高房神社の石鳥居 |
〜東北芸術工科大学、文化財保存修復研究センター「日本最古の石鳥居群は語る」より〜
高房神社の石鳥居
所在:高畠町北和田
様式:明神系八幡鳥居
年代:平安後期〜室町時代
材質:石英粗面岩質凝灰岩
寸法:総高3.23m、柱径0.72m、柱間2.27m
指定:県指定有形文化財
位置:37°57'27.0"N 140°12'11.0"E
山形県の南端に置賜盆地が位置し、その中央部を飯豊山脈に発する最上川が北に向かって流れだす。盆地の東側の山麓には日本三大文殊として有名な亀岡文殊堂がある。そして、亀岡文殊堂から東南2kmほど離れたところに、優美な曲線をした山がそびえ立つ。地元では堂山と呼ぶ聖なる山である。
高房神社はこの堂山の南面に鎮座し、石鳥居は神社の南の入り口に建てられている。高房神社の現在の宮司によると、本来の鎮座地は福島県方面の山奥で、今の上和田高房と字窪と呼ばれるところに鎮座していたという。その後、現在の地へ遷座したわけで、以前のところを一ノ宮と二ノ宮、そして現在地を三ノ宮と称しているという。
一材からなる笠木と島木を太い柱が支える石鳥居は、村山地方における古式石鳥居群と同じく横に長いかたちをしている。笠と島木部分が船のような緩やかな反りを示すのは、天童市荒谷の清池の石鳥居とに類似する。また、貫の外は島木の端よりも短く、柱の上段部に台輪を設けている。この台輪は室町以降の鳥居に見られる八幡鳥居の特徴的な要素と見るべきであろう。
だが、柱には転びがなく、左柱は二材つなぎの構成となっている。この他、台輪の彫りが浅いうえ、貫は笠木と島木を合わせた高さに近い。このため、一般的な鳥居の様式と比べて相対的に太い印象を与える。台輪部を除いてこれらの特徴は、村山地方の石鳥居に通じる、横長のどっしりとした古い様式を覗かせている。
二材つなぎの「左柱」 |
これに加えて、左材が二材つなぎとなっているのは修理の跡なのか、それとも製作当初のものと見るべきなのか。接合面は精巧に削られ、高い平滑度を保っているうえ、左柱上段の貫刺し部分の風化が比較的に少ない。これに対して反対側の右柱では、貫刺し部はすでに大きなヒビが入り、風化による痩も進行している。これだけ両柱の風化の度合いが違うのは何故だろうか。
さらに、通常の石鳥居では、組み立て易くするために貫穴の方を貫より幾分大きく掘りだす。しかし、ここでは真ん中の刺し穴よりも寸法が大きく、差し込み部分だけ細くしている。また、左右の貫と中央の貫の寸法がだいぶ異なっており、構造的なバランスに欠けている。このような不自然な形状や異なる寸法は、すべての部材が同一時期のものではない可能性を示唆している。つまり、時代変遷にともなって部分的な改変があったのではなかろうか。
島木前面にみられる「等間隔の3つの穴」 |
鳥居の形状と関係して目を引くもう一つのところは、島木の前面に見られる、同間隔の直径10cmほどの三つの穴である。凝灰岩は火山灰の堆積した岩石で、運搬された岩石粒子を多く包含する。運搬環境や条件が揃っていた場合だと、等間隔の岩石包含状態を示すこともある。凝灰岩が平地で形成した場合だと、岩石は水平の堆積方向を示す。通常はこれを水平方向に沿って切り出して鳥居の部材に用いる。この際、表面に露呈した大きい岩石粒子は、比較的に容易く剥落を生じ、三つの穴は岩石自身の素性に由来する可能性が十分にある。
一方で、等間隔、同径という側面から、意図的な穴の可能性も排除できない。岩石の素性に合わせて意図的なデザインの可能性も検討すべきであろう。これに関しては、伊東忠太(1867〜1953)という地元出身の建築家が戦前に残したスケッチがあり、一つの参考資料となる。彼のスケッチを見る限りでは、同間隔の穴が記載されていない。このうえ、現在は付いている左右の貫の外部が描かれていない。絵具を用いて彩色を施している丁寧な表現からすると、スケッチは現状を忠実に描写していると考えられる。しかし、穴と貫外も描かれていないのは何故だろうか。このスケッチを鵜呑みにすれば、同間隔の穴は戦後から出来たもので、この場合は意図的なデザインの可能性が高い。
ただし、何時、何の目的で掘られたかが分からない現段階では結論を急ぐべきではない。また、貫外が描かれていない点から、現在の貫外は一時期ながら地面に落ちていたか、もしくはそれ以降に修繕されていた可能性が考えられる。石鳥居は凝灰岩という軟らかい材質であり、ホゾ差し込み構造という要因から、貫外の欠損を生じ易い。外貫の欠損は、村山地方の古式石鳥居においても多く見られる現象である。
建立年代に関しては、向かって左柱の中央部に刻まれている銘文が重要な鍵をにぎる。地域の郷土史研究家たちの間では「天文七戊戌九月十八日」と解釈され、このことが『郷土史叢書』などに記されている。天文七年(1538)は室町末期であり、台輪のある鳥居の様式編年とおおむね合致すると言えよう。
ただし、凝灰岩製の古式石鳥居のほとんどが柱に銘文を刻んでおらず、縁起書上での神社の成立は中世以前に遡る。そして、台輪を覗いた鳥居の様式は、村山地域の古式石鳥居と類似する。こういった点を踏まえると、建立年代は天文年間よりさらに遡る可能性は排除できない。また、石鳥居の建立年代と、銘記年代は必ずしも一致するとは限らない、という点も考慮すべきであろう。
これを示すかのように、地元の研究家の間では「天元二年」、「天永二年」、「天永元年」など、異なる見方で銘文を読んでいるのが現状であり、定説を得るまではしばらく時間を待たざるを得ない。多孔質で脆い凝灰岩表面に銘文を刻むこと自体が難しく、風化が進んでいる場合は、解読そのものが困難を極める。今後、さらなる研究成果を踏まえた上で、銘文の年号について論じる必要がある。
こういったなか、高房神社の創建などを記す文献記録の存在が沙汰され、歴史家の間で注目を集めている。現職の宮司である八巻喜教氏が近年手書きで写した「羽州置賜郡和田村総鎮守高房大明神縁起」という写本がそれである。原本の縁起書は本来神社に保管されていた巻物状のものだが、いま現在は地元の白石家に原本が保管されている。
縁起書は江戸時代に書かれたものであり、「神社ヲ造営シテ二ノ宮ヨリ遷座シ奉リ、同所ヨリ桜樹ヲ移シテ神ノ御前ニ植エタリ、又其後天永元年ニ至リ桜樹ノ辺江石似テ一門ノ華表ヲ献リ」と記されている。縁起書そのものは文久年間(1861〜1863)と新しいが、神社の遷座に関する具体的な伝承を記録している面で、一定の資料的価値が認められる。恐らく以前の口伝などを基に作製されたものであろう。
ここには天永元年(1110)、桜の木の近くに門として石造の「華表」を献じたとしている。この記述のままだと、神社は天永元年以前から存在し、「華表」が新たに建てられたことになる。すなわち、日本最古の石鳥居とされる山形の元木、成沢の石鳥居とほぼ近い年代にまで遡り、従来の天文年間とは大分隔たりを生じる。歴史変遷からしてみれば、村山と置賜地方との差はほとんど見られない。というのを前提にすると、それほど違和感のない年代推定かも知れない。ただし、両者ともに明確な裏付けが少ない現状においては、いずれも可能性の一つとして残しておくのが精いっぱいと言える。
しかし、このような建立年代より興味深いのは、文末に見られる「華表」という文句である。この縁起書では「華表」を門として立てたとしている。「華表」とは、中国の宮殿や陵墓などの参道に立つ日本の標柱を指し、一般には「神道柱」または「石望柱」とも呼ばれる。その代表例は、北京の紫禁城の門の前に立つ花崗岩製の「華表」がある。
この華表が江戸時代になると、確実に「鳥居」のことを指すようになる。聖なる空間の入口に立つことを勘案し、中国の「華表」を「鳥居」に見立てたのだろうか。それとも、天にそびえる両柱のイメージから鳥居としたのか。その真意については詳細が分からないにしても、「華表」という表記を「鳥居」に用いたという事実は、鳥居の起源と変遷を探るうえで重要な意味をもたらす。
安久津八幡神社の「じじばば石」 |
この二本の鳥居の柱にまつわる重要な石造文化財が近隣に伝わる。安久津八幡神社の「じじばば石」と呼ばれる両柱石である。現在は神社入口に立つ木造鳥居のすぐ後ろ側に横たわっている。鳥居に向かって右側の石柱が「ばば石」であり、左柱が「じじ石」と呼ばれる。
地元の高畠層から産する凝灰岩製であり、直径は約90cmで、長さは7mもある。何時、どういう経緯でここに置かれたのかについてははっきりしない。その位置が今の鳥居のある場所であることから、石鳥居を建てる目的から運ばれていたことは容易に想像できる。このあたりの古い地名が鳥居と呼ばれているのもそれを裏付ける。柱の直径や長さからすれば、村山地方に見られる古式鳥居群よりも大きい規模の石鳥居を建てようとしたに違いない。だが、どういう理由だか建てることを放棄して今のように横たわるままとなっている。
もう一つ面白い点は「じじ石」と「ばば石」という名にある。何時からか地元の人々のあいだで付けられたであろうこの名からは、民間信仰で多く見られる陰陽的な考え方が覗かれる。伊勢信仰の聖地の一つである二見浦(三重県伊勢市二見町)の二見興玉神社の前に夫婦岩があり、この場合も陰陽を表す両柱のイメージと重なる。夫婦岩は注連縄でつながり、結界としての鳥居を表徴している。このような類型は全国の至るところから見ることができ、安久津八幡神社の「じじばば石」も、そういった象徴体系を示しているのではなかろうか。
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