道路沿いの「燈篭」 地域内最大級 |
〜東沢地区振興会「東沢の歴史散歩道」より〜
現在の市道(旧:国道)から虚空蔵さまへの入口に、火袋の上に笠石を乗せた大きな「燈篭」は、慶応二年(1866)に立てられたもので、地域内では最大ではなかろうか。
〜黒木喜久治「防原町の歴史」より〜
現市道防原、妙見寺線(元:国道286号線)から入る虚空蔵菩薩参道入口の川崎屋の土地(防原で無償で借入)に「安山岩の常夜灯」がある。高さ3.3m、笠石の直径(長辺)は1.7mもある大石灯籠で、近辺では類をみないものである。下から台石(基礎)、竿、中台、火袋、笠石の順に重ねている。
竿石の裏に造立関係者の名が刻んであるが、その年月日はない。この記録からみるかぎり、防原の若者組(若い衆、若者中)が主体となって村の安全を祈願し造立したものである。石工は石井孫兵エ(唐松観音別当)が工事している。若者世話人の貞蔵(会田権右エ門家、現石井薫のところ)、又蔵(会田孫太郎家、現会田市郎のところ)、善之助(会田與三郎家、現江口猛夫のところ)の三人は、いずれも上宝沢村防原の住民である。また、地主久五郎以下七人の世話人は上宝沢村防原が三人、下宝沢村防原が四人となっている。
ただ、造立年月日が刻字してないので、残念ながらはっきりしない。しかし、これほどの大燈籠を建てるとなると、神仏分離前の大事業であったに違いない。事実、防原公民館の古記録の中に表紙だけあるが、「虚空蔵常夜燈萬覚帳」が残っている。これによれば慶応二寅年(1866)三月の造立が確である。ただし、内容の記録は残念ながら亡失しており調べようがない。なお、慶応二年といえば幕末の戦乱が東北にも及ぼうとするときで、防原住民はどんな願をこめて造立したものであろうか。
防原の虚空蔵堂 |
〜現地・案内板より〜
虚空蔵菩薩
寛永三年(1750)再建。
東山三十四観音札所、境内には地区で珍しい石経塔(塔の下に経文を書いた多数の小石埋設)、中腹に六地蔵幢(室町後期)や庚申塔(徳川初期)等がある。
東沢地区振興会
東沢郷土研究会
東沢観光協会
防原の虚空蔵菩薩
わが東沢地域内で特記すべきことを多分に秘めている「防原町の虚空蔵さま」を取りあげよう。防原の南の山に虚空蔵さまを祀ったお堂がある。虚空蔵信仰は奈良時代に伝えられ、福を知を虚空のように無限に持っていて、庶民の望みに応じて分け与える仏である。
〜黒木喜久治「防原町の歴史」より〜
防原町の南方山並の西山への山道を、約100mほど登った中段の突き出したところに(大字上宝沢字防原山2119番の2、宅地17坪)、虚空蔵菩薩が祭られており、昔から防原部落の氏神として崇拝されてきた。参道はもと西山の畑(明治八年の地押のときには三反二五歩の畑があったが、現在はすべて山林となった)に通う農道といっしょで、しかも沢づたいに登るので雨のたびに流され、そのうえ材木の山出しで破損するなど荒れ道である。また、この参道中腹に水の湧き出る(井戸)平地があって、樅(もみ)の大木と古い石碑や石仏がたっている。
石造物群 年代は右から古いという |
六地蔵幢 |
〜東沢地区振興会「東沢の歴史散歩道」より〜
中腹の「六地蔵幢」は六角柱で宝珠と笠を付け、各面に一体づつ地蔵さまが浮彫されているが、磨滅の状況からみても室町時代の造立かもしれない。地蔵さまは単に人間世界だけでなく、六つの世界(六道=地獄・餓鬼・畜生・阿修羅・人間・天)を救済するとの考えから、古くから六体の地蔵が作られ礼拝してきた。
各面に一体ずつ浮彫りされた「お地蔵さま」 |
〜黒木喜久治「防原町の歴史」より〜
六地蔵幢
虚空蔵山境内で最も古いとみなされる「六地蔵幢」は、石英粗面岩の六角柱で、六面にそれぞれ地蔵菩薩が一体ずつ浮彫されている。
建立年月日が彫られておらず、しかも、地蔵像も長年の風雨にさらされ不鮮明で、地蔵菩薩六体の形状がはっきりしない。塔身六角柱の上に同じ六角形の笠をつけ、その上に宝珠をのせている。全体に素朴で重厚な感じがある。かなり損じているが、横川啓太郎氏によれば、元禄以前の造立を思わせるものだと。
なお、六地蔵信仰は平安時代中期からはじまっているが、ここの虚空蔵菩薩との関係はわからない。あるいは、虚空蔵菩薩建立の数十、数百年前から部落第一の神聖なる地として、神仏に祈願する場所だったのかもしれない。
庚申塔 |
〜東沢地区振興会「東沢の歴史散歩道」より〜
「庚申供養塔」も造立年月は不明であるが、立地(上段から下段へ順に)からみて最下段の元禄四年の巳待塔よりも古いとみられる。正面と左、右面に三猿(見ざる・聞かざる・言わざる)がそれぞれ浮彫され、経文や願文(?)が刻まれている。なお、三猿の両足はすべて垂直な形から江戸初期前のものかもしれない(時代が新しくなるにつれ足首が接近し逆三角形)。
銘「夫以善根功徳者光明□雲拂追智徒宇證者照迷精 龍共」 「奉造立庚申供養塔」 「闇夜然則出離過去八難□國忽至九品浄刹而巳 白」 |
〜黒木喜久治「防原町の歴史」より〜
この庚申塔(おごすんさま)は、山内では六地蔵に次いで古く、安山岩でできている。四角柱の塔身の上に笠、さらにその上に宝珠がのっている。建立年月日がなく、いつの頃かわからない。ただ、立ててある位置(六地蔵幢の下)や、元禄四年の巳待塔などから考えて、徳川初期以前のものに間違いない。
当東沢地域には多数の石造物があり、中でも庚申塔や巳待塔が最も多いが、この庚申塔はそのうちでも最たるものである。というのは、塔身の三面に「言わ猿」「聞か猿」「見猿」の三猿が浮彫(造立時の技術水準からみて優れたものと思われる)され、さらに左右に経文、正面に願文と思われる多数の文字が刻まれている。
正面「言わ猿」の上の梵字「ウーン」は、愛染明王の種字である。本来、庚申塔は青面金剛童子で、その種字は「ウン」であるべきはずであるが、ただ青面金剛が庚申塔に登場するのは江戸時代に入ってからであるといわれているので、この庚申塔はさらにその前かもしれない。なお、本来は日月を刻むものであるが、本庚申塔は梵字の左右に日輪のみが彫られている。また、正面に「龍共白」とあり、修験者「龍共」が祈願文を記めたものなのか、龍共はどこの誰なのか一切不明である。
しかし、当東沢地域には愛染明王の種字「ウーン」をつけた庚申塔は、滑川白髪神社(正徳四年九月廿一日建立、1714)境内にもあるが、同じ防原の三叉路にあった庚申塔(現在、下宝沢妙泉寺境内に移転。寛政三年、1791建立)の種字は「ウン」である。当時は特に限定されず、同趣旨のものはお互に混用されたのかもしれない。
銘「覚了一切法□如夢幻郷音」 「経曰」 「満足諸妙願□如是刹」 |
右側面の「アバンウーン」はそれぞれ胎蔵界大日如来、金剛界大日如来、金剛薩埵を示す種子を考えてきたが、桃山期以降になると、三字を一つの真言として取り扱い、呪力ある有難い真言として用いられている。
銘「恕等□□是菩薩道」 「施主」 「漸々修学悉当成佛」 |
〜黒木喜久治「防原町の歴史」より〜
ただ、庚申塔に三猿が定着した当初は、諸佛の種字と三猿を彫るものが珍しくなかった。これは三猿を庚申塔の主尊としたものであろうが、青面金剛が庚申信仰の主尊となるにつれ、その眷属の位置に彫られるようになった。三猿が登場した江戸初期前後のものは、手首から肘へは三角形をなし、両足は膝から垂直に近い形をとっていたが、時代が新しくなるにつれ足首が接近し(逆三角形)、全体像としては菱形のようになったものも現れたという(「佛像見分け方辞典」北辰堂)。当地の庚申塔の三猿の両足はすべて垂直の形状であり、江戸初期前のものかもしれない。
巳待塔 |
〜黒木喜久治「防原町の歴史」より〜
参道中腹湧水池にある「巳待塔」は元禄四年(1691)九月十八日に建立されたもので、表面に「右ハ山ミち(山道)」、「左ハ古空蔵(虚空蔵)」との道標がある。
巳待(みまち)供養塔
この供養塔は元禄四年(1691)九月十八日に十一人の講中によって立てられたもので、年代のある石造物では一番古い安山岩の塔である。その基礎石(あるいは手洗鉢か?)といわれるものが、六地蔵幢、庚申塔、万年塔の下座に建立されている。年代順に立てられたものとすれば、この塔は元禄年間のものでも一番新しい石塔となる。
道標(みちしるべ)を兼ねており、別れ道(追分)に立てられてたものに違いないが、右は山ミち(山道)、左は古空蔵(=虚空蔵)と考えれば、現在地でないようにも思われる。とすれば湧水地入口上手ではなかろうか。だとすれば、ここから山道と別れ、左側の山の稜線の斜面を上ったのかもしれない(何となく道の跡形があるような感じがする)。また、一説には左は「ゑと道=江戸道」との説もあるが、右山道から考え理屈に合わない。
「万年塔」 左右側面にそれぞれ「日輪」と「月輪」 |
〜黒木喜久治「防原町の歴史」より〜
この万年塔は記録されていることが何もなく、造立年月日も不明で詳細ははっきりしない。材質は安山岩と思われる。
「大仏頂首楞厳石経塔」 |
〜東沢地区振興会「東沢の歴史散歩道」より〜
境内には当地域では珍しい宝暦四年(1754)造立の「大仏頂首楞厳石経塔(だいぶつちょうしゅりょうごんせききょうとう)」がある。石経塔とは、小石に経文の一字(一字一石塔)か、または多くの字を書いて(多字一石塔)塔の下に埋込んだもので、それに楞厳経は禅宗の要義を説いた主要な経典である(あるいは経塚から変化したものか)。別当の会田家で国道286号線の新設付替のとき、墓地を移転したが、「大乗妙典石経塔」から多数の経石が出てきた(地区内の経石塔はこの二つのみか)。
〜黒木喜久治「防原町の歴史」より〜
(正面)大佛頂首楞厳石経塔 釈氏良□敬立
(右側面)寶暦四申戌七月朔旦
この石経塔は、虚空蔵堂の再建四年後の宝暦四年(1754)七月一日、釈氏良□が立てたものである。一般的に「釈」という法名は浄土真宗(ごもんと)が用いるものであるが、当時は宗派にかかわらず在家の僧が用いている。会田家の墓石の法名には「釈」を用いたものが三人あり、これは信女などの戒名から判断して明らかに禅宗である。
ただ釈氏良□という法名は別当家の墓石にはない。別当家かまたは信者が直接立てたものか、あるいは流された廃寺(浄土真宗)から移転して再建したものかはっきりしない。しかし、楞厳経は禅宗の重要な経典であることから勘案し、防原の信者(ほとんどが禅宗)が建立したものに違いない。
これを実証するには、基壇を発掘することによって楞厳経を記した経石が出てくるならば、当初からそこに建てられたものに違いない。これもやはり五輪塔を形どった感じがする。
註:
大佛頂、「大佛頂陀羅尼(だいぶつちょうだらに)」すなわち「楞厳呪(りょうごんじゅ)」のこと。この大佛頂陀羅尼は悪魔・怨霊の退散、病気平癒に効験あると信ぜられた。
首楞厳教「首楞厳」は、「雄々しく歩く勇士、すなわち菩薩のこと」、詳しくは「大佛頂如来密因修証了義諸菩薩万行首楞厳教」といい、禅宗の要義を説く経典として禅家において尊重された(以上、日本仏教語辞典より)。
地蔵尊 1 |
〜黒木喜久治「防原町の歴史」より〜
地蔵尊の一基は、右手に蓮華(青蓮華か?)を持つ。地蔵像の向って右に「文政三年辰年」、左に「七月吉日」と彫られている。
佛教語辞典によれば、地蔵菩薩(地蔵尊)は釈迦の入滅ののち、弥勒菩薩が出現するまでの間、六道(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天)の衆生を教化する菩薩とされ、多くは僧形で右手に錫杖を持ち、左手に宝珠を捧げるものが普通である。また、六道救済の菩薩として六地蔵信仰が平安中期からみられる(参道中腹に六地蔵幢がある)。
地蔵尊 2 |
〜黒木喜久治「防原町の歴史」より〜
他の一基は、左手に幢を持ち、地蔵像の向って右に「女人講中」と刻まれている。
この石佛は文政三年(1820)七月に地蔵講の女性たちが建てたもので、安産と子育てを第一とし、あわせて長命と穀物成熟を願ったものと思われる。いずれも船形光背で、二基にそれぞれ地蔵菩薩が浮彫されている。
虚空蔵堂 |
〜黒木喜久治「防原町の歴史」より〜
由来と縁起
「山坂をいとわず参る人々に
福徳よろず授け与へる」
そもそも、虚空蔵信仰は奈良時代に日本に伝えられ、僧侶の間では福徳・知恵増進・災害消除の性格が経典や修法にみられる。民間でもこれに沿った信仰が展開し、丑寅年生れの人の守り本尊として全国的に信仰されてきた。さらに、蚕糞(こぐそ)から蚕神に、穀蔵(こくぞう)から作神信仰になっている例も多い。それに虚空蔵菩薩は追善供養としての十三佛の最終佛、あの世への導者としての役割が室町期まで定着してゆくとある(以上、平凡社「大百科事典」による)。
また、福と智を虚空のように無限にもっていて、衆生の望みに応じて分け与える菩薩とある(三省堂「大辞林」から)。財宝や佛宝をことごとく施すことをもって、最大の喜びとするスケールの大きな菩薩である(「大方等大集経」の「虚空蔵品」)。
お堂は間口、奥行きとも一間半(約3m)のほぼ方形で、屋根は切妻造(ただし以前は方形造)、平入、下屋向拝(前庇)の高床式(束の高さ二尺)木造建物である。昭和43年(1978)の屋根替以前は、方形造の茅葺屋根であったが、トタン葺の切妻造に変えられた。
この建物は寛延三年(1750)の建築で、材料は主に栗材を使っており、正面の外側に多くの木札が打ちつけてあるが、その文字は長らくの風雨にさらされて読み取れない(寄進者の木札か?)。内部は内陣(0.75坪)と三畳(1.5坪)の外陣に分かれている。建物全体が相当痛んでおり、虫喰いが甚だしく早急に改築を要するものと思われる。
内陣 |
〜黒木喜久治「防原町の歴史」より〜
本尊の虚空蔵菩薩は、蓮華の台座に乗った木像の立像(立像部分:約30cm)で、光背は輪光、左手に宝珠(三弁宝珠か?)を捧げ、右手は下にさげ衆生の畏(おそれ)を去り、願望するものを与える与願印を結ぶ。作者および作成年日は不明であるが、古いため金箔を塗り替えたという。
また、同じ内陣に東山三十四観音十八番の千手観音様が祀ってあり、さらに脇仏かどうかわからないが、二体の石仏がある。誰かが、何かの理由で置いたのかもしれない。二体のうち一体は首が欠け、詳細は不明で今後の調査に待つしかない(山神さまにも首のないのが一体ある)。ただ一説(あるいは俗説)によれば、博打を打つ者がよく当るように、神や佛を頼みとして首だけ(全部では重いため)を懐に入れ博打場に臨んだという。
この宮殿は現在の状況から判断するに、虚空蔵堂を建てた寛延三年(1750)に同時に造られたものかどうか疑問である。というのは、外陣と内陣との境の頭貫より宮殿の屋根が高く、棟の前先端はその貫に陰れて見えず、ちぐはぐなことである。しかも、須弥壇は漆塗と思われるのに、宮殿の塗は別のようで、お堂、宮殿、須弥壇がそれぞれ別々に造られてたのではなかろうか。
〜東沢地区振興会「東沢の歴史散歩道」より〜
お堂の棟札によれば、寛延三年(1750)九月に250人の信者の寄進で、上宝沢村の養福寺を導師として再建したもので、方形造(昭和48年、屋根替により現在は切妻造)で、向拝(前ひさし)は木目細かな細工を施した立派なお堂である。しかし、再建とあることから創立の時期はもっと早いに違いない。たとえば、参道中腹の湧水池に元禄四年(1691)造立の巳待塔(みまちとう)があり、さらにこれよりも古い六地蔵幢と庚申塔がある。
山上のお堂は調べたところによると、枘穴が一致しない箇所などがあることからみて、他所から移築されたものとも考えられ、同境内に二基のご神塔があるが、天明六年(1786)行沢村(なめざわむら)神保と刻まれている(菰張山山麓にあった寺との関係はないものか)。
〜黒木喜久治「防原町の歴史」より〜
別当会田氏によれば、昭和48年最後の屋根替(茅葺をトタン葺に)の際、しらべたところによると枘(ほぞ)の折れているものがあったが、折れ残りが枘穴になく、また、釘(日本釘)が使われていたことから考え、何処かのお堂を移築したものではなかろうかと。しかも、何かに(何だったか記憶なし)行沢村講中二十七人とも記されていたという。あるいは菰張山にあったと伝えられる廃寺のお堂を運んできて、建替たのではなかろうかとも思料される。
註:
現在の七日町寺内の善龍寺が、この菰張山麓にあったという。それが七日町来迎寺向に移り、その後現在地に移ったのだと。それで檀徒総代の一人に会田六郎兵衛、会田七郎兵衛、そのほか滑川に檀徒がある(なお、同寺の現在職に問合わせたが不明である)。
「龍」の彫り 反対側にもある。 |
精巧に彫刻された獅子頭と象頭 |
〜黒木喜久治「防原町の歴史」より〜
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