2014年9月29日月曜日

楯岡の石鳥居 [山形・村山市]


楯岡の石鳥居

〜東北芸術工科大学、文化財保存修復研究センター「日本最古の石鳥居群は語る」より〜

楯岡の石鳥居

所在:村山市楯岡
様式:明神系八幡鳥居
年代:近世頃
材質:石英粗面岩質凝灰岩
寸法:柱高2.2m、柱径0.5m(左)、0.54m(右)、笠長3.8m、総高 柱間隔2.0m
指定:山形県指定有形文化財
位置:38.473117, 140.398832


 村山盆地の東を走る山脈から蔵王、面白山、黒伏山、御所山などが連なる。これらを集落のある平地から見た場合、南部では蔵王山系の瀧山(海抜1362m)が、北部においては御所山系の甑岳(海抜1015m)が、雄大なスケールで眺望できる。いずれも盆地の平野部に接しているわけで、高さの割には人々に与える印象は大きい。この甑岳から西へ流れる大沢川に沿って扇状地が発達し、その上に現在の楯岡の町並みが広がる。楯岡の石鳥居は、甑岳の麓にある父母報恩寺(1935年創建)の脇に東西方向に面して立っている。

 村山地域に伝わる古式石鳥居群の大きさは、柱径を基準に考えた場合、90cm、70cm、50cm級に分類される。楯岡の石鳥居は柱の径が約50cm程度であり、最も小規模の鳥居となる。鳥居の笠木にわずかな反りが見られ、貫外や額束がなく一見して中山鳥居の様式に近い。だが、それらは欠落しているだけであり、本来は他の古式石鳥居と同様に明神系八幡鳥居と分類される。総高は2.5m、貫までの高さは昭和20年代頃には約1.6mあり、大人がやっとくぐれる鳥居である(最近の整備でさらに低くなっている)。また、形状の特徴として笠木の長さが極端に短くなっており、全体的な構成にバランスを欠き、石鳥居の改変が疑われる部分となる。

 建立年代に関しては定かな説を有しないが、「最上出羽守義光の父、義守の寄進」などと言われている。地元に伝わる「元和八年之楯岡事跡略図」には、現在地の鳥居に「最上義光公建立」という朱書きが記され、最上家の関連説を裏付けている。もし、この状況のみを考慮すると、建立年代は最上義光の時代である天正年間(1573〜1591)となる。

 しかし、村山の古式石鳥居群の研究をはじめて行なった川崎浩良氏によると、柱に刻まれた銘文を考慮し、建立年代がそれ以前に遡る可能性があると指摘している。同氏は鳥居の左柱に刻まれた文字を「かつ田大明神」と読み、本来は蔵王山系の刈田神社の入口に立っていたのが、最上義光の時代に現在の地に移されたとしている(『出羽文化史料』昭和20年)。さらに、移る以前の場所について、刈田嶺登山口の南村山中川村の金谷付近(現在の上山市)と推定をしている。この過程で、鳥居の形状も変えられたのかも知れない。

 ただし、風化が進んでいる現在では、「かつ田大明神」の文字を確かめることは困難である。このため、文字の解析をめぐっては異論を提議する地元の研究者もいて、建立年代の確定には再考の余地を残すべきであろう。また、石鳥居の材質は石英粗面岩質凝灰岩を示し、この石は地元の楯岡付近には産するが、推定地の上山には産しない(「山形県地質図」)。今後、刻まれた銘文を含めてさらなる検討が必要とされる部分である。いずれにせよ、山形に伝わる古式石鳥居群のなかでは、たった二つ目の年号の刻まれた貴重な事例と言えよう。

 この他、「元和八年之楯岡事跡略図」には楯岡の石鳥居が現在の位置に記され、古式石鳥居群のなかで最も古い絵図記録として意味深い。また、この絵図を通して現在地に石鳥居の存在が確認できる点は、石鳥居をめぐる空間性を語るうえでも重要である。すなわち、山形に伝わる古式石鳥居は東の奥羽山脈の山を信仰対象とし、その麓や羽州街道につながる地点に東西に面して立つ。かつての古街道もこの空間的関係を考慮すると、楯岡の石鳥居は典型的な立地条件を満たしていると言えよう。現に、鳥居からはじまる参道は小松沢観音につながっている。小松沢観音は最上三十三札所のうち、二十番目にあたり、かつて地元では篤い信仰を集めていたという。

 こういった状況から、楯岡の石鳥居は甑岳および小松沢観音との関わり深い鳥居であると言えよう。ただし、石鳥居の大きさや形状の特異性などからして、移された可能性も排除できない。川崎浩良氏の「刈田神社説」は、その改変の一例を示しているのではなかろうか。










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