2014年9月15日月曜日

古峯(こぶはら)神社 [山形・西蔵王]


道路からも見える鳥居

古峯(こぶはら)神社

〜現地・案内板より〜

西蔵王高原と古峯(こぶはら)神社

山形市街を眺望する西蔵王高原一帯は県立公園として整備されつつある。横根の人々が「ぢぐら」と呼び、続いて「かなくさ」と呼んでいる。下の地には、火伏の神(日本武尊)として古峯神社がまつられ、近郊の人々の信仰を集めている。

神社の登り口には水神と書かれた碑が建ちて横根堰の由来を誌している。

また近くからは製鉄の”かす”が採集され、それで「かなくそ」ともいわれた。信仰の山、滝山が栄えた頃の山法師には製鉄の技術を持った人達も居ったと推察される。

そのほか、赤土焼や、蛤の化石などが採集されていることは上代の姿を思い起こさせるに十分である。

滝山地区振興協議会
平成三年度 宝くじ助成品






〜滝山地区町内会連合会『滝山地区 歴史の散歩道』より〜

古峯神社(岩波横根)

岩波横根の県立西蔵王公園へ上る道筋に、火伏せの神「日本武尊」を祭神とする古峯(こぶはら)神社が祀られている。旧正月十三日の祭礼には、笹竹を受けて火除けのお守として、各家では戸口や台所にかざりまつる慣わしがある。拝殿の格天井には一人一枚ずつの絵が奉納されている。

近くの地を「ぢぐら」「かなくさ」と呼んでいる。「かなくそ」という製鉄した後の残りかすが採集された。瀧山僧房との係わりが考えられる。慈覚大師が瀧山開山をするにあたり、この地にとどまっていたという伝説もある。「大師堂」が祀られ、「どっこ水」が湧いて、瀧山僧房との係わりを思わせる。





〜清野春樹『瀧山と恥川の秘密 山形歴史探訪』より〜

古峯(こぶはら)神社の「水神の碑」

瀧山地区に横根という部落があり、ここに古峯神社がある。ここの旧参道の一つに石碑が建っている。明治になってから建てられた碑であるが、その碑文を見てみよう。真ん中に大きく「水神」と書いてある。そして、その下に碑文がある。

水神

横根元称横峯蓋峯横根北連於南乎寛治
年間相模人横山平治移住此地為農事然
地勢位山腹無灌漑途民憂之欲引龍山川
謀之里民衆議一決及請領且得補助民大
喜督立事砕巌穿山千事萬苦勉開発成立
決水源奔流滔二終成瀑落現今之横根堰
則邊也此後開拓水田数拾町歩盛夏而深
覚旱実在民之功邑民欲傳徳後世以民之
姓呼里名及数百年矣其後年二加修繕雖
能防破壊従経年岸落崩其流水量甚減於
茲明治四十二稔関係者相図投金圓壱百
餘益大土管敷設立事成永年不利器尚将
来待補修文並而仰水天神恩

明治四十三年五月吉辰 實善撰竝書

この碑文の意味については、河合卓氏が要約されているので、そのまま掲載させていただく。

「横根を元は横峯と称していた。平安時代の寛治年間(1090頃)相模の国から横山平治という人が移住し農業の指導に当たった。山腹に位置するこの地域は水が少ない。横山平治は瀧山川から水を引きたいと村人に図り同意を得た。時の領主にこの事業計画を説明し、補助を受けることになり、村人は歓喜した。工事は岩を砕き山を穿ち、苦労に苦労を重ねてようやく完成した。水は奔流となって流れ、堰の終点近くは滝となって落ちている。この水で数十町歩の開田が可能となった。夏の盛りにも乾旱の心配がなくなった。村人はこの堰を造った横山平治の功績を顕彰し、この地を横山と呼ぶようになった。数百年のあいだ利用と同時に修繕を繰り返してきたが、ある年補修が不可能な程の大きな石崩れがあり、水量が激減してしまった。明治四十二年(1909)関係者が相談し金百円をかけて、大きな土管を敷設して通水した。土管は朽ちることが無いので将来とも安心である。村人は水天神の恩恵に感謝した。

明治四十三年 實善 撰書」

つまり寛治年間(1087〜1093)頃に、相模の国からやってきた横山平治という人が農業を指導して、この横根部落に横根堰が引かれ開田されたというものである。この碑文を書いたのは石行寺第五十三世、實善和尚である。

この伝承を含む横根堰に関する書類は、横根に住む河合彦兵衛宅で保存されていたのだが、明治十八年(1885)に火災があり、河合家が類焼により全焼した。書類は三櫃もあったというが、書類も焼けた。それで明治四十二年(1909)の土管敷設とともに、石碑に横山平治のことも書き添えたということであろう。



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