〜横川啓太郎「唐松観音とその周辺」より〜
大悲閣の風光
蔵王山を主な水源とする宝沢川と、雁戸山、笹谷峠から流れ下る滑川が合流し、馬見ヶ崎の急流となって、唐松の大岩壁の裾を洗う。その高い岩壁の中腹にある霊窟に祀られたのが、唐松観音の往古の姿であった。
京都の清水観音の舞台を模した唐松観音の朱塗の大悲閣は、長い脚柱によって高い岩場に懸り、岩上の青松、脚下の白砂、清流に架かる朱塗の橋と調和して、その秀麗な風光はあたかも観音菩薩の御姿を中空に拝するの感がある。
〜横川啓太郎「唐松観音とその周辺」より〜
春は、かじかの鳴くねを聞きながら、桜花の咲きほこる参道を、秋は紅葉に色どられた唐松山を背景に立ち昇る煙のもと、芋煮祭りに集う人々の散在する川原を過ぎて、観音橋を渡り、石の鳥居をくぐり、岩場をふまえた長い脚柱を真下から仰ぎながら、岩根を踏みしめ、やがて大悲閣の階段を登りつめると、土足で出入自由な御堂の内部に達する。
京都清水寺を模したといわれる堂宇 |
〜現地・説明板より〜
唐松観音の由来
遠く平安の昔、この川上、宝沢の里に炭焼藤太とよぶ長者が住んでおりました。その藤太を慕って京の都から訪ねて来た美女がおりました。京一条殿の豊丸姫で、かねて信仰する清水観音のお告げにより、ここ宝沢に住む藤太との縁を知り、はるばる訪ねて来て夫婦となりました。
その夫婦は仲睦まじく、三人の男子をもうけ吉次・吉内・吉六と名ずけ、幸福な生活をおくる事が出来ました(藤太という人は、源義経に仕えた金売吉次の父であるといわれている)。
藤太夫婦は信仰する観世音菩薩のおかげである事を覚り、「世の人々にも此の幸福を」と語らい、姫が都より持参した念持仏、弘法大師の作と伝えられる聖観音の像を、その時すでに霊場となっていた此の唐松山の岩窟に安置し、唐松観音と名ずけました。
この地は笹谷峠をこえ都にも通ずる街道上にあり、有名な釈迦如来をまつる法来寺も近く、然かも観世音の霊験の篤きを知り参詣の善男善女日増しに多くなり、室町時代には最上三十三観音第五番の霊場となり、順礼の訪れも多くなりました。
また、代々の山形城主も篤く信仰しましたが、なかでも松平下総守忠弘は寛文元年(1661)その由緒に因み京の清水観音の舞台を模して堂宇を建立寄進いたし、其の後も幾度か修補をかさねてきましが、現在の堂宇は山形市民をはじめとして多くの信心有志が相つどって奉賛会を結成し、約四千万の浄財を得て昭和五一年五月、再建寄進したものであります。
郷土史研究家 武田好吉
稚児地蔵菩薩 |
〜現地・説明板より〜
稚児地蔵菩薩
このお地蔵様は、あなたがたが大事にお育てになられたにもかかわらず、不幸にして亡くなられた子供や水児となった子供達が化身したお姿であります。
地蔵様に触れて頭や顔・手・足・身体全体を撫でてみて下さい。地蔵様に触れながら亡くなった子供の名前と御経(おんかーかー、かびさんまえい、そわか)を唱えてお参り下さい。その後、悩み事や頼み事等をお願いして熱心にお参りすれば、きっとその子供の願いが届きあなたがたの心の悩みを取り除き又、願いをかなえて下さるものと思います。
さらにあなたがたの分身の御供養の為にも、是非当地に稚児地蔵尊を建立なされてお参りなされますようにお勧め致します。詳細につきましては、同寺にお問い合わせ下さい。
合掌
唐松観音境内
石地蔵
参道入口・岩山の中腹
釈迦堂の唐松観音堂の建つ岩山の中腹の岩窟に、小さな石地蔵がある。その由来を尋ねると、
何時の頃か、最上三十三観音参りの女巡礼が、幼児をつれてこの唐松観音に登ってきたのであった。参拝していたところ、子供が尿意をうったえた。この観音堂は、別記、細井平洲の紀行文にもあるとおり、昔は岩上に懸造りにされていて、堂に登るには梯(はしご)を綱にすがって上がるしかなく、堂のまわりの窓には戸もなく、欄の高さは脛まで。しかも、高さは清水観音の舞台よりはるかに高いのである。
女巡礼は、仕方なく御堂の上から、小用をさせようとして下を見た瞬間、そのあまりの高さに目がくらみ、思わず幼児を落としてしまった。その幼児の供養のため造立したのが、岩窟の石地蔵であるという。
観音堂内 |
〜横川啓太郎「唐松観音とその周辺」より〜
大悲閣は本陣と篭堂が一体になっており、入母屋造りに唐破風の弁感が正面の中空に突き出ている。室町建築様式である。拝殿の後は昔ながらの霊窟となっており、御本尊はこの中に安置されているのである。
〜横川啓太郎「唐松観音とその周辺」より〜
唐松観音の本尊は「一寸八分、金無垢の聖観音」である。前仏として高さ25cmの素木聖観音像と、高さ16cmの漆箔木像で岩上に立つ聖観音像がある。
後者の安置されている箱の裏面に、「安永八己亥年(1779)九月吉日 十日町 木村久兵衛」と書かれている。これは東沢(または東山)三十四観音の第二番の観音である。
御真言
オン・アロリキヤ・ソワカ
華やかな天井画 |
「三十六の四季の花」 |
〜横川啓太郎「唐松観音とその周辺」より〜
本堂格天井の絵は、高嶋祥光師を会長とする春光会員30名による「三十六の四季の花」の絵であり、昭和五十五年奉納されたもの。現代の山形県の日本画家の作品として、後世に残るものであろう。
大提灯 |
〜横川啓太郎「唐松観音とその周辺」より〜
楽人天女 |
〜横川啓太郎「唐松観音とその周辺」より〜
旧唐松観音堂(大正時代) |
〜横川啓太郎「唐松観音とその周辺」より〜
お堂から東方をのぞむ。 |
みなかみは いづくなるらん からまつのかぜにおとある やまかはのみづ
最上三十三観音、順礼塔 |
〜横川啓太郎「唐松観音とその周辺」より〜
この塔中「十度参拝」というのは、三十三観音を十回参拝したということである。三十三観音巡礼のことを「お札ぶち」というのは、お参するごとに「奉納年月日・住所・姓名」裏には「南無大慈大悲観世音菩薩」と書いた板札を打って奉納することから始まったといわれるが、現在は二回までは白紙の札、三回目は板札、四回目は黄紙、五回目は青札、六回目は赤紙、七・八・九回は銀紙、十回以上は金紙を貼るようになっている。正しくは金紙は百回以上で貼るのであるが、10分の1の回数でゆるされている。この金紙は、安産の妙符と信じられている。
現在までの巡礼の回数の最も多いのは、上町の井上伝吉(76才大正八年没)で、206回であるという。前記の塔の先達の阿部甚太郎は昭和十六年68才で没するまでに、126回巡礼している。明治七年生れ、16才で初巡礼、日清・日露戦争で出征、戦後戦友の霊を弔うため巡礼を続けるようになり、先達をやるようになったという。
十度参拝の黒沼作右衛門は、歌人結成哀草果の長兄で、徳太郎と称した。農家だったが彫刻が趣味で、人物、仏像、動物の木彫を残した。大正十一年に妻をなくし子供を失ってから、観音信仰に入ったらしく、昭和三年まで十回、その後も巡礼を続け、昭和十七年十二月65才で没した。延命寺は江俣の法印で、名は梵字で書かれてある。
山神さま |
〜安彦好重「山形の石碑石仏」より〜
唐松観音参道
山神碑
釈迦堂唐松観音参道に立っている約1mの高さの自然石に大きく「山神」と彫っているだけで、年紀・銘はない。形は棒状で男根形をしている。
山神とは何か
地形が高く盛り上がった所、山、そこには神霊が籠る聖地であるとして、原始時代から崇拝の対象となってきた。山には食料になる鳥獣や草木の実も豊富にある他、水の源泉であり、人間生活を維持する母胎であった。それが農耕社会となっても変わりがなかった。その山を支配するのは山神であり、山の幸を与えてくれるのも山神であるという観念から山神信仰がはじまった。
山形地域の山神信仰
この地方の農村には昔から春に山の神が山から里に降りて田の神となり、秋に田の神が山に帰って山の神になるという古い「田の神降臨」の観念が伝わっている。つまり二月二日が山の神が田の神になる日であり、十月二日が田の神が山の神になる日である。この日は村人は「山川不参の日」であり、山の神の祭日でもある。
山形地域では山手の方に山神信仰が盛んであったらしく、山神碑も山麓地域に多い。最も多いのは村木沢地区の6基、東沢地区の5基である。山神碑は講中で建てたものである。山神講が現在でも行なわれている所は、山寺千手院と高瀬上休石で、同村では二月二日と十月二日に全村の戸主がヤドに集まり、山神の掛軸をかけ、餅を搗いたり、持ち寄りの重箱料理を供えて拝み、酒盛りをしたり、村ケイヤクを決めたりする。
山の神は女神で醜女であると信じられ、それ以前は女人が参加禁止であった。奉賽が男根形の木棒や石棒である。これは山の神が女神であるからであるといわれている。唐松観音参道の山神碑も男根形であるのはこのためである。
境内入口の石碑群 |
線刻「弘法さま」 |
〜横川啓太郎「唐松観音とその周辺」より〜
裏に「順拝記念 山形県南村山郡滝山村平清水 さの 四十五才 明治三十八年六月二日」とある。この人は、熊の前の黒木長松の妻である。万松寺の過古帳によると、戒名は「廻安妙国信女 昭和九年旧七月二十八日 行年七十五才 七年間諸国の寺社巡歴」と書いてある。
黒木さのは滑川の生れ、長松と結婚一女二男を生んだ。三十才を過ぎ、夫が遊び人で始終家をあけたので生活に困窮、長女、長男を平清水の親戚にあづけ、次男を道連れにして諸国廻遊の旅に出た。千葉県のある寺で、次男を出家させ、その後も神社、仏閣に必ず参籠しながら廻遊を続けたのである。巡歴を終ってからも常に巡礼姿で、竹行李を背負い、神社、仏閣の参拝は止めず、病人がいるとお札で身をさすってお祈りをし、悩んでいる人があれば身上を占ってあげる。暇があれば付近の神社に参籠する。冬の雪の降る日に、雪深くて登れぬ神社には途中まで行って、雪の上に座して一時間以上も祈祷を続けるという日常の生活日課であった。竹行李の中は何百枚という神仏のお札で一ぱいであった。家は、八畳一間位の「おにかべ」の極めて粗末なものだったが、尋ねて来る人も多かった。彼女の死後、長男の金蔵は土のだるまを作っておったが、今は子孫は熊の前には残っていない。だるま作りだけは平清水のだるま屋に引継がれている。
思えば、家庭的な不幸が彼女をして信仰の道を選ばせたのであった。その信仰の篤さは類例がなく、唐松観音堂にも幾度か堂篭りしておった。人々は皆んな彼女を「弘法さま」と呼んで、誰知らぬものは無かった。
「庚申塔」 |
線刻「青面金剛」 今は風化してしまった。 |
〜横川啓太郎「唐松観音とその周辺」より〜
唐松観音境内入口に、高さ100cmの自然石(安山岩)に「庚申塔 安永八己亥年八月九日 願主当村講中」と刻された庚申塔がある。200年くらい昔のものであるが、馬見ヶ崎川沿岸の庚申塔としては新しい方である。最も旧いものは記録では寛文四年(1664)、現物では元禄十年(1697)のものがある。総数は35基で、地蔵尊に次ぐ数多い石仏である。
その隣りに、極めて素朴な線刻の石仏がある。よく見ると僧形の像が邪鬼をふまえ、両側に鶏が一羽づつ刻られている。これは青面金剛を表している庚申塔であり、年号不明だが前記の庚申塔よりは古いものであろう。これと似た石仏は上宝沢の住吉神社にもある。
供養塔 |
前記石仏と並んで、高さ130cm、幅40cmの四角柱の安山岩質の供養塔がある。刻字は「奉読誦普門品一千品供養寶、奉書写仁王般若経一字一石供養、奉禮拝三十仏称名供養塔宝暦九己卯歳六月祥日」。
普門品(ふもんぼん)とは、法華経の第二十五品(ほん)即ち妙法蓮華経観世音菩薩普門品のことで、観音経のこと。観音が衆生の諸難を救いその願いを満足させ、あまねく教化することを説く。
観音経一千回読誦、般若波羅密多心経の一字一字を一つ一つの石に書いて塔の下にうめる、三十仏の名を称えて礼拝するという三種の供養を行った修行僧が建立したものであろうが、名は不明。
線刻「延命地蔵」 |
〜安彦好重「山形の石碑石仏」より〜
唐松観音参道
地蔵坐像
釈迦堂唐松観音参道にある石像で、川原石の平面に線刻したものであるが、頭光を彫り、頭部だけを半肉彫りにしている。左右に「延命地蔵」の銘が刻まれているが、年紀はない。美しい線刻である。
〜蔵王地蔵尊保存会「蔵王地蔵尊」より〜
参道入口の鳥居の側に、安山岩の自然石に浮き彫りされた石地蔵があり、その高さ160cmである。「昭和二年建立 山形市三日町光禅寺地蔵講中 廿八世道光代勧化人清水松助 石工 三代石駒」の刻字あり。
大正の末期、山形市三日町の鈴木米屋のおばあさん(現在の鈴木米菓の主人の姉にあたるとか)が、春の味覚を楽しもうとして、馬見ヶ崎川一面に芽ばえ初めたスズコ(ちちこぐさ)の新芽を摘みに来た。草餅の原料にするためである。孫娘を二人つれていた。唐松観音前の当時の川原は、宝沢川と滑川が合流し、春の雪解け水が激流となって観音堂の建つ岩壁にぶつかり、西方に流れていた。その地点に一本の丸木橋がかかっていた。たまたま、この橋を渡ろうとして妹の方が目がくらみ、川に落ちた。急流なので川下で助け上げたが、ついに蘇生しなかった。其の後、町内の地蔵講中一同がここに延命地蔵を造立して、その冥福を祈ったのである。
昭和の初期、この地で地蔵流しが始められた。毎年、旧の三月二十四日、山形市近郊の善男善女がこの唐松観音の川原に集まって、地蔵尊を印刷した紙片を馬見ヶ崎川に流し、各自の願いを地蔵尊に祈ったのである。後には、東松原付近の川原で行なわれたが、戦時中に中断してしまった。
地蔵流しの行事は、正徳三年五月、江戸小石川の田村氏夫人が地蔵尊の霊夢にしたがい、一万体の地蔵御影を印刷して両国橋の上から奉流し、病気が平癒した霊験にはじまるという。地蔵流しとは、一寸二分ばかりの地蔵尊像を何万枚と印刷し、それで吉日を卜して、読経の後に河海に奉流して、追善供養として或いは予修とするものである。
〜横川啓太郎「唐松観音とその周辺」より〜
九重の多層石塔(水神)
昭和五十二年、山本竹司の造立したもので、石工は石駒の松田駒蔵、山本氏は市会議員として多年馬見ヶ崎川の治水・用水に関係尽力した関係から、馬見ヶ崎に水神を祀ることを念願としておったが、氏は大学在学中から多層塔の研究をやっておったので、その多層塔によって水神をこの唐松観音に祀ったのであり、真に調和の美を誇っている。
九重の多層石塔(水神)
昭和五十二年、山本竹司の造立したもので、石工は石駒の松田駒蔵、山本氏は市会議員として多年馬見ヶ崎川の治水・用水に関係尽力した関係から、馬見ヶ崎に水神を祀ることを念願としておったが、氏は大学在学中から多層塔の研究をやっておったので、その多層塔によって水神をこの唐松観音に祀ったのであり、真に調和の美を誇っている。
〜横川啓太郎「唐松観音とその周辺」より〜
唐松観音と細井平洲
細井平洲は、明和八年(1771)上杉鷹山に招かれ米沢を訪れた。その秋、かねて遠くあこがれておった松島に遊ぶことになる。その紀行文が「をしまのとまや」である。米沢から赤湯・上山・山形を経て、千歳山万松寺を訪れ笹谷峠に向う。
その途中、唐松観音堂に登った。今から200年前のことである。唐松観音は彼の心を強く印象づけたらしく、その躍動的な文章は、簡にして要を得、往時の唐松観音の状景を表現して余すところがない。
「をしまのとまや」細井平洲
唐松観音関係抜粋
めうけんじむらをすぎて(妙見寺村を過ぎて)、さかどうむらにいたる(釈迦堂村に至る)。ひだりのやまぎしのうへに(左の山岸の上に)、たかどののごとなるは(高殿の如なるは)、からまつのくわんおんなり(唐松の観音なり)。
のぼりたらんには(登りたらんには)、ここわたりよくめて(ここ辺りよく見えて)、おかしかるべし(面白かるべし)、いざやよぎりてむと、さとのなかばより(里の半ばより)、ひだりのほそみちを(左の細道を)、めぐりくゆほどに(巡り行くほどに)、たにがわのへたにいでたり(谷川の辺に出でたり)。
いはきりとほしゆくみづ(岩切り通し行く水)、いとさはがし(いと騒がし)、みめぐらすほどに(見巡らすほどに)、こなたのきしより(こなたの岸より)、むかひのいしのうへに(向かひの石の上に)、まろきふたつなげわたいて(丸木二つ投げ渡いて)、それうへにつまぎをよこにならべたるは(それ上に柴木を横に並べたるは)、しづがゆきかひに(百姓が行き交ひに)、あからさまにしたるわざならし(假にしたる術ならし)、これを、おさばしというとなむ(おさ橋というとなむ)、うちわたるままに(うち渡るままに)、たまもきえなんとす(魂も消えなんとす)
わたりてこだちのうちを(渡りて木立のうちを)、とばかりゆけば(少ばかり行けば)、それがしたにつく(それが下に着く)、やまぎしのかべをたてたるごとみゆるは(山岸の壁を立てたる如く見ゆるは)、たかさななつゑやつゑ(高さ七丈八丈)、よこもおなじほどならむ(横も同じほどならむ)、ただひとついしのおもてなり(ただ一つ石の表なり)。
ひだりずらの(左面の)、ちとなぞやかなるを、そのままきざみて(そのまま刻みて)、きざはしとす(階とす)、なかばのぼればいしそばだてり(半ば登れば石そばだてり)、べちにきもて(別に木もて)、かけはしをかけたり(架け橋をかけたり)。
のぼらんとすれば(登らんとすれば)、あふさまにたふれつべし(仰さまに倒れつべし)、さるゆゑに、そらよりつなでをばさげたるならし(空より綱手をば下げたるならし)、すがりてからくものぼりはててたかどのにいれば(縋りて辛くも登り果てて高殿にいれば)、ひとはすまで(人は住まで)、だいしのぞうのみ(大師の像のみ)、いとわびしげなり(いと侘しげなり)。
ひろさみ間もあならんとおぼゆ(広さ三間もあならんと覚ゆ)。おもてのこうしはなくて(表の格子はなくて)、はぎのたかさならんほどに(脛の高さならんほどに)、ほそきおぼしまをかけたり(細き欄干をかけたり)、はしらをいだかへて(柱を抱かへて)、のきみれば(覗き見れば)、かうやうのさかしきいしのいただきに(唐様の険しき石の頂きに)、またたかくたくみて(また高く巧みて)、いしのひたいよりほかにさしいでたり(石の額より外に差し出でたり)。
ひさしくなりぬらむ(久しくなりぬらむ)、かたぶきにかたぶきて(傾きに傾きて)、ふむままに(踏むままに)、いたじきのゆるぎなりて(板敷きの揺るぎ鳴りて)、それがひまより(それが隙間より)、したなるはいはだたみ(下なるは岩畳)、ちらちらとみゆ(ちらちらと見ゆ)、すごきたにがわのながれ(すごき谷川の流れ)、おいきのうれをこして(老木の上を越して)、ましたにみゆ(真下に見ゆ)。
やがてめもくらめきて(やがて目も眩めきて)、むねつぶれ(胸つぶれ)、あしわななき(足わななき)、みのけもたちにたり(身の毛も立ちにたり)、あなあさまし(あな浅まし)、なぞやきつらん(何故や来つらん)、いまもやゆるぎくづれて(今もや揺るぎ崩れて)、まろびおちむとおもはる(転び落ちむと思はる)。
ひとびとこころそらにまどひおりつ(人々こころ空に惑ひ降りつ)、おりはてて(降り果てて)、とほくあふげば(遠く仰げば)、いとさかしきいしの(いと険しき石の)、いくつもうしろよりおほひかかりて(いくつも後ろより覆ひかかりて)、いまおちくべくみゆ(いま落ちくべく見ゆ)、いかにうたてしきひとのかかるおそろしきところに(如何に宇建てしき人のかかる恐ろしき所に)、かかるわざをたくみけむ(かかる技を巧みけむ)、よそめにのみみてむには(他目にのみ見てむには)、なかなかにこころにくくてぞやまん(なかなかに心憎くてぞやまん)。
〜蔵王地蔵尊保存会「蔵王地蔵尊」より〜
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