〜東沢郷土研究会『苅田嶺神社(蔵王神社)縁起』より〜
白雉二年(651)
宝沢に井上太郎大夫、居住す。
孝徳天皇の白雉二年の頃、宝沢の里に井上太郎大夫という人が、住んでおって、夏は田畑を耕し、冬は狩りをやって生活しておった。今の三乗院の先祖である。
持統帝七年(693)十月十八日
乙鶴(おとづる)、生る。
宝沢の里の井上太郎大夫は、家が富み栄えたが、年老いて子供がなかった。それで天に祈ったところ、ある夜、妻が「一僧来り胎中に入る」夢をみて妊娠し、朱鳥八年十月十八日亥の刻、男の子を生んだ。両親は、乙鶴(おとづる)と名付け大変可愛がった。乙鶴は、生まれながらに智と徳がそなわっており、容姿端正、天性明敏で、八歳の頃から法華経を誦読し続け、学問と修行を怠らなかった。
和銅五年(712)三月
覚山(乙鶴)吉野の金峯山(きんぷせん)に登る。
元明天皇和銅五年春三月、乙鶴は家を出て山伏となり、覚山と名を改め、諸国の名山や霊地に修行した。まづ羽黒権現に詣で、あるいは富士山の頂上に登った。ある時は大和の国、奈良の都に行き帝城を拝し、摂州箕輪山に入った。また熊野三山、葛城にも入峰した。
おわりに吉野の金峯山に行って蔵王権現を拝して、御堂の辺(ほとり)に草庵を建ててしばらく此の山に止った。ある夜、夢に権現が現れて覚山に言った。「お前の生まれた奥州に、むかし役の小角が羽黒山に登ったとき、蔵王権現を勧請した霊山がある。早く本国に帰って此の山を再び開きなさい…」と。
和銅五年(712)十月八日
覚山行者、蔵王山を再び開山す。
覚山は急いで大和の国から故郷に帰って、霊跡を尋ねたが知っている人はいなかった。ところが、最上の辰巳の方の高山に毎夜、竜燈が輝いた。覚山は之をみて十月八日、弟子道山と共にこの山に登った。
麓から三〜四里を過ぎた頃に、高さ四〜五丈の滝があった。覚山行者が慈救(じきゅう)の呪を誦えると、たちまち不動明王が現れた。明王が行者に云った。「よく来てくれた。お前がこの山を開くための努力は、仏にも通ずるであろう。そもそも金剛蔵王権現は、本地は釈迦如来であって、一山皆黄金土であるから金峯山浄土というのである。参詣の行者はよく精進・勤行にはげむがよい。我は後の世までこの山の修行する人々を守るであろう」と言い終わると滝穴に隠れた。覚山は歓喜の涙で袖をぬらしながら、なお頂上へ登った。
険しい峯を登ると山頂は平らかであるが、路はなお険しかった。また、左側に二人の老翁が手に弓矢をもって現れた。覚山は、あなた達はどなたですかと問うたところ、「我々は、白山妙理権現、熊野三所権現である。開山以前からこの山に来て、慈民が現れるのを待っておった」と答えた。二人とも本地の姿にかえって、岩陰に隠れた。そこを弥陀原(みだがはら)と名付けた。そこで両社をこの山の鎮守の神と崇め奉った。
しばらく行くと、長髪の僧が現れた。「どなたですか」と問うたところ、「我は此の山の権現である。役氏が入唐してから、お前の来るのを久しいあいだ待っておったぞ」と答えた。覚山は重ねて問うた。「それでは、本地の御尊体を拝し奉りましょう」と。そのとき僧は、たちまち金色の姿に変身し、瓔珞(ようらく)荘厳な衣をひるがえして、幽谷に飛び去った。
覚山は、なおその跡を追って下ると、御沢八万八千仏が並んで坐っておった。また、右側に白衣(びゃくい)の女が一人おった。覚山が怪しんで問うた。「私は、むかし遊女であった。姿が綺麗だったので、人々はこれに迷った。その罪で、今は地獄におちたのです。私だけではありません。他の人々も同様です。どうぞ行者さま、みんなを救って下さい」と答え、腹ばいになって幽谷に入っていった。
覚山は、なお谷に下って見ると、地の底に数百人、悲しみ泣き叫び、その声が谷間にひびき渡っておった。これを聞いて哀しさのあまり、加持をして秘宝呪を唱えた。なお苦しむ衆生を救うために、山中に岩石を刻んで地蔵菩薩の本尊を安置した。
焦熱地獄から人々を救い、その身心を洗い清めるために、清浄の水を求めて独鈷(どっこ)で地を掘ったところ、たちまち清水が湧き出た。それで、この地を独鈷の地と名づけた。この水で法華経を書き写して、大峯の例にならって山中に埋めた。そこを赤飴の経ヶ峯と名づけた。
ドッコ沼 |
これに加えて、八箇の大石を集めて胎蔵の峯をあらわし祖母石と名づけ、九本の樹木を植えて金剛山をあらわし祖母堂と称した。鰐口は開山役の行者である。紅葉峠の花の彩りは色即是空の匂が鮮やかで、独鈷(どっこ)の池の月影は空即是色の光が濃(こまや)かである。
毎年五月二十一日は、国泰安民のために祭礼を行う。
天平の頃(730〜)
覚山、国守の命によって旱魃に雨を降らす。
天平年中、三年間旱魃が続き、近国飢饉で苦しんだ。国守は山の行者に命じて、当山で雨乞いを命じた。行者はさっそく滝の前で柴火を焚いて一日一夜祈祷したところ、不思議やその夜、子の刻、丑寅の方から黒雲が広がり、峯をおおい国中に雨を降らせた。その雨によって五穀たちまち潤って、国土は豊作になった。
天平の頃(730〜)
覚山、万福寺を建立
覚山は、蔵王山の麓に万福寺という寺を建てた。三乗院の原祖である。
覚山行者の御詠歌
おふせなく てらすべくなり 峯高き
我が立つ杣(そま)を出づる月影
天平勝宝六年(754)二月十六日
覚山、入寂(にゅうじゃく)す。
覚山行者は、昼は法華経を誦え、夜は止観の床に坐し、ある時は嶽に登った。足に鉄履をつけて、手に金剛杖をもち、その足は獣や鳥よりも早かった。峯には二匹の駒狗がおって、山に行くときは駕となった。深山幽谷を過ぎるときでも狼や鬼神も害を加えることが出来なかった。
勤行の功を積み、苦行の年を重ねて天平勝宝六年になり、行年六十歳、二月十六日、安らかに入寂した。弟子道山は遺誡によって阿古耶(あこや)の辺(ほとり)に火葬した。
小角は当山の開闢であり、覚山は中興の開祖である。
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