2015年9月27日日曜日

仏舎利塔 [山形市西蔵王]





日本山妙法寺 仏舎利塔


上部拡大「南無妙法法蓮華経」


内部より見上げる


お釈迦さま


季節のリンゴがお供えされていた。


「完成予想図」
高さ32m 基段直径24m


西蔵王の展望台から奥へ、徒歩5分


~現地・案内看板より~


お仏舎利塔

建立趣意


日本山妙法寺山主、藤井日達上人御発願の平和大宝塔は、平和の教主釈尊のお仏舎利(インドの故ネール首相より伝承されたお釈迦様の御真骨)を奉安申し上げ、世界平和の大理想を祈願せんとするもので、現在全国六十余ヶ所に建立。さらにインド、スリランカ、米国各地、ロンドン、欧州等世界にわたって建立されんとしております。

一、平和と慈悲の教主釈尊に感謝報恩のため
一、全世界に平和共存共栄の実現を強く呼びかけるため
一、平和自由文化の民主日本建設推進の金字塔として
一、祖先に感謝し謹んで御冥福を祈る供養のため
一、戦中戦後にわたり新日本建設のために尊い身命をささげられた故人に感謝し御冥福を祈る供養のため
一、衆生清遊の楽園を作り郷土発展の新名所とするため

一宗一派にとらわれず皆様と共に手をとり、荘厳優美にして万人のまごころこもる平和大宝塔をこの地に一日も早く完成させ、日本人の大理想を国の内外に宣言すると共に、後世に伝える貴重な文化遺産とすることを念願し、皆様のご理解とご共鳴、物心両面にわたるご賛同をお願い申し上げます。

山形仏舎利塔建立奉賛会




2015年9月21日月曜日

菅谷大聖不動明王 [山形県門伝]



菅谷大聖不動





菅谷 大聖 不動明王

〜現地・案内板より〜


菅谷大聖不動明王


不動明王は大威力あり、大悲徳のゆえに金剛の磐石に座し、大智徳のゆえに大火焔を現じ、大智の剣をとって貪瞋痴(とんじんち)を害し、三味の索をもって難伏の者を縛す。

不動明王は大日如来の化身という。眼病を治すご利益があると信じられてきた。


<不動真言>

なうまく さあまんだ ばあざらだん せんだ
まかろしやだそわたや うん たら たあかんまん



清らかな湧水






2015年9月17日木曜日

芦刈(よしかり)不動 [山形県上山市]



菖蒲集落内の石碑「蔵王山」


同「弁財天」


集落を過ぎたところの石碑「不動明王塔」


砂利の林道の果てるころ、ようやく案内看板が



~現地・案内看板より~



芦刈山不動明王堂 建立の由来


 桃園院の時代(1748-1762)、上山領小蔵沢に吉助という者が住んでいた。延享四年(1747)の晩春、吉助は山深く入り働いていたが、疲れてうとうとしていると、突然山林を揺るがす強風が吹き、その嵐の中に眼光の鋭い尊体が現われ、平伏している吉助に声をかけた。

「この地は芦刈(よしかり)といい、わしはここの三層の滝の嶮しい岩上に座している不動明王である。煩悩の多い人間の来るところではない。すぐ村里に帰れ」

 言葉が終わると不動明王は、紫の煙の中に姿を消した。吉助はあわてて家に帰り、このことについて、どうしたものかと思案にくれたが、名案の浮かばぬまま時は流れ、やがて吉助はこの世を去った。


 吉助には吉兵衛という息子がおり、その吉兵衛の子、吉十郎に二人の息子がいたが、この親子は植樹を業とし、芦刈山一帯に杉樹を植えた。

 ある日、植樹のため芦刈山に赴いたが、その夜、吉十郎は病気となり、薬を用いても全治しないので、困り果てて、瞽女(ごぜ(おなかま))に問うたところ、聖地に鄭重に謝罪したところ、吉十郎は全治した。

 また菖蒲の住人、与兵衛は長いあいだ眼病を煩っていたが、不動明王を信仰したところ、その眼病も全治。これがみな不動明王の加護によるものであると、文政十一年(1828)、この地に不動明王堂を建立した。

 そして、上山藩役所から、不動境内と道通りは何時も清潔にしておくようにと、道札が渡されたのである。


昭和53年11月
上山市観光協会 菖蒲部落会



少し下りたところ、川の向こう岸に籠もり堂のような建物が


その奥に、お社


さらに下りると、不動滝が


川に入って、滝壺に接近。かなりの水量。


向かって左わきの小滝


熟した実が裂果


さらに林道を上ると、芳刈放牧場にでる。