戦国大名の一雄「伊達政宗」の創建と伝わる「飛不動堂」。
ここに祀られる「飛不動明王」には、火災に遭っては岩窟に身を潜め、大地震に遭っては大木に身を守られたという不思議な伝説が残る。
巨大な鉾に度肝を抜かれる |
鉾は大小3種 |
極彩色の堂 |
以下、説明板より
飛不動堂
不動堂は伊達政宗が天正19年(1591)に創建したものと伝えている。もとは虎岩下の現113号線わきに立っていたといわれ、文禄3年(1594)4月、不動堂が焼失した。
この火災の際、御本尊が自ら飛び出し、堂後の岩窟に入って災厄を避けたといわれ、それ以後、飛不動尊と敬われるようになった。
さらに亨保16年(1731)9月7日の大地震の際も、堂の一部は巨岩に押し潰されたが、本尊および僧侶たちは怪我もせず無事だった。そのことから一層、霊験あらたかな不動尊として村人や旅人の尊崇を受けるようになった。
不動堂は地震後、亨保19年(1734)に現在の地に再建され、七ケ宿街道もこの堂の前を通るようになった。
堂が火災に遭って、自ら飛び出したという不動明王の伝説がある。 |
以下、説明板より
不動明王
不動明王とはご存知のように、忿怒像といって怒りの御姿をしていますが、明王とは明(真言)を唱えて礼拝しますと御利益が王様のようにあるという意味であります。
不動明王の真言のうまくさんまんだ ばざらだんせんだまかろしゃだ そわたやうんたらたかんまん
真っ黒な身体に右手に剣、左手に縄を持ち、後背に真っ赤な火炎を背負っておられ、世間の悩みと災難を断ち、悪事を退治するために厳しく立ち向かう男性的な御姿であります。
剣は悪を断ち切り、縄は煩悩を縛って覚りを開くこと、火災は世間の闇を照らして迷いや災難を焼き尽くすことを表しています。
このような凄い形相をしている不動明王でありますが、その御誓願は、強い慈悲の心でもって悪と闘い、本当の幸を守るということであります。
このような御誓願と慈悲の行をお持ちの明王は、広く人々に信仰されております。ご参詣の皆さま、至心に飛不動明王さまを御信心ください。祈る心に御霊験があります。
別当 清光寺
小原ぼけ除けコロリ観音菩薩 |
以下、説明板より
小原ぼけ除けコロリ観音菩薩
日本人の平均寿命は80代になりました。長寿は喜ばしい健康の証でもありますが、大多数の国民が老後に対して不安を抱いていることも周知の通りです。
今後、高齢化社会を迎える中で、生きがいと老後の幸福のため、観音さまに手を合わせ観音力の御加護により皆さまの心の支えとしてボケ防止のお役になることを希い建立したものです。
祭典は毎年10月第二日曜日です。
終戦後の昭和33年(1958)、42年ぶりに復元された鐘楼堂 |
重さ百貫(約375kg)、高さ1.27mの梵鐘 戦時中に供出後、昭和33年(1958)に再鋳された。 |
梵鐘に舞う天女 |
以下、説明板より
飛不動明王御由来
「飛不動明王由来記」ならびに「風土記書出」によると、飛不動明王は人皇第55代・文徳天皇ご祈願の御本尊にして、天正19年(1591)今より約400年前、仙台藩主・伊達政宗公が羽州置賜郡小松村(現・山形県川西町小松)松光山大光院より小原郷材木岩対岸の御霊地に創建され、天下泰平・藩内安全を祈願されました。
文禄3年(1594)4月、不動堂が原因不詳の業火により焼失しましたが、御本尊・不動明王尊像は後方三十丈あまり(約90m)高さの虎岩に飛来し、難を避けられて無事であったといわれ、御霊験を称え改めてここに飛不動明王と奉唱されました。
また亨保16年(1731)9月、大地震があり裏山から二間四方あまり(約3.6m四方)の岩石が崩れ落ち、不動堂は破損四散しましたが御本尊・飛不動明王と参籠の僧は四、五尺廻り(約1.2〜1.5m)の大木に覆われて、御本尊と人命には何の損傷もなく守られたと伝えている。
この奇跡に、飛不動明王の御霊験あらたかな衆生の顕現のあらわれであり、難除け厄除けの飛不動明王として一層多くの信仰を得ました。
亨保19年(1934)には、出羽13藩の諸大名が参勤交代に利用した旧山中七ケ宿街道(三不動尊の一つ)江志峠に飛不動堂を再建し、伊達家累代の御参詣はもちろんのこと13藩の諸大名も道中安全・藩内安全を至心に祈願されました。
また街道往来の旅人や諸国の商人、出羽三山詣りの人々など大勢の善男善女の信仰をあつめ、身体健固の祈願する人々で大変賑わいました。
明治維新以後も、身代わり不動明王として出征者の武運長久を祈る人々の参詣が絶えなかった。ご縁日には藩政時代、仙台藩主の命により片倉家より警護のため常時家臣を派遣されるなど、厚い庇護を受けておりました。
しかし、永い年月とともに堂宇の腐朽も甚だしくなり、改修の必要に迫られ、昭和33年(1958)2月、信心有志の発願により戦時中供出していた梵鐘復元の機運が熟し、実行委員会を結集し奉賛の微志を仰がんと決議の下、大勢の御信心皆さまの浄財を賜り、青銅製重さ百貫(約375kg)高さ1.27mの梵鐘を再鋳して五穀豊穣・家内安全・天下泰平・世界平和を銘願し、42年ぶり鐘楼堂に復元いたしました。
同時に付帯工事として飛不動堂の屋根替塗装、境内参道などの整備事業も無魔円成して昭和60年4月28日、梵鐘復元落慶記念御開帳を奉修し得ましたことは誠に慶祝の極みであります。
この浄業は飛不動尊400年の歴史を閲(け)みするに正に世紀の大浄業であり今日に至ります。
一、春季大祭 毎年4月28・29日
一、御縁日 毎月28日
一、除夜の鐘 毎年12月31日
一、元朝御祈祷 毎年1月1日
飛不動尊 別当 清光寺宮城県白石市小原字町14
飛不動堂の両脇にそびえる「夫婦杉(めおと・すぎ)」 |
以下、 説明板より
飛不動尊
夫婦杉(めおと・すぎ)の由来
当時、小原郷材木岩の霊地に御遷座の飛不動尊は、亨保16年(1731)旧暦9月7日の夜の大地震の際、御堂裏の杉の大木(目通り四、五尺、約1.5m弱)が御本尊の御佛尊を身をもって守ったと伝えられている。
だが、3年後の亨保19年(1934)3月、御堂を現在の旧山中七ヶ宿街道の江志峠に建立し、御遷座申し上げ参詣者の諸願成就を守護されています。
地震の際、杉の大木が御本尊を守り、人命とも安泰であったという話を聞いた部落の若者で、御縁日旧4月8日に祝言を挙げた新郎・江弘、新婦・志乃が杉苗一本ずつ、家内安全と災難消除のためにと、しかも縁日の婚礼が弘法大師の導きにより夫婦となることができたことに感謝して植えたと言い伝えられる。
後々、この夫婦杉は根本が一体となって伸び、この夫婦も子宝にも恵まれ、末永く白寿まで睦ましく幸福に一生を終えたといわれている。
八の付く日に飛不動尊を参拝すると御霊験高く、大誓願が約束され、特に夫婦の長寿はもちろんのこと、さらに夫婦円満、子孫繁栄、家内安全が約束されるという。
有難い夫婦杉である(樹齢400年)。
夫婦杉の樹高4〜5mほどのところに花開いていたアジサイ 当地を訪れた季節は梅雨のさなか、音もない小雨が降っていた。 |
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