三百坊の石鳥居 |
〜現地・案内板より〜
瀧山
その昔、慈覚大師が仁寿元年(851年)三月十七日、瀧山を開山し、頂上に薬師如来をまつり瀧山大権現とあがめまつったと伝えられている。
しかし頂上は生活に不便なので、一段下の風静かなる所を選び霊山寺と名付け、護摩修業の道場にしたと伝えられている。今は堂庭は護摩堂趾という。お堂には慈覚大師の石像が祀られている。近くには一大湧水場があり、堂横には天然石を利用した板碑が祀られている。
三百坊の鳥居や、鳥居から堂庭までの杉並木は往時の信仰をあらわし「瀧山塔」には杉並木の奉納のことが記されている。山腹の大滝には不動尊が祀られており、山麓には水月庵(八森)、山境坊(岩波)、三蔵院趾(現地蔵堂、神尾)などの寺跡を残している。
滝山地区振興協議会
平成三年度 宝くじ助成品
〜安彦好重『山形の石碑石仏』より〜
土坂 三百坊の石鳥居
土坂三百坊の竜山旧参道に立っている石鳥居がある。たぶん西蔵王産の石材らしい粗い凝灰岩で造成されている。
総高4m、基台は自然石にほり、中太の円柱をやや下広がりにさし込んで建てている。両柱の太さは径60cm、その間隔は3m、両柱の上に台輪を設け、その上に一石で造った笠木・島木をのせている。笠木は長さが5mほどで両端に反転があり、斜めに切り、中央部で接いだ二石で造っている。貫は円柱の外に出る両端は別石らしく、今は欠失して、円柱に穴だけが残っている。貫と島木の間には束が最初から無かったのか、柄穴も見えない。全体を赤く塗っていたらしく、円柱にまた朱色が残っている。
紀銘は見当たらないが、鳥居の1mほど上手に鳥居造立の際に建てたと思われる1mほどの石柱が参道を挟んで立っていて、その一本に「奉納 岩清水村 □□」の文字が刻まれている。造立年代はその形式から見て江戸期のものであろう。
赤石原の赤石(凝灰岩) |
〜現地・案内板より〜
瀧山大権現 柴燈護摩供 願文
謹み敬って修験教主摩詞毘盧遮那如来、理智不二界会諸尊聖衆、殊には十二大願薬師瑠璃光如来、大悲垂遮龍山大権現、當山開祖慈覚大師大勇金剛、並びに西行房圓位大徳尊霊等、総じては瀧山山麓一切の三寶に白して言さく。
夫れ以れば、瀧山大権現の御体山巍々たる山塊は、深く神霊の宿るところ、朝な夕なの御尊容は山麓住民をして襟を正さしめ、帰依信仰せしめる最上の霊山たり。亦、同山塊より流れ出る清冽なる水流は、広く龍山川となりて灌漑及び飲料水を給し、密生せる山麓の樹林は唯一無二の燃料として蒔炭材を供給せり。誠にもって同山は山麓住民にとりては古より生活の根源、母なる慈愛の山たりき。
ここに於て、験乗の末資亮貫今月今日の吉辰を選びて三密荘厳の瑤壇を築き、秘密護摩の妙味を捧げて、除災授樂の深法を賛揚し奉る。仰ぎ願くば龍山大権現を始め奉り三界所有の天衆地類、神祇冥道、法力を合わせ現當二世の諸願悉く成就圓満せしめ給え。
重ねて乞う。
信心願主 息災安穏 増長福寿 家業繁栄
如意圓満 乃至法界 平等利益
于時 平成六年五月八日
石行寺 五十六世 亮貫謹白
瀧山塔 |
一説よれば、貞観九年(867)瀧山寺は霊山寺と称される、定額寺(国分寺に次ぐ寺格を持ち、国家から用料を支給される寺)となり、山麓に三百の宿坊を構え隆盛を極めたと伝えられている。その瀧山寺の供奉田(神撰米を作る田)として、桜田・青田・飯田の三田が指定されていた記録がある。瀧山の破却は建長3年(1251)と 正嘉2年(1258) の二説が有る。
三百坊
土坂観音堂より古道に入り、三百坊の鳥居の前に立つ。赤い鳥居は慶応二年(1866)に麓の信者たちによって建立された。
華表が鳥居の側にある。石材は「赤石原」からのものである。華表と並んで「瀧山塔」が立っている。鳥居建立に先立って、安政二年(1855)に建てられた。「これより堂庭まで杉並木を奉納する。切れば仏身の罰を受ける」と刻まれている。瀧山信仰の篤さが偲ばれる。今、その杉並木は切られ、点々と僅かに数えるのみである。
三百坊は、瀧山寺(霊山寺)を中核として三百の坊が建ち、瀧山修験の一大道場であったという。正嘉二年(1158)に閉山されるまで、瀧山仏教の聖地として栄えていたのである。霊山寺から龍山寺、瀧山寺と文字が変わったことについてもいくつかの説がある。
春五月八日、三百坊の桜のもとで西行祭が行われる。五月八日は「瀧山大権現=薬師如来」の祭礼の日でもある。護摩祈祷が行われ、多くの善男善女でにぎわう。瀧山大権現の護摩祈祷の火が僧侶の読経のなか、赤々と燃え盛り、人々はその火に身と心を清め、火を踏み、身体堅固、家内安全、そして平和を祈願する。
その昔、並びたつ僧房、伽藍、修験に励む僧たち、山頂へ向かう信者の列など、瀧山のにぎわいが思われる。
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