蔵王大権現
苅田嶺神社に三眼二臂の高さ3.6mの木造の蔵王大権現が鎮座する。
蔵王開山伝説の地、蔵王大権現大木造
山形市市町村合併50周年記念事業
東沢観光協会・東沢郷土研究会・東沢振興会
〜黒木喜久治『馬見ヶ崎川の流れとともに —防原町の歴史』より〜
この鳥居は明神鳥居の一種で、最初は木造で立てられたが、安永六年(1777年)九月、三乗院住職七代義重時代に石造に立て替えられたものである。
材質は安山岩、柱・貫などすべて継目なし(島木は二本)の一本の石材で造られている。総高さ4m、幅(柱内)2.5m、笠木の幅5.6mと、近辺にない大鳥居である。
この鳥居は200年以上にもわたって、防原追分(三叉路)にあったことを知っている人は、現在、何人かはいるものの、だんだん数少なくなっている。当初、この鳥居は防原追分の道路(宝沢道、現在の佐藤慶三郎氏と武田正司氏の車庫にはさまれた道路)上にまたがっていたが、交通上の邪魔となり、道路の南側に移され、さらに第二次世界大戦後の昭和30年代に道路改良工事(県道防原、蔵王ダム線)のため、現在の刈田嶺神社の参道入り口に再移転された。
天照
蔵王寺
国土
天地権現書
〜現地説明板より〜
蔵王大権現 由来
伝説によれば、当社本尊、蔵王大権現は、役の行者小角(おづぬ)が吉野金峯山において、一千日の苦行と修練のすえ、感得せる金剛蔵王権現にして、朱鳥四年(689年)三月、小角57歳の時、出羽国羽黒に来り、近峯を遍歴、四月八日、当地苅田嶺に勧請したるものなり。以来、苅田嶺を蔵王山と称す。
当時、宝沢に井上太郎大夫という農夫あり、子なく天に祈る。その妻、一夜、一僧胎中に入るを夢み、男子を生む。朱鳥八年(692年)十月十八日のことなり。乙鶴と名づく。乙鶴長じて、才徳人に優れ、和銅五年(712年)、19才の春三月山伏となり、名を覚山と改め、諸国の名山霊地を巡り修業を重ね、吉野金峯山に至り蔵王権現を拝す。霊夢に、蔵王の霊山あるを知り、その山の中興を志し、帰国して登山の道路を開き、信者の利便を計る。天平年中(729〜749)、三年の旱魃あり、覚山国主の請に応じ、祈祷して雨を降らせ、五穀実りしことあり、麓に当社を建立し、萬福山と号す。これ当社蔵王大権現の創始にして、覚山は別当三乗院の原祖なり。
蔵王大権現は、苅田嶺神社とも称し、承和十一年(844年)、朝廷より従五位下に叙され、貞観十一年(869年)、従四位下に昇叙せらる。降って延文元年(1356年)、山形城主斯波兼頼、前殿を創建、黒印壱石壱斗寄進。慶長年間(1596〜1615年)、最上義光、再建。寛永十一年(1634年)、鳥居忠政、改築。慶安元年(1648年)、徳川家光より宝沢四社へ先規の通り、蔵王社領として三石八斗を寄進せらる。
当社本尊は、高さ364cmの巨大な蔵王権現にして、三眼、青黒色の忿恕身。右手は三鈷杵を振り上げ、左手は剣印を腰に安ず。左足を盤石上に踏まえ、右足を高くけり上げ、魔障降伏の相なるが、本地仏は釈迦如来なり。
蔵王山は、古来東のお山と称し、人々、権現に延命息災、増福円満を祈り、農民は水神として五穀豊穣を祈願。山形近郷に於ては、往昔より、春祭の旧五月二十一日は権現さまのお田植と称し、田に入ることを忌み、秋の旧十月八日には権現さまに収穫感謝の祭りをはすを常とせり。蔵王大権現の御神木は桜なりという。現在当社の祭典は六月十日なり。
蔵王大権現保存会
昭和五十三年六月十日
井上家の敷地内にある |
おばあちゃんが電気を付けてくれた |
社神王蔵 |
〜黒木喜久治『馬見ヶ崎川の流れとともに —防原町の歴史』より〜
このほとけは奈良県吉野の金峰山(きんぷせん)如意輪寺(にょいりんじ)の本堂(一般に蔵王堂という)に祀られ、修験道の本尊で日本独特の仏であり、インドにも中国にも見られない。役の行者(えんのぎょうじゃ)が金峰山で修行中に感得したという。平安以後、修験道の発展につれて全国的に信仰された。
ただ、役の行者小角(おづぬ)が蔵王権現を感得したという伝承は、小角の死後400年後の12世紀はじめの『今昔物語集』によりようやく現れる(その後、鎌倉時代中期の『沙石集』など)。また、当山派修験の祖とされる京都醍醐寺の真言の高僧理源大師聖宝(しょうほう)の伝記をまとめた承平七年(937年)作の『聖宝僧正伝』によると、「金峰山において堂を建立し、併せて居高六尺の金色の如意輪観音を造る。併せて一丈の多聞天王、金剛蔵王菩薩像を彩る」とあって、蔵王権現は本尊(如意輪観音)でなく客仏で、しかも「権現」ではなく「菩薩」と呼ばれている。平安時代の説話や貴族の日記、記録類にも、蔵王は蔵王菩薩と記される方が多く、あるいは当時の蔵王は今日のような忿怒形の姿ではなかったのかもしれない(平凡社、月刊百科339号『蔵王権現と龍神』より)。
内部 |
蔵王大権現の脚部 |
〜ブログ「扁平足」より〜
蔵王の登山口の一つ宝沢はかつて蔵王信仰の重要な拠点であり、歴史のある落ち着いた集落です。それは道端に立つ石造物の多さで分かります。馬見ヶ崎川にそって集落が切れ目なく続き、そのなかの下宝沢に木造蔵王権現があるというので訪ねました。
道路脇に立つ石鳥居から車で入るとそこは農家の庭先、ご亭主の井上氏が庭木の剪定中でビックリ。まずは駐車の許可を得て蔵王権現について訪ねると、庭奥にある土蔵造りの蔵王神社に鎮座しているという。そして気持ちよく拝観させていただきました。
その蔵王権現は天井を突き破らんばかりの大きさにまたビックリ。井上家はかつての蔵王信仰の拠点で三乗院を名乗っていた家柄。伊藤清郎著『霊山と信仰の世界』(平成9年、吉川弘文館)には「宝沢口では最盛時には十二坊があった」とし「三乗院(当山派)は覚山(宝沢出身)がこの霊地を開いて麓に寺を建立したのが始まり」とあります。そして蔵王権現の高さは364cmと紹介しています。庭奥の山際にある墓地には「法印」の銘がある墓石もありました。かつての蔵王行者のものなのでしょう。
〜黒木喜久治『馬見ヶ崎川の流れとともに —防原町の歴史』より〜
(蔵王権現の)形態としては密教の五大力菩薩中の蹴立像に近い忿怒形(ふんぬぎょう)をしており、額の左右で髪を逆立て、顔は眉間のしわの中にも目がある三つ目で、とくに左右の目は怒りに燃えてかっと見開き、唇の両端からは牙が突き出ている。右手は三鈷杵(さんこしょ)を握って振りかざし、左手は人差し指と中指を突き出す剣印を結んで腰に添える。左足はがっしりと岩を踏まえ、右足を高く蹴上げ、光背には火炎を負うて、全身これ悪魔調伏という姿で屹立する。身体の色は青黒い。蔵王権現の調伏する悪魔とは、悪病や災厄、人間の欲望や煩悩で、人は行を積み困苦に耐えることによってこれらの悪を調伏することができる。その人間の精進の姿を守護するのが蔵王権現である(『修験根本道場金峰山寺』同寺発行より)
下宝沢刈田嶺神社の蔵王大権現も、光背こそないものの全くこれと同じ形像で、背中に本尊の釈迦如来を抱いている。
余談ではあるが、山形の夏の祭り「花笠まつり」に祭神として招かれるのが、この蔵王大権現である(右手の三鈷杵を「花笠」にもちかえて)。
前夜祭では、宝沢の蔵王大権現から「御神火」をいただく儀式が毎年おこなわれている。
〜蔵王地蔵尊保存会「蔵王地蔵尊」より〜
蔵王大権現
古代の人たちは、天変地異のすべては神のしわざであり、しかも神は大自然の中に宿っているということから、峻険な嶺が畏敬尊崇の対象となり、鳥海山、月山などと共に蔵王山も位階勲等を授けられるほど尊ばれた。ただ、古くは刈田嶺神といわれていたもので、蔵王山と称するようになったのは七世紀以後のことであるようだ。
蔵王地蔵尊にまつわる古文書のある宝沢の三乗院は、蔵王山宝沢口にあって、松尾院の半郷口、安楽院の中川口(上山)よりも古くから栄えたようである。三乗院の門前に掲示されている説明によれば、役の行者小角(すづぬ)が吉野金峯山(きんぶせん)において、一千日の苦行と修練のすえ感得したのが金剛蔵王権現で、朱鳥四年(690)三月小角57歳の時、出羽国羽黒に来り近峰を遍歴、四月八日当地刈田嶺に勧請した。以来、刈田嶺を蔵王山と称したと伝えられている。
また、この三乗院には蔵王山信仰を象徴する巨大な蔵王権現の像がある。いい伝えによれば、役の行者が刈田嶺で勧請をしていた当時、宝沢に井上太郎大夫という農夫がいて、子なく天に祈っていた。その妻が一夜、一僧胎中に入る夢をみて、朱鳥八年(694)十月十八日男子を生んだという。乙鶴と名づけた。この乙鶴が長じて才徳人にすぐれ、和銅五年(712)十九歳の春三月に山伏となり、名を覚山と改め、諸国の名山霊地を巡り修行を重ね、吉野金峰山に到り蔵王権現を拝した。霊夢に蔵王の霊山があることを知り、その山の中興を志して帰国、登山の道路を開き信者の利便をはかった。天平年中に三年続きの旱魃があって、覚山は国主の請に応じて祈祷し、雨を降らせて五穀を実らせたという。やがて、蔵王山麓にあたるこの地に社を建立し、万福山と号し、蔵王大権現を創始した。
別当三乗院にある権現像は、高さ3.64m、三眼青黒色の忿怒神で、右手は三鈷杵を振りあげ、左手は腰にあて剣印をあらわしている。左手を盤石に踏まえ、右足を高くけりあげ、魔障降伏の相をしている。三乗院の入口に石の鳥居がある。これは先年、宝沢街道の道路整備に際して、防原の三差路にあったものを移したもので、蔵王山宝沢口の一の鳥居である。
蔵王大権現 常夜燈 |
近隣(宝沢地区)の周辺情報:
蔵王大権現像(三乗院) [山形・下宝沢]
参考映像:
NHK「新日本風土記アーカイブス」
蔵王権現〜山形・下宝沢 恵みをもたらす蔵王への信仰
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