鳥居裏に置かれた「じじばば石」 |
片葉の葦 |
〜現地・案内板より〜
片葉の葦
1062年(前九年の役)八幡太郎源義家が奥州の豪族、安倍一族討伐の戦いで、義家の武将、鎌倉権五郎景政が敵の弓矢で目を射たれ負傷しました。戦い勝ち奥州を平定した帰途この地で休み、この池の源泉たる弘坊水にて眼を洗い治療したというが、権五郎は片眼となる。この池に生えている葦も、片葉になったと伝えられております。
子育地蔵尊 |
山中神明宰 |
〜現地・案内板より〜
山中神明宰
当地屋代郷一帯は宝暦、明和年間、水害旱害冷害で大不作でした。それに天明三年の大凶作で餓死者も出るほどの不況でした。この民苦と窮状を案じて、当地代官、山中太郎右衛門が独断で上米蔵を開き、施米として郷土の村民を救いました。
代官、幕府への上申のため江戸に旅立つ時、一切の責任は我にあり、我もし帰らずば、念佛一遍も唱えてほしいと申された。山中代官の民情対する至誠は幕府当局を動かし、免租の恩命さえ下りました。その恩を称して、安久津村、新宿村、竹森村、深沼村の村民が感激し、後世に遺すべくの報恩碑です。
舞楽殿 |
〜現地・案内板より〜
舞楽殿(ぶがくでん)と安久津延年(あくつえんねん)
石畳の参道をふさぐように阿弥陀堂(跡)に向かい東向きに立つ建物が舞楽殿です。舞楽殿は、方一間の宝形造(ほうぎょうづくり)、茅葺きで、西側に小さなおろし下げがあり、屋頂には石造の露盤(ろばん)と宝珠が置かれます。舞楽殿では、安久津八幡神社春の例大祭で田植舞が、秋の例大祭で延年がそれぞれ舞われます。建物は、室町末期のものと考えられています。
本来延年は、平安時代の終わり頃より寺院の法会・法要などに舞われたといわれています。安久津では九月十五日の秋の例大祭で、神社に奉納されます。それゆえ地元では長い間「神楽舞(かぐらまい)」として継承され、舞楽殿も神楽殿の名で呼ばれていました。
舞は「振鉾式(ふりほこしき、燕舞式)」「拝舞(おがみまい)」「三躰舞(さんたいぶ)」「太平楽(たいへいらく)」「眺望楽(ちょうぼうらく)」「蛇取舞(へびとりまい)」「姥舞(うばまい)」の七曲が伝えられ、「振鉾式」と「姥舞」の二曲を舞師が、他の五曲を稚児(男児)が舞います。そのため一般には「稚児舞」とも呼ばれます。
舞は、舞師である大地権太夫家に、一子相伝の世襲制のもと、四十四代にわたり代々受け継がれてきました。かつては、奥州名取郡熊野神社や宮内熊野大社に舞師として招かれ、舞を指導していました。安久津延年は、比較的古式をとどめている舞として、昭和六十三年に町指定無形民俗文化財として指定され、平成五年には国の「記録作成等の措置を講ずべき無形の民俗文化財」に選択されています。
山形県指定有形文化財「八幡神社舞楽殿」昭和三十年八月一日指定
高畠町指定無形民俗文化財「安久津延年」昭和六十三年三月十八日指定
高畠町教育委員会
耳の神様 |
安久津八幡神社 本殿 |
〜現地・案内板より〜
安久津八幡神社 本殿
安久津八幡神社は、その長い歴史の中で、幾度となく火災に見舞われています。度重なる火災により宝物や記録は失われましたが、わずかに残る神社縁起書や棟札(むなふだ)などの記録から、明応九年(1500)伊達尚宗により社殿が再建された記録を最古として、七度焼失し、その度ごとに再建されてきました。
現在の本殿は、寛保三年(1743)に焼失した社殿を、米沢藩上杉氏九代重定の代、宝暦五年(1765)に再建されたものです。三間社流造、茅葺き、軒組は和様平三斗(わようひらみつと)といいます。棟の両端には鬼板があげられ、屋根が半円形に張り出す特異な形状をしています。本殿は、近世建築ながらその手法が優れ、江戸時代を代表する建物として、昭和30年県指定有形文化財に指定されました。
もともと本殿は、現在地の北、八幡山の中腹に近いところにあり、現本殿の背後に参道やその両脇の堀、旧本殿などの跡を見ることができます。また、八幡山の中腹や山麓には、神社を囲むように十数基の古墳が点在しています。この古墳群は、鳥居町古墳群と呼ばれるもので、いずれも横穴式石室を有する七世紀後半から八世紀にかけての円墳です。本殿左手裏に見ることができる古墳は、鳥居町三号墳、四号墳です。
山形県指定有形文化財「八幡神社本殿」
昭和三十年八月一日指定
高畠町教育委員会
奥の院へと続く山道 |
志安知生(しあわせ)の石 |
奥の院 |
さらに登った展望台より |
置賜盆地 |
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