ねじれ杉 樹皮がねじれながら成長した不思議な杉 |
〜『蔵王山調査報告書』山形県上山市教育委員会より〜
後世俗に「お清水小屋」と呼ばれたものは、元亀四年(1573)に設けられたのであるが、これは置賜方面よりの登山道と上山中川口の登山道の合致点に当る。即ち置賜方面の参詣者は高畠から柏木峠を越えて楢下に出て、大門、菖蒲を経て清水に至る。この道は極く最近まで利用されているし、又山形方面の参詣者は足ノ口を経て廻立に出て、高野、永野を経て清水に至る。
この合致点に笹小屋を造ったことは、両登山路の参詣者を先達するためであったが、「寛永五年七月、元上山領主松平丹後守殿時候不順ニ付、為五穀成就蔵王清水小屋ニ於テ一七日間御祈禱可致旨登山被仰付候、夫ヨリ該小屋ヲ以テ祈禱所ト相定メ、領主ヨリ年々御代参有之」(国有林下戻申請書、明治三十二年)とあるように、領主祈禱所となり、前記の二つの登山路を(上山別当安楽院が)完全に支配するようになったことが判る。
(中略)安楽院は広い範囲の霞地代場の外に、上山領内に百五十軒の祈願旦那を持ち、蔵王の先達及び、山林田畑をも所有し、また御山参詣者による賽銭や祈禱料は、清水小屋より馬に積んで下したとも伝えられ、最盛期の蔵王の繁昌を物語っている。
刈田嶺神社石碑 明治廿三年八月一日 祭主 金峯吉見 東置賜郡 和田五百人講 |
〜『蔵王山調査報告書』山形県上山市教育委員会より〜
清水の篭堂のあとに立つ此の石碑は、明治時代の蔵王山登拝の盛大さを物語る貴重な記念塔でもある。明治23年(1890)といえば未だ鉄道の開通しない時代であり、東置賜郡和田村(現高畠町)に蔵王信仰の五百人講があり、その講中が里先達の先導で、和田から高畠そして二井宿から楢下へ出て、更に大門、菖蒲から猿倉山の麓を通って坊平にいたり、此処お清水に到ったものであろう、そして此の篭堂で行をおこなってのち登拝をしたものであろう。
和田村里先達:渡辺八兵衛、白石市五郎、安田仙三郎、太田伝左衛門、武田七良左衛門、ほか碑背には多くの人名が刻まれている。
石造駒犬 |
〜『蔵王山調査報告書』山形県上山市教育委員会より〜
篭堂あとの清冽な流れのそばに、一対の駒犬が立っている。行をおえて、いよいよ峯入の門という意で安置したものであろうか、刻銘により文政四年(1821)甲石の太七という人の寄進であることがわかる。
石造半跏像 役ノ行者 |
元治二年(1865)乙丑四月八日
施主人 上山吉六
鷹匠町 善治 善七 庄吉
表丁 卯吉
篭堂修理および道標石塚造立記念碑 |
蔵王山
祭神 天之水分之大神
斉明天皇之御宇白雉乙卯(654年)
大和国吉野蔵王之分神也坐々
昭和九年(1934)迄壱千弐百八拾稔(1,280年)
今茲依信仰諸子之特志修理清水篭堂
併而造道標石塚記念
〜『蔵王山調査報告書』山形県上山市教育委員会より〜
昭和九年(1934)ここ清水の篭堂を特志を得て修理、更に蔵王山道の石塚道標を建立した記念の石碑である。昭和九年のこの時代にあっては蔵王山の信仰がかくも盛んであったことを物語っている。なお碑背には、斎藤茂吉の歌碑、即ち熊野岳頂上の
陸奥をふたわざまに聳えたまふ
蔵王の山の雲の中に立つ
(背銘)より
蔵王山之歌碑 昭和九年八月
山形営林署之得許可
於中川村永野地内国有林頂上
上山町 高橋四郎兵衛
願人 大沼茂麿
(側銘)より
昭和九年
権中講義
大沢茂麿敬白
斎藤学蔵拝書
鏡渉治謹刻
水飲場 |
〜『蔵王山調査報告書』山形県上山市教育委員会より〜
清水にのこる石碑石仏
蔵王山、六合目の清水は「おしず」あるいは「おすず」とよばれ、そして親しまれていたが、安楽院がここを支配し、行者(登攀者)のための行人小屋が設置されたのは天正頃(桃山時代)と云われている。
中川口の行者と、猿倉山の南方大門口からの登拝者がここに殺到したため非常に繁昌し、二階建の小屋には神壇、別当宿所、行者宿所がつくられ、それを囲む杉林(海抜千米以上に杉は育たないといわれているが、此処清水は美事に杉が繁茂し、高山の驚異とされている)は、置賜村山の信者たちの寄進植林によるもので、ますます其の荘厳味を加えていたが、そうした事もあって此処にはいろいろな石碑や石仏が造立された。一方、女人禁制の蔵王山も此処までは女性も登山を許されていたため大いに繁昌したものであった。
但しその清水も、エコーライン開通後は訪れる人もなく杉林も形を崩し、行人小屋は倒れてその残骸があわれに横たわり、荒れるにまかせるといった状態であるが、行人小屋(篭堂)の礎石や水飲場がのこり、さらに次に記す石碑石仏や、目通り185cmというミヤマヤナギの古木等ものこって、盛んだった昔をしのばせている。
西国三十三観音石像 |
〜『蔵王山調査報告書』山形県上山市教育委員会より〜
清水の篭堂のあったところより、わずか登るとブナ林の中にそびえる巌に無数の石仏が安置されている。調べてみると、それは西国三十三所の観音像であり、文政三年(1820)此の山麓地帯の人々が造立したらしく、小倉、薄沢、甲石、廻立、糸目、千石、金谷、上山、高松、東吾、上関根、中関根、楢下、皆沢、菖蒲、小笹、中生居、下生居、宮脇などの村名がみえる。
また人名に女性の名が多いのは観音信仰の常ではあるが、その頃この蔵王山が「女人禁制」の山であり、ここ清水より上に登ることを許されなかったが、此の巌に立つ場所も当時は清水の行場に含まれていたところであったろう。女性はここで蔵王山を拝んで下山したものであったが、其の限界に善女たちを中心としたこの石仏造立が行われたものであろう。
苔と草のなか、半跏思惟の菩薩像 |
聖、千手、十一面、馬頭、如意輪といろいろな観音が安置されている。 |
樹齢300年といわれるブナの原生林 「千手ブナ」などの名木もある。 |
蔵王権現像 |
侍立するは二童子 善童鬼 妙童鬼 |
〜『蔵王山調査報告書』山形県上山市教育委員会より〜
西国三十三観音の近くの巌上に祀る「蔵王権現像」は、躍動雄猛な忿怒相で、その左右に二童子が侍立しているのは「役行者本記」にいう善童鬼、妙童鬼であろう。これは『上山年代略記』によると明治二年(1869)の造立と記している。即ち同書に
浄光寺の弟子誡定、蔵王権現の尊像と二童子の像を刻んで祀る
尊像は後藤大次郎(耕山)、石工は甲石の木村庄七なり
石造 奪衣婆像(姥神) |
〜『蔵王山調査報告書』山形県上山市教育委員会より〜
蔵王権現像の下に、石造の奪衣婆(だつえば)が立ひざで坐っている。左手をにぎって突出し、右手をひろげて膝にのせた立てひざ姿で、顔も丸く、胸部も腹部も丸味があって愛きょうがあり、深山の魔女とも思えぬふくよかさは登山者の足をとどめる。
ここから上は女人禁制なので、みのりを捧げて女性は下山した(姥神はその境界に祀られることが多い)。
蔵王坊平ライザスキー場 |
鬱蒼とした森をぬけると、スキー場に出る。
じつはこの「お清水の森」、現在はゲレンデのなかに位置している。コースとコースに挟まれた、中州のように取り残された森なのである。
峠は決定をしているところだ
風景はそこで綴じあっているが
ひとつをうしなうことなしに
別個の風景にはいってゆけない
大きな喪失に耐えてのみ
あたらしい世界がひらける
峠にたつとき
すぎ来しみちをなつかしく
ひらいくる道はたのしい
真壁仁
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