2014年9月23日火曜日

高房神社と石鳥居 [山形・高畠町]




石鳥居

〜現地・案内板より〜


羽州 置賜郡和田村
総鎮守 高房神社 縁起


由緒・沿革

御祭神 武甕槌神(たけみかづちのかみ) 経津主神(ふつぬしのかみ)

合併御祭神 天照皇大御神(あまてらすおおみかみ) 別雷神(わけいかづちのかみ)



 天照大神の命で、孫の瓊瓊杵命(ににぎのみこと)が大伴・中臣らを連れて日向国・高千穂の峯に天下る。大伴氏は武力を以って畿内王朝に仕え、最高官職の大連(おおむらじ)に任ぜられ代々その職を世襲した。「大伴部(大伴軍団)」は南は九州まで全国各地に配置されていた。

 「高房神社縁起」によると、大伴氏は阿武隈の里(信夫)より合子(豪士)の嶺へ登って此の地方を眺められ、「実に和田の景色なり」と言われたので、当時の里人等はそのことを知り、此の時より和田の里となったという。「和田の里となった」とは、「和田は大伴氏の領土だった」と言われている。

 一方、中臣氏は神官の長官として仕えていたが、鎌足は「大化の改新(645)」の功績で「藤原」の姓を賜る。高房は「日本で一番栄えた藤原北家」の出身だった。仁明天皇承和七年(840)の正月三十日に「出羽守(山形・秋田両県知事)」に任ぜられ、豪士峠を経て和田村に至る。

 前年よりの旱魃と蝦夷の反乱で、村人は大いに苦しんだ。若者は戦場に駆出され、食料は供出で底をつき餓死寸前にあり、村邑の崩壊は迫っていた。村人の窮状を見た高房は、持ち前の義侠心で即刻徴兵の中止、食料・医薬品の配布を行なった。高房の帰郷に際し、村人(十七戸)は沢村の地まで見送り最後の別れを惜しんだ。村人は高房の恩を子々孫々に伝えるべく、此の記念の地に三年後の承和九年(842)に約三尺四方の石の祠を建立し、御霊を祭り「高房宮」と称し奉る(現在の高房沢本宮とも言う)。

 高房の任務は「御領和田」の創始であったとの学説がある。帰京後に高房は死亡するが、日本国正式歴史書の「文徳実録」に「越前守高房は参議(大臣)の第三子で身長六尺(二米)任侠心に富む。三十三才で美濃国介(岐阜県副知事)を拝命。その後、備後・肥後・出羽・越前守を歴任して任地先でいつも村人の利益を何よりも重んじて行動をした」と書かれている。

 和田村ではその後、参拝するに不便を感じ天元二年(979)に現在の上和田窪の地に、二宮高房大明神として新たに衣冠馬上の尊像二体を安置して遷座す。其の後、里人等の議(はか)らいで和田の中央地にと、猪野与三兵衛氏の寄進を以って現在の北和田堂山を霊場と定め、天仁元年(1108)に三宮高房大明神として二宮の衣冠尊像二体を遷座す。現在の拝殿は貞享元年(1684)に再建する。本殿は天保十四年(1843)に再三にわたる造営であり、地元の欅一本で建立したと伝えられる。

 また此の石鳥居は此の地に鎮座して二年後の天永二年(1110)七月に一昼夜で建立されたと伝えられる(また石鳥居材が折石の所で折れたので、折石という地名となる)。昭和二十七年(1952)七月一日、山形県有形文化財に指定された。尚、明治七年(1874)に高房神社と改名。明治十年(1877)に郷社に指定される。

宮司謹書



祭事・行事

一月一日 歳旦祭
一月十五日 星祭
四月二九日 祈年祭
七月二八・二九日 例大祭
毎月一日 月次祭
平日 交通安全(車お祓い)、厄除、地鎮祭

平成十二年四月吉日



高房神社 社務所

万徳院

ペット供養





高房神社 拝殿



高房神社 本殿



高房の石鳥居(神社側から)


庚申講



六面幢(ろくめんどう)






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