2014年9月18日木曜日

宝沢から蔵王への道 [山形・上宝沢]


「蔵王権現」「馬頭観世音」

〜現地・案内板より〜

蔵王大権現碑

蔵王山信仰の隆盛時、参道に10基造立された。うち最大級(高さ2.7m、幅2.15m)。

東沢地区振興会
東沢郷土研究会
東沢観光協会

〜横川啓太郎「唐松観音とその周辺」より〜

山形市最大といわれる「蔵王山碑」

蔵王権現の本地仏「バク(釈迦)」の種子を上部に彫り、その下に寛政七年(1795)四月の銘を刻んでいる。



寛政七乙卯年 別當 調胤代
藏王權
四月吉祥日 願主 惣若者中 頭取 遠○○○郎




〜安彦好重「山形の石碑石仏」より〜

山形の蔵王山碑

 蔵王山は古代には「わすれずの山(不忘山)」とよばれたといわれているが、それが蔵王山といわれたのは山岳信仰がこの山に入ってからで、刈田嶺、熊野岳、地蔵岳、三宝荒神岳などを総称して蔵王山と呼んだ。これらの山名は山岳拝擻の修験者によって名づけられたものであろうが、その主峰である熊野岳に「蔵王権現」を勧請してからの名称であるともいわれている。

 蔵王権現は奈良時代修験道の開祖、役の小角が吉野金峰山で一千日の滝行をおこなった際、はじめ柔和な菩薩形で現れたが、未来悪行のものを救うには忿怒形でお願いしたいという懇願で現れた僧形であるといわれ、怒髪逆立て、頭上には三鈷の冠を頂き、右手に三鈷を握り、左手は腹部を指して降魔を示し、足は開いて上下を踏んでいるのは天地遍現の相である。

 蔵王山(瀧山を含め)がこの地方の信仰の対象となったのは、この地方の灌漑水の水源地であったからで、この山系から流れ出す大小の川が農地を潤し、日々の飲料水として生命を支えた尊い恵みの山であったから、山岳信仰以前の遠い古代からすでに神であった。それに活火山である蔵王山は時には激しく火を噴く恐怖の山でもあった。中でも刈田神をまつる刈田嶺が古く、貞観十一年(867)十二月に朝廷から従四位を授けられている。刈田神は水田の稲を刈る意で、水神であり、五穀豊穣の守護神なのである。その頃はまだ蔵王山の名はなかった。

 蔵王信仰講の組織の盛行は江戸時代中期ごろからで、それを物語るのは「蔵王山碑」で、そのほとんどの建立者は講中となっている。釈迦堂にある寛政四年の蔵王大権現碑の建立者は一村となっていて、一村全戸講中という盛況をみることができる。蔵王山碑にみる建立月日でもっとも多い日取りは五月二十一日で、この日は「お蔵王の田植え」といわれる祭り日で、また「蔵王の山開き」の日であることから、この吉日を選んで建立したものであろう。蔵王山碑の建立時代を筆者の調査したものだけ挙げると、正徳(1)、安永(1)、寛政(6)、文化(3)、文政(9)、天保(4)、嘉永(2)、文久(1)、元治(1)である。また、もっとも多い地区は蔵王地区(13)、滝山(12)、旧山形(11)などで、蔵王の水系に属するところが多い。



道路(県道272)沿いの「蔵王権現碑」から旧登山道へ。
踏み跡はあるものの、ところどころササ薮に道が消える。

旧登山道を上ること約200m
右手に「石灯籠」、左手前に「姥神さま」、中央奥に「万年堂」。
この一帯がかつての境内だったとのこと。

蔵王登山・宝沢口
一合目「一の木戸」

灯籠に刻まれた銘「王子大権現獻燈」
裏に「一ノ木戸」

姥神さま


〜『奪衣婆―山形のうば神』鹿間廣治より〜

一目会っただけで好きになった奪衣婆(姥神)だ。背中にそっと手を当ててみた。柔らかく丸い背中だ。そして、ふっくらとした苔が緑色の着物となって身体を守っている。

杉林のなかで奪衣婆(姥神)は静かに座っている。今は人っこ一人通らなくなってしまった道。通らないどころか、両側から伸びてきた木の枝と笹で道のありかさえも分らないほどだ。新しくできた立派な登山道(自動車道)が谷川の流れとともに下の方に見える。そのことが尚更この杉林の寂しさを増していた。もう間もなく、この場所は周りから隔絶された、ここだけのちっちゃな空間になってしまうだろう。



姥神さま右脇の石像


王子権現の祀られた「万年堂」四体

右端の堂
銘「宝永七年庚寅(1710)」

中央右の堂
堂左側面の銘

安永八巳亥年(1779)四月八日
當村 施主 清右衛門 善吉 茂平 長七 太兵衛 源四郎 清之助 虎七 与助 孫兵衛 四郎兵衛 庄八 六之助 弥治右衛門



中央左の堂


左端の堂
台座に銘「當村 山川傳藏

〜東沢の歴史散歩道「王子権現と姥神、一の木戸」より〜

王子権現と姥神、一の木戸

(蔵王ダムと不動沢の)分岐点から100mほど登ると、字王子堂に王子権現を祀った四体の万年堂がある。王子信仰は神が貴い幼児の姿で現れるという信仰(熊野権現の随伴として王子権現を祀った)。

この境内に石の姥神と一の木戸と刻まれた石燈篭がある。東のお山を参拝する行者達の一合目ということか。それとも、山岳宗教の山は女人禁制であったので、入山できない女人の一の木戸ということで、蔵王権現の代わりに姥神を参拝したのではなかろうかとも考えられる。



蔵王連峰 宝沢口登山道
行き別れ地蔵

行き別れ地蔵尊

〜蔵王地蔵尊保存会「蔵王地蔵尊」より〜

行き別れ地蔵(二世安楽)
上宝沢

 上宝沢の部落から蔵王山へ通ずる路を約1km、右側に馬見ヶ崎河畔最大の「蔵王権現塔」がある。そこから右に分かれた坂道をたどること更に1km、路はふたたび分かれる。右は「瀧山・蔵王温泉」へ、左は「垢離場(こうりば)・不動滝・独古沼」を経て蔵王山に通ずる。蔵王登山の本道であり、昔は蔵王へ登る行者、登山者が跡を絶たなかったという。

 その分岐点に造立されているのが「行き別れ地蔵」である。「頭加智地蔵」「蔵王お花畑の荒沢地蔵(蔵王地蔵尊)」と共に、蔵王登山宝沢口の「三大地蔵」といえよう。

 坐像の高さ150cm、幅85cm、台座を合わせると高さ180cm、台座の幅105cm、本体・台座とも安山岩で四角な台座周囲には、養福寺念仏講中数十名の名、戒名、文化元歳八月十日の文字が彫られている。台座と蓮華座の間の円座の正面に、枝の垂れた木などの絵とともに「小野小町」の文字が彫られている。この地蔵の成立の由来は不明だが、台座の文字から推測して、養福寺の念仏講中が「現世・来世の安楽(二世安楽)」の祈願をこめて造立したものであろう。

 「行き別れ」の名称は、誰がどうして名付けたものか、蔵王登山道と高湯温泉(蔵王温泉)道との分かれるところとも考えられるが、東のお山へ参詣の行者が、俗人と離別する処、俗地と聖地、現世と来世の境にもなぞらえて、信仰的な着想から生まれたものとも考えられる。いずれにしても「行き別れ地蔵」とは善い名称であり、立地条件もその名にふさわしいといえよう。

 「小野小町」の文字はどうして彫られたものか。本県の処々に見られる「小野塚」と同じ意味なのだろうか。



三合目「歌の沢」

〜横川啓太郎「唐松観音とその周辺」より〜

お東詣りの行人達は、麓の坊で身を清め、白装束にわらじのひもを引きしめ、お山めざして門出する。先ず一の木戸は王子堂、若王子(にゃくおうじ)の鎮座する万年堂に道中の無事を祈り、杖をたよりに六根清浄をとなえながら登れば、やがて行き別れの地蔵尊、右は蔵王温泉、左は目指す蔵王山、右と左の行き別れ、俗人と行者の離別の地。俗界と神仏界の境に立った地蔵尊に別れをつげ、冷水ながれる垢り場で体の汗と心を清め、歌の沢、不動の滝は四合目、滝の高さは約15m。



四合目「不動滝」

〜横川啓太郎「唐松観音とその周辺」より〜

不動滝不動

 むかし源義家の兵が、この滝の近くまで進軍したとき、突然雷鳴とどろき、大暴風雨になったという。そのとき義家は、守護仏の不動尊を鎧の下から取り出して滝の前に安置し、一心に祈願を続けたところ、忽ち暴風雨は収まった。それでここに不動尊を祀り不動滝と名付けたという。斯波兼頼がそれを知り、霊験あらたかな不動滝不動を山形城に勧請した。後世、さらに歩町(宮町一丁目)に移し祀ったという。



ドッコ沼

〜横川啓太郎「唐松観音とその周辺」より〜

 往古の伝説を偲びながら独古の沼で一休み。この近く片貝沼やお坪沼、いろは四十八沼があるという。その中で最大のよし沼は嵐のたびに決壊をつづけ、大洪水は葉の木沢から本流となり、山形の町は流された。いまに残るは沼の跡ばかり。

 紅葉峠はなだらかに、十字路過ぎて最大の難所ざんげ坂にさしかかる。六根清浄、お山繁昌の声も一きわ高く、登ればやがてお花畑の大地蔵。わさ小屋を過ぎ熊野岳の溶岩のあいだの急坂を登りつめ、頂上ちかく蔵王権現の社前にぬかづく。


あーやに、あーやに、くすしくたふと、
蔵王の神におろかみまつる







〜横川啓太郎「唐松観音とその周辺」より〜

蔵王信仰と宝沢口

 眼を東南の方、馬見ヶ崎本流、宝沢川の水上に移せば、川の南岸に添うて続く、上・下宝沢の家並を越えて、遠く蔵王山熊野岳の背が南から北へのびている。その麓緑の山谷に薄い赤土色の蔵王ダムが幽かに望まれる。山形市の重要な水源である。

 宝沢の里は平安の昔、炭焼藤太と豊丸姫にまつわる伝説の地であり、昔は薪炭業が多かった。この地は「蔵王信仰」発祥の地といわれ、蔵王登山の宝沢口として知られており、山岳宗教の華やかな時は、宝沢十二坊と称し、山伏の栄えたところでもあった。むかし宝沢の枝郷であった防原も、蔵王信仰者の坊のあった名残りの地名である。裏山に虚空蔵菩薩が祀られ、これを信仰すれば、記憶・智恵・福徳の三徳が授かるといわれている。

 現在に残る坊を挙げれば、高さ3.6mもある巨大な蔵王権現の木造が祀られた蔵王開山の伝説の残る蔵王大権現(刈田嶺神社)の「三乗院」、義家が清原武衡・家衡を討伐の際軍神として当地に聖徳太子を祀ったと伝えられる太子の宮の「宝蔵院」、延文五年山形城主修理大夫、斯波兼頼が神夢により京都上賀茂明神を勧請したと伝えられる「加茂雷神社」がある。

 雷神社の境内には樹令五百年位の槻木(けやき)の大木があり、目通り735cm、山形市内で最も太い槻木で、真に雷神社の神木にふさわしい。また、この神社には蔵王信仰(お東詣)の大絵馬が奉納されている。昔は旱魃のとき近郷の農民が大勢筵旗を立て「雨(あーめ)たもれ、雨(あめ)たもれ」と叫びながら、この神社に参拝するのが常であった。この神社の別当は三明院といったが、昭和初期に無くなった。

 上宝沢住吉神社の吉蔵院も宝沢十二坊の中の一つで、炭焼藤太、金売吉次の伝説発祥のところであり、藤太夫婦が祀られている。




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