「成沢林道」 山形市「成沢地区」と「西蔵王高原ライン」をつなぐ林道。 |
今回は、いったん林道を登りきり、上から下へと瀧山信仰の史跡をめぐる。すべてのポイントは林道沿いに位置するが、少し山に入らなければならない箇所もある。
「毘沙門堂」「御熊野堂」「隆勝寺」「鐘撞堂」跡 それらしき平地はあるが、すべては深い草のなか。 |
林道のまわりは深い森 |
「滝の前」 |
水場のほとりに祠(ほこら) |
ひなくぼ板碑と墓地 |
〜成沢城跡・案内板より〜
ひなくぼの板碑
市指定文化財
ここはかつての僧侶の墓地と称されています。この板碑も2mを越す大型のものです。
「ひなくぼ板碑」 背丈をこえる大きさ。刻まれた文字はほとんど磨滅している。 |
板碑かたわらの石積み 墓であろうか |
沢内「燈の前」 杉林の奥に層塔が見える。 |
沢内「層塔」 |
〜成沢城跡・案内板より〜
沢内(さわうち)燈の前 層塔
市指定文化財
本来の姿かどうかは不明ですが、6重の層塔があります。元は参詣人が献灯したところと伝えられています。
造園屋さんの門前に |
林道わきのブドウ畑 |
ブドウ畑の下手にある「地蔵堂」 |
木像のお地蔵さまが大切に祀られていた。 |
お堂まえの手水鉢 |
地蔵堂の右手すぐ「六面幢」と2基の「板碑」 |
〜成沢城跡・案内板より〜
地蔵堂の
板碑(いたび)と六面幢(ろくめんどう)
地蔵堂の境内に板碑2基、六面幢1基が立っています。3基とも2mをこえる大型の石造物です。
中央、笠つきの「六面幢(ろくめんどう)」 |
〜安彦好重「山形の石碑石仏」より〜
成沢沢内
地蔵堂の六面幢
成沢から竜山(瀧山)への旧参道の沢内地蔵堂の境内に2基の板碑と並んで立っている。礎石は土中に埋まっているが、枘穴があってさし込んでいるものと思われる。総高2.7m、幢身は2.35mで、一面の巾32cmであるが、幾分中太ですらりと高い。各面には地蔵の彫刻はない。磨滅のため年紀銘も不明である。
笠は六角で上部に露盤が刻んであり、おそらく相輪か宝珠が立っていたと見えるが、現在は別石が置いてある。軒先に反転があり、全体的に瀟洒で品位がある。この塔は元の姿で相輪が立っていたすばらしく美しい六面幢であったと思われる(安彦好重)。
六面幢の右の「板碑」 |
〜安彦好重「山形の石碑石仏」より〜
成沢字沢内の竜山参道にある沢内地蔵堂近くの杉林の中に、前記六面幢を中に挟んで二基の板碑が立っている。
手前の板碑は地表総高2.30mで、頭頂は梯形のような角形をしていて、額部は全体に比して小さく庇のように出て、太い二本線が刻まれている。額部の深さ15cm。幢身は上部が54cm、下部が65cmで下に基部が出ている。種子、銘は磨滅して不明である。幢身部の厚さ30cmである。凝灰岩で頭頂、額部に欠損が見られ、優美な線に欠けるが雄大な板碑である。竜山の参拝者が供養のために参道に建てたものであろう(安彦好重)。
六面幢の左の「板碑」 |
もう一基の方は、地表総高2.25mで、頭頂は角張った台形をしていて額部は小さく浅く蒲鉾形をしている。額部の深さ9cmで磨滅のためか二本線は見えない。幢身は上部は35cm、下部は65cm、厚さ27cmである。基部は見えないが、地表に直かに立っているからないのかもしれない。種子、銘等は磨滅のため不明、凝灰岩で、石質は前者と同様であるが、頭頂、額部の形態がやや異なるところから、建立者は別人であろうが、竜山信仰の供養のためのものであろう(安彦好重)。
空清水(うつぼすず) 岩盤から切り離す直前の「石柱」 |
〜成沢城跡・説明板より〜
空清水(うつぼすず)の石材採石場
市指定文化財
かつての石造物の採石場と伝えられ、重要文化財の八幡神社鳥居(成沢)もここから採取したといわれています。
〜東北芸術工科大学 文化財保存修復研究センターより〜
空清水遺跡は蔵王成沢にある重要文化財「八幡神社の石鳥居(成沢)」の採石地と伝承される場所で「岩盤から切り離す直前の柱」が残っています。
〜清野春樹『瀧山と恥川の秘密』より〜
成沢の石鳥居のある場所から、瀧山の方向へ向かって1.5kmほど上ると、空清水(うつぼすず)の採石場へ出る。ここは蔵王上野へと至る道路と交錯する場所で、周囲は果樹畑となっているが、やや傾斜のある坂となっている。
現在も、掘り出された大きな石材がそのまま横たわっている。途中で折れて放置されてしまったのだろうか。茨木光裕氏の「中世山寺の一例」『草ぶえの考古学』によると、この石材は幅1m、高さ1.5m、長さ約15mとなっている。また「一帯には多くの石材片が散布し、板碑や石鳥居の採石・加工の場であったと考えられる」と記されている。
〜成沢城跡の案内板より〜
山の神社(やまのかみしゃ)
成沢城の東側の坂道を登ってすぐの所にあります。昔、参詣者が登山の無事を祈った場所といわれています。
〜『わがさと平清水』より〜
滝山の閉山
鎌倉、室町の時代を一般的に中世と呼んでいます。この時代は上代(または古代)と近世の中間にあり、そして上代になかった政治や社会の構造をもっています。たとえば上代(平安時代まで)の政治では、天皇を中心とした貴族の政治でありましたものが、武家(幕府)にかわり、家人(幕府の家来)を幕府が守護や地頭に任命するという分権的封建制が施かれたのであります。武士団による恐ろしい政治(武断政治)の社会となったのです。
滝山の閉山は、このような中で起こったのです。鎌倉の半ごろ、後深草天皇正嘉二年(1258)、先の鎌倉幕府の執権・北条時頼(最明寺時頼、法名道崇、または覚了坊と号した)によるものと伝えられています。
しかし滝山地区には、滝山閉山の関係文書は一つも見られません。ただ滝山は蔵王地区にも広がっていますので或は、裏参道であった沢内(さわち、成沢)口に残っているのかもしれません。それで、東北各地や県内の名山などについて調査してみました。
入道(仏門にはいった高位の人)した前(さき)の執権・最明寺(北条)時頼は民情視察のために諸国を行脚した(この話は創作で歴史的には無かったとの説もあります)。
当時の滝山には三つの山道が開かれていました。一つは元木の鳥居(御立の鳥居ともいいます)から岩波、土坂を通る参道。二つ目は中桜田、上桜田、峠を越える参道。三つ目は成沢の沢内から三本木沼(この頃は沼が無かった)を通る参道があって、それぞれ大きな石の華表(かひょう、鳥居)があり、元木の石鳥居(わが国最古のもので国の重要文化財)があり、成沢には元の向きを変え今は八幡様に向いている大きな石鳥居が残っており、中の参道には鳥居がないが鳥居座という地名だけ残っています。
入道最明寺(北条)時頼殿は、どの参道を通ったのかは不明でありますが、ある日(年月日不明)旅のやつれた僧が一夜の宿を頼んだといわれます。その時、滝山の僧たちは
「きたない乞食坊主、帰れ、帰れ」
と追いはらったといわれています。この事が元で、後日、多くの軍兵によって閉山されたと伝えられています。
多分、軍兵の大将は鎌倉殿の命により、「数々の悪業、もはや許しがたし。依って閉山申しつけるものなり」と大音声に伝えられたとき、僧のある者は、あの時のやつれた貧僧を思いうかべられたことでしょう。鎮護国家の理想によって築かれた、天台宗慈覚大師の大精舎も、こうして空しく消え去ってしまいました。
次に他所の地区の資料について少し述べてみます。五所山縁起(五所山、別名・船形山、1,500m)には次のような記事があります。
前略、間木野および鳥越には各三十三坊あり、坊中に両暁坊、両覚坊の二道士あり、幻術を行い衆人を惑わし金銭を貪る。故に北条時頼厳しく令を出して、山地三百余町歩を没収し、寺院を焼き払い山門を退散せしむ。宝治二年(1248)とあります。
また『山形県史巻一』に、「正嘉二年戊午(1258)8月20日、鎌倉府陸奥出羽両国諸郡、夜討強盗蜂起し行旅のもの甚だ苦しむことを聞き、諸地頭に命じ宿々に直屋(番所)を設置し結番警護せしむ」とあります。
東北地区での代表的な例として、松島の延福寺の祭の話があります。また秋田の名久井岳や象潟、戸沢山など北条時頼によって閉山された話があります。
現在、山形市小荷駄町の隆勝寺の東谷老師の話によれば、御本堂は滝山三百坊跡にあったものを、江戸時代初期(保科正之時代)に信徒の奉仕によって解体運搬されて移築されたといわれています。その名残りが御本堂の蟇(かえる)股に「菊の御紋」があり、柱や梁などに朱の漆塗の跡が残っています。
平泉寺にも滝山三百坊の一坊(平泉寺の由緒分限御改帳には、平泉寺は三百坊の本坊として滝山貫主と称したとあり)であったが、ここに述べた閉山には関連なく、少々年代はのぼりますが建久年中(1190〜1198)、将軍頼朝公より天下の祈願所として三十六町四方の庄園を寄進されています。当時、一山の塔中は十二坊があったと記されています。
現在も、掘り出された大きな石材がそのまま横たわっている。途中で折れて放置されてしまったのだろうか。茨木光裕氏の「中世山寺の一例」『草ぶえの考古学』によると、この石材は幅1m、高さ1.5m、長さ約15mとなっている。また「一帯には多くの石材片が散布し、板碑や石鳥居の採石・加工の場であったと考えられる」と記されている。
「山の神」 |
〜成沢城跡の案内板より〜
山の神社(やまのかみしゃ)
成沢城の東側の坂道を登ってすぐの所にあります。昔、参詣者が登山の無事を祈った場所といわれています。
成沢城跡にあった地図(一部) |
〜『わがさと平清水』より〜
滝山の閉山
鎌倉、室町の時代を一般的に中世と呼んでいます。この時代は上代(または古代)と近世の中間にあり、そして上代になかった政治や社会の構造をもっています。たとえば上代(平安時代まで)の政治では、天皇を中心とした貴族の政治でありましたものが、武家(幕府)にかわり、家人(幕府の家来)を幕府が守護や地頭に任命するという分権的封建制が施かれたのであります。武士団による恐ろしい政治(武断政治)の社会となったのです。
滝山の閉山は、このような中で起こったのです。鎌倉の半ごろ、後深草天皇正嘉二年(1258)、先の鎌倉幕府の執権・北条時頼(最明寺時頼、法名道崇、または覚了坊と号した)によるものと伝えられています。
しかし滝山地区には、滝山閉山の関係文書は一つも見られません。ただ滝山は蔵王地区にも広がっていますので或は、裏参道であった沢内(さわち、成沢)口に残っているのかもしれません。それで、東北各地や県内の名山などについて調査してみました。
入道(仏門にはいった高位の人)した前(さき)の執権・最明寺(北条)時頼は民情視察のために諸国を行脚した(この話は創作で歴史的には無かったとの説もあります)。
当時の滝山には三つの山道が開かれていました。一つは元木の鳥居(御立の鳥居ともいいます)から岩波、土坂を通る参道。二つ目は中桜田、上桜田、峠を越える参道。三つ目は成沢の沢内から三本木沼(この頃は沼が無かった)を通る参道があって、それぞれ大きな石の華表(かひょう、鳥居)があり、元木の石鳥居(わが国最古のもので国の重要文化財)があり、成沢には元の向きを変え今は八幡様に向いている大きな石鳥居が残っており、中の参道には鳥居がないが鳥居座という地名だけ残っています。
入道最明寺(北条)時頼殿は、どの参道を通ったのかは不明でありますが、ある日(年月日不明)旅のやつれた僧が一夜の宿を頼んだといわれます。その時、滝山の僧たちは
「きたない乞食坊主、帰れ、帰れ」
と追いはらったといわれています。この事が元で、後日、多くの軍兵によって閉山されたと伝えられています。
多分、軍兵の大将は鎌倉殿の命により、「数々の悪業、もはや許しがたし。依って閉山申しつけるものなり」と大音声に伝えられたとき、僧のある者は、あの時のやつれた貧僧を思いうかべられたことでしょう。鎮護国家の理想によって築かれた、天台宗慈覚大師の大精舎も、こうして空しく消え去ってしまいました。
次に他所の地区の資料について少し述べてみます。五所山縁起(五所山、別名・船形山、1,500m)には次のような記事があります。
前略、間木野および鳥越には各三十三坊あり、坊中に両暁坊、両覚坊の二道士あり、幻術を行い衆人を惑わし金銭を貪る。故に北条時頼厳しく令を出して、山地三百余町歩を没収し、寺院を焼き払い山門を退散せしむ。宝治二年(1248)とあります。
また『山形県史巻一』に、「正嘉二年戊午(1258)8月20日、鎌倉府陸奥出羽両国諸郡、夜討強盗蜂起し行旅のもの甚だ苦しむことを聞き、諸地頭に命じ宿々に直屋(番所)を設置し結番警護せしむ」とあります。
東北地区での代表的な例として、松島の延福寺の祭の話があります。また秋田の名久井岳や象潟、戸沢山など北条時頼によって閉山された話があります。
現在、山形市小荷駄町の隆勝寺の東谷老師の話によれば、御本堂は滝山三百坊跡にあったものを、江戸時代初期(保科正之時代)に信徒の奉仕によって解体運搬されて移築されたといわれています。その名残りが御本堂の蟇(かえる)股に「菊の御紋」があり、柱や梁などに朱の漆塗の跡が残っています。
平泉寺にも滝山三百坊の一坊(平泉寺の由緒分限御改帳には、平泉寺は三百坊の本坊として滝山貫主と称したとあり)であったが、ここに述べた閉山には関連なく、少々年代はのぼりますが建久年中(1190〜1198)、将軍頼朝公より天下の祈願所として三十六町四方の庄園を寄進されています。当時、一山の塔中は十二坊があったと記されています。
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