ラベル 神社 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル 神社 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2016年11月22日火曜日

酢川温泉神社[蔵王]



蔵王 「酢川温泉神社」



マップ 酢川温泉神社



〜現地・案内板より〜


酢川温泉神社と蔵王温泉

由緒

祭神 大國主神 少名毘古那神 須佐之男命 迦具土神
祭日 六月二十六日
境内社 薬師神社


三代実録と云う我が國の六國史にある清和天皇の条に、貞観十五年(西暦873)年六月二十六日、出羽國酢川温泉神社に正五位下を授くとあるのが当社で、殖産興業、家内安全、厄難消除の神として尊崇篤き神社です。

その昔、景行天皇の皇子、日本武尊がエゾ征伐の際、武将の吉備多賀由に毒矢が当り苦しんでいる時、家臣が温泉を発見し入浴した処、快癒してこの霊泉に救はれたと感謝しながら大和の國へ帰られた。それ故、高湯『多賀由』温泉と名付けたと伝えられており、昭和二十五年、蔵王山が観光地百選、山岳の部一位に選ばれたのを記念して、蔵王温泉と改名し多くの人々に愛され親しまれて来ました。

泉質は強酸性(ペーハー1.6)の硫黄泉で、特にマムシに咬まれた人でも治るほど解毒作用が強く、皮膚病、水虫、胃腸病、神経痛、リューマチ、眼病、慢性婦人病、疲労回復などに特効があります。また子供丈夫に育つお湯として広く知られ、小児の疳、虚弱体質、小児ぜんそく等に効きます。

境内社の薬師神社は、子育て、病気平癒、ぼけ封じの神として霊験あらかたで、安置する薬師像は、国立文化財研究所の鑑定によれば、鉄佛にて鎌倉時代の作で本県三佛中の一つと云はれております。

平成21年6月26日


石碑「蔵王山」


鳥居 しめ縄



〜現地・案内板より〜


第11代 山形城主
最上義光 力石


戦国時代の1561年、16歳のとき父・義守に伴われ、僅かの家来と共に湯治(湯本屋旅館、現:いがもち湯本屋)に訪れる。

その折り盗賊に襲われるが、首領を討ち取り、最上家の家宝である名刀「笹切」を父より与えられた。

この大石は、その湯治中、家来達と力比べて義光が持ち上げたと言われています。

重量50貫 190kg


"Oishi" is big stone which was lifted up by Mogami Yoshiaki, the 11th lord of Yamagata Castle in 1561.

It was used for stone lifting contests.



最上義光「力石」190kg



長い石段を振り返る



急傾斜地 崩壊危険区域になっている。



〜現地・案内板より〜


薬師神社
Yakushi Shrine


薬師神社は、古来社殿をこの地に置く酢川温泉神社本殿であり、中世神仏融合説により薬師如来を祀っていました。

Yakushi Shrine was originally the main sanctuary of Sukawa Onsen Shrine. As a result of the blending of Shintoism and Buddhism during Japan's feudal era, a Yakushi Buddha was enshrined here.

明治維新時、神仏分離令により一時これを庵寺に移しましたが、明治11年に再び当社に安置しております。

During the Meiji Restoration there was a decree to separate Buddhism and Shintoism. So, the Yakushi Buddha statue was temporarily moved to An Temple. However, in 1878 the Yakushi Buddha was re-enshrined here.

昭和34年の社殿改築時に旧社殿は、「薬師神社」と改称し先の薬師如来を宝物としており、その薬師像は、国立文化財研究所鑑定の結果、鉄仏にて鎌倉時代の作で本県三佛中の一つと言われております。

After the re-construction of the main sanctuary, the shrine was given the name of "Yakushi Shrine" for the Yakushi Buddha enshrined here. The National Research Institute for Cultural Properties determined that the Yakushi Buddha statue is made of iron and dates back to the Kamakura Period (1185-1333).

また、子育て・病気平療・ボケ防止の神として崇められております。

People pray at Yakushi Shrine for good fortune in raising children, healing of sicknesses, and to ward off senility.



蔵王温泉「薬師神社」



山形三佛「薬師如来像」



〜現地・案内板より〜


酢川温泉神社

祭神 大国主主命 少彦名命 須佐之男命 軻遇突智神


由緒


清和天皇、三代実録の条に

「授貞観十五年六月二十六日出羽国正六位上酢川温泉神従五位下」

とあるのは本社なり。酢川温泉は当温泉の古名にして高湯温泉とも称せり。



当社は龍山上に本宮、蔵王山熊野岳に離宮(昭和27年、蔵王山神社と改称)。本殿は口の宮にして三宮一社なり。

古来、社殿を此の地に置く中世神仏融合説に依り薬師如来を併す。明治維新神仏分離令に依り之を庵寺に移し、明治十一年、准允を得て旧に復す。

昭和三十四年、社殿の改築を計り金五百五拾八万参百拾八円の寄進を得、同年十一月、現地に竣工す。

旧社殿は薬師神社と改称し、先の薬師如来を宝物として安置す。薬師像は国立文化財研究所鑑定の結果、鉄佛にして鎌倉時代の作、本県三佛中の一なり。



石碑「蔵王山」



石碑「山神塔」



線刻 地蔵



〜現地・案内板より〜


酢川温泉神社
Sukawa Onsen Shrine



三代実録という我が国の六国史の中で、清和天皇の条に

「貞観15年(873年)6月26日、出羽国正六位上酢川温泉神社に従五位下を授く」

とあります。

An excerpt from Emperor Seiwa's record states,

"On June 26, 873 A.D. Sukawa Onsen Shrine of the Dewa Province (present day Yamagata) of the 6th rank is hereby granted the 5th rank."



当社には、大国主命・少彦名命・須佐之男命・軻遇突智神の四神が祀られており、殖産興業・家内安全・厄難消除・恋愛成就・学問上達の神として尊崇篤き神社であります。

The gods Ookuninushi-no-Mikoto(大国主命), Sukunahikona-no-Mikoto(少彦名命), Susanoo-no-Mikoto(須佐之男命), Kagutsuchi(軻遇突智神) are enshrined here.

The shrine is for peace and prosperity in the household, success in business, luck in finding a romantic partner, and success in school.



また、古来「当社は、龍山上に本宮、蔵王山熊野岳に離宮(昭和27年、蔵王山神社と改称)、本殿は口の宮にして三宮一社なり、社殿をこの地に置く」と言われております。

毎年6月26日には、例大祭が行われ、地元子供たちによる稚児行列が執り行われます。

Every year on June 26, there is a traditional festival held at the shrine. During the festival, children of the local area wear traditional Japanese folk costumes and participate in a procession to the shrine.

また参道の中程には、山形城主・最上義光公が力試しに持ち上げたという大臼のような五十貫(約187kg)の力石があります。

Also, along the path to the shrine there is a stone weighing approximately 187kg that the local feudal lord Yoshiaki Mogami is said to have lifted as a feat of strength.



酢川温泉神社



酢川温泉神社 案内図



〜現地・案内板より〜


熊野神社
石板碑


当社は、奥羽山脈中の霊峰・蔵王山熊野岳に鎮座まし祭神、須佐之男命を奉祀し授するに、三代実録貞観15年6月修下に見在、出羽国従五位須川温泉神社の離宮にして、神仏無邊是を以って徳川三代将軍家光、先規に任せ朱印地を寄進せるな爾後、歴代の尊崇盃深く遠近の緒者亦絶ゆる莫しるす社殿歳月を経て荒廃に委すに、有志相諜り昭和3年11月10日行かせられたる御即位大禮の盛典を記念し奉る為、同山峰に帰地とし社殿を再建し、以って神慮安んす蓋敬部崇祖国安全祈願の赤誠に出つと云 爾

昭和4年7月 社殿竣工 8月 鏡遷座 5年7月 建立

文部省普通学務局 前山形県知事従四位勲三等 篠原英太郎 題字
山形商業学校長 従五位勲五等 渡邊徳太郎 撰卒書



熊野神社 石板碑



山の神祠

寛延三年(1751年)桃園天皇時代の建立。

現在16人の講中人がいる。神社前の道路付近にあったものを現在地に移転した。



山の神祠



古峰神社碑

明治33年建立。平成3年移設した。

元は今の薬師神社から道路を挟んで少し低い所にある広場にあった。



古峯神社



招魂之碑



向かいには朝日連峰




2016年11月19日土曜日

蔵王山と湯殿山[真壁仁]



〜真壁仁『斎藤茂吉の風土 蔵王・最上川』より〜





その日は午後になっていたが、刈田の駐車場まで車で行き、お釜のふちの馬の背を熊野岳をめざしてのぼった。さいわい、よく晴れていて、さわやかな新秋の日差しを浴びながら、ゆっくり溶岩の山肌をのぼった。

ぼくらは茂吉歌碑の手前に建っている熊野神社に礼拝した。石垣に囲まれた祠の境内は、荒天の場合の避難所でもある。この社におまいりをするのは久しぶりのことであった。ぼくらは礼拝を終ってから、祠のぐるりに立っている小さな石碑石仏を一つずつ見てまわった。



蔵王山神社 [熊野岳]



蔵王山は古くは金峰山とよばれ、不忘山(わすれずのやま)ともよばれた。刈田嶺(かるたね)というのも古い呼び名であろう。その変化の順序はともあれ、山名や神名は石に刻まれてのこっている。刈田岳の山頂にいま祀られている刈田嶺(かるたね)神社は、本尊が降三世明王で本地は釈迦如来といわれる。この神社ももとは熊野岳にあったのだが、元禄七年の夏、噴火があってから移されたと『上山見聞随筆』などには書かれている。

昔から死者のよみがえる山と信じられてきた。古くは火の山として畏れられ霊山として遥拝される山であったが、修験道がおこってからさかんに登攀される山となり、山岳斗擻の修行場となった。鎌倉時代のころから修験道は全国的にとくに盛んになり、蔵王の峰々もまた東北の諸山とともに有数の修験の山となった。

開祖は、どこでもそうであるように、役行者(えんのぎょうじゃ)小角(おづぬ)であるとされ、小角が修行者を守護する神を勧請祈願したときに蔵王権化があらわれ給うたのだと伝えられている。それに先立って、寿永二年(1182)に『蔵王御釜噴火』という記録もあるので、蔵王の名を冠したのも、決して新しいことではない。







蔵王権現信仰がひろまるにつれ、修行者や信仰者の登る参道もひらけ、その登山口にはそれぞれ口の宮がおかれた。口の宮は表口別当が陸奥国遠刈田(とがつた)の嶽ノ坊、裏口別当が出羽国中川口金谷(かなや)の安楽院、脇口別当が出羽国半郷(はんごう)の松尾院と宝沢(ほうざわ)の三条院の四ヶ所におかれた。それらはみな金峰山の山号を掲げ、蔵王権現像を祀っていた。

これらの像は、三眼怒髪の大憤怒相(ふんぬそう)を示している。左手は剣印にして腰にあて、右手は三鈷杵(さんこすい)を握ってかざしながら右脚はつよく岩座を踏まえ、左足は伸ばして虚空に張っている。この勇猛不屈の相貌は強烈で、悪霊調伏の表象とされている。金剛蔵王なのである。







山麓の村々に数えきれないほど遺っている板碑には、蔵王権現の本地である釈迦如来を表わす「バク」の梵字のほか、大日如来を表わす「ア」「アーンク」「バン」の梵字を刻んだものが多い。これは『蔵王山の金石文』を研究した武田好吉氏の調べによるものである。すると、蔵王の大日如来は金剛界大日如来であると思われる。それは、湯殿山の本地が胎蔵界大日如来であるのと相照相受の関係にあるのではないのか。

ぼくらは金峰水分(みくまり)神社だの金日命だの春日社だのと刻んだ十数 基の石碑や、役行者像らしい浮彫りなどを見ているうち、狗犬(こまいぬ)の前に倒れている小さな石碑をみつけた。起こしてみるとそれには、「蔵王」「湯殿」と並べて刻んだ下に「対面石」と彫ってある。これにはおどろいた。蔵王の金石文の研究者がだれもこれをとりあげていないのはどうしたことか。

対面といえば、おもてに合わせて向きあうことであり、対話することだ。むつみあいでもある。山神争闘の民話は多い。けれども山のむつみあいの話をぼくは知らなかった。高さを競いあうのなら、対立してだれにも目につくのはアスピーテの曲型のような月山である。湯殿山はその左肩に瘤(こぶ)のように見えるだけで、月山の褶曲(しゅうきょく)の中にかすんでいる。しかも湯殿の神は、その山のはるかに下にある仙人沢のはざまに祀られているのだから見えるはずもない。



蔵王・湯殿「対面石」[熊野岳]



しかし湯殿は昔から恋の山として知られている。ご神体そのものが赭ら肌の巨岩で全身を湧きでる湯の泉で濡らしている女体である。荒ぶる神、雄々しさにおいて無双の男神たる金剛蔵王が、月明の夜などにふと心優しくなって、はるかに対向する女神の名を呼んだのであろうか。

ぼくは一基の小さな石碑を台石の上に据えながら、これを刻んだ人の心を思った。神々の名でエロスへの情念をひそかに祈ろうとした悲願は、ひろくて切実なものであったとみられる。それは豊穣をいのる性神への信仰にもむすびついていると思われる。ここで、いちばん大切にされなければならないのは、この対面石なのだ。ぼくはそうひとりで決めてしまった。

ぼくらの地域では、蔵王山を「おひがし」と呼び、出羽三山を「おにし」と呼ぶ。茂吉のふるさとをふくめて、山形の町や村山平野は、この東と西の山にはさまれ、まもられてきた。蔵王は農民にとって、修験道の起こる前から水の源であった。だから旧暦五月二十一日は、水神としての蔵王を祀り、農民も水車業者も、水の使用を休み、餅をついてささげた。



さてぼくらは石室を出て、すぐ西方に建っている茂吉歌碑に近づいて行った。しばらくぶりでみる歌碑は、石肌が鉄いろにくすんでいっそう剛度(ごうど)を増しているように見えた。長い冬のあいだ、硬い水晶が貼りついて凍結するのだから、脆く風化していくのではないかと前に思ったのはまったくの素人考えで、蔵王の安山岩はその密度を年ごとに高めるのではないか。

そう思いながら、雄勁重厚とでもいうべき茂吉の書風をしばらくは見つめていた。気がつくと、郷里金瓶(かなかめ)の頭越しに、湯殿と対面しているのは、いしぶみとなった茂吉である。そうだ、茂吉は十五歳のとき、父につれられて湯殿参りをし、あの女神の前で成人式を挙げている。それからあとも湯殿山信仰は消えなかった。信仰は、蔵王と結びつき、蔵王を通した相称の神への信仰であると見られよう。


茂吉は、いや歌碑は、あちらの方を向いている。もうふりむくこともない。



斎藤茂吉 歌碑 [熊野岳]



出典:真壁仁『斎藤茂吉の風土 蔵王・最上川』




甘茶屋跡と南無妙法蓮華経碑[蔵王温泉]



甘茶屋跡 五海道中細記


〜現地・案内板より〜


甘茶屋跡


由来

この一帯は高湯温泉(蔵王温泉)を訪ねる旅人の休息(助け小屋)の地として栄えた甘茶屋跡で、俗に「おみきの茶屋」と呼ばれ親しまれた場所です。

朝靄(あさもや)のなか、見下ろす風景は大海原の島々を思わせる眺望に似て、「沖見の茶屋」と呼ばれる由縁でありました。






自動車道路の開設とともに茶屋はなくなりました。

この稲荷は当時より甘茶屋の守護神として祭られ、いまも堀畜産により守り継がれております。


権兵衛稲荷大明神





〜真壁仁『斎藤茂吉の風土 蔵王・最上川』より〜


茂吉が幼かったころは、湯治客はすべて徒歩で高湯(いまの蔵王温泉)まで通った。

上野(うわの)という集落をすぎると童子平(どうしだいら)という台地に出る。そのとっぱなに甘酒茶屋(あまさけじゃや)があって、そこで清水につけて冷やした甘酒を飲んだり、トコロ天に酢醤油(すだまり)をかけたのを一本箸ですすったりして、また歩き出すのである。

温泉が近くなるにつれて谷も深くなり、道は崖をめぐるつづら折りとなるのだが、やがて滝となって落ちる湯尻(ゆじり)の音が樹間から聞こえてくるころには、きつい湯の香が鼻をつく。硫黄泉のにおいである。そこでいよいよ高湯に着いたのだという実感を味わう。


見返り滝



通りを挟んだ山腹に、南無妙法蓮華経の石碑が建っている。


南無妙法蓮華経の石碑


右側面「七靣(面)大明神」
五穀成就・村内安全


右側面・下部


寄進中

山形世話人

大瀧市良次
富田勘四郎
佐治吉左エ門
富田傳兵衛
同 源次
大樌傳三郎
丹野○○○

願主 當村 善藏



黄葉の残るなか、初雪がふった。



〜『蔵王今昔温泉記』伊東久一覚書より〜


甘酒茶屋


往時山形、高湯間の道路は元堀田村山の神から同志平に登り、首無地蔵を通り、字元かずらを経て茶屋上に出たのである。

この茶屋と言うのは近年までその面影を残していた甘酒茶屋のことであって、これは、文化、文政の頃からあったと言うことである。昔は此処を人助茶屋とも言って、長い山道で唯一の休み場であった。高湯温泉でも協力して保存に努めたので、封建時代から移り変わった世の中に存続して来たのである。行き暮れて困った人が泊ったこともあろう、甘酒茶屋は今は面影すらもない。

昭和二十年頃道路が変更になり、日増しひ自動車が発展して来て、甘酒茶屋はその目的である休憩の場所で無くなった。山道を歩いた人、籠を担いだ人、それらは皆バスと言う便利な乗物で甘酒茶屋の前を素通りしてゆく時代になって仕舞った。

斯くして休み茶屋はなくなったが、経営者は蔵王温泉に移って現在でも有数の成功者として称えられている。先祖から積み重ねた人助けの因縁と思うのは、私が老人である故ばかりではないかと思う。




2016年11月6日日曜日

八幡神社[山形市平清水]




平清水「八幡神社」


〜現地・案内板より〜


八幡神社
御由緒略

祭神 誉田別尊(ほむたわけのみこと)



寛治元年(1087)陸奥守(むつのかみ)源義家(みなもとのよしいえ)、奥羽の逆徒・清原武衡(きよはらのたけひら)追討の時(後三年の役)、この地に陣を構え八幡宮を勧請、祝い申しあげるや見事逆徒を亡ぼす。

後にこの勝利まさにこの宮の神徳なりとて鎧刀の二品を奉納あり。また朝臣の帰依により無税地にし、山地八段八畝、耕地一町五段を賜る。そのほか村内より寄進に係る因となす。



慶長15年(1610)出羽守(でわのかみ)最上義光(もがみよしあき)公、由緒正しく神徳の高きを敬い、大破せる本殿を再建し祈願所を定めらる。

天保3年(1832)二月、別当慈照院、大災にあい八幡宮宝物ら鳥有に帰す。

古人の言い伝えによれば、義家公の奉納にかわる鎧刀のほか、足利将軍義昭公寄進の品、最上義光寄進の品、宝物なども火災により消失す、と。



明治維新に土地官有に属し、神仏混合廃止つづいて別当慈照院、廃寺となる。

明治12年(1879)10月30日、村社に列せられしが、戦後は一宗教法人として今日にいたる。



昭和57年10月
平清水 氏子


八幡神社 拝殿


〜『わがさと平清水』より〜


平清水八幡神社


言い伝えによると、第73第堀川天皇の御代、寛治元年(1087)源義家朝臣、藤原武衡、家衡を亡ぼさんと、出羽国・平清水の地に来てここを本陣に構え、京都岩清水八幡宮を勧請して平清水八幡宮と申し上げ、戦勝を祈願、出陣した。途中、その甲斐があって、破竹の勢いで敵を破った。戦い終わって凱旋するにあたり、八幡宮の神徳と、義家の所持品である鎧・刀などを奉納され、現在地に祀ったといわれています。

八幡神社の別当には天台宗自性院(のちに慈照院と改む)を平清水右門が建立したといわれているが、明治に入って廃寺となり、その後、平清水部落の管理となり今日に至っています。

現在の社殿は、享保年間、乞食の火の不始末により消失。後、文化年間に建立されたものであります。






〜『山形市史編集資料 第二十八号 山形神仏分離関係史料』より〜


八幡神社
調査書
昭和10年6月4日

所在地:
山形県南村山郡
瀧山村大字平清水
八幡山三番 官有地第一種

神社名:村社 八幡神社

祭神:誉田別尊



由緒:


人皇七十三代、堀川天皇、御字寛治元年、源義家朝臣、奥州逆徒等追討として下向の時、此の処に陣を構え戦功を祈りし為、この八幡宮を勧請祝い申せしに、御守の違ひなく速に逆徒を亡ぼし、目出度く帰京ありて叡感の儘厚く恩賞を蒙り、子孫永く栄暉を残し玉へりは此社の神徳なりとて、鎧刀二品を奉納あり。外に宝物数品および縁起など委しく之れあり。

また源義家公の帰依により無税地にして山地八 反八畝歩、耕地一町五反歩を賜り、其のほか村内より寄付に係る耕地九反五畝歩の土地を有し、平清水八幡宮と申し奉る。



人皇百六代、正親町天皇の御字元亀二年、足利十五代将軍・義昭公、戦乱の砌り侍女・佐久間政長の女に曰く、

「汝すでに懐妊せり、今や都は戦乱の巷となり身危かるべし。出羽国村山郡平清水村には先祖八幡公の帰依厚き八幡宮あり。又かの地には源氏家臣の裔、数多ありと聞く。早々出羽に下りて時を待つべし」

と侍女、佐久間政長などと共に此地に下り平清水家に属し、男子を出生す。政長ら養育申し上げるが、義昭公再興の事もなかりければ、国主・最上義光公に謁し、下野守義行と改め、足利の姓を預かり平清水佐久間の両姓を名乗るを許され、禄を扶持し客将に遇せらる。義行公は殊のほか八幡宮を崇敬せらる。



慶長十五庚申年、国主・侍従少将出羽守、最上義光公、この八幡宮の由緒正しく神徳の高きを敬い、大破に属せる社殿を再建し、祈願所と定めらる。

寛文年間、奥平大膳亮公、享保二戊丁年、堀田伊豆守公、御参詣あり。

天保三年二月中、別当自性院、火災に罹り宝物縁起ら鳥有に帰す。

明治十二年十月三十日、村社に列せらる。



祭日:
祈年祭 三月十五日
例祭 九月十五日
新嘗祭 十一月二十七日

基本財産:
基本金 金 弐千圓

境内所有地:
南村山郡 瀧山村
大字 平清水 八幡山 千六十二番

山林 弐反四畝四歩
賃貸価格 金 参円参拾七銭

氏子:百三十八戸



八幡神社 児童遊園




2015年7月2日木曜日

水方不動尊 [山形市柏倉]



かつての参道は草木に埋もれている

石柱「姥ノ神」



〜鹿間廣治『奪衣婆―山形のうば神』より〜

水方不動尊参道 山形市柏倉

 ここにお参りに来た人の何人に一人が奪衣婆のいることに気づくだろうか。百人に一人? いやいやもっと少ないに違いない。「姥ノ神」と彫った石柱があるが、それさえも目につかない。参道から大して離れていないが、杉と雑木の暗い林の斜面に座っている奪衣婆は、よほど注意して探さないと見つからない。かつては、きちんとした階段か道がついていたのだろうが、今はその跡すら無い。

 でも、奪衣婆はこれを悲しんでいるのだろうか。ひょっとしたら、かえってせいせいしているのではないだろうかとも思った。心にもない見せかけだけの人には会うだけでも煩わしく、それよりはたった一人でもいい、本当に会いたい人だけが来てくれればいい。そう思っているようにも見えた。口元には笑みさえ浮かべている。


鐘楼

「前鐘は昭和十七年、大東亜戦争に供出しましたが
各地区民の執意により
部落平和学校進学交通安全商売繁盛を祈念して奉納されました
昭和五十一年十二月十八日」


水方不動尊

〜現地・説明板「西山形の散歩道」より〜

水方不動尊

柏倉陣屋の御典医・中村文哉が文政12年(1829)、屋敷に奉っていた不動尊を現在の地に移して村人の病気平癒を願いました。その子・周七は法印の修行を積み修験となり与勝海と名乗り明治9年、水方不動尊の行屋を建てなおし、父の意志を継ぎました。水方不動尊は特に目の病に効き目があると言われています。

ご縁日 毎月18日

西山型振興会



石碑「不動尊縁起」
不動尊縁起

明治廿七年旧十月十八日

文政十二年中村文哉…
尊像ヲ得テ彼ノ處ニ安
置シ奉リ而シテ永ク天下
泰平志願成就ヲ祈…
二世安楽ノ為ノ諸…
結縁ヲ仰ギ□ヲ祈…

行者…


本堂

本堂奥の水場

線刻・不動明王


〜西山形振興会『西山形の散歩道』より〜

水方不動尊

のうまく さんまんだ ばさらだんかん

 不動尊は昔から不動明王とも呼ばれて民衆の信仰を集めてきましたが、火焔を背にして右手に剣を持ち、誓願によって素生と苦楽を共にすると言われてきました。

 文政十二年(1829)堀田藩柏倉陣屋の御典医であった中村文哉が同家に安置していた不動尊の古い木造を村民の信仰と病気平癒のためこの地(大森山北東の谷間)に遷座を発願したと伝えられています。

 文哉の息子、周七(結城家に婿養子に入る)は五十歳のとき病気にかかり、その回復のため明治三年、大井沢の湯殿山道場に出掛け祈祷を受けて自分の病気の癒されたのに深く感動して、其処で引き続き厳しい法印の道の研鑽と修行を重ね、ついに与勝海という名を頂くようになった。また、彼は大井沢滞在中、六里もある朝日登山道を開き、その道が今も顕然として残っていると言われております。

 こうして健康を取り戻し柏倉に帰った周七は、父・文哉が遷座した不動尊を奉戴し、明治九年には其処に行屋を新築して、民衆のために諸願成就や病気の平癒・安産などの祈祷の社としたのであった。近隣の村々から多くの信者や参詣の人々で賑わっていたが、明治三十八年、周七は二男・周助に法印の道を授けて湯殿山に帰るのであるが、同四十年九月二十六日、八十六歳の天寿を全うして大往生を遂げた。戒名を与勝海善行天徳という。

 水方不動尊は明治十九年、世話方ができ多くの信者からの浄財で三間四面の回廊付きの拝殿が建立され、益々信仰者の参詣を多くしたのであります。周助は大正五年に老齢の為この世を去った。その後に勘五郎という法印が着座したが、わずか二年で退座したとか。

 また大正十三年、柏倉宿の黒田清次郎は行屋の倒壊したのを嘆き、これを再建すると共に翌十四年には立派な鐘楼堂を建て、大きな梵鐘を吊って国家の安泰を願った。其の後、時代の変遷にともないながらも村人や近村の方々に支えられては来たが、何せ戦前戦中の長いこと多湿地の社屋は雨雪風に晒され、いたみは烈しく荒廃の一途を辿るわけですが、昭和四十六年になって宿部落の志田義男・斎藤正志・斎藤繁・結城和諸氏をはじめとする庚申講の方々の、ひたすらな願を込めた努力は大衆の心を動かさずにはおらず、多くの浄財のご寄付をいただき本堂と拝殿を再建することができたわけです。

 拝殿の南斜面に文哉と其の妻(周屋文哉居士、月光正円大姉)の墓が残っている。参道を少し登り始めた右側の山中に姥神も祀られている。祭日は四月十八日です。

(結城義吉『水方不動尊縁起と記録』より)




2015年5月31日日曜日

熊野神社 [山形市上桜田]








〜現地・案内看板『歴史の散歩道』より〜

熊野神社(上桜田)

 本社は熊野山熊野大権現を御本尊に祀っている。創建の年代は、火災にあったため、縁起書その他の文書が焼失したため詳らかではない。現代の堂宇は「奉再建 熊野山 羽黒山 堂一宇」の棟札から明治四年(1872)に再建されたことが知られる。この年の五月十五日、神主柴田九衛門、供養導師大野栄光によって再建の供養祈祷が行われた。

 堂内には木彫の仏像、石仏が安置されており、木彫の仏像は朽ちて何仏であるか判名できないものもあるが、別当柴田家では、中の一体が蔵王権現であると口承されている。本社の草創年代は不詳とはいえ、古仏たちがその古えを語っている。また、二面の俳額は明治三十九年のもので志鎌先客の書である。

 瀧山の不動明王は、代々柴田家が祭主となっていることを記しておく。

滝山地区振興協議会
平成三年 宝くじ助成品