この付近を馬見ヶ崎と呼ぶようになったという。

 前九年、後三年の役の折、源義家は釈迦如来像に大刀一振に願状を添えて戦勝を祈り、その甲斐によって安倍氏や清原氏を破った。仏徳により感激した義家は「仏徳山」なる山額と、供田(くでん)、堂宇建築費を寄進した。天治元年(1124)火災により堂平に移る。建長三年(1251)鎌倉幕府の執権、北条時頼(最明寺入道)が行脚(あんぎゃ)の際に立ち寄り、尊像を拝したという。慶長五年(1600)現在地に移った。

 この型の仏像を清涼寺式釈迦像といい、原像は天竺(印度)で、唐の唐聖寺を経て永延元年(987)日本にもたらされた。その特色は細目状の螺髪、美しい流水紋の衣紋、右手は施無畏(せむい)印、左手は与願(よがん)印を結ぶ。また、この清涼寺式(ダブタ様式)の木像釈迦像は日本に数十体あり、東北では仙台市八幡町の龍宝寺(真言宗、元:大崎八幡別当寺)に大永三年(1523)造立の一体(国重要文化財)と福島県喜多方市の大用寺(真言宗)に鎌倉時代末期作と伝えられる一体とがある。なお、釈迦如来像の宮殿(厨子)は京都の工匠、山本喜兵衛寛長が宝暦十二年(1762)製作したもので、18世紀中葉の貴重な作品である。

 法来寺の裏山にお釈迦堂があり(ただし今は取り壊された)、毎年旧正月十五日に御宝蔵から出された釈迦如来木像とともに一夜を過ごす「堂籠り」という奇習があった。この行事は元禄年間頃から続いてきたといわれ、女人のみならず関係者以外は一切立入禁止であった。昭和十年頃、文化財の木像が傷むのをおそれ、そのうえ、戦争も激しくなりつつあったので簡略化され、その後中止した。



註:文化財指定

当法来寺の釈迦如来木像については、昭和二年一月十七日に国宝に指定されるよう、曹洞宗管長の添書をそえて文部大臣あてに請願書を提出したが認められなかった。昭和三十年十月十五日、山形県有形文化財に指定。


註:

この釈迦如来木像の原形は、開封の唐聖寺にあり、これは天竺から渡来したものであり、永延元年(987)東大寺の僧、奝然が模刻して日本にもたらしたという。釈迦信仰の盛んになるにつれ諸国に同型式のものが拡まったものである。法来寺釈迦は、専門家は桧造りで鎌倉時代の作と見ている(横川啓太郎)。



仏足石

〜東沢地区振興会「東沢の歴史散歩道」より〜

 同寺境内に「仏足石」がある。仏足石とはお釈迦様の足跡を印したもので、もとは印度において仏像が作られる前に信仰の対象とした。日本には近世(徳川時代)からで、僧侶や庶民の厚い信仰がある。平石に両足(双足)、立石に片足(必ず左足)および立石に両足の三種があり、日本には百余、山形県には17(うち村山地方13)を数える。法来寺の仏足石は天保十三年(1844)施主石井孫兵衛(唐松観音別当)が霊苗(長源寺住職)を導師として造立した。立石に片足のもので県内では三番目に古い。


〜安彦好重「山形の石碑石仏」より〜

釈迦堂法来寺 仏足石

 釈迦堂法来寺境内に立つ右足片足の仏足石である。下部に自然の盤岩で基台を据え、その上に六角形の基礎を置き、その上に小さな敷茄子を置き、その上に蓮座を置いているので、やや不安定に見える。蓮座に枘を彫って、その上に高さ72cm、巾40cmの板状の自然石に、上部に「仏足石」と刻み、その下に長さ47cm、上部巾20cmの右足を刻んでいる。足裏には中央に千輻輪、踵や指腹には三宝章、魚、虫などが刻まれている。「天保十五年甲辰孟秋 導師長源廿五世霊苗 施主石井孫兵衛」の年紀銘が刻んでいる。但し、天保十五年は弘化元年に当たる。


〜横川啓太郎「唐松観音とその周辺」より〜

 法来寺の仏足石は、大きさ約100cmの油石に片足立に刻され、天保十五年造立、県下17の仏定石のうち第三番目に古く、曹洞宗系に属している。谷地町和田家の出で、長源寺等の住職をした霊苗が導師、唐松観音の別当で石工だった石井孫兵衛が施主となって造立したものである。



大日板碑

〜東沢地区振興会「東沢の歴史散歩道」より〜

大日板碑(室町時代)

 法来寺の境内内に永享二年(1430)造立の種子「ア」の大日碑がある。これは約900年前、現法来寺の筋向い(笹谷街道北側)にあった南光屋敷(修験宗)の大日堂前から移したものである。


〜安彦好重「山形の石碑石仏」より〜

釈迦堂法来寺 永享四年板碑

 釈迦堂法来寺境内に大小の丸石に囲まれて立つ砂岩の自然石の板碑である。地表総高1.36m、下部巾1m、厚さ下部40cm、正面上部一ぱいに円を刻み、その中に胎蔵界大日の種子アを刻んでいる。その下に「奉永享四□□十一月十九日」と判読できる年紀が刻まれている。円は日輪を表わし、密教の影響によるものであろうが、山形地域では珍らしい。


〜横川啓太郎「唐松観音とその周辺」より〜

 約900年前、法来寺の門前の笹谷街道の向側に「南光屋敷」があった。ここに真言宗南光坊があり、源栄という修験が住んでおったという。源栄は天徳二年(958)沼原村の郷士、沼木綾之助の招きにより、同地に大日堂建立の際、其の堂守となった。後、富中(とみのじゅう)明覚院に移り、また鉄砲町の八幡神社の社僧となり、其の後代々その後を継ぎ明治に至ったという。

 この南光屋敷にあった大日堂前に、高さ150cm、幅100cm、花剛岩の自然石の大日碑があった。碑面は風化しているが、大きな円内に大日如来の種子アが刻され、永享二二年(二は横並び)と刻されている。今は法来寺に移されている。



縁起 苦集滅道

〜基台の刻文より〜


 縁起(えんぎ)とは釈尊の悟りの内容のことです。他と関係なしに単独で存在するものはなく、必ずいろいろな原因や条件によって成立しているということで、相互依存の世界をいいあらわしているのです(因果の道理)。

 因果の道理とは、原因があれば結果があり、因果の教えを人間の問題からみると、四諦(したい)の教えとしてとらえることができます。諦(たい)とは真理という意味です。


「八正道」
四諦(したい)の教え


苦諦(くたい)
人生は苦で四苦八苦

集諦(じったい)
苦しみの原因、煩悩や執着から愛の苦しみ

滅諦(めったい)
苦の滅した状態、涅槃の境地

道諦(どうたい)
苦を滅するための実践方法



座禅石


仏足石

人の生を
受くるはかたく
やがて
死すべきものの
いま生命あるは
有り難し

法句経




ものみなうつり
惣ておのれなく
このことわりを
信ずれば
心は常に
安らかなり

三法印




弟子たちよ
なんじらに告げる

自らを依り所として
法を依り所として
努め励めよ

長阿含経





境内を離れ、裏手の山へと向う。



西国三十三観音
奥の祠は「白山妙理大権現」







高台から山形県庁をのぞむ。



白馬にて

御法(みのり)の来る

いにしへを

聞くとうれしき

縁(えにし)なりにけり


法来寺 和歌三
読み人しらず



寺門前の案内地図


〜横川啓太郎「唐松観音とその周辺」より〜

御釈迦堂
堂篭りの奇習

 法来寺の裏山に元禄年間、御釈迦堂が建てられていたが、その当時から伝わったと推定される旧正月十五日の堂篭り行事がある。これは民俗学的にみても珍しい行事で、女人のみならず関係者以外は立入り禁止で、お釈迦様のお祭り行事の中に、各家々の男子(後継者が主)が十五才になった年、大人の仲間入りをすること、即ち成人式と過古一年間の初婿のお祝儀を兼ね行う行事であった。

 毎年旧正月十五日の夕刻になると、寺の鐘が鳴り響く。これを合図に村の若者は思い思いに手作りの「すし」「煮しめ」「田作り牛蒡」「酢物」「果物」「菓子」等を詰めた重箱やびん酒を下げ、寺をさして雪道を急ぐ。びん酒とは若者中に入会する者や初婿が初集会のとき出す一升びんの酒のことである。梵鐘の無い時代は、初婿が太鼓をたたいて、村中を三度ふれ歩いたといわれている。寺の門前には提灯が暗闇に赤々とともしてある。客間にはいると上座から会長、役員、若年寄、中年、小若衆の各集団が指定の座に坐る。

 そこで各人の重箱やびん酒が記録され、役割が定められ約200m離れた裏山の御釈迦堂に篭るのである。ただし、忌中、産日中のものは不浄の者として寺篭りとして止められる。忌中は三親族の血族で三十五日間、産日は妻が出産後二日以内である。御釈迦堂は四間四方の宝形(ほうぎょう)造りであった。


 若者中が裏山のお釈迦堂に篭る頃は、すっかり寺の境内は暗につつまれ、寺の門前には「おさいと」の焚火が焚かれる。この日は三国伝来の釈迦尊木像の年一回の御開帳とあって、近郷近在の多勢の善男善女が集った。山形の町からも多数、遠い雪道を徒歩でお参りに来たものである。

 鐘を合図に、天をこがす炎の周囲に集まった多勢の参詣人の間をぬうて、寺の御宝蔵から四尺二寸の釈迦尊木像が寺僧に抱かれ、手に手に提灯を持ち、振鈴の音を響かせながら、世話人、村役、若者代表などを伴ない、御釈迦堂へ向う。その厳かな行列が、焚火の薄明かりの雪道を通る風情に神々しく、合掌してこれを拝する信者の姿とともに、炎の光にあかあかと輝り映えて、この時代に生きた人々の心に焼きつき、永遠に忘れ得ぬ郷愁をさそってやまない。


 御釈迦堂に篭った若衆は、行列の見え初めと、お堂の戸を開く直前に、一斉に歓声を挙げながらお堂の側板をたたいて歓迎する。その音は昔の印役村の小四郎家(約6km)までも聞こえたという。お堂の戸を開くと同時に、一同は一瞬の内にお堂の中の所定の座に坐り静粛になる。

 西方の玄関から入った寺僧は、正面の壇上に釈迦尊像を安置する。直ちに寺僧のお経が誦えられる。やがて寺僧のお経が終り一同礼拝を終えると、寺僧は内陣に坐り、一同は堂内の中央を空けて周囲に坐る。世話人・村役はお神酒を頂戴して引き上げる。

 新入の若者は、かすりの着物を着て初婿と一緒に役員の前に坐る。まず、会長によって議定証文(後世は消防団会則も)が読まれ、新人の若者が署名・指印をおすのであった。次に初婿と新入の若者の紹介が終って、婿祝儀が始まる。まず一同お祝いの謡を三つ謡う。一つ謡うごとに役員と初婿がお神酒を取り交し、おなじょうぶが酒を注ぐ。

 次に「さんそつき」という行事を行う。それは初婿の頭を南に向けて仰むけに寝かせ、その周りを若者が取りまき若衆は左廻りに三回廻る。続いて皆んなで初婿を持ち上げ「さんそ、さんそ、さんそ」と掛声勇ましく初婿を胴上げする。続いて、昔は「おっつけます」という行事を行ったという。それは若衆が釈迦堂村と枝郷の唐松村の二手に分かれて、押し合いをやることで、勝った方から名主を出したという言伝えがある。後にはこれが角力に変り、また腕角力に変り、やがて消滅したという。

 最後に「神盃(じんぱい)」という行事にうつる。「神盃」は、黒い大椀を役付等七人が各一個づつ持ち、会長は大声で「神盃一回」と音頭を取ると、一斉に大椀を転がす。自分の前に大椀が転って来ると、その大椀になみなみと「おなじょうぶ」に酒を注がれて一気に飲みほさねばならぬ。下戸は近くの者に助けてもらうことになる。神盃は七重・八重といって七回・八回位転がされ、一同はいい気嫌になるころお開きとなる。その後は自由に無礼講の酒盛となる。歌も出れば踊りも出る。太鼓もたたく。徹夜で飲み明かすのである。

 翌朝暗いうちに世話人、村役が迎えに来ると、また朝の神盃を繰返し、暗いうちに行列をつくってお釈迦さまは帰って行き、行事は終わるのである。朝帰りの行列を途中で迎え、礼拝する参拝者も多数あった。


 なお、昔は住持が新人の若者に対して「あんもらやー、きんもらやー、あかすぢはったか、どきん、どきん、云云」とかいう呪文を唱えて、男性のシンボルを「おのがら」で挟んでくれたと言い伝えられている。これは外国の宗教行事の「割礼」に似ているし、前記「さんそつき」は、南洋の土人の行なう婿いじめの行事にも似ている。

 なお「おのがら」とは青苧(あおそ)の茎のことである。呪文はおそらく梵語であったと考えられるが、後で若衆が替文句を作ったのだろうと考えられる。農村の若衆らしい素朴さが感じられて面白い。

 昭和十年頃この行事の為、文化財の釈迦尊木像が傷むのをおそれ、行事は簡略化されてしまった。










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