2016年11月7日月曜日

ヒュッテ・ヤレン[白洲次郎と蔵王]



白洲次郎の別荘
「ヒュッテ・ヤレン」


〜現地・案内板より〜

白洲次郎と旧山荘(ヒュッテ・ヤレン)


日本昭和史上、敗戦後の危機を乗り越え、新生日本の礎を築いた、英国仕込みの『プリンシパル(筋を通す)』白洲次郎氏が、こよなく愛した蔵王にスキー山荘を東北電力会長時代(1951〜1959)建築されました。

生活を地域住民とともに楽しみ、蔵王温泉発展のために「東洋のサンモリッツ」を標榜し、スキー場初の大型ロープウェイ建設等に尽力いただきました。

この山荘は、日本語の「やれん(やってらんないの意味)」とかけて、白洲次郎氏によって、スイス風ドイツ語のつもりで「ヤレン(Jaren)」と命名されました。


スキーが「ヒュッと、やれん(上手くできない)」



〜現地・説明板より〜


白洲次郎と蔵王
Jiro Shirasu and Zao


1945(昭和20)年12月から終戦連絡事務局参与としてマッカーサー元帥が率いるGHQ(連合国軍総司令部)と国益のため勇猛果敢に交渉にあたり、日本国憲法の制定に立ち会った白洲次郎氏。

In December of 1945, after the Second World War was over, Jiro Shirasu became the vice president of the Central Liaison Office. 

He was responsible for firmly representing the national interest of Japan in negotiations with General MacArthur of the General Headquarters of the Allied forces (GHQ), resulting in the creation of the new Japanese constitution. 

わが蔵王とも関わり深い存在でした。

It's a little known fact that Shirasu had a deep connection with Zao.







敗戦4年目の12月、第二次吉田内閣の初代貿易庁長官に就任した白洲氏は、翌年に同長官を退任して国内の電力事業再編に全力を傾注しました。

Four years later, Shirasu became the first head of the Trade ministry. 

A year later he resigned from this position, and concentrated all of his energies in restructuring the electric power supply within Japan. 

やがて再編が完了した1951(昭和26)年5月、49歳の若さで東北電力(株)会長に選任され、しばしば同社の山形市店を訪れるようになったのです。

In May 1951, after its completion, at the age of 49, he was elected as the chairman of the Tohoku Electrical power company, Inc. 

Following this, Shirasu began making frequent visits to the Yamagata branch of the company.

スキーが得意な白洲氏は、蔵王の雪質の良さとロケーションに惚れこみ、早速、スキー山荘を新築。持ち前のウィットをこめ、ヒュッテ・ヤレン([スキーを]ヒュッと、やれん)と名付けたものです。

Shirasu was a keen skier and quickly fell in love with Zao's excellent snow and location. He wasted no time in building a mountain lodge and humorously named it, "Hutte Jaren" a German term, which sounds like the Japanese for "not a fast skier." 

電力関係者という立場から、山荘の内部は殆んどを電化し、当時としては最新の設備を有する理想的な山小屋だったが、冬期間だけの使用でした。

Since he was working in the electric industry, the lodge was almost completely powered by the most advanced equipment, although, it was only used during winter.



1階 間取り

2階 間取り



長女・桂子さん(嫁いで牧山と改姓)は著書のなかで蔵王での思い出を述べています。

Shirasu's first daughter, Katsurako wrote about her childhood memories in Zao in her book.

「蔵王では毎日ソリに乗って下の温泉街まで二人で食料の買い出しに出かけます。帰りはソリに買った物を乗せて引いてくるのですが、ジャンケンで負けた方がソリを引き、勝った方が買い物と一緒にソリに乗れるのです。(中略)それでも、私がジャンケンに負けたときはソリに父と荷物を乗せるといくら引いてもビクともせず、いつしかジャンケンは消滅してしまいました」

"Everyday we would go down to the hot spring town to do our grocery shopping in a sleigh. After shopping, we would play janken (rock, paper, scissors) and the looser would have to pull the sleigh back up to the lodge, containing the groceries as well as the winner of the game. When I lost the game, I was of course unable to pull the sleigh containing the groceries and my father back up to the lodge, so on those occasions the rules of the game were ignored."



一方、蔵王の更なる開発による発展を念願した白洲氏は、道路の拡張と舗装、駐車場の充実、山岳ロープウェイの設置などにより蔵王のシンボル樹氷を世界に喧伝すべきであると熱っぽく提言したとのこと。

Shirasu always wanted to see Zao thrive as a tourist resort, and played a large part in its development. He identified the necessity of paving the roads, expanding parking lots and establishing a ropeway in order for tourists to view the "Juhyo" snow monsters, so that they could become the symbol of Zao.

因みに1961(昭和36)年、蔵王ロープウェイ(株)の操業以来、現役引退までの十年間、同社の顧問として観光蔵王の進展を温かく見守ったのです。

The Zao ropeway was established in 1961, for the next 10 years until his retirement, Shirasu was in an advisory capacity and continued to warmly watch over the development of Zao as a tourist resort.



秋の「ヒュッテ・ヤレン」



白洲次郎流
夫婦円満の秘訣
Jiro Shirasu's key to a happy marriage

夫婦別々の世界を持って一緒にいないこと。

"Being in separate worlds from each other in order to stay together for life"






〜『蔵王よもやま話』より〜





蔵王ロープウェイの開業について、同社の「沿革史」に次のような経緯が記されている。

会社設立当初は地元資本でおこなう予定であったが、多額の資本金を要するため、発起人の安孫子藤吉山形県知事、大久保傳蔵山形市長、服部敬雄山形新聞・放送社長、鈴木吉助け山形交通社長の各氏が協議の結果、日本国憲法の創案作成や貿易庁(現経済産業省)の創設などで活躍した東北電力会長の白洲次郎氏の斡旋で、東武鉄道株式会社社長の根津嘉一郎氏に資本参加を願った。

すると快く承諾され、1961年(昭和36)8月12日の総会をもって資本金1億5千万円で「蔵王ロープウェイ株式会社」を設立することができた。









〜『蔵王今昔温泉記』伊東久一覚書より〜


歩いて行った高湯の憶い出
吉田竹太郎


私が始めて蔵王温泉とめぐり会ったのは大分古い話になるのだが、(私の幼時々代で)大正年間の四、五年頃と気憶している。

その頃東京の神田神保町に居住していた私達は、偶々母親に連れられて帰郷したときに、山形の親戚の案内で蔵王高湯温泉につれて行かれ、山形館と云う宿に数日間を楽しく過ごしたことがあったのが、一番最初の蔵王温泉とのおつきあいだと思う。


バスは半郷カスミ茶屋まで



その頃はバスの便などはまだなかったので、高湯までは専ら徒歩で登らなければならず、宿についてからの若干の食料なども携行して、山道をあえぎあえぎ要所々々で小休みしながら数時間掛って温泉についたのである。

荷物や人を乗せる役馬も何頭かいて、従兄弟の祥一君はその馬に荷物と一緒に乗ってキャッキャッと喜こんでいたのが今でも目瞼に浮んで来る。私は意気地なしで馬の背中になどいくらすすめられても乗る事は出来なかった。徒歩を選らんで、わらじを履き旧道を登ったのだ。

旧道と云っても現在の様な舗装をした道路ではなく、云わば登山道であって、高湯温泉に到着する頃は小さい私の両足は豆だらけになって仕舞ったものである。


馬橇(うまぞり)


高湯温泉の特有な湯の香りが私の小さい身体にまつわりつき、真夏の深山らしい草木の茂り、盃湖を身近かに眺めた自然美のすがた、それにはたごや(旅館)の家並みなどすべて都会では見たことのない情景は、東京の下町っ子として育った幼な心には大きな驚きであり魅力でもあったのだ。

それから何年か経ってからも両親の帰省の折に数回蔵王温泉に登った。幼いころの思い出が今もなつかしく私の胸の奥深く思い出が残っている。

今の蔵王温泉は東北の観光地として、夏は五色岳のお釜、刈田岳から熊野岳へ通じる馬の背、地蔵岳を中心とする高山植物の群生、又ロープウェイ中間駅附近、いろは沼湿原地帯の観光など、又冬期の観光では、世界的に有名な樹氷原の中でのスキーはロープウェイ、リフトの豊富な開発と設置によって、100万を越す観光スキー客を楽しませる施設を完了している山形県の蔵王温泉は、その日本中から集まる観光客の根拠地点となって仕舞った。

従ってその繁昌振りはすばらしいもので、大型の旅館、ホテル、公社大企業等の寮、貸別荘などが設置建設され大きく成長して今日に至っている。







話:菊池重太(元高湯巡査駐在所巡査)





冬籠りの冬は夜長で、娯楽施設もなければ遊び場がなく、退屈だから「ヤケッコ」の花形遊びをしていた。湯治客は十数名であったと思う。

高湯のお湯は疳(五官、目、耳、鼻、舌、皮膚)に利くと謂われているので、幼児の客が多い湯治場である。

交通の便はなく、馬と人力車のみであった。客は半郷三辻茶屋の前から人力車夫を頼んで、子供と荷物を背負ってもらい、草鞋をはいて往復した。冬は全く山の孤島の感であった。スキーも未だ初歩で実用化していなかった。

雪が多く積れば部落総出で、山神部落まで雪踏みして冬道を確保して往来に備えた。月に一回 定期訓示日には、上山警察署に午前九時まで出署しなければならない。朝は五時半に駐在所を出発せねば間に合わない。未だ夜は明けない、小さな小田原提灯をつけて足跡のない雪道に挑む。童志平の吹き溜りは腰までも雪があった。山神で少憩して出署する。帰りは上野で夕食を済ませて帰着するのは午後九時頃である。

高湯温泉は宿屋十七軒、商人その他三十二軒、計四十九軒の蔵王山の麓の湯治場であった。







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