伊達宗髙公命願之跡 |
〜石碑台座の碑文より〜
伊達宗髙公命願之跡
政宗公の第七子 柴田刈田三萬石 村田城主 伊達右衛門大夫宗髙公
紅顔十八歳の寛永元年(1624) 刈田嶽の大噴火に際し 領民の惨状見るにしのびずと敢然この嶽に上り 火煙にむせびつつ身の危難を犯して命願をかけましたが その至誠天に通じ 遂に鎮火を見るに至りました。
古来命願後三年以内にその命を天に召されるとされていましたが 同三年(1626)京都に於いて従五位下右衛門大尉に任ぜられ 二条城の守護にあたるうち 同八月十七日疱を患い あたら花の蕾を散らしました 享年わずか二十歳
龍島院殿涼山英清大居士と号し 村田町龍島院に帰葬しました 先きに 公の遺徳を後世に伝えるため 大正十五年(1926)三百年祭記念事業として記念碑を建てましたが 風雪のため荒廃したので 今回 顕揚碑を建立し その霊を慰め遺徳を偲ぶこととした次第であります。この事により平和な豊かな国土が建設されることを祈ってやみません なお公の顕揚事業に寄せられた諸賢の御芳志に対し 心から尊敬と感謝の意を表します。
昭和四十二年八月十七日
伊達宗髙公 顕揚会会長
村田町長 大平良治 撰文
伊達右衛門太夫宗髙公之碑 |
〜石碑の碑文より〜
伊達右衛門太夫宗髙公之碑
伊達政宗公ノ第七子宗高君ハ慶長十二年仙台ニ生ル、母ハ柴田氏、幼名長松丸、後右衛門ト称ス、柴田、刈田、三萬石ヲ賜ヒ村田城ニ鎮ス
元和九年刈田嶽噴火砂石ヲ雨ラス、田土ヲ埋没シ人畜ヲ塵死被害三十有余村ニ及ブ、寛永元年貞公明人王翼ニ鎮火祈禱セシム、君性慈仁、王侯慨然、請フテ公ニ代リ翼ト共ニ嶽ニ登り自誓シ命ヲ天ニ至ス、即チ声息ミ火ヲ滅ス、人至誠感応スル所トス
三年六月公ニ従ヒ京師ニ朝ス、従五位下右衛門太夫ニ任ス、八月十七日疱ヲ患ヒテ長逝セラル、年二十、法名凉山英清竜嶋院ト号ス、村田ニ帰葬ス、殉死者乳母阿知也外九名、郷閭今ニ義君ノ早世ヲ追逝止マズ嶽上祈禱ノ地ヲ選ミ茲ニ頌徳ノ碑ヲ建立シ以テ後昆ニ記念ス
大正十三年八月二十二日建之
庄司一郎 金峰充中
村田町石工
大沼八左エ門 高橋春吉
この碑は宗髙公の偉績を顕揚する為 大正十五年(1926)庄司一郎先生が建立しましたが 今回明治百年を記念して再建したものです
昭和四十二年八月
伊達宗髙公 顕揚会会長
村田町長 大平良治
玉の緒の絶えなんことは惜しからじ
君の情けを思ひ合わさば
高橋清三郎
刈田岳から宮城方面をのぞむ |
噴火と伊達右衛門
刈田岳頂上に「伊達右衛門塚」と刻んだ石碑と「伊達右衛門宗高公之碑」という碑が立っている。
その碑銘は前述したが、それによると此の人は伊達政宗の第七子で村田城で三万石を食んでおったが、たまたま元和九年(1623)蔵王の噴火により其の所領が大被害を蒙った時、明人王翼とともに登山し、彼に祈祷せしめて鎮火せしめた事を伝えている。
ちょうど、これと似たような伝承が山形側にもある。すなわち前出『上山見聞随筆』によると、元禄七年(1694)五月二十一日、ふもとの三本楢で起きた山火事が頂上まで焼けのぼって遂にお釜の硫黄に火がついて天地顚動し、硫黄水はあふれ流れ出して大騒ぎとなった。このとき秦国の王女が上山に来たのに依頼し、その指図に従って鎮火した、とほぼ同じような事を記している。
此年(元禄六年)、唐土秦(清)の国より女性一人小舟に乗りて築紫に漂着す。所の守護職にて上陸させ様子尋候所、此節異国専ら合戦にて諸候国を争ふ、此女秦の将軍職にて、女ながら軍卒を引いて隣国にて戦ひ、終に利を失い軍勢皆死亡す。依て秦国(清国)にも徘徊ならず、小舟に乗て当て所もなく大海に漂ひ、今此処に来るといふ。
即、江戸江御訴の所、召し呼ばれ江戸にて様子御尋の所、申す口相違無之日本の地に留められ候。此女性外典の達者にて万事普通の人なり。公儀江相願、日本廻国順見仕度旨申上げれば相叶ふ。尤対州より通詞差添、御朱印傳馬にて国を廻る。
羽州上山江は六月上旬に通り、南部津軽の方より仙台に至る時に、蔵王の峯より煙りの立つを見て、あの煙は正しく嶽の硫黄ならむ、是を留めざれば田畑の仇とならむと云ふ、所の役人其術なしといえば、女性曰く我術を得たり、役人此山は女人禁制にて登る事叶わずと申す、女性然らば居ながらにして止る事ありと云ふ。依て此事を所の奉行に達して則頼みければ、白毛の犬を一疋入用といふ故、差出しければ其犬を長刀を以て二つに切り、其屍を器に入れて峯にのぼせ、火の中今の御釜の中へ投入せしむ。是七月下旬也。夫より煙り留り山火事鎮りたり。
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